樹下に吊るされた人 - 前編 -

 扉を開けて入ってきたプクリポは、生き別れた弟の名前を名乗った。
 ふわふわの赤い毛皮に、ぴんと立った猫耳。赤い瞳はくりっと可愛らしく、へらりと開いた無防備な口元と、丸く福与かな輪郭。幼い子供が抱くあざとく可愛い縫い包みのようなのに、その雰囲気は真剣そのものだった。
 肩には赤と黒のボディが可愛らしい、アイアンクックが乗っている。
 プクリポはぴょんと跳ねて周囲をくるりと見回しすと、アイアンクックも翼を広げて羽ばたく。
「テンレスの兄貴は、ここに閉じ込められてるの?」
 ここに。俺もプクリポに釣られて周囲を見回した。
 高い天井から降り注ぐ照明は、この空間を昼間のような明るさで照らしている。磨かれたタイル貼りの床は天井の光を凪いだ水面のように受け止めて、俺たちの影の周囲をキラキラと輝かせた。作り付けられた本棚は移動式の梯子が立てかけられ、ドワーフの規格には大きい寝台には清潔な寝具の上に乱雑に書物が散らかっている。俺の背を超える砂時計を彷彿とさせる括れた筒の中には、手で掬い取れる程度の輝く砂が積もっている。
 窓の類は一切なかったが、地下帝国が栄えるドワーフの大陸では瑣末な事だ。空調が正常に稼働して、屋外のような清浄な空気と適度な室温が保てる事の方が遥かに重要だ。
 いや。俺は緩く首を振った。
 『閉じ込められている』そう、このプクリポは言った。実際にこの部屋唯一の出入り口の横にある操作盤は、扉を開ける為のものじゃない。食べ物は暖かく調理されたものが定時で操作盤の下にある棚に用意され、頼めばいつでもお茶やお菓子が棚の中に置いてくれる。生命活動や研究の援助に必要だと判断された物は惜しみなく提供されるが、外の状況を知れる物は一切与えられない。
 ここに軟禁されてどれくらい経ったか分からないが、扉が開いたのを初めて見た。
 俺の警戒を他所に、侵入者は棚に置かれたチョコレートをめざとく見つけて釘付けだ。
「…何が目的だ?」
 俺の筆頭研究員という地位は名ばかりのもので、魔神機の開発や研究には一切関与していない。錬金術師である事も隠している為に、主任研究員達が争わない為の便宜上の存在とまで噂されている。そんな俺を探し出し接触する理由。実質的な地下帝国の実権を持つ、グルヤンラシュに揺さぶりをかける事しか考えられない。
 赤い瞳が振り向くと、へらりと笑う。
「相棒の兄貴がこの時代に居るのがわかったから、探しに来たんだよ」
 相棒の…兄? 頭の中に閃光が走った瞬間、俺はプクリポの肩を掴んでいた。
「ルアムを知ってるのか!」
 そう顔面に叩きつけられた言葉に、意外にもプクリポは驚きも怒りもしない。けらけらと笑って、嬉しそうに言うんだ。
「やっぱり兄貴は、相棒の事が大好きなんだな!」
 唖然としてる隙に水のようにするりと抜け出ると、プクリポは操作盤の前に立つ。ふわりと羽ばたいたアイアンクックが、操作盤に向かって甲高い声で言った。
『くいっく! お茶 ちょーだい! くいっく!』
 操作板のランプが青く点灯して、しばらくお待ちくださいと案内が表示される。その様子を眺めているプクリポの肩を再び掴んで、猫耳の裏に口を付けるくらい近づいて叫ぶように訊いた。
「ルアムは無事なのか?」
 俺と弟が生き別れた次の瞬間、冥王ネルゲルの凶刃は弟の命を奪っただろう。首を巨大な鎌で切断したり、腹部を突き刺したり、残酷な魔族らしく四肢を切り落とし、生きたまま炎に焚べる苦しむ弟を、残虐な笑みを浮かべて眺めている美丈夫。そんな悪夢に苛まれて、数え切れぬ夜を超えてきた。
 でも、生きてるのか?
 弟があの窮地を脱して、どこかで幸せに暮らしているのか?
 縋るような問いかけに猫耳がそっと鼻先を掠め、赤い瞳が俺の瞳を写し込んで長らく見ていない夕焼けの色になる。頬に触れる息は温かく、プクリポの元気発剌さとは遠く、静かで染み入るような優しい囁きが鼓膜を揺らす。
「無事だし、元気だよ」
 俺は体から力が抜けてその場に座り込んじまった。
 ルアムが生きてる。生きているんだ…!
 その事実が喜びになって溢れて、思わず手で顔を覆って天を仰いだ。顔という穴からあらゆる液体が流れ出して、べしょべしょになっちまう! 安堵の吐息は掌を焦がすほどに熱かった。
 プクリポは自分の服が涙や鼻水で酷い事になるのもお構いなしで、俺の背にそっと腕を回した。とんとんと心臓の鼓動の感覚で触れられる手のひらは、日差しのように暖かくて優しかった。このプクリポが嘘を言っている可能性だってゼロじゃないのに、なぜか俺はその言葉に嘘がないと確信していたんだ。
 俺は潤んだ視界を拳で拭うと、ぎこちなく弟の名前を呼んだ。ぱちくりと瞬く赤い瞳に、このプクリポは本当に弟と同じ名前なのだと思う。
「どうして俺が軟禁されてるって思ったんだ?」
 丁度、リリンと涼やかなベル音が響いた。腕をぱっと解いたプクリポは、操作盤の下に備え付けられた棚の戸を開いた。
 暖かいお湯で満たされたポットと、茶葉がセットされた茶器、砂糖やミルクが入った小振の容器がトレーに並べ置かれている。それを取り出して床に置くと、良い手際で茶器の中に湯が注がれて茶葉が踊る。可愛らしい花の刺繍がされた布の上に干し果物が混ぜ込まれたバターサンドがぶち撒けられ、お茶の良い香りとバターの甘い香りが俺を包み込んでいた。
 プクリポがぺたりと扉の前に座って、さぁさぁ、どうぞ。
 隣に座って扉に背を預けた俺を横目に、プクリポが早速一口。もきゅもきゅと食みながら喋り始める。
「相棒が『エテーネルキューブ』って銀の箱を見たんだ」
 唇に押し付けられた濃厚なバターの風味が染み込んでくるのを、俺は他人事のように感じた。
「…たった、それだけで?」
 確かに『エテーネルキューブ』は俺達の悲願だった。
 俺達。
 そうテンレスと、クオードの。
 グルヤンラシュ。人の名前でも呪文でもない響きに、俺は首を傾げた。
 そんな俺の反応に一瞥もなく、弟にちょっと似ている横顔は満点の星空を見上げている。この時代で出会ったクオードは、決して届かない光を掴もうと手を伸ばし、ぐっと拳を握った。
『古代エテーネ語で『あの日に帰る』という意味がある』
 エテーネ。俺の故郷の名前だが、俺とクオードとでは違う場所らしい。
 クオードは二千年前、エテーネが凄く栄えた大国の時代からやってきたらしい。その時代は錬金術が盛んで、錬金術で生まれた生物が人々の生活を支える為に活動し、巨大な島ほどの物体を宙に浮かせる事で王宮や重要施設が空中に存在したんだと。
 そんなエテーネを俺は知らない。
 クオードが言うには、この時代には既に消滅したのか存在しないんだと。
 俺の故郷であるエテーネ村の事を話せば怪訝な顔をしたが、どうやらエテーネ王国と村のある島は海流の流れで近くても遠い場所らしい。船が難破したか何かで避難した民が興した村なのだろうと、勝手に納得していた。
 そして時間を超える能力。
 それはお互いエテーネ人だからこそ、出来る業だとクオードは言った。だが、エテーネ人が自力で出来る時渡りの能力は非常に不安定だとも語った。実際にクオードは命の危機に時渡りの力を発動させ難を逃れたが、再び時渡りの力を発動させる事は出来なかった。俺の時渡りの能力も、自分で制御できない突発的な事象だろうと言う。
 テンレス。俺の名を呼んだクオードは、俺の目を真っ直ぐ見て言った。
『時渡りの能力を支配する事が出来れば、俺達は望んだ未来を得られる』
 望んだ未来。その言葉は揺るがぬ確信に満ちて、信じれば実現すると心を揺さぶる。
 そうだ。
 あの日の事を知る俺なら、うまく立ち回れる。冥王ネルゲルが村を襲う前に、アバ様や皆を説得して村から避難してもらえる。あの時よりも腕っ節も上がったんだ。村人やルアムを守る事だって出来るに違いない。いや、冥王ネルゲルが生まれて間もない力が弱い時を狙えば、元凶そのものを断つ事が出来る。
 時間を超える能力があれば、俺は弟を守ってやれる…!
『時渡りの知識を持つ俺と、錬金術師であるお前が力を合わせれば、時を支配する事が出来るだろう。いや、支配しなくてはならない。お互いの大切な者の為に…!』
 クオードの剣を持つ者の硬い手のひらが差し出された。
『力を貸してはくれないか? テンレス』
 是非もない! 俺は間髪入れずにその手のひらを取ろうとして、ぱぁんと良い音が夜空の下に弾けた。
『あぁ! 勿論だ、クオード!』
 互いに強く握った手の感触を確かめながら、俺達は深い笑みに信頼を滲ませて互いの顔を見た。
 クオードは二千年前の故郷へ帰る為に。俺は故郷の滅びを回避し、弟を救う為に。満天の星の下、俺達は『あの日に帰る』と誓いを立てたんだ。
「…仮に俺が作ったとして、俺が居ないって考えなかったのか?」
 ドワーフ同士は俺の想像以上に仲が悪く、俺が地下帝国に流れ着くまでに見たどの地域でも他種族の姿を見る事はなかった。それを不思議に思えば『こんな戦争ばっかりやってる危ない場所に、遥々旅行に来る物好きなんていない』と笑い飛ばされたものだ。
 この地にドワーフ以外の種族がいない事は、想像に容易い。
 だからこそ珍しい人間の存在は、目に付きやすく記憶に残りやすい。俺とクオードが行動を共にしていた頃、教会の神父様には大変世話になった。当時でさえ白かったふさふさの髭と眉毛が動いて『クオードが他の人間と一緒に居た』と、証言を得るのは難しくはないだろう。それでも軟禁される前からウルベア地下帝国の南の洞窟の拠点に籠る事になったから、死んでしまったとか、この地から離れたと思われてもおかしくない。
 俺の問いに、プクリポはふるふると首を振った。
「相棒は帝国技術庁に兄貴がいるんじゃないかって、一生懸命探したんだぞ」
 だから軟禁されてるって、ちょっと気が早くないだろうか?
 訝しがる俺に、プクリポは世間話のように経緯を語ってくれる。
 相棒こと弟のルアムは、帝国技術庁で研究しているドワーフ達に探りを入れたらしい。エルフの知識やプクリポの魔法工学は素晴らしかったですが、この研究施設にはドワーフ以外の研究員はいるんですか? とか、海外の高名な研究者を招いたりするんですか? って具合にな。弟が人間だから大陸の外から来たってのは分かるみたいで、そういった質問を変に勘繰られる事はなかったらしい。やっぱり、俺の弟って頭良いなぁ。
「まぁ『ドワーフの技術は世界イチッ!』って感じで、笑い飛ばされちゃったんだけどな!」
 ガノのじっちゃんもそう答えるだろうし、らしいなってオイラ達も笑っちゃった! そうプクリポはけらけらと笑う。ドワーフ達からは未知の技術になる錬金術に、強い関心と敬意を払ってくれた。変わらぬ知識への姿勢に、俺も少しだけ嬉しさが込み上げる。
 まー、兄貴は居ないってわかったらさー。そう、笑いを引っ込めて言葉が続く。
「ウルベア地下帝国でも帝国技術庁でもない場所で、人間を隠せるとしたら何処だろうって思うじゃん?」
 プクリポはお茶に蜂蜜をたっぷりと注いだ。色の濃いお茶に沈んでいく黄金色の輝きが、言葉を引き金にばちりと爆ぜた。
「クオードは俺を無理やり閉じ込めて働かせてるって? そう断言したんなら、さっさと尻尾巻いて逃げろ! 人が変わった王様にラーの鏡って言うけど、危険にわざわざ近づこうとするんじゃない!」
 そうだ、弟には危険に近づいて欲しくない。
 お前は良いさ!
 クオードの叫びが耳にこびり付いて離れない。
 俺が最後に見たクオードの顔は、それはそれは恐ろしいものだった。故郷に帰る事を切望し、親しき者を思い返す優しい顔からは想像もできない。徐々に表情が険しくなっていく友に、俺は言い様もない不安が込み上げてくるのを何度も訴えた。
 このままでは恐ろしい事が起きる。
 具体的に何とは言えなかった。ただ『取り返しがつかない事になる』と、言いようもない不安が募っていた。皇帝ジャ・クバが認めた判断力と行動力は、善い事も悪い事も実現させてしまう。こんな大魔王のように恐ろしい顔が平和や善行を成すとは、とても思えなかった。
 きっと、俺達の目的の為に手段を選ばなかった。
 その結果を俺は知る事は出来ない。
 ただここで、時渡りの力を蓄えた時の球根の代替え品を研究する事を強いられ続けている。それはその当時『エテーネルキューブ』の駆体として最も理想的なボロジウムを、何らかの方法でクオードが入手したという事に他ならなかった。
 その方法が俺が薄々感じていた最悪に違いないと、どこかで理解していた。クオードを止められなかった俺も同罪で、贖罪の気持ちからこの軟禁を受け入れていた。
 クオードの時代ではルアムはありふれた名前らしかったが、クオードが俺の弟と知ったらどんな目に遭わされるか分からない。その不安で頭が沸騰する。
 腰を浮かせ語気を荒げた俺を、赤い瞳は真っ直ぐに見た。
「相棒は兄貴を助けたいんだよ」
 俺は言葉を飲み込んだ。心臓すら止まったかと思った。
「それに兄貴は過去に戻って、相棒や故郷の皆を助けるんだろ? 完成間近の時を超える力から、離れる訳ねーって思ったんだ」
 図星だ。
 罪滅ぼしだとか、どんなにクオードが凶行を行った非道な存在だろうと、完成間際のエテーネルキューブから離れる訳にはいかなかった。
 輝くテンスの花が完成を見込めるようになって、俺は時間を超える研究に本腰を入れ始めた。過去に飛ばされた実体験があれば、時間を超える事は不可能ではないと確信していた。シンイやアバ様の予知能力も時間に関係するとなれば、エテーネの民は時間に関わる力が使えると考えて当然だ。その力の為に、冥王ネルゲルは辺鄙な村を滅ぼしに来たと考えれば腑に落ちる。
 しかしその力がなんなのか、よく分からなかった。
 存在はする。しかし、魔力とは別で、俺に宿っているのはそう多くなく、実際に力を行使出来る者はいないから、まるで霞を掴むかのようだった。
 まるで神託を携えた預言者のように、出会ったクオードは俺の求めた答えを与えてくれた。いままで停滞していた研究が、堰を切ったように勢いよく動き出す。あまりの感動に、恍惚すら感じる興奮に、運命と言えるほどに小気味良く当てはまる快感に、俺は酔いしれるままにエテーネルキューブの制作にのめり込んだ。
 そしてクオードの一言が、常に俺の心の中にあった。
 時間を支配する。
 そうすれば弟を、故郷を救う事が出来る…!
「ふつーだったら、誰もそんな事出来やしないって笑うだろーに、実際に時を超えて過去に戻れる力が完成間際なんだもん。兄貴は凄いよ。本当に凄い」
 言いながら干しリンゴを刻んで混ぜ込んだバターサンドを口の中に放って食むと、プクリポらしからぬ感情を織り交ぜた視線で俺を見た。その瞳に浮かんでいるのは、間違いなく嫉妬だった。
「それって、相棒の、ルアムの為だろ?」
 ぐっとお茶を飲み干すと、嫉妬を隠さずに燃える赤が俺を貫く。
「心底羨ましーんだ。相棒の為なら不可能だって可能にしちまう兄貴が、相棒にいつも想われてる兄貴が、ムカつくくらい羨ましい。オイラだって相棒の力になれるなら、なんだってするのにさー」
「…お前は、ルアムのなんなんだ?」
 プクリポの口ぶりから、弟と旅の同行者以上の感情を感じた。親友を超えて家族のような幻想を、声を荒げて全力で否定したい気持ちを掻き立てた。
 ルアムの家族は俺だ! 種族も違うくせ!
 腹の底から不快感が湧き上がって、口を開けば本音をぶち撒けてしまいそうだ。
「相棒だよ。村が滅ぼされた後から、一緒に旅してるんだ」
 考えてみれば当然のはずなのに、愕然とする。
 魔族に蹂躙されて、物心ついた時から知った顔が凄惨な死に顔となって横たわる故郷。目の前で殺されそうになる兄を、死に物狂いで助けようとした。そして、自分自身の死。
 俺とルアムが生き別れた瞬間から、ルアムを助けてくれる人が近くにいただろうか? シンイやアバ様が無事だとは、とても思えなかった。
 ルアムに突然突きつけられた運命を思えば、恐ろしい思いをしたに決まってる。
 心に深い傷を負い、ふとした瞬間に思い起こされて苦しみ、悪夢にうなされ眠れぬ夜を過ごしただろう。何らかの方法で逃げ遂せて目の前のプクリポと共に旅をしたらしいが、冥王ネルゲルが追ってくるかもしれない恐怖を常に感じていたはずだ。
 だけど俺は馬鹿だから、魔法のようにルアムの苦しみを拭ってやれると思っていた。
 そんな事は起きない。
 俺はルアムが最も苦しい時を共に過ごす事も出来ない。それどころか目の前のプクリポはルアムに寄り添う事で、傷ついた心をゆっくりと癒やし、世界を旅して沢山のものを見て笑えるまでにしただろう。プクリポのルアムへの想いの強さを見れば、いかに弟を大事にしてくれたか分かる。たくさん愛情を注いで、固い絆で結ばれて、それをルアムは理解して受け取ったんだ。
 腑が煮え繰り返りそうだった。
 ルアムの隣には俺が居るはずだったのに、プクリポがしれっと居座っているんだ。俺はルアムの兄なのに、それ以上となって弟の心に存在している。
「俺は、お前が妬ましい」
 真顔で言い放った言葉には、背筋が寒くなる程の妬みが篭っていた。
 そんな言葉を受け取って、プクリポはにやりと笑った。
「お互い、ルアムが世界で一番幸せになって欲しいって気持ちは一緒だろ?」
 あぁ、そうさ。
 無いもの強請りでどんなに目の前のプクリポを妬ましく思ったって、過去を変えてしまえばルアムの中からプクリポの存在そのものが消える。そうなれば、ルアムを大切に思う兄は俺一人だけになる。
 本当は俺がルアムの隣にいたい。でも、それは無理な願いだった。
 ただ、無事なルアムの姿を一目見るだけで良い。
 元気で幸せな未来を生きられると分かったら、そっと姿を消して手紙だけのやり取りだけでもできたら最高だ。過去を変える事が出来たら、ルアムの隣には故郷を失わなかったテンレスがいるんだろう。それで良い。ぽっと出のプクリポよりも、異なる結果で分たれた俺である方が、ちょっとばかしマシなんだ。
 悔しかった。
 俺がルアムの隣に居れないという現実が、世界を呪いたいくらい憎らしかった。しかし、現実は残酷だ。その残酷さに気がつくのに、俺は一人の人間の一生分の年月が必要だった。
 リリオルをマデ島の修道院へ送り届けて目星を点々とし、最も条件が良いラゼアに研究所を作るのに何年要しただろう。レンダーシアでも未踏の地と呼ばれるラゼア。剥き出しの岩盤を風が撫でて形作る造形は風光明媚で一見の価値はあるが、人が営める程度の草木は育たず、命を繋ぎ止める水は湧かない。断崖絶壁を伝わねば進めぬ場所は当然整備されておらず、要所へ行く道からは大きく外れていて、誰も顧みなくなった場所だった。芽吹いても途中で枯れる事を繰り返し、行き詰まった気晴らしにハナを作ったりして、花が咲く。特に純度の高い花を交配して生み出して、ついに輝くテンスの花が完成した。
 俺の人生で最高の大成功の花だ。
 磨き上げられた銀のように滑らかで、純白の雪原のように清らかな花。自ら輝く様は天辺の太陽のように眩く、匂い立つ香りは大きな研究所をうっとりと充した。俺はその花をイッショウさんから譲り受けた錬金釜に納める。この釜の中にあれば、輝くテンスの花はたった今摘み取った状態を何千年先までも維持できるはずだからだ。釜の蓋を閉めて、時間の停滞の術式を施すと宝石は起動を意味する色に変わって固定された。
 静かな研究所で俺は立ち尽くす。
 あれから、何年経ったんだろう?
 誰にも会わず、追手に怯える事なく、ただ研究に没頭していた日々は、俺から時間感覚を奪っていた。リリオルと別れてから何十年経っていたのか分からないのは、俺自身が全く変わらなかったからだ。十年以上は確実に経過していたはずなのに、俺はエテーネ村で弟と生き別れた時と何一つ変わらなかったんだ。
 俺はその事を全く何とも思っていなかった。ただ『腰が痛くならなくて良いな』程度にしか考えていなかったんだ。
 しかし、他人はそうではなかった。
 孤独だった俺は、それに気がつけなかった。
『お前は良いさ!』
 クオードの悲鳴混じりの焦燥が、大きく開け放たれた口から迸った。
『無限に時間があるのだから!』
 叫んだクオードの顔は、深い絶望に塗れて歪んでいた。
 俺が歳を取らないことに、ルアムが化け物と言われる日が来るかもしれない。錬金術で世界の理をも歪めようとする俺を、ルアムは非難し、殺そうとするかもしれない。ルアムに否定される事を考えただけで、心臓が引き裂かれるように痛んだ。
 今、こうして軟禁されて研究に没頭しているのは、現実から逃げているだけだ。誰にも姿を見られず独りでいる事が、俺に途方もない安堵を与えてくれる。
 それでも、弟の存在を忘れる事はできない。
 俺は目の前に差し出された、ふっくらとした手を見た。
「こんなとこから、おさらばしよう! 相棒が兄貴に会いたがってるぞ!」
 あぁ、でもコイツになら化け物と思われても平気かもしれない。
 初めて芽吹いた感情は、温かく柔らかかった。