旅立ち

 ローレシアの北西にサマルトリアという王国がある。緑豊かな森の木々は針葉樹林で、ローレシアに比べれば寒い気候で紅葉はなく雪も降る。冬の暖炉の火と春の雪解けの似合う穏やかで時間がゆったり流れる感じがする国だ。
 野鳥が飛来するその下に、森に馴染んだように調和する城壁のない国は長年に渡る平和を物語っている。
 緑を基調にした穏やかな空間にそんなに歳も行っていな男が玉座に座っていた。その隣には10歳そこそこだろう女の子が白とピンクを基調にした上品でも子供らしいドレスを着て座っている。年の頃は俺の親父より数歳年上に感じるが、柔らかい金髪に緑の礼服がよく似合う、サマルトリア国王は俺の姿を見てにこやかに笑って声を掛けた。
「おぉ!お主がローレシアから派遣された傭兵か。我が息子サトリとほぼ同じ年頃の青年のようだな」
「ローレシアの現代表取締役の息子、ロレックスです」
 俺が手短かに簡素に言い退けると国王は関心しきりで頷いた。
「さすが傭兵国家ローレシアの青年じゃな。実に世慣れている」
「身に余るお言葉です」
 畏まる俺だが、国風だから仕方がないという言葉を飲み込んだ。ローレシアで傭兵の仕事を請け負い始めるのは早いほど良いとされているからだ。
 俺の故郷ローレシアは傭兵国家として知られている。
 初代にして最後の国王アレフによって創立されたローレシアは、最初から傭兵の仕事を行いやすいよう配慮された国だ。デルコンダルとムーンブルクが外交や貿易に主に使う海路は荒れやすく、安全性の高い陸路は未開拓で危険な土地だった。アレフはその陸路確保の為にローレシアを作り、デルコンダルとムーンブルク間の護衛を大々的に援助し、結果的にローレシアは傭兵国家として成功を収めたのだ。
 しかし、アレフは国王制度を廃止し、代わりに新たな制度を設けて死去することになる。
 それが代表取締役を筆頭におく組織制度である。
 代表取締役という役職がアレフの行っていた国王としての仕事を行い、その役職が他国への外交や急用時の支援に対する大規模な傭兵の異動などを行う。血縁関係での世襲制は全くなく、多くの支持が得られれば誰でもなれる。
 それでも国として動くことが滅多にないローレシアだが、実は秘密裏に信頼できる個人に依頼し他国の依頼を遂行しているのである。
 平和なサマルトリアからの依頼など、ここ百年単位で無かったから緊張はする。
「陛下、それで今回の依頼の内容をお教え願えますか?」
 俺がそう言うと国王は一瞬困ったように隣に座る王女を見遣ると、玉座を立って自室に案内すると申し出た。
 謁見の間のさらに上に階のある王族の部屋に向かう最中、森の木漏れ日が差し込む階下よりも直接日差しが入り込む廊下は、サマルトリアとは思えないほど強くまぶしい。先を歩く国王に従って後を追う俺の隣で、サマルトリアの王女が茶目っ気たっぷりに話しかけてきた。
 年相応のあどけなさを持つ彼女はマリア王女だったはずだ。
「ロレックスさんはサトリ兄さんに会った事はある?」
「いいえ」
 代表取締役といえど、外交や他国が行うパーティに身内を連れていってはいけない決まりがあった。代表取締役の子供であれど取締役として推薦されたりするスタートラインを限りなく平等にするための措置であり、不覚的要素を無くすための処置でもある。
 傭兵国家だからといって他国に諂う必要もなく、同時に必要以上に仲良くする必要もないという初代国王の教えだ。
 俺の返事に国王は自室に招くと同時に肩を落とした。
 今までの威厳を服のように脱ぎ捨てたような変ぼうぶりに驚くが、そこには疲れきった男性の顔があった。アレフガルドの勇者アレフの末裔といわれる国家の中で王国制を貫いているこの国は、平和で温和そうな一面と完璧で隙のない貴族的な気質を持っているのだ。他国の傭兵にそのような顔を見せるなど、国王どころか一平民ですらすることなどない。
「実は息子のサトリが王位継承権を放棄して、出ていってしまったのだ」
 へぇ…。
 俺は感心する。こんなに貴族意識の残るサマルトリアにそんな破天荒な奴がいたなんてなぁ。
「サトリ王子を連れ戻せ…と?」
「そう言ってしまいたいのは山々なのだよ」
 国王は王冠をテーブルに置くとソファーに深々と座り、疲れきった表情で瞑目した。よほど切羽詰まっているのだろう。
 サトリ王子が王国を継がなくてはその妹であるマリア王女が婿を迎えて継ぐことになる。王子が生きていて国王として申し分ない体力や精神を持っているのに、なぜ妹が王国を継ぐのか?その疑問は当然浮かぶはずだ。そうなれば芋蔓式にサトリ王子の事情が明らかになってしまう。それは自国の名誉に傷を付けるという、この国の完璧主義が許せる事ではないはずだ。
「だがサトリを連れ戻したところで、また出ていってしまうのが目に見えてしまう。今まで何度も王族である事は…と諭し王位を継ぐ事の重大性を説いたが、サトリの耳に念仏のようなものでな…。私は決めたのだ。息子を勘当すると」
 はぁ…。
 他国の事情などに口を挟む気はないが、回りくどい国王だ。早く用件を喋れよ。
「そこでローレシアに依頼したいのだ。サトリを守ってほしい」
 ……
 ………
「あのぉ、陛下」
 俺は真っ白になってまとまりつかないまま国王に尋ねた。
「いつまで守ればよろしいのですか?」
 傭兵に依頼する場合は主に目標があるのだ。どこへ連れてって欲しいとか、何かを探して欲しいとか、魔物を倒して欲しいとか、最終目標を提示するのが基本である。しかしこの国王はただ『守ってほしい』としか言わない。
 確かに現実的に考えれば国王の息子としての立場では外の危険は多いだろう。誘拐されて身代金を要求され『勘当したから払わん』といった日には世論で国が滅ぶだろうし、国王の息子なのだから勘当しても国王自身は息子の身を案じるのも当然といわざる得ない。
 ならば、王子をいつまで守ってやればいいのか?
 分からないだろ?
「お主がもう安全だと思った時で良い」
 国王が素っ気なく言った。
 ……はい?
 俺の基準で判断しろというのか?
 この依頼は秘密裏であれローレシアとサマルトリアの国家間での依頼の関係になる。俺の判断が甘ければローレシアとサマルトリアの関係が悪くなるどころか、ローレシアの威信に関わる。どこまでという基準すら曖昧なら、いつまでも護衛にまわされる可能性もある。
 簡単に終わる仕事ではないのか……。
 サトリ王子も一癖ありそうな人のようだし、俺はこの先に待ち受ける多難を思い浮かべてため息をついた。ため息を出し尽くした時、親父が意地悪そうな笑みでこの依頼を受けろと言ってきたのを思い出し、俺は心の底から親父を恨んだ。

 ■ □ ■ □

 サマルトリアから東、ローレシアから遥か北。勇者の泉の洞窟という名水の湧く洞窟がある。
 何の為にサトリ王子がここにやって来たかは知らないが、マリア王女やサマルトリアで仕入れた情報や、勇者の泉へ向かう宿場町でサトリ王子らしい人物の姿を見ている人を確認するどころか、宿帳に名前があるから驚きだ。まぁフルネームじゃなく『サトリ』としか記していないからまだマシだが、勘の良い奴だったらサマルトリアのサトリ王子と気付く者もいるだろう。悪人に知れたら事だぞ?
 そんな心配をしつつも殊に勘ぐると良くないし、俺は急ぎ足でサトリ王子を追って馬を走らせる。
 最後の宿場町から勇者の泉の湧く洞窟までは、馬も入れない渓谷地帯なのだ。
 渓谷は美しくも足場も少なく、そこで転落し死亡する者はローレシア地方の死亡者の一割に達するほどだ。魔物も多く、特に毒を持つ魔物が多い。血清を置いている宿場町にたどり着く前に毒が回って死ぬケースは転落死の倍はある。勇者の泉とは危険で、危険だからこそ最奥にたどり着いた者を勇者と呼ぶ風習が先住民族の時代からあったそうだ。
 とにかく、だ。
 そこにサトリが入り込んで死んだらサマルトリアの国王に顔向けできん。
 ただでさえリスクの高い場所なんだからな。
 『サトリ兄さんはね、急ごうとしないし常に余裕を持っていたい人だから、きっと追い付けるはずだよ』そう言ったマリア王女のいう通り、宿帳に記された期日が最近になってきた。
 二週間前、一週間前、5日、3日。勇者の泉に近付く度にその日数は詰まっていく…。
 そして
 …勇者の泉にやってきってしまった。
 正確には、勇者の泉のある渓谷の入り口なんだけどさ。
 俺は途方に暮れながら、聳え立つ翠の木々と紺碧の水と白亜の崖が織り成す渓谷を見渡していた。複雑な宝石を覗き込むように、輝き一つを木の葉に変え、滑らかな水流を表面にして、雲の彩りを反射し空の照明すら吸い込んで色付く。それに触れる俺ですら外から入ってきたひとひらの光のように、その渓谷一つが巨大な芸術品のようだ。いつまでも足を止めて見入っていたい。そう思わせる渓谷だ。
 どんなに頑張っても宿のサトリの記録のを詰めようと、結局は勇者の泉に行くための最後の宿までには間に合わなかった。
 宿帳を見る少々老いた感じのする宿の主は、宿帳を見ながら記憶をたどる。
「サトリ…。あぁ、あの若いお客さん。あの子なら日が昇る前に出ていきましたよ。結構念入りに準備していったから、私は他の勇者の泉の挑戦者よりも安心してましたけどね。彼が、何か?」
「説明している暇がないので申し訳ないが、勇者の泉に入るために必要なものを今すぐ用意できませんか?」
 俺がアレフガルド地方とデルコンダル地方の混ざったようなイントネーションが特徴的なローレシア地方の言葉で喋ると、宿の主人はすぐに俺がローレシアの傭兵だと分かったようだ。宿の主人はすぐに毒消し草や血清、フック付きの綱や小さい登山用のつるはしなど勇者の泉に入るための用意を整えると一言心配そうに言付けた。
「勇者の泉へは基本的に一本道。だけど急ぐと谷に落ちることになりますよ」
「分かってます」
「では。勇者の泉の挑戦者の帰還を祈っております」
 一礼するのももどかしく、俺は宿を飛び出すと勇者の泉を目指し出した。

 天然の回廊とはこの事だろう。
 鋪装されている事のない岩肌は滑りやすいほど雨水に磨かれ、複雑な切れ目に足を引っかけそうになるかと思うと、花崗岩の模様に目を疲れさせてしまう。岩一つにこれだけ神経をすり減らしているというのに、極彩色に揺らめく水流は日の光を眩しく反射させ、木々の影が光と深い闇を切り出して分け隔てる。
 木々から垂れ下がる蔓を何度、猛毒を持つ毒蛇に見間違えただろう。
 入って数時間にもなっていないのに、俺は目が回り疲れてきてしまっていた。
「畜生…。サトリって奴を見つける前に俺が参っちまいそうだぞ」
 ほとんど駆け抜ける勢いで渓谷を進んでいるわけだから、徒歩の人間よりも数倍も早いペースで進んでいる。頂点よりも東にあった太陽が、頂点を通り過ぎ西に向かい始めた。時計を一々確認している暇はないが、そろそろサトリ王子に追い付いてもいい頃合いのはずだ。
 俺は僅かな期待も込めて遠くを見遣った。
 その視線の先に人がいれば、間違いなくサトリ王子だろうが…。
 法衣に似た装束が見える。巡礼する僧侶が好んで着るような、移動しやすく形式や体裁を損なわない程度に改良された装束がマントのように翻った。続くのはオレンジという全く不自然な色合いの外套と、蜂蜜色のような黄金色ではない金髪だ。盾を荷物のように肩にかけると、先をのんびりと歩き出す。
 親指ほどにしか見えない距離があったが「あれだ」と分かった。
 サトリ王子だ。
「サトリ王子!!」
 俺は呼び止めるために大声を張り上げた!俺はサトリ王子らしい人物が振り返るのを意識していて、頭上からボタボタ落ちてくるキングコブラに気が付くのが遅れた!
「げ!今落ちてくんじゃねぇよ!!」
 畜生!大声出した事で毒蛇を刺激しちまったんだ!
 慌てて剣を鞘から抜かずに振るって駆け抜けようとすると、地面に落ちたキングコブラを踏み付けて盛大に転ける!尻餅をついて視界がぐらつくと、安定しない体勢が引力の法律に従って渓谷の谷へ引きずり込まれる!!
「う…おおおおおぉぉぉぉおおおぉ!!」
 俺は悲鳴を気合いにかえて肩に掛けたフック付きのロープを崖に生い茂る木に投げて付けると、同時に剣を口にくわえてロープが木に引っかかるのを待つ。ロープを片手に、もう片手につるはしを引っ掛けて崖に足をつけると、ロープがピンと張る!それが合図のように、俺はロープを頼りに、フックを引っ掛けた木を中心に崖の上を走った!
 地面と天に崖を、横に川と空がある奇妙な光景を見遣りつつ、俺はサトリ王子の歩く方向に向かって駆け抜け…大きく半円を描いて登山道の地面に転がり込んだ!転がり込んだ衝撃に息を詰め地面に確りしがみついて安全になるのを確かめると、安心のあまりに悪態が口をついた。
「く…つぅ。痛ぇな…くそぉ」
 昔からそうだがよぉ、俺ってこういう時に運が良くないんだよなぁ。トラブルを起こしやすいトラブルメーカーと故郷で親父によくからかわれたもんだが、それでも俺はそのトラブルにちゃんと対応し乗り越えてはいた。それでも故郷では一緒に仕事をする人間はほとんどいなくて、いつも一人仕事だったけどな。
 …ってサトリ王子は!?
 俺が視線を上げて振り返ると、胡散臭そうに俺を見つめる少年…というか青年のほうが正しそうな年齢の奴が俺を見つめていた。
 バンダナのようにゴーグルで留めた頭頂部のない皮の帽子から、収まりきれないように目に優しく輝く金髪が飛び出している。ジャスパーグリーンのような渋い色合いの瞳が目立つ顔は、貴族の顔と言うような整って若干白いくらいだ。サマルトリアの国色である緑色の法衣は取り立てて装飾はないが、摩れた感じも旅で使い込んだ様子も少なくまだ新しそうだ。盾を背負い直し細身の剣に腕を掛けると、俺から視線をそらして先に進んでしまう。
 ちょっと待て!
 普通聞かないか?『あんた誰だ?』の一言くらい!
 俺はすぐさま小走りでサトリ王子に追い付いた。
「ちょっと待てよ!貴方がサトリ王子なんだろ!?」
「だとしたら何だ?」
 ちらりと俺を見ると、ぶっきらぼうも良い所の全く愛想のない声が帰ってきた。
「その喋り方はローレシアの傭兵だな?親父にでも頼まれたか?『息子を連れ返せ』って」
 本当にコイツ貴族か!?まるでそこいらにいるごろつきのような口調だぞ!?
 しかし、キレてどうする。俺は国王からコイツの護衛を依頼された身だぞ。慎重に、丁寧に説明しなくては…。
「確かに俺はローレシアの傭兵です。国王からサトリ王子の護衛を依頼されたのです」
「ふん。護衛ね…」
 サトリ…王子様は鼻で笑い飛ばしてくれる。駄目だぞロレックス、平常心、平常心…。
 すると渓谷の大分奥まで進んできたのか、サトリ王子は洞窟の入り口に躊躇いもなく入っていく。そして顎をしゃくって少し前を指した。
「なら、アレをどうにかしてくれよ」
 『アレ』を見てさぁ…と血の気が引く。
 地面というか床が見えないほどに、キングコブラが蜷局を巻いてたくさんいる。これを…どうにかしろと?
「僕は休憩の時間だ。アレをどうにかできたら時間が短縮できるから予定が変わるだろうけど、手間が省けるだけ良いだろう。頑張ってくれたまえ」
 全く非常識な言葉に耳を疑って見れば、道の端に腰を下ろしてポットの紅茶を優雅なティーカップい注いで一口含んだ王子様のお姿。サトリ王子は懐中時計で時間を確認すると、事も無げに言葉を続けた。
「半刻後に休憩が終わるからそれまでに頼むよ」
 駄目だ。キレたらお終いじゃないか。ロレックス、目の前のキングコブラを一掃すりゃいいんだ。この怒りを奴らにぶつけりゃいいんだ!
 俺は毒消し草を口に含むと猛然と洞窟のキングコブラの溜め池のような空間に、剣と火をつけたたいまつを構えて飛び込んだ!
 100対1の様相の対決は明らかに俺の方が不利だ。俺はある程度毒牙に噛み付かれるのを覚悟で剣を振るいキングコブラを集めると、ランプのオイル補給のためのオイル瓶の蓋を開け放ってランプの燃料を毒蛇達にぶちまける!キングコブラの顔っぽい腹や鱗がオイルにてかるのを確認すると、俺はたいまつを群れの中心に投げ込んだ!
 キングコブラ達が次々と火だるまになり、瞬きする間に火の草原の出来上がりだ。
 後は俺が外に逃げりゃあ良い話だ。
 俺は入り口の方に振り返ると、洞窟の中からなら眩しすぎるほどの外の光がやけに暗い事に気が付く。それどころか真っ直ぐ歩くために出そうとした足に力が入らず、平衡感覚があやふやになる。キングコブラの毒を思った以上に受けた為の急性の症状だ!
 俺は歯に意識を集中させると毒消し草を噛み締める。苦みに遠のきそうな意識が引き戻され、多少足に力が入る。
 とりあえずここから出なくては、俺も毒蛇もろとも燃えちまうぞ!
 俺はできる限り足を進めると、洞窟の入り口に向かって倒れ込んだ…。すると日差しが陰る。
「どうにかなったみたいだな。優秀優秀。…おっと毒くらいで倒れるんじゃないぞ。さぁ、行くぞ」
 そう言うと俺を跨いでサトリ王子が洞窟の奥に進み出した。…もう突っ込む気も気怠く感じるほど俺はその非常識ぶりに、必死で毒消し草が効いて動くようになった両腕で、血清を打ち込んだ。針から流れ込む血清の痛みよりも、なんだか悲しみの方が強くなりそうで憂鬱になる。
 しかし、俺は誇り高きアレフの意志を受け継いだローレシアの傭兵だ。
「これくらいで、へばるもんか…」
 俺は歯を食いしばって起き上がると、ふらつく意識を叱咤して目の前の人影に続いた。
 洞窟の中は鍾乳洞で小さな川がいくつも地面を流れている。どこからか入ってくる日の光に鍾乳石は輝いている。日の光は平行に入ってくることから、日が傾いてもうじき夕暮れになるだろう。俺はランプを取り出しておいて、最後の光も届かなくなる時刻に備える。
 だいぶ血清と毒消し草が効いてきたんだろう。俺は先にいる緑色の物体に気がついた。バブルスライムだ。緑色で泡が常にボコボコと湧き出る、非常強い有毒性の魔物だ。俺が剣に手を掛け切り掛かろうとするのを手がとめた。
 誰の手か、一瞬分からなかった。
 しかし、自分じゃなきゃサトリ王子しかここにはいない。
「バブルスライムはここの水を清らかにしてくれる存在だ。周りの毒を吸い込んで浄化して死んでいく」
 そういうと俺を洞窟の壁際に寄せる。
「さっき大量にキングコブラを殺しただろう。キングコブラの毒を食いに行くつもりなんだ。…少し待つといい」
 そうして待っていると、バブルスライムはちらりと俺達を見遣って、そのまま洞窟の入り口に向かって進んでいった。きっと俺達が食い物の匂いを嗅ぎ付けるように、バブルスライムも毒の匂いを感じて向かっていったんだろう。
 しかし驚いた。こんな形で不要な争いを避けるだなんて…ってサトリ王子はさっさと歩き出してるしよぉ。一言くらいかけてくれよ。
 そこからはひたすら下に向かって下っていく。
 サトリ王子も最初は馴れないながらも、意外に上手に縄で下におりていく。やがて底が見えてきた…。
 岩の中をくり抜いたような巨大な地底湖だ。岩の間から幾千の滝が大小様々な大きさで流れ落ち、湧き水が白い砂を舞い上げる勢いで湧き出ている。近くで見れば白い砂だが、遠くの深みを見れば水の澄み切った屈折が翠とも碧とも言えぬ色合いに揺らめいている。雲の切れ目のように月の光が差し込み、地底湖はたいまつの光が邪魔なほどに澄み切って輝いていた。
「すげぇ…」
 俺が思わずついた言葉に、俺自身が首を傾げた。
 なんでサトリはここに来たんだ?
「あの、サトリ王子」
「僕の事はサトリで良い」
 そう一蹴するとサトリ王子…じゃなくてサトリは腕を組んで地底湖を眺めた。思った以上に真剣な眼差しに黙り込むと、サトリはぽつりと漏らした。
「サマルトリアの人間はこの場所の事を馬鹿にするよ。自分達の生み出した古い習慣にこだわるくせに、先住民族の風習などまるで関心がない」
 そう行ってサトリは数歩前に出る。足下には小さな魚が泳いで、鱗が閃く。
「外の事も知らないくせに国王を名乗るなど無意味だ。しかも僕自身の予定など無視して戴冠が行われるのでは困る」
 その言葉に俺はようやくサトリの性癖に気が付いた。
 知識を求め、予定を予め決めて行動する事を良しとしている。彼自身の予定を無視するなら、サトリは容赦をしない。だからサトリは彼自身が立てた予定を認めない故郷の国を出てでも、彼自身が立てたプランに沿って生きようと考えたんだろう。
「これからどこへ行くんだ?」
 俺が訊ねるとサトリは、かわらずの無愛想な口調で返した。
「ムーンブルク」
 月が岩の隙間に掛かって少しだけ見える。
 妙に赤っぽい月の色に、俺は少しだけ奇妙な感じがした。