いつかの約束

 エルフの女の子が靴を脱ぎ、小川のせせらぎに足を浸けながら唸った。肩に掛かるくらいの綺麗な真っ直ぐな緑の髪が、項垂れた顔に掛かっているけれど痛いのは良く分かる。足首はパンパンに腫れていて、傍目からでも挫いているのが分かったんだ。女の子の手元に綺麗に揃えられた靴は、森の中を歩くような靴じゃないのは分かった。
「そんな靴じゃあ、地面にくっ付いて転けちゃうのも無理ないって。靴とくっ付く…ぷっくっくく!」
 我ながら会心の出来だよ! あぁ、アームとルーフにも聞かせてあげたいのに、二人共女の子の友達を捜しに行っちゃった。
女の子は痛くって、僕の駄洒落の面白さどころの話じゃないみたい。
「あぁ、貴方って凄いわね。こんな深くて暗い森で駄洒落だなんて、尊敬しちゃう」
 女の子がのろのろと顔を上げると、疲れきった様子で言った。僕は女の子の隣にちょこんと座ると、女の子の顔を覗き込んだ。
「僕はポランパン。この森は僕達の遊び場だもん」
「遊び場? 信じられないわ。モリナラ大森林は木の精霊達の都。人が軽々しく出入り出来るような場所じゃない筈よ」
 女の子が綺麗な紫の瞳を真ん丸くして、僕に強めの口調で言った。
 そんな事言われたって、僕は困るよ。僕は父ちゃんも母ちゃんも、二人揃って大地の箱船の路線を管理する仕事をしてるんだ。大地の箱船の線路はとても長くって、世界を一周してる。僕の家族を含めた沢山の種族が一つの隊商みたいになって、持ち回りの地域の線路の状態を確認して直したりするんだ。僕が生まれたばかりの時に、エルトナ大陸は主都の場所が変わって路線が変更になる大工事をしたんだ。僕は生まれも育ちもエルトナで、種族はプクリポだけど森は遊び場なんだ。
 僕が困ったように耳を垂らしたからかな、女の子は目を伏せて申し訳なさそうに頭を下げた。
「あぁ、ごめんなさい。怒った訳ではないのよ、しょんぽりしないでポランパン。私の名前はカザユラ」
 カザユラと名乗った女の子は、胸元に細くて綺麗な手を当てて上品に挨拶した。僕は都会の子供っぽいカザユラにドキドキしながら、こくこくと頷いた。そして小首を傾げる。
「ねぇねぇ、カザユラ。モリナラ大森林は人が入っちゃ駄目なの? 最近、沢山人を見るよ?」
 新しい路線だからってカミハルムイに出向く事は度々あるけれど、僕の十年ちょっとの人生の殆どが大森林の傍だ。ちゃんと帰って来るから最近は口酸っぱく言われないけど、大人達は入っちゃ駄目って言う。大森林は凄く凄く深い森で、迷い込んで出て来れない人は沢山居るんだって。
 でも、最近は森の中に人を何人も見かける。アームとルーフはそんな彼等に近寄っちゃ駄目って、遠くから見てるだけだったけれど。
 僕の言葉にカザユラは驚いたように見た。
「ポランパンは見たのね。モリナラ大森林の樹木を、勝手に伐採している連中を…!」
 するとガサガサと茂みを割る音が響いた。カザユラが警戒するように表情を引き締める目の前で、僕はアームとルーフの気配を感じて嬉しくなった。
 直ぐに僕達の目の前で二匹の狼に率いられた、一頭のカムシカと大人のお兄さんの姿が現れた。
 お兄さんはカムシカからずり落ちるように降りると、そのまま地面に倒れ込んだ。真っ黒い髪に白い装束を着込んで、立派な長刀を下げている。戦士なんだろうエルフのお兄さんの所に、カザユラは服が汚れるのも構わず膝を付いて近づいた。
「まぁ、ニコロイ! 大丈夫?」
「カザユラ…君は凄いよ。カムシカの乗り心地は、最悪だ…。もう、二度と乗りたくないよ」
 ありゃりゃ。顔が真っ青。僕は匂いがすっとする香草を両手に挟み込んで叩くと、ニコロイって名前のお兄さんの鼻先で手を広げた。鼻から胸に入り込む涼しさを感じる匂いが、手から溢れる。
 ニコロイは黒い瞳を弱々しく笑わせると、アームとルーフを見回して微笑んだ。
「皆、ありがとう。お陰でカザユラと再会出来たよ。カムシカ酔いで死ぬかと思った」
「不甲斐ないニコロイ。王様が聞いて呆れるわ」
 聞き覚えがあると思ったら、そうだ、ニコロイってカミハルムイの王様の名前だ。ニコロイは黒い髪を掻きながら、面目ないとカザユラに頭を下げていた。そしてカザユラの足首を見て、顔を顰めた。
「カザユラ、足を挫いて痛い思いをさせてしまって、すまない。今直ぐ、癒しの呪文を唱える」
 森の空気が濃くなる。ニコロイは口笛のような涼やかな音を発すると、カザユラの足首を包んだ両手が淡く輝く。はらはらと両手に掬い上げた花弁が指先から零れ落ちるように、癒しの力が零れて川の水に融けて行く。
 その様子を僕はうっとりと見ていた。あぁ、すっごい、綺麗だなぁ!
 回復呪文を受けたカザユラは姿勢よく立ち上がると、心配そうに頭を擦り付けたカムシカを撫でた。
「気にしなくて良いのよ、ニコロイ。伐採者達の目を私から逸らす為に、囮になってくれてありがとう」
 カザユラとニコロイは、悪い大人達をどうにかしようって森にやって来たんだ。悪い大人達は根っ子から悪い人じゃなくって、生きていく上で仕方なく悪い事をしている人達なんだって。それでも、そんな悪い方法で生きていくのは良くない。カザユラとニコロイはとにかく森にやって来たんだ。
 そんな時に、悪い大人達に見つかってしまったんだ。悪い大人達は斧や刃物を持って凄い勢いで迫って来る。カザユラは転んでしまって、足を挫いてしまたんだ! カザユラから悪い大人達を引き離す為に、ニコロイはカムシカに乗って森の奥へ駆出したんだ。
 僕はその後にやって来た。
 いつものようにアームとルーフと一緒。先に見つけたはタッチの差でアームだった。
 カザユラは泣きそうな顔で、カムシカに乗っている友達を捜して来て!ってお願いされたの。アームとルーフが『かくれんぼ!』『おにごっこ!』とはしゃいで森に消えて行った。二人に任せれば直ぐ見つかるよって、僕はカザユラと小さい小川で待っていたんだ。
 あぁ、お友達が見つかって良かったなぁ!
『ポランパン』『ポランパン』
 アームとルーフが僕に歩み寄って来た。カザユラがカムシカを撫でてるのが羨ましかったんだな。僕は黒と白のふかふかした毛並みの狼達の首根っこを抱きしめて、ふかふかの毛皮に顔を埋めた。アームとルーフから、清々しい若葉の匂いがする。
『アームは偉いの。女の子の友達見つけたの』『ルーフは偉いよ。男の子のカムシカに話しかけて連れて来たよ』
「うんうん、アーム、ルーフありがとう!」
 僕が二人に話しかけるのを、ニコロイとカザユラが微笑みながら見ていた。
 エルフはプクリポよりも背が高いけど、そんなエルフでも頭一つは高そうなニコロイが腰を屈めて会釈した。日を透かさない肉厚の椿の葉のような真っ黒い髪は、蜘蛛の糸や枯れ葉や泥でぼさぼさだ。でも笑顔はとっても素敵。にっこり優しくて、森みたいに包み込んでくれる。
「君には感謝しているよ。その狼達は君の友達かい?」
 僕は大きく頷いた。抱きしめているアームとルーフの背中をわしわし撫でた。
「うん!僕の面白い友達! 狼のアームとルーフ! 見て見て! 尾も白いんだよ! …面白い、尾も白い、ぷーっくっくっく!」
『面白い!』『尻尾白い!』
 アームもルーフも大笑い。
 でもでも、変なの。カザユラはなんだか渋い木の実を食べちゃったような顔をして、ニコロイを見上げたんだ。ニコロイは苦笑してカザユラの視線に応えた。
「カザユラ、彼は極普通のプクリポだよ。私の知っているメギストリスの王に比べたら、彼は控えめなくらいだ」
 そ、そうなの…。カザユラは渋々頷いた。
 どこかで大木が倒れる音が響いた。ばきばき、みしみし、ずどんと、音が響けば鳥達が騒ぎ動物達が逃げる音が続く。
『痛いよ』『嫌だよ』
 アームとルーフが耳をぺたりと伏せて、僕に縋り付いて来る。僕はよしよしと二人を抱きしめながら、恐い顔の二人を見上げた。特にニコロイは片耳を抑え酷い頭痛を堪えているみたいだ。カザユラはカムシカを抱きしめながら、森の奥を見ている。
「森が悲鳴を上げている。精霊達の声が地響きのようだ」
「せいれい?」
 僕が首を傾げてニコロイを見上げると、ニコロイは困ったように見下ろして来た。
 つまり精霊と言うのはだな、万物に宿る大いなる意思の事なのだよ。姿形は様々に映るが、基本的に見える者ではない。力は我々の比では無く、とてもとても強いんだ。彼等はこの世界そのものでもあるだろう。精霊に認められたり祝福や加護を得た者は、その精霊の力を優先的に使う事が出来るんだ。例えば、カザユラは風の精霊に好かれていてね、風の御使いカムシカと心を通わせるしバギ系の呪文もとても上手なんだ。その他にも…大丈夫かね、ポランパン。頭から煙が出ているじゃないか。あぁ、カザユラ。私には噛み砕いた説明は難しいよ。代わってくれないか?
 ニコロイが両手を小さく上げると、カザユラが僕を見て笑った。
「つまり、幸運の事よ。迷ってもいつの間にか人里の方に出られる事、崖の手前で蝶が横切って落ちずに済む事、お腹が空いた時に動物が木の実を持って来てくれる事もあるそうね」
 僕は首を傾げた。森の中ではいつもアームとルーフと一緒だから、危険な目に遭った事が無いんだ。
 カザユラは苦笑いをして、そうねと考える。長い睫毛が何度も瞬くのを見ていると、カザユラはくりっと瞳を動かして笑った。
「森は精霊達のお家なの。貴方も自分の部屋に来る人で、良い人だと嬉しいでしょ? 逆に勝手に持ち物を持ち出したりお菓子を食べ散らかされると、嫌になっちゃうでしょ?」
 僕がこくこく頷くと、カザユラは悲しそうな顔をした。
「悪い人達は精霊達のお家で、お部屋の物を勝手に壊しているの」
「いけない事をする人達って何処に居るの? 池が無い所だよねきっと。イケナイ、池無い…ぷーっくっくっく!」
 カザユラが疲れた様子で首を振って、ニコロイを見た。ニコロイは苦笑して僕に言うんだ。
「私達は悪い人達の隠れ家を探しているんだ。でも、君はまだ幼いから帰った方が良いよ」
 うーん。僕は悩む。なんだか、帰っちゃいけない気がするんだ。
 悩む僕の顔を、アームとルーフが挟むようにすり寄った。
『イケナイ奴、探そう』『池無い所、探そう』
 やっぱり、そうだよね。僕は二人を見上げた。
「僕も手伝うよ!」

 森の中を歩いている間、ニコロイとカザユラは僕がアームとルーフと出会った時の話を聞きたがった。
 僕はちょこまかと森の茂みを避け、グリーンシザーの背中に落ちて謝りながら昔話をする。アームとルーフも昔の思い出に嬉しそうに尻尾を振る。悪い奴を探しに行くなんて思えない程にのんびり。
 アームとルーフとは森の中でしか会わない。だって、狼なんて連れて来たら、皆びっくりしちゃうもん。アームとルーフは寂しそうだけど、一緒に行くって我がまま言わないし、僕が一緒に行こうって駄々を捏ねた時は『明日』『明日ね』って森で待っててくれる。僕は歳の近い友達がいないから、森は遊び場でアームとルーフは親友なんだ。
 ニコロイが優しく口元を持ち上げた。
「君はアームとルーフが大好きなんだね」
「うん、大好き! 僕の大事なアームとルーフだもん!」
 僕が頷くとアームとルーフが駆け寄ってお腹や脇に、鼻先を擦り付けた。くすぐったくて笑っちゃう!
 アームとルーフが耳を澄まし、鼻をひくつかせて『こっち』『こっち』と僕達の前を駆けて行く。たまにお花やちょうちょに気を取られて、脇道に逸れそうなのをカザユラのカムシカが首根っこを甘噛みして止めてくれる。カムシカの前で並んでしょんぼりする二人は、僕がお母さんの前で怒られる時とそっくりだ。
 僕はこんなに森の奥に入った事が無いから、ちょっとドキドキしちゃう。いつもは森と集落の境で遊んでいて、アズランからの南風が北にさらさらと抜けていったり、東から来る海風が森の上をくるりと回って降りて来るから暖かかったり潮の香りがするんだ。でも、ここは風が全く無いし、凄く凄く強い森の香りでいっぱいだ。樹は大地の箱船の高架橋の柱よりも太くて、すっと真っ直ぐ突き立ってる。お空が見えないくらい葉っぱが沢山茂ってて、その隙間をかいくぐって降りて来た日差しの所にはお花が寄り添うように咲いている。
 すると、アームとルーフが耳をピンと立てる。
『人がいる』『いっぱいいる』
 僕もニコロイもカザユラも聞き取れなかったけど、アームとルーフは跳ねるように先を進んだ。
 すると、森の木の葉ずれとは違う、人の声が聞こえて来た。毛皮を纏った狩人もいれば、剣を持った戦士もいるし、魔法使いっぽい人っていっぱいだ。その人達を見て、カザユラがあっと声を上げた。
「まぁ、タケトラ!」
 カザユラの声に、カザユラと同じくらいの男の子が顔を上げた。きりっとした真面目そうな男の子だ。タケトラと呼ばれた男の子は剣を帯び、カザユラの所に駆けつけた。
「カザユラ、大丈夫だったか? ニコロイ様と一緒とはいえ、女の子が危険な森に入っちゃ駄目じゃないか」
「言葉を返すようだけど、タケトラ。子供は森に行くべきじゃないと言っておきながら、貴方はどうしているのかしら?」
「君が心配だったんだ。父上にお願いして断られたから、荷台の樽の影に紛れ込んだんだ」
 僕はタケトラの冒険をありありと思い描いて、笑った。僕は高架橋の整備に強引に付いて行こうとしたら、オーガの職人に摘まみ上げられちゃうよ。
「それにカミハルムイから派遣されたレンジャーのお陰で、不法伐採している輩の根城が分かったんだ」
 タケトラは細い身体の割にはごつごつした指を、森の奥に向けた。なんだか切り株がいっぱい。年輪ぐるぐるで、その切り株でパーティしたら何枚ケーキが載った大皿が並べられるだろうって考えたら指の数が足りなくなって来ちゃった。
「決戦は近いか…」
 ニコロイは僕の前に膝を折って、目を合わせて来た。黒い綺麗な瞳に、僕がどぎまぎした様子で映っている。
「ポランパン君、ありがとう。君は帰っても良いし、心配だったら待っていても良い。でも、私達と一緒に戦いの場に来てはいけない。分かるね?」
 僕は頷いた。危険な作業にいく大人達の表情だ。そんな時は、絶対我が儘言っちゃ駄目なの。
「気をつけてね。絶対帰って来るって、誓い…してくれる?」
 ニコロイは一拍間を置いて、笑った。
「近いと誓いだね。うん。帰って来たら、このギャグにお腹の底から笑ってみせるよ」
『近いからすぐ』『誓い果たすのもすぐ』
 カザユラも小さく微笑んで、カムシカに股がり大人達と歩き出した。全員の背中が森の闇に呑まれてしまうまで、僕は見送る。どんな大柄な大人も、みんな小さくなって大きな森の奥に消えて行ってしまった。
 僕はじっと待った。戦いの音が木の葉ずれの音の隙間で続いて、誰かの悲鳴が静寂を貫いたのを辛い思いで聞いていた。僕は小さいから大人達の手伝いは無理って言われてる。プクリポだからってのもあるけど、高架橋の整備は危険だからお前には早いって良く言われた。
 寄り添ってくれるアームとルーフを抱きかかえて、僕はじっと待っていた。
 ふわりと、空気が変わった。
『ポランパン!』『ポランパン!』
 アームとルーフが慌てたように覆い被さって来た。優しいアームとルーフにしては珍しいくらいで、僕は押し付けられた拍子に頬を切った。あまりにも力が強くて強引で、いつもだったら直ぐ謝ってくれるのにアームとルーフは緊張した様子で僕の上に覆い被さり続けた。
 もの凄い強い風が木々を揺らしているのがはっきりと分かった。ざわざわと森が騒がしい。
 僕はアームとルーフの下で温かい筈なのに、身体が冷えて行くのを感じた。なんだか、森がいつもと違う。
 もりは せいれいたちの おうち なの
 カザユラの言葉が蘇る。
 いつもと違うのは誰? 精霊達が違うの? 違うとしたら、それは…なぜ?
 僕は頭の中がハテナでいっぱいになる。でもそのいっぱいは次の瞬間に全部潰されてしまった。
『ここは、人が来るべき場所ではない』
 僕は悲鳴が上がりそうなのを一生懸命堪えた。とても恐ろしい、声じゃないけど声みたいな何かが僕の頭の中に響いたんだ。恐ろしく感じたのは、その事を言った誰かが凄く怒っているのを感じたからだ。お母さんが怒るのよりもずっと恐い、僕は感じた事の無い激しい怒りに身体が震えた。
 どれくらいじっとしていたのか分からないけど、僕のほっぺをアームとルーフが舐めてくれた。
『平気?』『大丈夫?』
 アームとルーフが心配そうに僕に言ってくれる。僕は顔を上げると、そこはさっきと何も変わらない森が広がっているばかりだ。何も音がしない。風も吹き込まない森の奥、木々の囁きも失せて、人々の声は全く聞こえなかった。
 ニコロイやカザユラは大丈夫なのかな?
 僕は立ち上がって、ゆっくりと皆が向かった森の奥に向かって行った。井戸に水を汲みに行って、水をいっぱい入れた瓶を運んでいるようなのろのろとした足取り。僕は恐くて足が止まってしまう思いを、心配で一生懸命ひっぱりながら先を進んだ。蝶が僕をひらひらと追い越して行く。
 アームもルーフも急かさなかった。僕の後を影のように付いて来る。
 沢山の人が歩いて倒された草の上を歩いて、切り倒された木を横に見る。ちょっと焦げ臭い匂いがして見遣ると、斧とか剣がくっ付いている金属の塊が煙を上げてる。叩かれたり斬られたりして火の呪文も浴びせられたんだろう、ボコボコでコゲコゲだ。痛々しくって、僕は先を急ぐ。
 そして、ちょっと広い場所にでたんだ。
 沢山の武器や盾が地面に散乱していて、所々剥き出しの地面が焦げ付いている。この広場から先に進む道はないみたい。みんな、どこに行っちゃったんだろう? ここに来るまでに、誰とも会わなかったのに…。
『ニコロイ!』『カザユラ!』
 アームとルーフが声を上げて、駆け出した。広場の隅っこの方で、ニコロイとカザユラが座り込んでいる。カザユラの傍にいるカムシカは、怯えたように耳を伏せてカザユラにくっ付いていた。
「何があったの?」
 僕が訊ねると、ニコロイが暗い表情で僕を見上げて俯いた。
「酷い話だよ。私は、なんて無力なんだろう…」
 そうしてぽつぽつと、ニコロイは話してくれた。
 ここで、不法伐採をしている者達と対峙する事が出来た。不法伐採者達はとても警戒心が強く、熟練のレンジャーや狩人でさえ彼等の姿を見つける事はできなかった。伐採した痕の通報は数上がれど、彼等自身を捕まえる事は生半可な事ではなかった。私達にとって、それはようやく訪れた念願の瞬間だった。
 アズランの領主の声で集った戦士達、カミハルムイから派遣されたレンジャー達、不法伐採を行う者達の戦いは交わす言葉は少なく直ぐに始まった。
 不法伐採者は魔物を改造したものまで用いて、森の樹を斬っていたんだ。戦いは長かったような短かったような、もう、覚えては居ない。
 突然、風が吹いたんだ。
 ポランパンなら不思議な事だと直ぐ分かるだろう。殆どの風が木々に遮られ、森の最深部は無風である事が常だからね。
 だが、その風は立っている事も困難な程の強風だったんだ。バギクロスを敵が唱えたんだと思った。私もカザユラも身を屈めて、風が止むのを待った。そして風が止んだ時、その場の変化に言葉を失ったんだ。
 広場には見た事の無い夥しい数の人面樹がいたんだ。おかしいだろ、視線を逸らす前まで沢山の人が居たっていうのに、次の瞬間には人面樹だらけだ。あぁ、すまん。ポランパン、君の駄洒落だったらどれだけ救われるだろう。そう、それは…
「人が、森の精霊達によって魔物に変えられてしまったの」
 カザユラが目に涙を溜めて言った。
「タケトラまで…だから来ないでって言ったのに! 森は危険だって言ったのは、タケトラだったのに…!」
 カザユラはそのままカムシカの毛皮に顔を埋めて肩を震わせる。カムシカもそんなカザユラの頭に顔を寄せて、慰めるように鳴いている。
 僕はカザユラの悲しさに涙声になりながら、素朴に思った事を訊いた。
「ニコロイ達はどうして平気だったの?」
「カザユラには風の精霊の加護がある。森の精霊達の力に風の精霊達が反発した事で、結局は免れる事ができたんだろう。私は…良く分からん。私はカミハルムイの王だが、森の精霊達に認められる程の信頼を得ている訳ではない。そう…風が吹き荒れている時、誰かが私を守ってくれた気がするんだ」
 ニコロイはその時の事を思い出して、悔しそうに顔を顰めた。鞘に納めている斬夜の刀をキツく握りしめ、小刻みに震えていた。
 そして、僕を見てホッとしたように表情を崩した。
「ポランパンは、アームとルーフが守ってくれたんだね。君も魔物になってしまったのではないかと、心配だったんだ」
 そしてニコロイは僕の頬の傷に気が付いたんだろう。指先を添えられると、痛みがふっと消えた。
「みんな、元に戻らないの?」
 僕の問いに、ニコロイは分からないと口を動かした。
「王都に戻って資料を当たれば、分かるかも知れない。だが、その時間も正直惜しい。魔物に変えられたからといって、彼等の罪を森が許した訳ではない。森は人にも魔物にも容赦はない。弱肉強食の摂理で死ぬかも知れないし、理性を失い人を襲って討伐されてしまうかも知れない」
 気が付くと、カザユラが立ち上がって僕達の横に歩み寄っていた。カザユラは目元を強く擦り過ぎて真っ赤になりながら、ニコロイの袖を強く掴んで言った。言葉は強くて、痛々しい。
「助けましょう。私達が不甲斐ないばかりに、沢山の命が散ってしまうわ!」
「カザユラ…しかし」
 ニコロイは言葉を詰まらせる。そんな時だった。
『助けるよ』『出来るよ』
 アームとルーフの言葉に、その場に居た全員が二人を見た。
 半信半疑って感じのニコロイとカザユラだったけど、僕はなんだか不安だった。何が不安だか分からないけど、なんだか、不安だったんだ。
「やはり、君達は精霊なんだね」
『うん』『そう』
 アームとルーフが頷いた。僕は訳が分からない。
 呆然と立ち尽くす僕に、カザユラが言った。
「酷かも知れないけど、普通の狼は人の言葉を使ったりなんて出来ないわ。それに、私達は精霊達の加護があるから彼等が見えて喋れるけど、普通の人には…」
「カザユラ、その説明は今しなくても良い」
 ニコロイはカザユラの言葉を遮ると、アームとルーフの前に膝を付いた。
「どうか精霊達の怒りによって、魔物に変わってしまった人々を助ける方法を教えてください。自分勝手な事は分かっています。それでも、私は思うんです。このままでは人は森を憎み、森は人を許しはしないでしょう。それでも私達はエルトナの民です。種族が違っても共に生きて行かねばならぬのです」
『森が怒っている』『森の怒りを鎮めないと』
 アームとルーフは歌うように言った。
『木を切った 悪い事、森が悲しんでいる』『森の中で争う 悪い事、森が嫌がっている』
 でも、とアームとルーフは声を合わせた。
『全部の精霊がそうじゃない』『精霊がみんな人が嫌いじゃない』
「つまり、今回人を変化させてしまった大きな意思に、精霊達で訴えると言う事なんですね?」
 アームとルーフが頷いた。木の葉がさやさやと囁いた。
『大きな精霊は、小さな精霊達が一つになったもの』『小さな精霊の心が沢山集まれば、大きな精霊に言葉が届く』
 僕は凄く大事な言葉を聞いた気がする。でも、目の前の僕の知らないアームとルーフの姿に、言葉に、僕はただただ混乱していたんだ。僕を置いてけぼりで、話はどんどん進んで行く。アームとルーフはそこにいる。でも、僕の届かない遠くに居る。
 アーム、ルーフ。僕は何か悪い事をしたの?
 それとも離れてしまったのは、僕なの?
 もう、一緒に遊べないの?
 いつも隣に居る筈の温もりがなくて、僕はとても寒かった。カザユラもカムシカもニコロイもいるのに、アームとルーフがちょっと離れているだけなのに僕は独りだ。皆を助けないといけない。明日もアームとルーフと遊ぶつもりだったのに、そんな当たり前の事が自信が無くて霞んでしまっている。恐い。全部崩れて行く。
 僕は、後ずさった。
「ポランパン?」
 ここに居たくなくて、駆出した。プクリポの小さい身体を生かして、誰もが足を止めてしまう茨の隙間に飛び込んだ。そして、駆出す。森の奥に。
 さっきよりもずっと大きな声で、カザユラが僕の名を叫んだ。

 走って走って、転んで僕はようやく動きを止めた。身体が痛いって思ったのは、身体が重くて木の根っ子に凭れ掛かって暫くしてからだ。じわりと涙があふれて、視界が緑色にぼやけて行く。
 僕、どうして走ったりしたんだろう。ぼんやりと考えるても、結局は良く分からない。
 僕はゆっくりと立ち上がって、周囲を見回した。僕が良く来る森よりもずっと深い場所だから、見覚えが無いのは当たり前だった。たしたしと水が下たる音が響き、足下を包むのはふかふかの苔だ。日が直接届く事は無いけれど、葉っぱから滴る雫が、岩を濡らす水が少しの光を吸い込んで星の様に輝いている。とても濃い緑の香りに、僕は嫌な気持ちが溶けて行く気がした。
『ポランパン』『ポランパン』
 わ!
 僕は驚いて両脇に頭を差し入れるアームとルーフを見た。黒と白の狼達は、無邪気に僕のお腹に顔を擦り付けた。
『踊ろう』『ポルカがいいな』
 そして二人は僕の回りで跳ね始める。着地した瞬間に地面から水の弾が弾けて、七色に輝く。アームが僕のお尻を押して、ルーフが僕の腕を押す。ぎこちないステップに、沢山の光が集まって踊りだした。
 星の中に飛び込んだみたい。とっても良い香り。すごく、すごく、きれい。
『ないしょ、ごめんね』『さよなら、恐かったの』
 アームとルーフが僕の前に座って、耳を垂らした。僕は二人に抱きついて、首を振った。僕の方がごめんねを言わなきゃいけないんだもん。
『ポランパン、大きくなった』『ポランパン、強くなる』
 腕からするりと、アームとルーフが擦り抜ける。鼻先が僕の頬に触れる。
『アームが居なくても大丈夫』『ルーフが居なくても平気』
 いやだ。僕はそう叫ぼうと思ったんだ。
 小さき精霊達よ、それが答えか…
 それは、あの強い風が吹いた時に響いた声だった。僕はあの時の恐ろしさを思い出して、身体を強張らせた。
 緑の光に満ちた空間に影が落ちる。僕が見上げたそこに、巨大な大きな影がある。緑の宝石みたいな鱗に覆われている身体に、水滴を纏わす苔が生していた。背中には巨大な翼の間に、これまた巨大な青々と葉を茂らせた大樹が生えている。良く見れば葉の間には鳥が止まっていて、苔の隙間から飛び出ている根の合間には茸が生えている。
 これが大きな意思。皆を人面樹に変えてしまう程の、強い力を持つ大きい精霊。
 僕は視界に入りきらない大きな影に、爛々と光る黄緑色の瞳を見た。
 その影に立ち向かうように、アームとルーフが立ち上がった。
『森を忘れないで』『アームとルーフを忘れないで』
 アームとルーフが振り返る。彼等を包み込む沢山の小さな輝きが、アームとルーフの毛並みの一本一本を照らし出していた。
『そして、森を好きで居て』『そして、森の民を愛して』
 影は僕らの真上を覆い尽くした。それが、大きな精霊の口だって理解するのは、とても難しかった。まるで苔むした洞窟のようだったんだ。
 風が僕を捕まえて飛び上がった。
 目の前でばくりと口が閉まる。アームも、ルーフも、小さい光の精霊達も、緑の宝石みたいな壁の向こうに瞬く間に消えて行った。僕はカムシカに股がったカザユラにキツく抱きしめられた。彼女の啜り泣く声が、とても他人事のように思えた。
 大きな精霊はとても大きな竜だった。踞って眠っていたら、ちょっとした木の生えた大岩にしか見えない。竜は首を巡らせて、僕達を見つけて口を開こうとした。
「お待ち下さい」
 ニコロイだ。ニコロイは剣を腰に下げたまま、巨大な竜の前に立った。
「森の大いなる精霊よ、この度の無礼をカミハルムイの長としてお詫び申し上げる。このような事が二度と起きぬよう、森を知るレンジャーの育成に力を入れましょう。エルフの民一人一人に、森の偉大さと森の恐ろしさを伝えて行きましょう。今、許されるとは思っていません。しかし、知ってください。私達は許されるがために、信頼を積み重ねる努力を怠りません」
『聖地の守護者よ、風乗りよ、我が怒りは鎮まる事は無い』
 竜は身じろぎすると、森がざわざわと揺れた。何処からともなく現れた人面樹達が、僕達を囲い込んでいた。竜の瞳が忌々しそうにそれらを見ていたけれど、目を閉じて吐息を吐く。竜の吐息は森を流れる霧になって、ゆったりと漂って森へ流れて行く。
『だが、小さき精霊達の言葉は我が内に満ちた』
 竜は僕等を見た。一人一人をじっくりと見て、静かに告げた。
『今は未来に、希望と憎悪を託す事としよう』
 最後にニコロイに視線を留めて、ふっと息を吐いた。強い風に僕等は堪らず転がって、風は直ぐさま止んでしまったけれど直ぐに動く事は出来なかった。大きな竜の気配も消えて、僕達はそろりそろりと目を開けた。
 人面樹達は消えていて、ちらほらと人影が立ち上がり始めた。呻き声や、歓声や、泣き声が僕達に押し寄せる。
 そして、カザユラがニコロイを見て声を上げた。僕も吃驚だ。
「まぁ、ニコロイ。髪が真っ白!」
 ニコロイがえぇ!っと驚いて、刀身を鏡にして見た自分の姿に再度驚いた声を上げた。

 ■ □ ■ □

 モリナラ大森林から最も風の都アズランに近い場所に立てられた、レンジャー支部。森に囲まれ小川のほとりに立つ居心地の良さそうなログハウスは、人々の安全が保証出来る場所を示すように建っていた。豊潤な森の空気が朝日でキラキラと煌めき、小川に小鳥や動物達、果ては魔物がのどを潤しにやってくる。ウッドデッキに設えたロッキングチェアで揺られながら、ワシはこの時間をゆったりと感じるのが大好きなんじゃ。
「支部長、今日もいい天気ですね」
 エルフのレンジャーの女の子が笑って言う。手摺に手を掛けると、椅子は身じろぐように ぎぎっと音を立てて動きを止めた。
「今日はカミハルムイの本部から新人が来るんじゃろう? こんな寂れた支部に派遣されて、さぞや渋々来るんじゃろうな。支部にシブシブ…うーっくっくく!」
「モリナラ大森林はエルトナで最も重要な精霊達の都ですよ。こんな所を任せてもらえるのなんか、支部長レベルじゃないと無理ですよ」
 そうかのぅ。ワシが首を傾げるのを、皆、謙遜と言う。
 ワシは幼い頃はエルトナ大陸で育って、森の事も誰よりも良く知っておった。だが、幼い時のちょっとした冒険で、ワシはすっかり森から離れてしまったんじゃ。
 両親や仲間達と共に、世界中を渡って大地の箱船の線路を管理する職業に従事した。ドワチャッカ大陸の砂塵を丁寧に払い、火山灰と溶岩に悪態を吐いたもんじゃ。オーグリードは冷たい乾燥した風に悩まされて、高架橋の石がぼろぼろになってしまう事を嘆いたもんじゃ。ウェナ諸島は海に線路があるもんじゃから、プクリポは浮き輪持参じゃ。動き難いったらありゃせんってじーさんが良く言っておったわ…持参とじーさん、うーっくっくっく。プクランドは最高じゃったな。キラキラ大風車を見上げては、なんども高架橋から落ちてメッサーラに追いかけ回されたもんじゃ。
 そんなワシが森に戻って来たのも、なんとなく、なんじゃな。
 大地の箱船から見る大森林がとても懐かしかった。
 カミハルムイの王様が知り合いでな、レンジャー達が大変だからって手伝い始めたんじゃ。いつの間にか支部長なんてものに、なってしまっておっただけじゃわい。もう、30年はここに居るかな。
 ふと、空気が動いた気がして、ワシはロッキングチェアから立ち上がった。一軒家の前でヤギに刈り込まれた草の上を進むと、指を口元に運び高々と口笛を響かせる。口笛に応じて草むらから飛び出して来たのは、黒と白い毛並みの狼が二匹。彼等はワシの腹に戯れ合い、コートの中に頭をつっこみよる。
 最近現れてワシに懐いた狼達を見て、彼女は朗らかに笑う。
「狼達は支部長のお知り合いなんですか」
 ワシは狼達を見下ろし、微笑んだ。
「あぁ、ワシの面白い友達じゃよ。アームとルーフって言うんじゃ。ほら、尾も白かろう?」
 狼達が嬉しそうに吠えた。
 幸福な思い出が蘇って森を輝かせ、聞きたかった声がようやく耳に触れた。
 おかえり。ポランパン。