僕らまだ羽化も出来ない

 窓硝子が殆ど砕けたノーデンス社内は外気と全く変わらない温度で、樹は一睡もできなかった。周囲には一緒に逃げ回った人々がいて、それぞれに疲れ切った顔で過ごしている。それでも自衛隊が駆けつけ、朝日が昇ったのを見て皆が安堵していた。
 2021年以来79年ぶりの竜の襲来は、人類に竜の危機が去った訳ではないと思い知らした。
 それでも、人類は歴史上3度に渡る襲来を確実に生かした。世界各国の首都では、それぞれの国の軍隊によって竜は殲滅し真紅の華『フロワロ』も払われた。メディアは生き続け多くの情報がリアルタイムで交わされ、避難誘導や救助の状況が刻々と放送された。人々が怯えながらも朝日が拝めるのは、襲来の翌日。それは人類の戦いで最速の結果となった。
 テレビではISDFによって東京の竜の殲滅がほぼ完了したが、まだ生き残りがいる可能性があるため外出しないようアナウンサーが繰り返していた。画面下のテロップには災害緊急ダイアルの番号や、救命救急受付病院の情報、通行止めの区域が次々と流れて行く。死亡者の情報は流れてこない。多すぎたり、竜に食われて跡形もなかったりで、公表などできないのだろう。ロビーに集められた生存者の数をぼんやりと眺めながら、樹は思うのだった。
 凭れ掛かる澪の体温に微睡みながら、ぼんやりとテレビを見ている。ここは安全だ。樹はそう自分に言い聞かせたが、昨日のことを思うと俄かには信じられなかった。
「おじいちゃん達、大丈夫かな…」
 澪の呟きに、樹はそっと幼馴染の頭を撫でた。
 安全宣言が出なければ移動することは出来ない。どの電車やバスの路線が生きているか、高速道路は通行可能か、ドラゴンの生き残りはいないか、それらが全て把握出来て初めて安全宣言が出される。それまでは各自、シェルターや避難所から動かないことが義務付けられていた。
 携帯電話は電力残量ゼロで沈黙しており、誰もがテレビからの情報を貪るように見ている。
 この国は地震の被害が度々起きるので、例え火の手が上がっている映像が流れても避難民達は冷静さを保っている。
「大丈夫。私のお爺ちゃんが守ってくれるよ」
 澪がほっとしたように笑みを溢した。その柔らかく安堵した表情を、樹は愛おしく思う。
「そうだね。礼おじいちゃんは、とっても強いものね」
 樹の祖父 鈴木 礼(スズキ レイ)は、『叢雲機関』に姉と共に参加した歴戦の勇士である。祖父の名である『鈴木 礼』で検索すると、叢雲機関の主力13班の後期メンバーの一人で、華々しい戦果が検索結果に出るほどだ。
 その実力は衰えを知らない。樹は積み上がった竜の亡骸の上で、ニコニコと笑っている祖父の姿をありありと思い描くことができた。飛竜に命を奪われそうになった実感が、祖父がどれだけ強いかを樹に強く意識させる。
「早く、皆の無事を確認したいね」
 澪の囁きに樹は小さく頷いた。疲れただろうから、少し休みな。そう澪の耳元に囁くと、幼馴染は樹の腕の中で力を抜いて凭れ掛かった。細く儚い幼馴染の体は樹の腕にすっぽりと収まって、仄かな温もりを分かち合う。
 疲労から微睡んでいた意識が、鮮烈な気配で覚醒する。 
 生き残った人々の間を、ヒールが生気に溢れたリズムを刻んで床を叩いたのだ。何事かと顔を上げた樹は見た。生き残った事が信じられないようなぼんやりとした人々の頭から一つ突き抜けた、輝く笑顔を貼り付けた長身の女性。その髪は燃え盛る炎のように赤く艶やかで、眼鏡が風を切る肩の動きに合わせてギラギラと光を弾く。ラフな服装であったが、フリルが踊るスカートも、ファーマフラーが揺れる首元も、タイツの光沢すら、ライトアップされ浮き上がる存在感だった。
 誰だろうと思う暇は、樹にはなかった。
 その女性はまるで十年来の友人に会ったかのような満面の笑顔を、樹に向けていたのだ。人々の波を割り、避け、回り込もうと、その顔は固定されたように樹から外れる事はない。周囲に彼女の知り合いがいるのだろうかと視線を回らす合間もなく、女性がまさに突進と表現すべき勢いで歩いてくる。
 ぞわりと、樹は鳥肌がたった。
 竜にすら怖気付くことはない樹が、言いようもない気味の悪さに震え上がる。
 かつかつかつ。音がタップダンスでも踏むかの速度で迫り、樹が澪を叩いて起こそうと思った頃には見下ろされている。にっこり。そう言葉が見えそうな笑みで、女性はがっしりと樹と澪を抱きしめた。
「はぁい! イツキ! ミオ! 無事だと信じていたわ! ミオの的確なナビゲートで生存者と共にまだ収容できるシェルターを回って、最終的に籠城の構えを見せるだなんて素晴らしい判断力よ! イツキはリトルドラグぐらいだったら簡単に倒せるし、あーもう! アメイジング! 流石、アリーが見込んだ逸材!」
 誰だ。抱きしめられた背を、バンバンと叩かれた樹は思う。
 怪訝な表情で見ていた樹と、硬直した澪から身を離し、女性はキョトンと首を傾げた。笑顔が崩れない目元は糸目と言えるほど細く開いて狐のようだったが、彼女の人の良さそうな印象が陰ることはなかった。
 あ! そーよねー! 勝手に腑に落ちたらしい女性は、ポンと手を叩いた。
「アリーが一方的に知ってるんだったわ! ビックリしちゃったねー! アリーはこのノーデンス・エンタープライゼスの最高経営責任者だよー!」
 澪が『あ』と声を上げ、樹も思わず口が開く。
 樹でさえ実家の朝食の時に垂れ流されるニュース番組で、電車に乗る為に訪れた駅の階段に貼られたポスターで、参考書を買おうと訪れた書店の一番手前に平積みで、見る事のある顔だった。新進気鋭の女性の敏腕経営者。あらゆる媒体で見た記憶よりも、実物は何倍も無邪気で嵐のように樹達を巻き込んだ。
 そして実は『セブンスエンカウント』で優秀な成績を残している樹と澪に、ノーデンス・エンタープライゼスからテストプレイヤーという特別社員雇用の申し出がきていたのだ。学業にも影響しない短時間の就労で、樹や澪のような学生には考えられない多額の報酬は魅力的だ。二人は家族に内緒で、どうせ不採用だろうと高を括って、ノーデンス社に履歴書を送っていた。ノーデンスの社員、それもあんな多額の報酬を払うと決めた社長が樹と澪の顔を知っているのは十分にあり得る話だった。
「ごめんねー。アリーってば忙しくって、二人に会うの遅くなっちゃったの!」
 アリーはその長身に相応しい長い腕で、樹と澪をぐっと抱きしめた。うっとりとするような花の香りが二人を包み込む。
「ドラゴンが襲って来て、怖かったね。二人とも良く頑張ってたの、アリーは知ってるよ」
 二人の後頭部を優しく撫でる手は、母親のようで樹は思わず赤面した。両親がおらず祖父と暮らす澪は目を白黒して、きゅっと樹の手を握っている。
 どれくらい抱きしめているつもりなんだろうと樹が思った頃に、アリーが名残惜しそうに体を離した。まだ二人の肩に手を置いているが、密着しなくなった事に樹は安堵する。
 たかがテストプレイヤーとして採用した子供に、こんなに関心を払ってくれる。最高経営者という人はそういう一般人とは違う特殊な人なのか、それとも凄くフレンドリーな性格なのか。樹はにこにこと笑って細められた目を見て、後者かなぁと分析した。
「君達が避難誘導をした内容を、自衛隊の連中が聞きたがってんのよねー。なんて言うんだっけ? じじょーちょーしゅー? 自衛隊の連中が迎えに行くって言ったんだけど、アリーは一刻も早く二人に会いたかったんだー!」
 そう言いながらゴソゴソとポケットを探ると、はい!と満面の笑顔で二人に差し出す。受け取ったのは人の温もりが残る、カードキーだった。
「アリーの金の卵にスタッフキーをプレゼント!」
 樹と澪が顔を見合わせ、カードキーに視線を落とす。樹と澪の写真と、ノーデンス・エンタープライゼスのロゴ、それぞれの名前が刻印されている。来客用のキーでもなく、正式採用された職員のものだろう。もう、この社長は自分達を採用する気しかないのかもしれないと、樹は思うのだった。
 『さぁ、行くよー!』明るい声の先導に追いつくには、樹でさえ小走りにならざる得ない。そわそわと落ち着かない様子で振り返っては待つアリーを追いかけながら、樹と澪がいつも見上げるばかりだった上層部へのエスカレーターに乗る。エスカレーターは竜が階層を移動する危険を阻むために、耐竜壁を用いた頑丈な作りなのだ。
 扉が開いた先は窓ガラスが割れて、海風が容赦なく吹き込む廊下だった。遠巻きに見える都心はスモッグが沸いて霞んでいて、普段と変わらぬ建物のシルエットが見えるばかりだ。手前の大通りは大型の竜の死体が転がり、流れ出た血液などを除去する為に防御服を着込んだ人影が動いている。まるで大きな動物に群がる蟻のようだな、と樹は思う。自動販売機がなぎ倒され缶が散乱する床で転ばないよう澪を気遣いながら、樹はアリーが手を振って待っている扉の前へ進む。
「お待たせー!」
 カードキーを翳して扉のロックが外れた音よりも早く、アリーの声が響いた。それでも、扉が開いたから部屋の中にいた人々が全員振り返った。
 外のような竜に蹂躙された混沌はなかったが、書類が散乱し見たこともない電子機器が唸り声を上げる。セブンスエンカウントに入り込んだように、空中にさまざまな情報ウィンドウが踊っていた。この地域の地図、襲撃したドラゴンの種類、リアルタイムで上がるありとあらゆる情報が下から上へ流れていく。
 澪がわぁと声を上げる。樹も頭が痛くなりそうで呻きたかった。
 中にいた人々を遮るように、迷彩柄の軍服を着た自衛隊員が樹達に迫って来た。
 思わず樹は迎撃の為に足を開き、澪を背後に庇う。敵意のない自分達を守ってくれる存在だと樹も理解してはいるのだが、それでも思わず身構えてしまうほどに男性は大柄だった。間合いに入られれば壁が目の前に聳り立つ圧迫感。見上げる程の長身に、隆々とした筋肉を窮屈そうに迷彩服に押し込んでいる。スキンヘッドの強面が、生真面目な声を紡ぐ。
「ISDF所属の頼友(ヨリトモ)だ」
 差し出された手が握手を求めている。樹は理解するまで待たせた手を、おずおずと握った。なにせ祖父が英雄であったとしても、樹はごく普通の一般人である。一目見ただけで只者ではないだろう成人男性から握手を求められるとは思わなかったのである。
 握手に応じた樹は、大きな手の温かさと小さい手を労わるような力加減に好感を持った。頼友は澪にも握手を求め、生真面目な自己紹介を淡々と交わし始めた。
 頼友という壁が取り払われ、中にいる人々が見渡せた。
 合わせ鏡のような双子とウエスタンハットをかぶった長身の男性が並んでいて、彼らに寄り添うようにアリーが立っている。樹が先ほど貰ったカードキーを持っていないものの、この場にいるのならノーデンスの社員なのだろう。
 そして迷彩柄の隊服を着た細身の青年が立っている。榛色の清潔感のある髪型に、精悍な顔のまま休めの姿勢で待機している。青年は樹を見て控えめな笑みを浮かべた。樹が見ていたからか、頼友の『部下の優真(ユウマ)だ』という紹介でぺこりと小さく会釈をする。
 自分を助けてくれた青年だ。気がついた樹は顔から火が出たと思った。心の底から樹を助けられて良かったと察することができる、柔和な笑顔だ。
「この聴取は君達が救えなかった命がある事を、叱責する為のものではない。君達が人々を救った経緯を聞き取ることで、今後、竜の襲来によって一人でも多くの人が生き延びる為に生かされる。気を楽にしてくれ」
 頼友が青年の隣に戻ると、樹へ視線を向ける。
「ノーデンスの防犯カメラから君達の行動を分析したが、素晴らしい判断力だった。俺が指揮をしていても、ほぼ同じ軌跡を辿っただろう。優真が君を助けたとはいえ、一般施設に備え付けている対竜装備でよく凌いだ。君の判断力と勇気に敬意を表する」
「私だけの力じゃありません。澪や一緒に逃げて来た人々の協力があっての結果です」
 樹の返答に頼友は強面の軍人の表情を一瞬崩す。
「君ほどの逸材、俺の推薦で自衛隊員に加えたいくらいだ」
「だめー! この子達はアリーが見つけたんだからねー!」
 頼友と樹の間に割って入ったアリーだが、もうすでに頼友は軍人の顔になっていた。まるで教科書を読み上げるようで、一通りを知っている頼友にとってただの確認でしかない。避難経路の聴取を行い、籠城に至るまでの行動を一通り聞き終える。頼友は『十分だ』と切り上げた。
「君達の勇気ある行動は、責任を持って文書に認め上に報告する。今後は、ISDFから感謝状と、君達が救出した人々の感謝の言葉があった場合に同封して送付することとなる。受け取りを拒否するなら今、その旨を申し出てほしい」
「あ、いえ。別に拒否はしません」
 感謝状だけなら別に要らないと言いそうだったが、救出した人達の言葉まで拒否する気はない。樹の横で、澪も『送付して大丈夫です』と応じている。
「了解した。君達の協力に心から感謝する」
 頼友が美しい敬礼をすると、大股で部屋から去っていく。後を追おうとした青年 優真は、ぺこりと樹に頭を下げて出て行った。
 軍人達が去った後、あぁーーっと気の抜けた声が室内に響いた。
「軍人って苦手だわ。一緒の空間にいるだけで、肩が凝っちゃうわ。いやぁーねー」
 そう椅子に座り大きく伸びをしたのは、ウエスタンハットの男性だった。柔らかな癖のある長髪を一つに結い、ハリのあるバリトンの声色ながらも女性らしいイントネーションで話す。服装はどう見ても男性だったが、世間でいうオネエという存在だとは、流石の樹にも分かる。
 オネエな男性は樹達にしなやかに手を振った。その仕草の一つ一つが、樹以上にに女性らしい。
「アタシはジュリエッタ。ノーデンス・エンタープライゼスの技術部門を担当してるの。宜しくね」
 は、はぁ…。
 どう反応して良いのかわからず、溜息のように返事がこぼれた二人をジュリエッタはじっと見つめる。
「うん。アリーの勘は絶対だって思ってるから、アタシは良いと思うわ」
「でしょー! ジュウロウタもそう思うでしょー!」
「本名で呼ばないで、ジュリエッタって呼んでちょうだいよ!」
 ワイワイと盛り上がるアリーとジュリエッタを前に、呆然とする樹と澪である。そんな二人の袖が同時に引かれる。二人が振り返ると、双子が並んで立っている。服がお揃いでお団子頭であっただけで、よく見ると鏡合わせではない。一人は日に焼けた金髪で雰囲気も明るく、もう一人は病気かと思うような色白の銀髪で暗い雰囲気だ。雰囲気で見分けるのも、人の感情を一番に語る目元が、鼻先まで掛かる前髪に完全に隠れているからだった。明るい声は橘 立花(タチバナ リッカ)と名乗り、沈んだ声色は橘 散花(タチバナ チカ)と囁く。
「二人の配属先は特殊業務対応課…。ノーデンス社の何でも屋で、13番目にできたから13課とも呼ばれているの…」
「特応課は実力者揃いで、何でもできちゃうスペシャリスト集団だよ! ノーデンスの皆はすっごく頼りにしてるんだ!」
「他の部署で対応できない業務を押し付けられる、恐ろしい所だよ…」
「もう、チカちゃん! 皆の出来ない仕事をやってあげられるなんて、会社への貢献度半端ないよ! 誇るべきだよ!」
「出来なくて良い…休みが欲しい」
「何言ってるの! 竜の襲来で会社はこんなんなんだよ! 休みなんかあるわけないじゃん! 頑張って働こう!」
 働きたくない…。そう消え入りそうな散花を押しのけ、立花が元気に話しかける。風邪をひきそうな温度差の二人だなと思う二人に、立花よりも更に元気なアリーが迫る。
「金の卵ちゃん達には、ノーデンスの極秘プロジェクトに参加してもらうよ!」
 話したくて仕方がない立花のマシンガントークと並んだのは、これまた話したくて仕方がないアリーだった。
「プロジェクト名は『Code:VFD』! セブンスエンカウントもそのプロジェクトの一環なんだよー!」「あらゆる竜対策を想定したプロジェクトで、『Code:VFD』の最終目的は7体目の真竜を討伐することにあるのです!」「人類が襲いくる竜と戦う為には、この地球に存在する全ての生命の協力が必要なんだよー」「世界中を飛び回り、時空を超える! 忙しいワーカーホリックには堪らないお仕事です!」
「ちょっと待ってください」
 マシンガントークを冷静に止めたのは樹だった。涙目の澪を背に庇い、樹は二人を見る。
 セブンスエンカウントというゲームが他人より上手な一般人を採用して、いきなり極秘プロジェクトに参加とか何を考えているのだろう? ゲームの腕前は知っていたとしても、樹や澪の人となりを知っている訳ではない。信用するには早すぎやしないか?
 それとも、この社長の勘で全てが決まるのか?
 どちらにしろ、このままノーデンスのペースに飲まれて話を進められては困る。樹だけなら自業自得と何もかも飲み込めるが、澪まで巻き込むわけにはいかないのだ。
「私達は確かにノーデンス社のオファーに応じたいと思って履歴書を提出しています。会社が採用したいという旨は理解しましたが、その業務内容に関しては我々にも一考の余地があっていただきたいと思っています」
 まぁ、そうよね。興奮する二人の後ろで足を組んでいたジュリエッタが頷く。
「業務内容に関しては、もちろん説明してから決めてもらっても良いし、返答次第では採用を白紙にしても良いと思うわ」
「ちょっとー! ジュウロウタってばー」
 アリーのパンパンに膨れた頬に向かって、樹は会心の一言を発した。
「まずは私達の家族の無事を確認し、無事を報告させて欲しい」

 ■ □ ■ □

 自衛隊から名を改めたISDFが安全宣言を発したのは竜襲来から3日後。有明に集まった人々が帰路につけるようになるまでには、それからさらに4日が必要だった。アスファルトは竜が踏みしめた重みで粉砕され、地下鉄などの交通網は壊滅に近い状態になっている。緊急事態のため電波通信に制限が掛かっている臨海地域は、さながら陸の孤島だった。主要道路がISDFによって最低限通れるようになると、樹と澪は自宅を目指し始めた。
 臨海地域と都心を結ぶ橋を渡り、見慣れた都会の風景は酷く様変わりしていた。街中の車という車は引っくり返り押し潰され、ガラスは割れ看板は破壊され、路面の鮮血は未だに鮮やかだ。過去の竜襲来を教訓に電柱は地中化された為に電気は通っていたが、コンビニは殆どの商品が売り尽くされ、個人経営の店もシャッターを下ろしている。
 それでも幸運にも竜の襲撃から逃れられた地域があり、樹達の実家のある地域もその一つだった。隣町は火の手が上がりそれなりの範囲が焼けたらしく、焦げ臭い匂いが風に乗って流れてきた。
 先ず樹達が向かったのは、澪の実家である『南雲診療所』だった。竜襲撃の教訓として、申告すれば診療所の地下にシェルターを作ることができたのだ。樹の母はこの診療所の受付の仕事をしているし、樹の実家の最寄りの避難所は南雲診療所でもある。
 南雲診療所は鉄筋コンクリート製の二階建ての建物で、看板どころか窓ガラス一枚も変わらなかった。もう、重傷者は大きな病院に移ったのか、夕方に差し掛かりそうな時刻の診療所はひっそりと静まり返っていた。澪が小さく診療所の扉を開け中を伺うと、受付の樹の母 美乃梨(ミノリ)が驚いて立ち上がり駆け寄った。
「樹! 澪ちゃん! 無事だったんだね!」
 そう強く抱きしめた母は泣いているので、樹ももらい泣きしそうになりながらその背をさすった。物心ついた時から母のいない澪にとって、樹の母は実の母親のように思う存在である。澪は樹の母の肩に顔を埋め、小さく嗚咽しているようだった。
 美乃梨ははっと気がついたように顔を上げ、二人の肩を叩いて立ち上がった。
「先生! 南雲先生! 澪ちゃんが…!!」
 美乃梨の剣幕に気がついて出てきていたんだろう、すでに診察室の扉を開けていた南雲診療所の主人、南雲 三喜夫(ナグモ ミキオ)は驚いて目を丸くしていた。南雲先生は樹の祖父とそう変わらない年齢であり、樹が物心ついた時からずっと老人だった人だ。だが、樹が知る限り全く変化はない。白髪も抜け落ちることなく、腰も曲がらす、シワも増えない。いつも物静かな先生で、この時も澪に対して穏やかに話しかけた。
「澪、無事だったようで何よりじゃよ」
「おじいちゃんも、無事で良かった…」
 そう互いに手を取って無事を確かめあう二人をよそ目に、美乃梨は樹の肩をぐっと掴んだ。美乃梨と樹が持つ鈴の音がちりちりと細かく鳴り響く。
「どこも怪我していないね。もう、お父さんに似て血の気の多いアンタの事だ、竜に食べられちゃったんじゃないかって気が気じゃなかったんだよ!」
「皆は?」
 皆、無事よ。樹の母はそう言って、渋い顔をした。
「腰が痛いってのに昔振り回してた刀を持ち歩いて、『家族を守るんじゃ!』なんて叫ぶお父さんを止めるのが大変だったわ」
 樹は診療所の前に刀を片手に仁王立ちする祖父の姿を有り有りと思い描いて、小さく笑い声を漏らした。祖父は自分の実力をひけらかす人物ではないが、その実力で他人を守れるなら誰よりも前に出る人だ。今までは勇敢な祖父と思っていたが、竜と相対する恐怖を知った樹は尊敬の念を新たにする。
「先生! 今日は皆の無事を祝ってご馳走にしましょう! うちにご飯食べにいらしてくださいな!」
 こうなった母の行動は早い。樹の腕は即母に捕らわれ、宴会の料理を作るために連行されるのだった…。

 混乱の直後とはいえ、昔から地震大国であった日本は復旧が早い方である。目の前に並べられた食材の半分は備蓄で、もう半分は復旧したスーパーなどから購入した食材で作ったのだから恐れ入る。鳥の唐揚げは山となり双子の弟である睦也(ムツヤ)と志智也(シチヤ)の胃袋に競われるようにかき込まれ、父と伯父達がどこに隠していたのか一升瓶を飲み交わす。祖父と南雲先生が語らう横に散らし寿司や料理を取り分ける母と、食べた皿を片付ける伯母達が男達を一喝する。勢揃いした従兄弟達は互いにどこに居たかを語らい、被害が大きかった有明地区にいた樹と澪の話をせがんだ。
 家族全員が無事だったのは奇跡に等しいことだろう。
 誰もが樹と澪の生存を危ぶんでいただけあって、喜びは一入だ。特に樹の祖父の礼はその皺だらけの手で樹の手を握り、5分は瞑目して喜びに打ち震えていたほどだ。現在進行形で5分を超え、寝ているのか疑わしい祖父に樹は話しかけた。
「皆が無事で良かったね」
「鈴に願を掛けた甲斐がある」
 祖父の和服の帯に挿した短刀に根付として付けられた鈴が涼やかに鳴る。この宴はまるで風鈴市のように鈴が鳴り響き、鳴り止むことはない。祖父の礼は我が子や孫にお守りとして鈴を寄越していて、その鈴は決して肌身離さず身につけているべきと言い付けていた。鈴は祖父が祈りを捧げる神社でお祓いされた特別なお守りで、祖父の姉を多くの窮地から救ったと信じている。
 竜は耳がいい。鈴の音を聞きつけて襲ってくるのではないかと思ったが、真紅の華の音に鈴はよく馴染んだ。祖父も祖父の姉も、鈴を身につけ竜と戦い生き残ったのだからご利益は十二分にあるのだろう。
「竜は強かっただろう。恐ろしかっただろう。よく、守るべきものを守った。樹は私の誇りだ」
 祖父は皺だらけの、しかし剣を持ちすぎた為に歪になった手で樹の手を握り続ける。それは心地よかった。言葉の賞賛より、頭を撫でられるような褒め方より、ずっと樹の心に暖かく染み入る。
「お爺ちゃん。竜はもっと強く、恐ろしいのでしょう?」
「そうとも、今回は小手調べの咬ませ犬だろう。もっと恐ろしい竜帝、それらをも統べる真竜が来るだろう」
 祖父の言葉は確信に満ちている。未来の予言を語るのでもなく、これからの予定を語るかのように具体的で迷いも曖昧さもない。だが、それを言うのは祖父だけではない。多くのテレビ局が競って自称竜専門家のコメンテーターの口を使い、過去のデータを引っ張り出して祖父と同じことを言うのだ。不安を煽っているのではない。来るべき死に方を、お前達も知っておけと言わんばかりである。
「どうやったら、生き延びれるのかな?」
 テレビでは竜を退けられなければ、人類は死に絶えると言っている。それは、歴史の成績が良くない樹でも分かる事だった。今までの竜襲撃は、全て人類側が竜に勝利した結果である。襲撃によって瓦解した地域に生存者もおらず、意思の疎通ができる竜帝クラスや真竜の目的は人間を絶滅させることにあった。
 戦わねば勝てない。勝てない者は滅ぶ。それは種族単位で行われることだった。
 生まれ育った馴染み深い、今では珍しい伝統的な日本家屋の造りの家。一番大きい居間にこうやって一族が勢揃いしている光景も、もう最後かもしれないと思う。竜の襲撃の前後で、世界は180度様変わりしたと言える。
「竜の襲来に備え、人々は竜と戦う組織を作った。この時代ではISDFがその責を担うことになるのだろう。あの組織は自衛隊と叢雲機関を吸収した組織だ。来るべき竜の襲撃に対応する為に存在すると言っていい」
「ISDFが来る前に動いたから、助けられた命がある」
 祖父は小さく頷いた。
「運、実力、そして選択。最善を樹が選択したから助かった命だ」
 襲撃の際、現地にいたから樹が選べた選択は、ISDFが選べなかった選択だ。ISDF以外の選択肢はあるべきだと、樹は思う。『あらゆる竜対策を想定したプロジェクトで、『Code:VFD』の最終目的は7体目の真竜を討伐することにあるのです!』元気な声が脳裏に爆ぜる。
「ねぇ、お爺ちゃん。私がしようと思うアルバイト先、竜を退治するのが目標らしいんだ」
「それは剛毅なことだ」
 祖父は樹の鈴に手を伸ばし、小さく良く響く鈴を両手で包み込んだ。
「やってごらん、樹。何もせず生き延びることより、何かをしていた方が生き延びられるものだ。竜の襲来は無慈悲な殺戮の始まり。同じ死ぬなら、後悔なきよう生きなさい」
「ありがとう。お爺ちゃん」
 そう微笑んだ樹を、礼は切なげな表情で見た。これから説得に挑む最難関である末娘の美乃梨に対抗するための、理解者を得た笑みだ。姉に良く似た孫。これも運命かもしれない。
 ありがとう。礼。
 重なる面影に礼は願いを込め、鈴は軽やかに音を生んだ。