ネバーエンディングマーチ - 後編 -

 弾くことが楽しくて仕方がない。弦の上を指先がダンスのステップを刻むかのように動き、しなやかに弦をかき鳴らす仕草は幕を引きまた開けることを繰り返す。セリクは眠り続けて弾けなかった分を取り返すかのように、目覚めてから食事を摂ることもしないで弾き続けた。誰が叱っても知らんぷり。夜も朝も抜いて練習に没頭したものがから、流石のエンジュさんも根負けしたくらいだ。
 そんなセリクの演奏が開け放たれた窓から流れ込んでくる。かつての私の家で、私とフィーロとエンジュさんとルミラさんが集まっていた。紅茶と焼き菓子のティータイムと洒落込みたいところだけれど、この町に滞在する大人達の顔つきは険しい。
 冒険者として遥々やってきたエンジュさんは、その黄緑色の髪をかき回しボサボサになった前髪の隙間から恨みがましく赤縁のメガネを押し上げた。隣に腰掛けたルミラさんの耳に噛みつくように、ヒステリックな声でがなり立てる。
「本当に納得いきませんわ! この世界が死者の世界? 冥府にしては清々し過ぎますわ! 第一、私達はいつ死んだって申しますの!? イサークさんは何にも仰いませんでしたわ!」
「大声で叫ばないでくれ。自分もよくわからんのだ」
 ルミラさんは逃げるように体を倒した。テーブルに突っ伏し悲しいのか怒っているのかわからない呻き声を上げる仲間には、黒鉄の鎧の似合う戦士様もお手上げなご様子。ルミラさんは体を斜めに傾けたまま、私を見た。
「リゼロッタはこのことを知っていたのか?」
 私は手元に置いた日記に目を落とした。頷こうにも棒を飲み込んだかのように首は動かず、首を横に振ろうにも日記から目が離れない。大人達が消えてからの日数を見失わないように書き続けた日記は、白紙の部分が残りわずかになってきていた。
 リズ。フィーロが促すように声をかけてくる。私はルミラさんを真っ直ぐに見つめ、問いを返した。
「ある日、日記にルコリアの字で『姉さん達は死んでいる』と書き込まれていたの。セレドの町がもう一つあって、そこで私達が死んだことになっているなんて、とても信じられなかった。ルコリアが無事であることがわかって安心したけれど、私達が死んだことは相談も躊躇う根拠のないことだった。その時点では誰にも相談しなかったの」
 日記を開くと、私の日記とルコリアの書き込みが交互に記された頁を見下ろした。
「二人とも綺麗な字を書く。お母様が良く教え、君達がよく学んだ結果だろう」
 ルミラさんの感想に、ふっと笑みが溢れる。町長の娘として、どこへ嫁に行っても恥ずかしくないように。母親はよくそう言って文字書きを練習させたけれど、あまり楽しくはなかった。ルコリアがいなければ、とっくに放り出していたかもしれない。でも、そう褒められたことが、なんだか恥ずかしく、そして誇らしかった。
「私達が死んでいることを信じ始めたのは、セリクの一件があったから。セリクが石化の病気であると知ったエンジュさんが、フィーロと危険なドラクロン山に登ると決めた時。大人でも尻込む危険な場所に行く覚悟を決めたってことは、セリクの病気が本当だと思ったの」
「そのセリクですけど…」
 エンジュさんがテーブルに頬を押し付けながら、地の底から見上げるような目で私達を見上げた。
「彼がこの世界とルコリアの世界に跨いで存在できるのは、恐らく生死の境を彷徨っているからなのでしょう。ルコリアが石化の治療薬を服薬させて快方に向かった時、こちらの世界で存在できなくなるから危篤の状態に陥った。今、元気なのはルコリアの世界側の彼の容体が優れないことを意味していると思いますの」
「でも、治療薬を飲んでルコの世界のセリクは良くなったんでしょう?」
 フィーロの言葉にエンジュさんの頬は、さらにテーブルの上に押し付けられて潰れる。
「病気は良くなったそうですけれど、意識が戻りませんのでしょう? 寝ている人に十分な栄養を取らすことは、かなり難しいことですのよ。私達は飲み物が変なところに入ったら噎せ込みますでしょうけど、意識不明の方はそんな反射が鈍くなっていて肺炎の危険性が増しますの。栄養状態の悪化で徐々に身体状態が落ちている、もしくは肺炎などの石化とは違う疾患で生命が脅かされていると考えるべきでしょう」
「どうすればセリクは助かるの?」
「もう、本人に目覚めていただいて、三食きっちりご飯を召し上がっていただき、日光浴びて運動して、健康的な生活を維持していただくしかありませんわ。体力が落ち過ぎて、ちょっとの風邪も拗らす程でしょうからお医者様の心中はお察しですわ」
 そう言ったエンジュさんは、テーブルに投げ出した指先をピンと天井に向けた。お手上げ、と言いたいのだろう。
 誰もが黙り込んだ空間に、セリクのトゥーラの音色が流れ込んでくる。音色は数匹の小鳥達の姿となってテーブルの上を舞い、一頻り戯れ合うように私達の上を飛んだ後に窓の外に出て行くようだった。鳥の次は蝶。蝶の後は栗鼠であったり、猫であったり。曲調はどんどん転調を重ね、耳を傾けるだけで日が傾くほどに惹きつけた。
「とても、生き生きとしているな」
 ルミラさんの言葉が妙に的を得ていた。
「病は気からと申します。セリクには、どうしても死にたい理由があるのかもしれませんわ。だから治療薬を飲んで快方に向かって生き返れるチャンスを棒に振ってでも、この世界に戻ってきた…そう考えるのが自然ですわね」
 そこで、エンジュさんは体を起こした。私を真っ直ぐに見て言う。
「セリクをどうするかは、リゼロッタ、貴女に一任しますわ」
「エンジュ。少し酷なことではないか?」
 ルミラさんが声を掛け、フィーロも不安げにエンジュさんと私を見る。そんな二人の不安を吹き飛ばすように、私は笑った。
 一人の人間の生死を、子供の私に任せる。それは、子供には荷の重いことかもしれない。でも、セリクが死ぬことを選んでここに留まるなら、彼は子供達の国の住人になる。いずれこの地から旅立ち最後まで責任が取れないからこそ、これから先も関わっていかなければならない私に任せるのだ。
「ありがとう、エンジュさん。私を子供扱いしないでくれて」
「セリクが元気になった途端に消えた幻のことを考えるに、彼が生き返ることで何らかの影響が出ることは明らかでしょう。でも、その心配は無用ですわ。大人は子供のやりたいようにさせるのが仕事。貴女とセリクがどんな決定を下しても、それが恙無く行えるよう支援し対応していきますわ」
 自信たっぷりに笑うエンジュさんの横で、ルミラさんが力強く頷いた。
 大人達はいつも厳しかった。大人になって恥ずかしくないようにって、礼儀正しさやマナーを叩き込まれた。門限は厳しく、楽しくて遊び過ぎた時は誰もがキツく叱られた。興味があってやりたいことがあると親に言えば、貴女には早いとか無理とか言われて否定された。だから、私達は高台の廃墟になった教会で、密かに召喚の儀式の準備をしていた。
 だから、貴女がやりたいようにやりなさいと言われて、その責任の重さに胸が潰れそうになる。これが、親が早いとか無理とか言った理由なのかもしれない。でも潰れそうになる私を、目の前の大人二人が支えてくれる。どんな失敗も、どんな間違いも、全て受け入れて助けてくれる頼もしさが彼女達から伝わってきた。
 私は隣に目を向けた。フィーロはずっと私を見ていたみたいで、目があった。
 物心ついた時から一緒にいた、フィーロ。その柔らかいくせ毛も、穏やかな目元も、ちょっと頼りなさそうな口元も変わらない。でもドラクロン山から帰ってきて、なんだか大人っぽくなって背が伸びた気がする。
「フィーロ。貴方も、私に任せてくれる?」
 フィーロは小さく頷いた。そして懇願するように私の手を握り、囁いた。
「でも、一人で解決するのが大変だったなら頼って欲しい。僕も、リズの力になりたい」
 一人で悩んでいたのに、こうやって話すと悩みは氷が水になるように溶けて行った。大人達が去っても私には、このセレドの町の仲間がいる。皆と、生きて行くんだ。
「ありがとう。フィーロ」
 私はフィーロの手を握り返した。記憶にある手よりも、ずっと大きい大人の手だった。

 ■ □ ■ □

 セレドの町の施療院は子供達にとっては、肝試しの場所という認識しかなかった。施療院に訪れる具合の悪い人というのも、自分で立って歩けてただ腰痛に悩まされている程度から、今日明日生きていられるか分からない程度まで様々だった。どちらにしろセレドの町の外から来る場所には知らない人ばかりで、大人達はよっぽどの用がなければ行くなと言う。大人達の言うことに反論ばかりする子供達も、施療院の不気味な空気に敢えて乗り込むことはしなかった。
 今ではセリクが住み始めた為に、多くの子供達が出入りする場所だ。
 セリクのトゥーラを聞くために沢山の子供達が集まっていたけれど、フィーロがおやつを用意してくれているから行っておいでと帰した。セリクは背後に立つ私にも気がつかない振りをして、ひたすらにトゥーラを奏でている。何かを忘れたいから、必死で指を動かしているように私は見えた。
「どうして、生きたくないの?」
 私の問いにセリクの指が止まった。美しい音色の余韻が空中に溶け次の音が紡がれないまま、彼は微動だにせず髪を風に流す。互いに動かず、ダーマ神殿へ吹き上がる風の音がびゅうびゅうと響く。時が止まったかと錯覚し始めた頃、ようやくセリクの声が応えた。
「余計なことをしてくれたね」
 セリクの声は驚くほどに冷たかった。
「君は想像したことがあるかい? 今まで自分の思い通りに動いた指が動かなくなり、奏でたい音が奏でられなくなった時の絶望を。足が動かなくなってきて歩けなくなり、体が重くなり、息をするのがやっとの苦しみを。ただ生きるだけになり、死んだほうがマシだと思うばかり。親の心配すら憎しみに変わり、それに自己嫌悪する辛さ」
 トゥーラが爪弾かれ、悲しげな音が溜息のようだ。
「死ぬのは怖かった。ここに来るまでは」
 セリクは顔を上げトゥーラを奏で始める。もう、セレドの町に住む誰もが覚えてしまった彼の得意とする音楽は、物悲しくもどことなく神秘的な楽曲だった。彼は一通り弾き終えると、トゥーラから指を離してその指を見下ろした。
「石化して動かなくなった指が、元気だった頃と同じくらい…いや、それ以上に動くんだ。以前は難しくて弾けなかった楽曲が弾けるようになり、音に乗せられなかった様々な感情が乗せられるようになり表現が豊かになった。僕の望むがままに音が生れ、僕の曲を聞いて喜んでくれる子供達がいる。この世界は天国だと思った」
 でも。彼は明るい声を暗くする。
「治療薬を飲まされ石化の症状が和らいで朧げに意識が戻った時、僕は聞いてしまった。もう、石化の心配はいらない。このまま普通の生活を営み一生を終えることができるだろうと。ただし、指は今までのように動くかはわからない…と」
 彼は指先を動かした。まるで鳥が翼を広げ羽ばたくようにしなやかに動く様は、手の美しさもあって息を飲む。
「僕にとってトゥーラを弾くということは、自分の命と等しいことなんだ。トゥーラを弾けない僕は、もう、僕じゃない。生きてどんなに訓練しても弾けるようになるかも分からないなら、死んでこの世界でトゥーラを奏でていたいんだ」
 セリクは振り返った。その顔は怒りと強い拒絶で歪んでいて、いつも穏やかにトゥーラを奏でるセリクからは想像もできない顔だった。彼は今まで聞いたこともない強い声で言った。
「もう、僕に構わないでくれ!」
 あぁ、彼は本当に死にたいのだ。
 施療院から出て来る人の中には、足が片方ない若い人の姿もあった。最初松葉杖で歩いていた人は、次は木製の義足をつけて薬師の女性に付き添われて歩いていた。それでも、普通に歩くなんて程遠い。片足を無くしたその人は、とても辛そうな顔で歩こうとしていた。なんども転んで、一人では立ち上がれない。
 見ているこっちも辛かった。本人はもっと辛いだろうと思う。
 セリクもそんな顔をして、訓練して行くのだろう。そんなに辛いなら、死んで良いよ。そう言えば救われるのだろうか?
「言いたいことは、それで、全部?」
 予想外の言葉に思わず顔を上げたセリクの頬を、ぱぁんと景気の良い音が弾けた。彼は思わずよろけ、手で頬を押さえて私を見たようだった。セリクは私に叩かれてさぞや怒っているでしょうに、私は彼の顔をよく見ることができなかった。だから、私は気圧されることなく叩きつけるように言い放った。
「貴方が生き返ることを拒否するなら、生き返る権利を私に寄越しなさいよ! 私は生き返れるなら、どんな辛いことがあっても構わない! パパとママと一緒に暮らして生きたい! ルコリアと一緒にいろんな所を旅して、笑っていたい!」
 そうよ。そう。彼は選べる。それが、心底羨ましい。
 私は選べるなら、絶対に生き返る。生き返って、大切な人と生きて行きたい! 今まで当たり前だったそれが、死んだことでどれだけ尊く二度と出来ないことになってしまったのか、セリクは分からない。わかった時には遅いのよ。
 私は目を開けるのも辛くなって瞬いた。頬を熱いものがどっと流れて、風がさっと冷やして行く。
「貴方の気持ちなんて分かりたくもない! だって…だって、私達は死んでしまったんだから!」
 私は泣いている。何のために泣いているんだろう。私達が生き返れなくって、大切な人に会えないことで泣いているのかしら。それともセリクが生き返ったら、二度と会えないことに泣いているんだろうか? 私は分からなくなって両手で顔を覆う。『子供達に泣き顔を見られてしまったら、不安にさせてしまうわ』とママの声が聞こえた。
「君は…どうしてそこまで…」
 私は手の甲で目元を拭い、薄暗い雲の下で困惑するセリクの顔を見た。励ますように、そっと笑う。
「貴方のトゥーラ、本当に素敵な音色よ。上手に弾けなくても、指先で一回爪弾くだけてうっとりするような美しい音を奏でてくれる。本当はもっと沢山の人が聞ければいいのかもしれないけれど、せめて、せめて私のパパやママ、大切な妹にその音を届けて欲しい。死んでしまった私達が心の底から大好きだった音を、生きている大切な人にも聞いて欲しい」
 セリクは目を閉じ、指先でトゥーラをつま弾いた。音が一つ、美しく響く。
「上手く弾けなくてもいい。美しい音…」
 私を見たセリクの表情は晴れ晴れとしていた。セリクの体は淡く光る。その光はセレドの町の中心を走る、光の河のような暖かく優しい光だ。
「君のいう通りだ。上手く弾くための技巧に囚われ、一つ一つの音の魅力を見失っていたのかもしれない。たとえ指が動かなくなったとしても、トゥーラの音は響く。僕は、生き返って頑張ってみるよ。君の大切な人に、君達が聞いた音楽を…いやそれ以上の演奏を届けてみせる!」
 彼の笑顔が光に溶けて行く。ふわりと光が風に流されて行くと、トゥーラの音色の余韻が耳をかすめた。
 変化はすぐに現れた。
 施療院の屋上に旗のように沢山のシーツが干されて翻り、懐かしいセレドの賑わいが押し寄せて来る。施療院の欄干に手を掛け崖の方から対岸を見渡せば、多くの巡礼者の幻でごった返している。セレドの町を彩る極彩色の布は、黒と白の追悼の文様が描かれた布に重なって見えた。
 ふと、嫌な空気に視線を下ろすと、人通りのない施療院の裏道に二人の男と巨大な魔物の姿が見えた。喉から出そうになった悲鳴を押し殺し、屋上に座り込んで恐々と覗き込む。男達も魔物も私には気がついていないようだ。
『これはこれは、黒仮面殿…。私めのような所へ、態々ご足労賜りありがとうございます』
 嫌味に聞こえそうなくらい芝居がかった慇懃さで頭を下げたのが、旅の呪術師のような身なりの男だ。異国風の幾何学模様が描かれた衣を纏い、露出した肌には複雑な文様の刺青が施されている。黒髪を全て後ろに撫で付け、ヒゲを蓄え、眼鏡がきらりと光る。呪術師が頭を下げた『黒仮面』は頭から黒いフードをすっぽりと被り黒い外套で身を包んでいる。黒い外套の男は背後に控えた巨大な魔物をちらりと振り返った。
 全身を紫色の鱗で多い、ひしゃげたツノを持ち、背からは竜の翼を生やしている。そんな魔物は手に持った黒い像を、呪術師の前に置いた。上から見ても奇抜な変な像にみえるそれに、呪術師は大げさな喜びを示した。
『計画は順調か?』
 黒いフードの男の声だろう。流暢で訛りのないレンダーシアの言葉だけれど、彼らの声は硝子越しに聞くように妙に聞き取りづらい。呪術師は大げさに畏まり、芝居掛かった様子でハキハキと答えた。
『邪魔な小娘が現れましたが、私の言葉を信じた大人達のお陰で計画に支障はありません。後はこの祈願の魔像に町の大人供が祈りを捧げるだけで、セレドの町一帯は完全に高貴なる我らが主の目論見通りとなりましょう』
『邪魔な小娘?』
 呪術師が懐から一冊のノートを取り出す。桃色の表紙に花が描かれた、あれは、私の日記帳だわ!
『万が一を考え、呪われた品として回収しました。小娘曰く、死者の世界のことが記されているとか…。ククッ! 小娘の言葉を信じる者は誰もおりますまい。取るに足らぬつまらぬ物ですよ』
 黒いフードの男が手をかざすと、日記帳が黒い炎を上げて燃え出した。それと同じくして私の持っている日記帳も燃え始め、私は慌てて手放した。屋上の上に放り出された日記帳は、あっという間に黒い炎に飲み込まれてしまう。そして燃やすものを失った炎が消えた時には、塵一つ残っていなかった。
『人間を侮るな。芽を摘まずして足元を掬われるのは、お前だけではない』
 再び下に視線を戻すと、黒いフードの男と魔物は今まで居なかったかのように消えてしまった。その空間を睨みつけた呪術師は、黒いフードの男が立っていた場所目掛けて唾を吐く。
『人間ごときを恐れるとは。器の小さい臆病者だな』
 先ほどの遜った様子から一変して横柄になった呪術師は、像を持って足早に立ち去っていった。あの像に大人達が祈りを捧げると大変なことになるらしい。ルコリアがどんなに正しいことをいっても、大人達はあの男を信じて祈りを捧げてしまうだろう。止めなくちゃ!
 私は施療院の中を駆け下りる。施療院の医師や薬師の女性が驚いた様子で避けて行く中、私は勢いよく施療院を飛び出した!商業区は巡礼者で賑わってはいるが、施療院のある居住区の通りは閑散としている。それでも、いつもなら井戸端会議をしている大木の下には誰も居ない。居住区はいつもよりもひっそりと静まり返っている。
 リゼロッタ!そう声が響くので振り返れば、ルミラさんとエンジュさんが駆け寄ってきた。
「セリクが生き返ることを選択したようだな。二つの世界が重なり一つになろうとしているようだ。フィーロに子供達を連れてダーマ神殿の礼拝堂へ避難させるよう指示してある。君も行きなさい」
「行けないわ。大人達が変な呪術師を信用して、恐ろしいことをさせられようとしているの!」
「あの詐欺師、やはり良からぬ事を企んでいたようだな。安心しろ、自分達は奴の正体を掴もうと動いている。だから…」
 私を安全なところに避難させようとしているルミラさんに、私は言い縋る。
「あの男はルコリアの持つ私の日記帳を持っていたの! もしかしたら、ルコリアの身に何かあったのかもしれないわ! お願い、子供扱いしないで!」
 私の言葉に迷うルミラさんに、エンジュさんが言う。
「説得するだけ時間の無駄ですわ。事態は一刻を争うのです。リゼロッタ、危なくなったら脱兎のごとく駆けなさい!」

 ルミラさんが扉を威勢よく開け放った瞬間、暴走魔法陣の上に立ち魔力覚醒を乗せたエンジュさんのメラミが豪速で放たれた。中も見ないで大丈夫なのかって心配は必要ない。先手必勝を掲げるこの人には、メラミで万が一誰かが黒焦げになってしまったとしても跡形も無く消し飛んでしまい無かった事にでもするのだろう。無茶苦茶だが、そういうことをしそうなのがエンジュさんという人だ。
 メラミは広場の奥にいた巨大な影を打ち抜き、壁に当たって四散した。ちらちらと舞う火花を背に、巨大な象のような魔物が振り返る。そう、それは確かに象だ。長い鼻を挟むように上に向かって弧を描く象牙、顔の横に大きく広がった耳は本で見たことがある形だ。ような、と言ったのは手が6本もあり、二足歩行しているからだ。人間の形のような手には全く違う武器がそれぞれに握られている。
「すり抜けたぞ!」
「二つの世界が重なった時こそ、討伐のチャンスと思いましたのに…! 間にいる人々をイオラの爆風で吹き飛ばしますわ!」
 地響きを轟かせ歩み寄る象の足元には、地べたに座り込む見慣れた後ろ姿がある。大人達は今にも踏み潰してしまいそうな魔物を目の前にしても、微動だにしない。扉から吸い出されていく空気は煙たく、なんだか頭の芯がぼうっとする。
 それにしてもエンジュさんは無茶苦茶だ。本当にイオラの爆風で大人達を壁際に吹き飛ばしちゃったんだから。
 ルミラさんが大剣を象の足に向かって振り抜くが、まるで幻を切るかのように手応えがないようだ。しかし、魔物の一撃をルミラさんが受け止めると、甲高い武器同士がぶつかり合う音が響く。大きく間合いを開けたルミラさん、次の一手を考えあぐねるエンジュさんの様子に魔物は高笑いをした。
『これぞ、祈願の魔像の力! 愚かなる町の人間は自らの消滅も理解ぜず、自らを殺す存在に力を与えるために祈ったのよ! 何もできず一方的に嬲られる絶望を、このサダクに捧げるのだ!』
「どうする! 退くか?」
『逃げても無駄よ! 祈願の魔像の力は空間を支配する! もはや死にかけた小僧の存在も要らぬわ!』
 魔物は余裕なのか、笑みを浮かべてルミラさんを薙ぎ払う。大剣で受け止めたルミラさんは大きく吹き飛ばされ、部屋の隅に積み重ねられた木箱を大きく崩す。その時、ルミラさんでもエンジュさんでも私でもない悲鳴が上がった。ルミラさんは大剣で木箱を薙ぎ払うと、下敷きになっていた悲鳴の主が現れる。あれは…
「ルコリア!」
 ルミラさんに言われたのか、ルコリアがこちらに向かってくる。あぁ、ルコリア! その顔をどんなに見たかったことか! 私も彼女に駆け寄って、互いに触れられないと分かりつつ手を繋ぐ。ルコリアの手は温かく、柔らかい。嬉しくて涙ぐむ。
 温かくて、柔らかい? 私達、触れ合えるの?
「あらあらあら。流石双子。触れ合えますのね。古来より双子は魂を分かち合い生まれると言われますわ。早速、一つお試ししたいことがありますの。リゼロッタは才能がおありなんですから、きっとできましてよ」
 驚きと喜びに言葉を失う私達の間に、エンジュさんは紫色の石を差し入れた。紫色の石は美しい光の文字を浮かべて、私とルコリアの繋いだ腕の中でふわりと浮かぶ。その文字は見覚えがある。これは召喚術の術式! 驚いて顔を上げた私に、エンジュさんがウインク一つして地面に両手杖を突けば、地面に鮮やかな魔法陣が展開される。
 戸惑い離れそうになるルコリアの手を、ギュッと握る。
「ルコリア。あの日、貴女に見せてあげられなかった召喚の儀式。今、ここで見せてあげる!」
 ルコリアが緊張した顔で頷き、私は笑った。
 私は文字を読み上げる。紫色の石が必要な情報を訴え、私はそれを口にするだけでいい。勇ましき戦士。剣と斧を携え、次元の狭間から現れる大いなる幻の魔。石の奥から強く雄々しい声が私に訴える。俺の名を呼べ、と。黒い渦の中から戦士の影が、私が呼びかけるのを今か今かと待っているのを感じた。
 私とルコリアの繋いだ手が環になり、魔力が互いの体を巡っていくのがわかった。今までに感じたことのない強く、暖かい力。今、私達は一つになって大きなことをなそうとしていると、気分が高揚し心臓が爆ぜるほどに早鳴る。
 私は叫んだ。喉が張り裂けるほどに大声で、魔物を倒し、皆を助けて欲しいと願いを込めて。
「次元の狭間より現れ、我が敵を打倒せよ! 来たれ! 幻魔 バルバルーよ!」
 紫の石は砕け散り、黒い霧のようなものが溢れ出る! そこから逞しい筋肉隆々の腕がにゅっと伸びて、サダクと名乗った魔物を殴り飛ばしたのだ。続いて黒い霧の中から、夥しい量の剣と斧が飛び出し意思のある存在のように魔物に襲いかかる。サダクは襲いくる武器を薙ぎ払うが、霧の中から出てきた腕が獲物を持ちサダクに打ち掛かれば、まるでパンを切り分けるようにサダクの腕は切り落とされる。悲鳴をあげる暇はない。黒い霧から出た腕は、次々に武器を持ち替えサダクを切りつけた。悲鳴はか細くなり、もはや悲鳴すらあげられない状態になっていく。黒い霧が晴れた時には、魔物は跡形もなく消えていた。

 ルコリアの手の感触が徐々に頼りなくなってくる。いつ、握った手がすり抜けてしまうかビクビクしながらも、私達は足早にダーマ神殿への山道を登る。ぜぇぜぇはぁはぁと荒い息が背後から聞こえてくるが、誰一人休もうとは言わなかった。誰もが時が迫っていることを、この機を逃せば永遠に次がないことを察していた。
 ダーマ神殿への山道で行き交う巡礼者を追い抜き、神官達をかき分け、私達は見慣れた礼拝堂へ向かう。かつて、夕刻の鐘が鳴る頃に、子供達はここで祈りを捧げ親が迎えにくるという、当たり前の日常があった場所。あの日から足を運ぶことのなかった大人達も、目を閉じても来れるように覚えていて足取りに迷いはなかった。たどり着いた礼拝堂の扉は傾き始めた日の光を浴びて、輝いてすら見えた。
 私は扉を開ける。ぎぃと蝶番の軋む音に、子供達が振り返った。
 大人達が息を呑み、会いたかった我が子の名を叫んで駆け出した。子供達は目を丸くし、駆け出した。私とルコリアの横を多くの人影が過ぎ去り、一つに重なった。きつく抱きしめる親は涙を流し、子供達は喜びのあまり泣いた。
 ようやく。ようやく、迎えにきてくれた。
 あの日から、何度ここで祈りを捧げ暗くなった空を見上げて絶望したことだろう。親が迎えに来ないということを自らに納得させることは、自分の首を締めることと同じこと。辛かった。心のどこかに燻る希望という期待が、熱ければ熱いほど裏切られたと思うことは多々あった。エンジュさんやルミラさんが来て変わりつつあったとしても、その燻る期待の代わりにはなり得ない。
 だから。嬉しかった。皆の所に親を連れて来れたことが、達成感となって自分を満たしている。
 頬をルコリアが拭ってくれた。微笑んでルコリアを見ると、背後にパパとママが歩み寄ってきた。ママは泣きながら抱きしめ、パパはその後ろで立ち尽くしている。不器用なパパ。気の利いた言葉一つ言えないなんて、変わらなすぎて笑ってしまうわ。パパ…私が声をかけると、体を震わせ膝を折る。
「リゼロッタ…お前は…私のことをパパと呼んでくれるのか?」
 私は頷いた。だって、パパはパパだもの。
「大人達がいなくなって、皆をまとめ上げるのがとても大変だって分かった。パパって、とっても頑張ってたのね。それなのに、我が儘ばっかりでごめんなさい。先立つことを許してください」
 はにかむように笑った私に、パパの目からは止め処もなく涙が流れた。何に泣いているのか、今の私ならわかる。こんな小さいのに、指導者としての重責を知ってしまった娘。大変だから、自分よりちょっと苦労している人や若い人に譲るのをためらう責任。それを一身に引き受けて頑張ってきたんだって、パパはすぐに分かってくれた。娘の苦労、頑張り、そして強いてしまった哀れみ何もかもが綯い交ぜになっている。
 パパは私の肩に手を置き、そのまま抱きしめた。
「我が儘なんかどうでもいい…。私は躾と称して辛く当たったりした。本当に…本当にすまなかった」
 私は笑ってしまった。謝られても、もう、死んでしまったから意味なんかないのに。
「パパ。ママとルコリアを大事にしてあげて」
 パパの背を摩りながらママを見上げる。ママはやつれちゃったみたいで、ふっくらした頬が落ちている。目に涙を浮かべて、頬を寄せてくる。暖かいママの体温と、いい香りが私を満たしてくれる。
「ママ。私、字が綺麗って褒められたの。ママが教えて、私が一生懸命学んだからって…。ねぇ、ママ。私はママが教えてくれたことを持って、旅立つわ」
 どんなにパパが大変で不安に思っても、それを決して子供に悟らせなかった気丈な人が声を殺して泣く。
 私は手に力を込めた。ルコリアが握り返してくれる。
「ルコリア」
 生まれてあの日まで片時も離れることのなかった、私の半身と呼べる妹。交わす言葉もお別れの言葉も、私は喉の奥で詰まっては飲み込んでしまうからきっと要らないって思うの。だから、この魂の奥から素直に紡ぎ出される言葉こそ、伝えるべきだって思ってる。
「ありがとう」
「ありがとう、姉さん」
 互いに微笑む。互いが一番大好きな顔が、徐々に薄れていく。重みが空中に解けていくように、光が舞い上がり礼拝堂を満たしていく。誰もが驚き、声をあげたけれど、泣き叫ぶ声は一つも聞こえない。子供も、大人も、誰もがこの刹那の再開に全てを受け入れたのだ。
 風に乗ってトゥーラの音が聞こえた気がした。一つ、一つ、音を紡ぐようで、一つの音色にはある言葉が込められていると思った。
 ありがとう。誰かが言った。
 ありがとう。誰かが応じた。
 ありがとうの響きが、さざ波のように礼拝堂に満ちていく。感謝の言葉が尽きることはなく、何度も何度も繰り返される。子供らしい舌ったらずなありがとうも、大人の落ち着いたありがとうも、気取る様子も照れる様子もなく、ただ感謝の気持ちだけが詰まっている。
 ついに、ルコリアの手は離れて行ってしまった。
 私は開け放たれた空が夜の色合いになっていき、眼下に一つ明かりが星のように灯ったのを見た。私達のセレドの町にはエンジュさんとルミラさんがいて、夕ご飯の支度をしてくれているに違いない。エンジュさんは今日も子供達の好き嫌いをきつく注意して、デザート抜きの子供達にルミラさんがこっそり持ってきてくれるだろう。そんな二人もいずれ旅立っていく。
 死んでしまっても、ここには生きている人々と同じ続きがある。
「さぁ、行きましょう!」