招待

「待ち人とは会えたようだな」
 暗闇の奥から響く声は重く、威厳に満ちている。巌のように微動だにせぬ重厚感を持ちながら、それは火を秘めた炭のように意思を燻らせ機を伺う獣のように踞っていた。暗闇の奥に気怠げに寝そべっている存在に、闇の中では薄い金色にすら見える茶髪を揺らしリュゼルは楽しげに笑った。
 その声に、闇の奥の存在は大きく息を吸った。リュゼルの糸よりも細い髪は闇に吸い込まれるように浮かび、ラダトームの章意を施した衣が翻る。やがて闇の中の主が動き、周りの空気が逃げ惑うように動いた。動く事などここ最近滅多に見せなくなった存在の突如の反応に、リュゼルは浮かべた笑顔を拭うように消した。
「どうやら幻では無いようだな」
 熱と炎を帯びた息がゆっくりと床を舐めた。

 ■ □ ■ □

 魔法王国が新しく王を迎えたある日、王の師は忽然と姿を消した。
 太陽の導き手、月の担い手、王国の守護者。そう呼ばれていた人だった。
 太陽は西も東も休まず探し、竜が北を飛び、傭兵は南を巡った。
 しかし、二度と見いだすことはできなかった。そして師は帰ってこなかった…
 夕闇が迫り夜の帳が降ろされる僅かな隙間を縫って人々は明かりをつける。町並みに淡く光が灯されこの日最後の陽光が、人々の影を色濃く路地に刻む。本日がまだ数字的に残っていても、人々の中ではもうじき昨日に変わる名残惜しい時刻。哀愁が漂う音調で語られるのは、まるでお伽話のように今の時刻に大変相応しい内容であった。
 曲が終わると歓声が飛び交い、吟遊詩人が優雅に帽子を胸に抱き頭を下げる。…なるほど、お伽話と思うのも当然か。
 誰がいつ何をしたという事を確実に伝える必要のない職業だ。いや、過ぎ去ってしまった誰がいつ何をしたという事が本当であるかなど、気にする人物がこの世界に何人いるだろう。むしろ吟遊詩人の神と謳われたガライでさえ、吟遊詩人とは余興を提供する者であり、伝説は人々の心を潤す嗜好品と豪語したほどだ。私も、その通りだと思う。彼等は情報屋でも学者でもないだ。
 日が落る目前の時刻に開店した酒場の窓から漏れる暖かい光を横目に見ながら、道を急ぐ。
 その道すがら通り過ぎる人間の瞳に、警戒の色はない。
 アレフガルドの首都ラダトームの城下町は意外なほどに平穏であったといえるだろう。城の荒れ果てた惨状は目を背けるものがあるかもしれないが、それでも死者も片手で数える程度で制圧したリュゼル殿の手腕はたいしたものだといえるだろう。まぁ、彼ほどの地位ならもう少しやり方もあったかもしれないが、大陸中に衝撃のような危機感を持たせるにはこれくらいやらねばならなかったのだろう。
 そう思いながら、灰色の髪の女医…サトリ君の恩師の家とは違う方向に足を向ける。
「シクラ」
 呼びかけに袖の下からしびれクラゲの半透明の色彩が覗く。彼女もまた、背後から誰かが追って来ているのを感じているのだ。いや、追って来ているのではない。追いつめられているのだ。
 逃れようと道を選ぼうとすれば、必ず敵意に似た意志を向ける者が立ちはだかっている。ラダトームとムーンブルクが同盟関係である以上、外交官の装束を纏っていようといまいと殺傷沙汰になれば関係に響く。故に、そんな存在を避けて道を選んでしまう。しかし、魔力をも視認する瞳が向かう先の濃厚な魔力の流れを見させるのだ。
 追いつめようとする先に、何か仕掛けてあるのだ。
「この先に魔法陣があるみたいヨン。移転専用…一種の旅の扉ヨン」
 やはり。
 私は急くように言葉を紡ぐ。
「拙いな。このままではそこに乗せられてしま…」
 言い切らぬうちに魔力の増幅による波を感じて、私は駆け出した!
 蛍光色の黄緑のような色彩のマホトーンの光が、雨霰と降ってくるのが視界の端に見える。私に避けられないように点ではなく五月雨のような面で攻めている。どうやら私が魔力を認識する術を持っていることを知っている人物が背後にいるようだ。マホトーンを受けてしまえば、私の魔力を認識する感覚が一時的に狂わされてしまう。呪文は使えなくても魔力関係に制限をもたらす呪文というのは、私にだって効いてしまうのだ。
 それどころか、シクラは完全に無力化されてしまう。これは絶対に避けたい。
 …相手は相当私に用があるらしい。
 しかも表向きにできない用件であるのだろう。私は逃げも隠れもしないのだ。都合さえつけば誰とでも合う事のできる立場ではあるのに、このような方法を選択する輩とは一体どういった者なのだろうか?
 いい迷惑だ。最高に迷惑だ。私の晩飯を奪って平然としているのなら、例え半殺しにしても文句は言わせない。
 私は声を張り上げて相方を呼ぶ。
「シクラ!ルーラで逃げ切ろう!」
「駄目ヨン!呪文の展開中にマホトーンで狙い撃たれたら、中断されてしまうヨン!」
 シクラも考えを巡らしているが良策がないのか焦って返してくる。私が逃げに徹している以上は、頼まなければ攻撃をすることもできず歯痒く感じているようだ。
 確かにルーラは直線的に展開する呪文だ。つまり、ルーラで上昇している最中にマホトーンを受けてしまえば、呪文の効果を強制中断されてしまい空中に放り出されてしまうのだ。それはそれで命の危機だ。
 かといって民家に逃げ込むのも出来ないし…。
 仕方がない。
 私は思考を切り替えて表情を引き締めた。
 こうなったら強行突破しかない!
「シクラ!魔法陣を稲妻で破壊する!…で、逃げ切る!」
「少し町が傷付くヨン!?」
「後で謝りに行けば良い!!」
 何者かは知らんが、相手の切り札は魔法陣だ。数で押してはくるが力押しでは来ない所を見ると、相手は私とシクラの戦闘能力を存分に高く評価してくれているようだ。移転用の魔法陣さえ壊してしまえば、相手は我々を捕獲する手段を完全に失う事になる。そうなれば逃げ切る事はそんなにも難しいものではない。
 魔法陣は呪文以上に強力な術式が行使できるが、それ故に陣が少しでも崩れてしまえば全てが台無しになってしまう。シクラの稲妻なら例えマホカンタコーティングされていても、陣を破壊することができる。
「じゃあ…」
 シクラの薄水色の触手が複雑な文様を形作り、一種の小さい魔法陣を成す。瞬間、大気の水分が蒸発して乾燥した空気が大量の静電気を生み出し、まるで誘われるように彼女の円陣に組んだ触手の前に集約されていく…。私は己を守る意味でも腕ごと絡み付いたシクラを前にかざした!!
「いくヨーン!!」
 彼女の発言と同時に、目の前の眩しい程の移転用魔法陣の奥からマホトーンの光が放たれる!魔力を見ることに集中していた私にとって、シクラの稲妻と交錯する目も眩むような白熱色に完全に視力を奪われる。走り込む勢いが手伝って、私はシクラ共々真っ向からマホトーンの呪文を食らってしまう!!
 だが当初の目的通り彼女の稲妻が、目の前にまで迫った魔法陣を切り裂いたのだけは確認した。
 近くに稲妻が落ちたような轟音と、十字路のやや端に寄った部分に抉られたような穴が開いているのに近所から苦情が出るだろう。明日にでも謝りに行かねばなるまい…、などと考えながら痕跡を横目で一瞥する。
 無力化した魔法陣の設置されていた交差点を走り抜け、T字路にぶつかった壁に片手を着いて勢いを落とす。後は人通りの多い場所に逃げ込むなりして、相手を巻けば良い。警戒を若干解いた私は、次の行き先を見据える為の視界に意外な物を見て目を見開いた。
 漆黒に沈む裏路地に、深紅の色と蛍光色の瞳。羽ばたく音が耳を翳め、髪の先を風が小刻みに揺らした。
 ドラキー。
 魔物が…なぜ!?
 見上げれば黒く塗りつぶされた建物の闇の隙間から切り離された夕焼けに、かなりの数のドラキーが飛んでいる。彼等がマホトーンを浴びせ掛けようとした張本人なのか!? いや、彼等が私を捕獲しようとする意図はないだろう。彼等は命じられたに違いない。しかし…誰にだ?
 彼等魔物の頂点に立っているだろう男とは、容易に連絡が取れる私であるのに…!?
「リウレム!」
 シクラの慌てた声に意識を思考から引き戻す。
 耳鳴りが脳髄を揺さぶり、先ほどの強烈な光に霞んでいる視界が青く輝き出した…! 驚いて見下ろすと、そこには既に発動し出した魔法陣が敷かれている!! 進行方向のさらに奥にもう一つ仕組んであったのか!? 大掛かりな魔法陣が際立って見えたがために、小規模で奥に設けられたこの陣に気が付けなかった!
「しまっ…」
 色彩の明度が急激にあがり、世界が認識できない程に眩しく輝き出した!
 次の瞬間、世界の感覚が薄れ、移転時に起きる軽い失神に似た感覚に意識が遠のいた。

 足が地面に接地する感覚。
 反射的に毒針を抜き放ち利き手に握り込んだが、見渡す限り誰もいない。
 そこはアレフガルドの中央に位置する城だった。よく見知っている見上げる白亜の壁に穿たれたいくつもの窓には、人間の世界に比べれば暗すぎるくらいに控えめな光が漏れている。太陽の残光がついに世界の果てに沈み、紫があっという間に闇に食われてしまった。不安はないが、まだ眩んでいる視界の為に真っ暗に感じてしまう。
 ミトラ神を祀る人間の神殿であったとも、魔王の城であったとも言われているが何の確証もない。確かにミトラ教の神殿といっても差し支えない大聖堂もあるが、城と呼ぶに相応しい内部と、神殿に相応しくない広大な地下階が存在している。誰もかつてはその建物がなんであるのか知らないそこも、現在は魔物達の城である。
 先日聞いた話では彼等をまとめる歴代の『竜王』がそこに居を構え、アレフガルドの全ての魔物を統治しているという。
 私達が転送させられたそこは、その城では転移到着専用の陣の敷かれた場所だった。その城の2階にある広大なバルコニーは、どのような大きさの魔物でも対応できるように重厚な礎と広さを持たせている。雨の心配があるだろうが、山の高台に築かれた城は雲を下に眺めるほどに高いため、到着直後に雨に打たれる心配はない。
 ようやく闇に慣れてきた視界が、バルコニーに続く窓から誰かが歩み寄ってくるのを捉えた。
 彼はゆっくりと近付き私を見下ろした。赤い鱗の立派な体躯のドラゴンだ。相当の齢を重ねたのか鱗には焼き払った物に含まれる金属の粒子がこびり付き、苔のように体を覆っている。瞼は厚く、瞳は深紅であったが若干濁ったようで視線が合わせにくい。牙は象牙の色合いに鈍く光り、角も先が丸くなっている。しかし、攻撃的ではない外見であるが故に、堂々とした威厳を放つ老人の気質を際立たせた。
 私は目の前のドラゴンに頭を垂れた。
 彼が私の知っている竜だとすれば、今の彼は相当の地位にいるだろうと思えたからだ。
「来るがいい」
 ドラゴンが身を翻した。
 翼の無い広々とした背から尾に連なる優美な鱗の流れを見遣りながら、私はシクラと一回だけ顔を見合わせて後に続いた。
 廊下ですれ違う魔物達は誰もが竜に道を譲り畏まる。そして、その後に続く人間を驚いたように見る。さらに人間に魔物がくっついているのだから、危害はないのかもしれないと敵意も見せずに通り過ぎてゆく。この地の魔物は人間にかなり好意的な方なのだろう。それが『竜王』の功績でもあるのかもしれない。
 いくつもの階段を上り、やがて最上階に辿り着く。
 重厚な両開きの扉を控えていた悪魔の騎士達が開く。歴代の竜王が使用している執務室だ。使い込まれた巨大な漆黒のテーブルも鏡のように星空を移し込み、品良く二人分のお茶が用意されている。これが私とシクラの分であるとすれば…、彼が私に用がある存在なのだ。
 どう切り出せば良いか…。
 私は席に着く事もできず閉められた扉の前に立ち尽くし、窓辺でようやく振り返った竜を見つめていた。
「貴殿ともあろう者が、あの若造との交渉だけで納得するとは思えなかったのでな」
 なるほど、先手を取ったと言いたいのか。
 私は改めて慇懃に、そしてムーンブルクの外交官が国王に向ける最上級の会釈をした。頭を垂れたまま、名を名乗る。
「私はムーンブルクの外交官。リウレムと申します」
 そして顔を上げて竜を見る。
「久方ぶりです。ダース殿」
 深紅の竜は嬉しそうに目元を細めた。それは彼が私の知るダース殿であると肯定したも同じだった。同時に、彼にとっては私が彼の知るリウレムと言う存在であると確信したとも言えるだろう。時差はあるものの、互いに再会を喜ぶ気配が流れた。
 初代の補佐は私が知る限りでたった2名のみ。1名は後に初代の妻となった竜であり、その後を継いだ、目の前にいるダース殿が初代が退陣されるまで補佐を勤め上げただろう。あの方の性格を考えれば、余程の事がなければ補佐役から外すという事は考えられない。私が知る限り、彼等の相性もよく、新たな補佐として充てられたダース殿も飛び抜けて有能であった訳だし…。
 先ほどの魔物達の反応を見ても、彼は初代以降の『竜王』の補佐もしているかもしれない。もし私の推測が正しければ、彼が魔物達にとって最も信頼の厚い『竜王』に足る存在となっているはずだ。
 いや…むしろ…。
「貴方がリュゼル殿を推したのですね? 魔物が力があれど、あれほどの若者に従う事ができるかと言えば…可能性としては低い。魔物達には魔物達から長い間信頼を置いていた存在というものが君臨している。君臨しているだろう存在の補佐があって彼はあの地位にいる。それが貴方。違いますか?」
「…その通りだ」
 そう呟くように返して、ダース殿は席を勧めた。私が応じて椅子に座ると、前にダース殿が寝そべるように姿勢を崩し視線を合わせる。
「リュゼルは若いだろう」
「あの年齢であの手腕を発揮できるのです。大物の器と判断します」
「しかし、貴殿の主は幼い」
「…」
 私が黙り込んでしまったのを見遣り、ダース殿は覗き込むように目の前に顔を寄せる。鼻先が手を伸ばせば触れてしまいそうだ。
 余裕なく表情を硬直させてしまった私の顔が、彼の濁った赤の瞳に映った。
「我々が、あのような小娘の約束を信ずる事ができようか? …いや、できまい。リュゼルの若造ですら渋々従っている我々なのだ。いや、ほとんどは若造を信頼してはおるまい。彼等はあの若造を推し、支えている私を信頼しているのだからな。とにかく、私は信用できない。このままでは若造の指示に従う事もできん」
 なるほど。正しい反応だ…と、私は思わず拳を握った。
 確かにルクレツィア様は幼い。ムーンブルクの民ですら女王と認めてもらえるか、実際の所、不安ではある。
 他国の国王なら、なおさら信頼を置いてもらうなど難しい。例え、どんなにルクレツィアが努力されたとしても、年齢が若すぎる事を覆す事はできないのだ。第一、彼女は後見人もおらず孤独な身だ。リュゼル殿がダース殿の補佐を受けているが故に魔物を統べる事ができるが、ルクレツィア様はまだ補佐をしてくれる存在が確定していない。
 …思わず彼女の心の安定の為にムーンブルクから連れ出してしまったが、仇になってしまったな。
 彼女を女王に迎えるのでさえ困難な事態になりかねない。国を捨てた王女と言われては全てがおしまいだ。
「貴殿はあの娘の何になるつもりだ?」
「…何に?」
 唐突な言葉に驚きが隠せない。
 私は外交官の装束を纏っている。夕暮れと朝焼けの色合い、紅から紫へ移ろうその色彩はムーンブルクの象徴である2大王族の色でもある。太陽のサラマクセンシスと月のラルバタスはそれぞれに王位継承権を持っていて、その2つの王族に公平に仕える意味合いを持っている。私が彼女に仕えているのは、外交官として当然の責務なのだ。
「あの小娘は外交官としての貴殿を必要としていない」
「…っ!」
 毒針を持った瞬間に、体が窓際に吹き飛ばされる。甲高い音をたてて、手から離れた針が床を跳ねた。
 頭に血が上った状態では、どのような状況になっているかすら理解できなかった。ただし、主に腕に痛みがある以上、腕を払われ、あまりの力に体ごと払い飛ばされたような分析をする。腕にヒビが入ったかのような熱を感じる痛みに表情は強張り、体を打った衝撃に肺が痛み息が荒くなる。さすがはダース殿。年齢を感じさせぬ動きに、私は観念してその場に蹲るように座った。
 さすがに、こんな状態では彼に勝つのも逃げるのも不可能だ。
 ひんやりと腕の熱に冷たさが差す。腕に縋るシクラの不安そうな表情に、私は睫を伏せて視線を彷徨わせた。
「貴殿は…隠してきた何かを、初代に暴かれるのを酷く恐れていたな」
 深紅の竜が呆れたように言うのが耳に届いた。姿勢を直したのか、鱗が床を擦る音がさらさらと響いた。
 私はのろのろと顔を上げた。
「私は正直、当時の貴殿に同情すらしていた。初代の心情も世界の情勢を理解して最善の策である要求であるのに、あんなに大騒ぎして半殺しにされてしまってなお拒んでいるなら、申し訳ないが初代に諦めて欲しいと思ったほどだ。しかし……今の私は初代の気持ちがよく理解できる」
 暗がりに爛々と二つの深紅の瞳が見え、それが私の視線を捉えようと鋭く視線を向ける。火炎竜である彼の口が開き、熱波と言えそうな熱い息に前髪が浮かんだ。熱さが苦手なシクラを背後に庇い、私はダース殿に視線を合わせた。
「私は貴殿がムーンブルクを見捨てる事を恐れている」
 いたく、つらく、目を伏せる。
「もし貴殿があの国を見捨ててしまえば、我々は初代の意志を遂行する事もできぬ。我々は侵略をするつもりはない。復興の手伝いの報酬としての移住を望んでいるのだ。現在のかの国の状況を見ても、かの国の指導者となる人材は貴殿以外に存在しておらぬ。かの国が再びムーンブルクとして復活せねば意味がないのだ」
 言葉が刺さる。
 何度、口煩く言われた事か…。あの方の声が耳の奥に残っていて、ダース殿の声と重なる。
 いや、ルクレツィア様もそう思われているだろう。縋るような赤金の瞳、裾を握る小さき手。振りほどいてしまったら、きっと今の彼女なら友人の少年達にも求められず己の胸の前で堪えるように握りしめてしまうだろう。雫がきっと手に落ちる。手に落ちて腕に向かって次々と流れてゆく。
 あぁ、そんな顔は見たくない。
 太陽を悲しませてはいけないと…魂が訴える。
 目を開いても何も写らない世界に浮かんだ幻を振払うために、私は頭を振った。
 彼女だけを先に行かせるために、手を離すことはできない。立ち尽くすことはできない。彼女を引っ張ってやらねばならない。しかし…そうしてしまったら…、私は…自ら立てた誓いを破ってしまう。
「貴殿がムーンブルクの信頼そのものにならぬなら、協力はできぬ。国王になれとはいわない。女王を導け、リウレム・ブルクレット・ムーンブルク。貴殿にしかできぬ」
 私は両手をきつく握りしめ、瞼を堅く瞑った。
 なぜ私でなくてはならない…。
 いや、そもそもどうしてリウレムはこんな性格なんだろう? ミトラを疑い、他人を傷付け、願いを持っているリウレム。それは今までの『私』ではあり得ないことだった。ラルバタスとして神託を授ける遥かなる前世の『私』達ならいずれも二つ返事で了承しただろう。嬉々としてルクレツィア様を支え、導くことを自ら進んで行ったに違いない。
 もっと違う性格で、もっと違う価値観で、もっと違う認識を持っていたならば…。せめて過去のいずれかの『私』であったなら、こんなに苦しむことなんてなかっただろう。
 だが…きっと、『私』は変わってなどいない。
 私は…変わっていない。
 おもむろに立ち上がり、背後にあった窓を開ける。夜の澄み切った空気は、標高の高さも手伝って酷く薄い。しかし、空は満天の星空で、月は満月にもうじきなる形状であった。それらを見上げて、私は目を閉じた。
 夜の闇が落ちている間、太陽が昇る場所を示す為に月は輝かねばならない…。
 彼女が人々の信頼を預かるに足る存在となるまで、私は彼女と共にいるだろう。支えて、導き、そして…かの国の人々が私に向けるだろう信頼を託すのだ。それは、どんな汚名も着こなす事よりも、剣を構え手を血に染め、謀略にて死に至らしめ、他国を焦土と化す事よりも難しかった。
 けれど彼女は望まれるだろう。一人出歩く事を強いられる不安な暗い道を、共に歩いてくれる事を…。
 腕にいたシクラを撫でる。私は一人ではないというのに、彼女を一人で行かせようと考えたなんて…全くもって酷い大人だな。
 再び目を開いて見た月は、励ますように柔らかく輝いていた。
「ダース殿…」
 私はゆっくりとダース殿に振り返り、畏まった。
「貴方の申し出…承らせていただきます。女王を導き、ムーンブルクの信頼となる事、誓いましょう」
 顔を上げまっすぐダース殿を見る。
 月の光とともに微風が入り込み、私の髪と衣をふんわりと撫でて過ぎ去る。決意を決めた表情は、いつもなら微笑んで弛緩している筋肉を引き締め、普段なら滅多に見る事のできない威厳に満ちているように映るかもしれない。目もきっと恐いと思わせるほどに真剣味を帯びているだろう。
 深紅の竜が息を飲むように固まった。そしてゆっくりと溜め息をついた。
「なるほどな…それが、貴殿がひた隠しにしていたものであったのだな」
 そして深紅の竜は頭を垂れた。
「貴殿を信頼に足る人物と認めよう。我々は協力を惜しまない」
 私は吐息と共に緊張を解いた。
 いつも浮かべる笑みが、疲労した顔に優しい。腕の痛みを思い出し、笑みに痛みがどうしても滲んでしまう。
「…今度はもう少し穏やかなご招待を期待していますよ」
 ダース殿が明らかに苦々しく目を逸らした。
「現竜王の事もある。が、考慮しよう」
 私は苦笑した。退出する際にかけられた言葉は、今のダース殿が求めた内容と大して変わらない。ダース殿が推し支える故に頭が上がらないのかもしれないが、彼の性格と明晰な頭脳を思えばダース殿にとって苦手な性格の部類に入るかもしれない。根はさすがあの方の曾孫と言いたくなる。
 手を焼く主か…。全く、他人事ではないな。
 夜を照らす月は甘く優しく降り注ぎ、星の瞬きをより一層華やかなものにする。漆黒の闇に濡れた大地に灯る人々の営みは暖かく、それらを見下ろすべき高みにあるこの場所に立っているあの方の思いが胸に広がった。
 今、竜と人は互いに歩む事を誓った。