繰り返す戦いの意味

 剣とは敵を斬る為にある。
 肉を斬り、血管を断ち切る。骨を砕き、物質であれば割る。翼を裂き、足を貫き、首を切断する。そうすれば大抵の生命は身動きが取れなくなり、やがて死に至るだろう。敵意を向け合う者同士が相対すれば、弱い者が淘汰される。淘汰された者は弱者だ。
 敗者は紛れも無い弱者である。命無き者は他者の糧となるだろう。追い剥ぎによって財産を毟り取られ、獣によって血肉を喰われ、土に埋もれてゆく定めだ。
 今日もまた、敗者と勝者の境を見て来た。
「やぁ、ルミラ。今日も調子が良いな。難しい討伐依頼を難無くこなして来てくれて、頼もしいよ」
 討伐隊員のゴラルの声は低く、定例文句でなければ聞き取る事は出来なかっただろう。
 グレンの駅舎とグレン城下の出入り口になっている吊り橋の目の前は、世界でも屈指の賑わいをみせている。敷物を敷いて茶を振る舞いながら噂話の交換に余念のない情報屋、声を張り上げ募集を叫ぶ冒険者と誘蛾灯に誘われるように集い詳細や報酬を訪ねる旅人達、運試しにと宙を舞うダイスと、振り下ろされる大マグロ。街の人も旅人も、まるで細い川のような流れを行き来する。酒場がやや遠い所にある為に、この十字路は非常に賑わっている。
 目の前の者の声すら掻き消すような賑わいの片隅で、自分はゴラルから報酬を受け取っていた。ずっしりと重たいゴールドの袋が、自分が屠った魔物達の手強さを物語っている。
「ルミラもバグド王の耳に入るような、一流の戦士に成長しつつあるな。髑髏洗いの討伐を始めた頃から見てる俺も鼻が高いよ」
 そう懐かし気に瞳を細めた年嵩の男だったが、不意に表情が曇った。
「だが、気をつけろ。ここが戦士としての分かれ道だ」
「分かっている」
 自分は他の戦士達より慎重な方だった。オーガの女戦士は珍しくはないが、男に劣る事は少なくない。それに彼の言う『分かれ道』の末路を、自分は良く目にして来た。
 自らの力量に慢心する頃合いだ。もっと高い報酬が見込める依頼を、上達した自身の技量を過信して引き受けてしまう者は数知れなかった。標的の力量を見誤り、怪我をして帰って来るならまだ可愛い。二度と戦士として戦えない後遺症を抱えるもの、死んでしまう者も多かった。
 自分が頷くのを見て、ゴラルは小さく首を振った。
「このくらいの腕前の戦士になると、辻斬りに狙われるんだ」
 夜道にはくれぐれ気をつけるんだな。そう言って背を押したゴラルを振り返ると、もう彼は別の冒険者に向き合っていた。ここは特に人が多い。あっという間に自分とゴラルの間には人の流れが割り込み、自分も流れに従わねばならなかった。

 戦士を狙った辻斬りの噂は、グレンでも有名だった。
 辻斬りが現れるのは専ら深夜で、月明かりが目映い時は濃い影の落ちる路地裏に現れるそうだ。頭角を著し始めた戦士が狙われ、辻斬りが撃退出来ねば殺されてしまうのだそうだ。狙われた戦士と同じ武器で襲われる事、黒尽くめで顔も漆黒の面で覆っているという共通点がある。
 襲われる者にも共通点があり、辻斬りに遭遇する前には不思議な夢を見るのだそうだ。夢なので本人達も詳しくは覚えてはいないが、レギオンというオーガの男が出て来る事が共通している。レギオンはかつてガートランド王国の精鋭騎士を虐殺した犯罪者であり、現在も逃亡中の事から辻斬りの正体ではないかとも言われている。
 だが、それならば武器をわざわざ襲う相手に合わせる必要などない。襲われた戦士達の傷は、違う獲物を装備したとはいえ同一人物が傷つけたとは断定できぬ程にムラがあった。結局犯人を特定するには未だ至っておらず、噂が噂を呼んでいる始末なのである。
 酒場を一回りして飛び込んで来た情報を、スペアリブと共に咀嚼していると横から引き攣ったような笑い声が聞こえた。カウンター席の隣に腰を掛けていた老人は、白髪と皺だらけの顔を自分に向けて胡散臭そうな笑みを浮かべた。
「ひっひっひ。辻斬りの事を探っている戦士様とは貴方様でらっしゃいますかな?」
 怪し気な雰囲気の老人を油断無く見下ろす。筋肉の衰えは服の上からも分かったが、指には剣胼胝と剣を振るうが故の変形が、所作の端々に剣技に秀でた者の癖が見て取れた。自分が黙って返答が見込めないからか、老人は言葉を続けた。
「この矮小なるアガペイ。どうしても貴方様の御力になりたいと存じまして」
 慇懃に畏まってみせる老人を見下ろし、自分は酒場のマスターに一杯の酒を注文する。オーグリードでは広く親しまれた銘柄の酒は、オグリドホーンを模した杯に注がれて運ばれて来た。アガペイという老人は恭しく礼を述べると、嬉しそうに酒を口にした。
 そんなアガペイに自分は向き直る。
「自分の名はルミラ。アガペイ殿、貴方は自分に対してどのように助力してくださるのだ?」
「ルミラ様、私は貴方を真の戦士に導きとうございます」
 空っ歯を見せて口元は笑ってはいるが、アガペイの瞳は全く笑っていなかった。
 信用の出来る要因が何一つ無い老人だ。何を目論んでいるのか全く見えて来ない。彼は自分の目を覗き込むように見つめ、口をゆっくりと開いた。その常闇のような口腔から、言葉が吐き出されて行く。

「このままじゃ、俺達は殺されちまうよ!」
 押し殺した悲鳴が闇の中で、隙間風の音のように響いた。闇の中で薄目を開けて盗み見れば、3人のオーガの男が自分の傍で揉めているようだ。自分は疲れているのだ。もう少し静かにしてくれないだろうか、そう思いながら目を閉じる。
「ガートランドの精鋭2人を殺しちまったんだぞ! 騎士団は本気で俺達を殺そうとしてくる! 違うのは騎士団に殺されるか、レギオンさんに殺されるかだ…!」
 怯え切った声に苛立ちが募るのを感じた。聞き耳を立てている訳ではないのだが、彼等の言葉が容赦なく耳に飛び込んで来る。
「第一、あの2人を殺したのは俺達じゃない!」
 そうだ、自分が殺したんだ。自分は強かった2人の騎士を思い返した。
 オーグリードは北のグレンを剣と、南のガートランドを盾と表現する事がある。グレンは優秀な戦士を輩出し、ガートランドは鉄壁の騎士団を組織していた。騎士団は守護するという特性から、人々から護衛や細々とした頼み事をされる事も少なくない。治安の維持、その為にオーグリードの如何なる場所にも派遣された。
 今回だってそうだ。商人達が無惨に殺され、荷物を奪われる強盗団。そんな自分達を討伐しようと、騎士団が派遣された。
 殺した。
 自分は商人も騎士達も、容赦なく殺した。
 殺さなければ自分達はどうなる。罪人として牢屋に押し込まれ、運が良ければ四肢一本欠ける程度で済むが、だいたい死刑にされるだろう。そうなる前にレギオンに殺される。あの人は敗者を誰1人認めない。敗者の時点で死を下して来るような人だ。第一、俺達は武器を手に持った戦士だ。強者か弱者か、勝者か敗者か、殺すか殺されるか、そんな世界に身を置いているのは自分達じゃないか。
 自分は地面越しに聞いていた。足音が近付いて来る事を、3人は未だ気が付けないでいる。
「だったらなんなんだ?」
 ぴたりと3人の声が途絶えると、耳が痛くなる程の静寂が訪れた。レギオンの気迫が3人どころか洞窟に潜んでいる魔物達をも圧倒しているのがわかった。自分がのそりと上半身を起こした先で、レギオンがゆっくりと剣を抜いた。
「逃げる者は死ね」
 3人の言い訳が響き渡る。死ぬのが怖いと悲鳴を上げる声、戦わなければレギオンが殺すんだろうと非難する声、お母さん!とここに居ない者を叫ぶ声。どれもこれもが、1つ光が一閃するごとに悲鳴を上げてそれっきりだ。
 レギオンは血まみれの剣を片手に、自分を見た。
「お前も俺に逆らうのか?」
 自分は片眉を跳ね上げ、レギオンを見据えた。
 レギオンは何故そんなに苛立っているのだろう? 自分は僅かに首を傾げた。
 暴君のようなレギオンは、死の恐怖で部下達を脅し戦わせて来た。逃走は許さず、敗北者を許さず、レギオンの意図に反する者と負傷者はその場で殺した。自分はレギオンが戦っている所を見た事が無い。殆どが自分とたった今殺された3人が戦い、レギオンは高みの見物をしていたからだ。
 見た限りでは口先だけの男と思われがちなレギオンだが、決して弱い訳ではない。古株の3人は彼を心底怖れていたし、自分も相当の実力者であろうとは感じていた。
 自分は殺意を隠さずに向けるレギオンを静かに見返した。
「敵は倒す。自分が貴方に逆らう理由が見つからない」
 命あるものは平等だ。殺された3人は自分の事を『修羅』と称したが、5種族も人間も魔物も何の違いもない。自分の前に立ち塞がるモノに、敗北してはならない。自分は弱者になってはいけないし、未だになった事はない。
 その価値観を最も理解しているのはレギオンだと思っている。だから、彼は自分を害する事はない。そう、思っていた。
 身体の全ての細胞を揺るがす程のおぞましい雄叫びが、レギオンの口から迸った。まるで獣のような咆哮に驚いたが、意思とは裏腹に身体は咄嗟に地面を蹴って大きく後ずさる。目の前を銀色の線が過ったのを感じて、全身から冷や汗が吹き出た。
「レギオン…?」
 目に焼き付いた銀の線の向こうに、レギオンが剣を抜いて立っている。攻撃して来たのはレギオンだ。そう認識した時には、無意識に抜いた自分の剣とレギオンの剣が眼前で火花を散らした。
 何故だ。
 レギオンは自分を殺すつもりなのだと、正確に急所を狙って来る軌道で理解した。鋭く速い剣撃ではあったが、攻撃はあからさまで避ける事も防ぐ事も簡単だった。狡猾なレギオンが、まるで獣のように考えのない戦いを今までしただろうか?
 いや、そもそも、何故3人を殺したのだ?
 彼等は確かに逃亡を考えていただろう。だが、脅せば従うだろう程度の決意でしかない。自分も戦う事を告げ少し口添えすれば、今回の手合いを返り討ちにする可能性は十分にあると思い直す事もしただろう。彼等は確かに臆病者ではあったが、逃亡者ではまだないのだ。
 そんな彼等を殺した上に、何故、自分まで殺めようとする?
 刃を交え鍔迫り合い、間近に迫ったレギオンの表情を見て自分は震撼した。
 それは、人の表情ではなかった。口元はだらし無く開いて唾液を撒き散し、頬は全身の筋肉の痙攣と連動するように引き攣った。まるで笑っているようにも、怒りに震えているようにも見えたが、それらの印象は目を見た瞬間に消え失せた。目は、狂気に爛々と光り、瞬きする事も忘れてヒビ入った眼球から血が玉のように転がり落ちていた。
 狂っている。
 自分は剣を握り直し、一気に間合いを詰めた。急所を狙い殺す事に執着するレギオンの動きは、決まりきった動きしか許されぬダンスのようだった。予測された剣の軌道が銀の線になって空間に描かれて行く。そこに立ち入らなければ、自分は傷1つ受ける事はないだろう。
 そして、自分の攻撃がレギオンの首を刎ねるに至る道が見える。そこに剣の刃を乗せるだけで、刃は吸い込まれるように首に導かれ深紅の華を裂かせる事だろう。
 狂ったそれは、レギオンではない。
 それは、ヒトではない。
 自分の刃が道に乗る瞬間、レギオンが嘲笑した。
「やはり、貴様は俺と同じ…」


 肩を掴まれ揺さぶられて、自分は驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになった。咄嗟に掴んだカウンターの上に置かれたグラスが、自分の手に弾かれて転げ落ちる。落下したグラスをアガペイが受け止めたが、琥珀の液体が床に落ちて飛び散った。
 酒場の喧噪が押し寄せ瞬く間に自分達を飲み込んだ。真ん中のテーブルで小競り合いが起きて、酒瓶が割れグラスが砕ける。酒場の店主ですら床に酒を零した自分の事など、気にしていなかった。
 アガペイが労るように自分を見た。老齢の落窪んだ瞳が、レギオンのような熟練の戦士の光の残滓を宿している。
「大丈夫でございますか? ルミラ様」
 生返事を返し、自分は額に浮かんだ冷や汗を拭った。
 アガペイの語りは確かに引き込まれるものがあった。低い声はすっと耳に入り、言葉は巧みで聞いているだけで情景が目に浮かぶ程だった。だが、ここまで現実味を帯びるものを、聞き手に与える吟遊詩人等いるだろうか?
 利き手には剣を持っている感触が残っている。
 自分はあの夢の中の主と完全に思いを共にしていた。本当にあの場に自分がいたら、3人が殺されようとしている場面を黙って見ている訳が無い。勝者と敗者の世界に生きる者の思考。自分とは相容れない考えに身が震える傍ら、そうだと頷く自分がいる。混乱する頭の中に、アガペイの引き攣ったような笑い声が滑り込んだ。
「如何でしたかな? 辻斬りと疑われた男は、本当に辻斬りでございましょうかね?」
 謎掛けるような言葉を残し、アガペイは一礼して背を向けた。空になったグラスを見て追加を頼む気にはなれない。自分は硬貨を置いて、重い足を引きずりながらアガペイが消えた闇に足を向けた。
 酒場から出た頃には、半月がグレン城に掛かっていた。グレン周辺の荒野から熱は消え失せ、今日はランガーオ山地から吹き下ろす北風が夜空がより一層美しく磨いていた。明かりは冴え冴えと光り、影は黒々と沈む。
 頭角を現した戦士達を襲う辻斬り。
 襲われた戦士達が見る、レギオンという修羅の男の現れる夢。
 いつの間にか自分の所に転がり込んで来てしまったカードを見て思う。もしかしたら、自分の元に辻斬りが現れるやも知れぬ。レギオンが現れたら、返り討ちにしてやろう。自分の中に闘気が満ちる気がして、今か今かと待ち遠しいくらいだ。
 だが、本当に辻斬りはレギオンなのだろうか?
 疑問は夢の最後、レギオンに対して必殺の一撃を向けたからだ。会心の一撃で、避ける事の出来ない必中の一撃。夢の主が攻撃の手を止めない限り、あの一撃でレギオンは死んでいるだろう。夢の主が明確な殺意を持って攻撃したのは、意識が同化した自分だから理解出来る。
 自分はレギオンに向けた殺意を思い出して身震いした。
 確かに自分は力が欲しい。誰よりも強くなる責務があると思っている。その為に、多くの魔物を斬り殺し、多くの同胞を打ち破って敗者にしてきた。自分が優位に立つ事は、そう、楽しかった。その感情はあの夢の主の思いに同意して良いと思っている。
 自分の中にレギオンがいるのだ。
 人を人と思っていない。
 人を殺める事に躊躇がなかったレギオンも、『人』と認識していた仲間を殺害した事で一線を越えてしまったのだ。レギオンが言った『貴様は俺と同じ』という意味は、夢の主と自分が一線を越す事を示しているのだ。
「いや、自分は違う…」
 否定しても説得力がない事は分かっていた。
 アガペイが揺すり起こしてくれなければ、自分はレギオンを殺していただろう。
 辻斬りとしてレギオンが現れたら。
 夢が続いているとしたら。
 自分は彼を殺す事が出来るのだろうか。殺さなければ、自分が死ぬ。だが、一線を越えた時、自分は自分であり続けられるのか。狂ったレギオンを思い出し、胸の奥が掻き乱されるような不安が募るばかりだった。
 ふと、背後に誰かが立っている気配がした。
 考え事をしていても、背後から後を付ける気配に気が付けない訳が無い。寒さ故に人気の無い道に気配は浮き立つように目立つ筈であったし、足音を消すのに秀でていてもこの磨かれた空気は接地して擦れた砂の音すら響かせるだろう。元々いたのに気が付けなかった、そんな馬鹿な話はあるまい。
 振り返ると月明かりに暗く沈んだ影に、人影が溶けるように立っていた。
 オーガの女性で、自分と体格は全く同じと言って良いだろう。黒尽くめで肌の見えない服を着込んでいるが、オーガの特徴である角や尾が見えている。獲物は自分と同じ大剣で、シンプルな鉄の大剣だ。顔を見ようとして、自分は顔を顰めた。顔があるべき場所が影に沈んでいる。どうやら漆黒の仮面をつけているようだ。目の部分だけ穴の開いた仮面、その穴からルビーのような赤い光が漏れている。仮面から毛髪のように漆黒の尾羽が頭部を覆っている。
 ぞっと、悪寒が背筋を撫で上げた。
 特徴を全て覆い隠している為に、鮮烈なまでの殺意が押し寄せて来る。それが、合図だった。
 相手は両手剣を構えて切り掛かるのを、自分も剣を引き抜いて対応しなければならぬと感じていた。剣に乗るべき速度を振り上げた時の腕力で計れば、相手は素人ではなく篭手などで受け流そうと考えれば腕が持って行かれてしまうだろうとわかった。避けられなければ、剣で受け止めねばならない。
 相手の踏み込みは速く、一足で眼前に迫った手合いの剣を、引き寄せ抜きかけた剣の刃でどうにか受け止める。肩に食い込む剣の刃から、相手は見た目通りの女性の腕力で自分を押さえつけていた。
 がっちりと食い込んで進まない刃に痺れを切らしたのか、相手が一度剣を引く。その隙に剣を抜き、相手の剣に噛み付くように打ち合う。技を使う暇すら与えぬ激しい切り結びの応酬は、爆ぜる火花を幾多にも咲かせて互いを浮かび上がらせる。次第に速度を増す攻撃の最中、自分は相手の癖を見出していた。
 『大剣は剣を引く時、足を踏み替える者が多い。次の一撃に力を込める為の隙だ』
 ランババ教官の声がそう指摘する。
 このような至近距離で断続的な切り結びでは、より顕著に出る一拍の差。相手が執拗に急所を狙い殺害に執着している故に、攻撃動作も似ていて搦め手も少なかった。
 相手の仮面を跳ね飛ばしてやる。
 そう思い剣をきつく握り込む。白銀の線が徐々に火花の間を駆け始める。首に伸び動脈を切り裂く線、脇腹を貫く線、大振りな武器ではやや難しい細く狭い線、赤い花々を縫うように様々な線が浮かんでは消え再び浮かぶ。自分は待つ。望んだ一拍の差で顔面に伸びる輝く線を、辛抱強く待った。
 どれくらい切り結んでいたか定かではなくなった時、ついに望んだ一撃を運ぶ事が出来る線が描かれた。
 自分の剣は線に引っ張られるように素早く、敵の仮面を跳ね飛ばした! 白い半月に黒い仮面が舞い上がる。
 自分は反射的に顔を背けた。
 身体から冷や汗が吹き出て、冷水を浴びせたかのように凍えさせる。息が浅く速くなり、手足が痺れて、止めどもなく涙が流れ頭がボーっとして来る。これは過呼吸の症状だ、冷静な自分がゆっくり息をしろと怒鳴り声を上げている。そう、過呼吸は自分でもある程度のコントロールは出来る。
 だが、今はそんな悠長な事をしている場合ではなかった。叩き付けられ、地面に押し倒される。
 後頭部をグレンの強固な岩盤に打ち付け、肺を踏まれて全ての空気を押し出され、一瞬意識が遠退いた。霞んだ視界が懐かしいものを認めると、霧が腫れたかのようにクリアになった。
「姉さん…」
 榛色の長い絹糸のような髪、ルビーのような赤く澄んだ瞳。その表情は息を呑む程に、醜く歪んでいる。
 双子の片割れの姉。自分はかつて、このような表情の姉にこう言われた。
 なんでルミラだけが強いの?
 心臓を手で引き千切られるような痛みだったのを覚えている。
 姉は病弱で、自分は健康な子供だった。当時のランガーオ村は弱き者を認める風習を今だ持ち得ず、グレンも強き者が正義である風土が根強かった為に一家は盾の国ガートランドへ移住した。自分は剣の国グレンの戦士の頭角を現し、ガートランドの騎士達の盾術を剣で突破する程に極まった。家族の為だった。異国に流れた余所者を見る冷たい眼差しを、『あの男勝りのルミラ』と一目置かれれば家族もそれなりに認められると思っていた。実際そうなったのを誇らしく思った。
 家族は辛抱強い人達だった。姉が病の苦しみに悶える中、母は気丈に降るまい誰の目に触れぬ場所で泣いていた。父は盾の国では剣術はさほど必要ないと剣を捨て、商いを始めた。姉の病を治す為に世界中の旅人達から話を聞き、癒しの賢者様が城に仕える事を知って全財産を賭けて王に交渉しに行った。
 姉は不治の病の苦しみに、死ぬまで耐えていた。自分に対して非難したのは、その一度きり。
 それに引き換え、自分はなんだ。
 剣を振り回し、一目置かれたような気になって憂さを晴らしていただけではないか。家族の為と言っておきながら、自分が一番家族の為に何かを成す事はなかった。その弱さを、愚かさを、今でも死にたくなる程に恥じている。
 姉は死んだ。穏やかな寝顔の上に棺桶の蓋を落としたのは、親友と自分だった。
「お前は自分か? ならば今直ぐ死ね」
 自分と姉は同じ顔。だからこそ、自分は戦士の割には顔の手入れをし、髪を梳き、身だしなみもだらし無くあってはならないと思っている。自分が醜く歪んでいる事は、姉への侮辱と等しかった。
 身体がカッと燃える。手に滑り込んだ腰の短剣がまるで意識を持ったかのようだった。躊躇いもなく吸い込まれる喉への道に、刃を乗せた。
「自分は姉の分まで高潔でなくてはならない。自分が奢り低俗な存在になる事を、誰よりも自分自身が許しはしない」
 そうなったら、自分で自分を殺すまで。
 刺し貫いた喉から血は吹き出る事はなく、すっと幻のように闇夜に融けていった。
「お見事でございます」
 その言葉にすっと視線を走らせれば、酒場で酒を酌み交わしていた老人が立っていた。
 自分の剣呑な視線に、彼はヒッヒッヒと痩躯を引き攣らせ笑っている。しかし、そこにはこの質の悪い悪戯を心の底から楽しんでいる様子はなく、影と散ったそれを撃退した自分への純粋な賞賛を感じさせた。だからこそ、この誤解されてしまう笑い方が残念でならない。
 自分は起き上がり、短剣や長剣を収めてアガペイに向き直った。
「レギオンの夢は貴殿が仕込んだ事のようだな」
「人を殺したが故に一線を越えた哀れで愚かな戦士の過去、自らもあぁなるのではと恐れを抱く事でしょう」
 アガペイは慇懃に畏まって会釈して語る。
 しかし次の瞬間、その瞳は真摯な光を讃えて自分を射抜いた。
「真の敵は自らの闇にございます」
 自分も小さく頷いた。
 思い返せば、先程戦ったそれが辻斬りの正体だとすれば何もかもが納得出来る。姿形や武器が襲われた者で様々に変わる事、どんなに警戒され捜索されても見つけられず被害者を出す現状、自分が集めて来た様々な情報がパズルのピースのように繋がって全貌が見えて来るようだ。
「狂戦士に堕ちるやもと我が身の保身を考えるもの、何も考えず殺害するもの、逃避によって戦士の道から外れるもの、様々にございます。己の闇であるそれに打ち勝つ事が出来れば、正解の道は多様に存在するのです」
「自分は正解だったという事か」
 それは幸運な事だった。自分は素直にそう思った。
 自分は戦う事には秀でているが、謎掛けは得意ではない。
「ルミラ様は真の戦士への道を歩まれ始めたのです。このアガペイ、その瞬間に立ち会い身を震わせる程の感激に震えております」
 アガペイの言葉に、彼は何度もその場を見て来たのだろうと思った。
 己の闇に打ち勝った者には賞賛を送り、己の闇に打ち勝てなかった者の死を眺めて来たのだ。それはそれで、彼に深い闇が潜んでいる事を感じさせた。この世界に戦いによって命のやり取りをする者がいる限り、そのものが己の闇と対峙する程の力量に達した時、彼はその者に寄り添い結末を見るのだ。
 今後も、グレンの辻斬りの噂は途絶える事はないだろう。
「1つ聞きたい」
 立ち去ろうとしたアガペイは立ち止まり、自分の問いを待つように佇んだ。
「レギオンは何処に居る?」
 彼は静かに微笑んだ。
「今もオルセコ高地を彷徨っている事でしょう」
 結局、彼がレギオンを殺したかは知らないが、狂ってしまったのは分かった。
 剣とは敵を斬る為にある。自分が狂人でない保証はどこにもない。
 だが、友人が自分の手を取って微笑んでくれる限り、自分は姉にも友人にも誇れるものであり続けたい。