道標

 内装にもうじき取りかかる頃のムーンブルク城内を、今日は強く吹き込む北風がむき出しの骨組みを通り抜けていく。俺は背中に背負った剣を邪魔にならぬように角度を整えて、工事に携わる人間達の間をすり抜け城の奥を目指す。
 顔見知りの職人に軽く挨拶しながら奥を目指していくと、奥は空中庭園になっている。数段ほど階段を上って空中庭園を見下ろすと、植物は青々と茂り奇麗に手入れがされている。せせらぎまで再現された小さくも清らかな森には色とりどりの花を咲かせ果実を実らせ、虫や鳥までもが集まり各々にその身を休めている。
 この国の女王であるルクレツィアに呼ばれたのだが、俺がこれ以上立ち入って良いものなのか思わず考えてしまう。なぜなら、この階段を上りきると中央政権の集約するムーンブルクの実質的な執務の区域になる。先に外装も内装も完全に済ました事は、女王が入室されている時点で予測はできる。遠目からでも優雅な造りであるのは、素人の俺ですら感じられる。ムーンブルクの中級仕官でも簡単に立ち入る事ができない場所に、他国の傭兵如きが立ち入るなどできないだろう。
 誰か降りては来ないものか…。そうすればルクレツィアに取次いでもらえるんだが…。
 俺はそう思いながら、階段の横で手持ち無沙汰に待つしかない。王国の重要な機関への立ち入りは、慎重に慎重を重ねるに越した事はないのだ。罪に問われなくとも、反省を促すために牢屋に放り込まれる事は十分に考えられる。
「おや、ロレックス君」
 穏やかな声に俺が見上げると同時に、さらに声が掛かる。
「暇かね?」
 真っ黒い髪を後ろに適当に撫で付け、赤茶けた錆色の瞳の男は階段の上から俺に声をかけた。最近見かける大神官らしい重厚で威厳を際立たせるローブではなく、一般的な旅の僧侶が纏うようなローブだ。腰から釣り下げた二本の巨大なメイスが、階段を下りる足捌きの最中に大きく揺れて存在感が嫌にも増す。
 長距離を行く装備ではないものの、神官らしい仕事をしに出かける様子には到底見えない。
 俺はハーゴンの物言いにちょっぴり腹立たしさを感じ、ぶっきらぼうに答えた。
「暇に見えるのか?」
「仕事をしているようには…見えませんけどね」
 声を押し殺し、ハーゴンは笑う。笑いが落ち着いた所で、彼は不機嫌極まりない表情を貼付けた俺に平謝りをした。
「すみませんね。女王陛下の名を借りて君を呼び出したのは、私なんですよ。でも最終的には女王陛下の依頼でもあるので、完全に、全部が全部嘘って訳じゃあ…ないんですよ」
「…?」
 俺が首を傾げている間に階段の上の扉が開き、風に金髪が旗の様に閃いて輝いた。純白と可愛らしいピンク色の色彩のローブに身を包み、袖から覗いた手にはランプが慎ましやかに下げられている。階段を下りて俺の前に歩み寄ってきたルクレツィアは、赤金の瞳を覆う金髪の睫を瞬かせはにかむように笑う。
「ごめんね。ロレックスさん」
「気にするなよ」
 申し訳なさそうに眉根を寄せるルクレツィアに俺は笑ってみせる。幼い女王は俺の笑みにようやく笑みに安堵を混ぜた。
 ルクレツィアがそっとハーゴンに目配せすると、ハーゴンは頷いて俺に説明をはじめた。
「実はアレフガルドからの移民受け入れに対応して、アレフガルドとムーンブルクの直行便を一時的に運航する事になったのです。一般常識として知っているでしょうが、アレフガルド近海の海流は大変複雑で定期便としての運行は実質不可能。今回だけの特例としてムーンブルクがデルコンダルの海軍の船を数隻借りて、移民の運搬を行う事になったのです」
 確かにアレフガルド近海の海は世界で最も複雑怪奇と謳われる程の難所であり、定期船クラスの船では沈められてしまう程に荒れるとされている。定期船が運航されている区域はガライとルプナガ、そしてガライからサマルトリア西端の港のみだ。
 ロンダルキア大陸側には浅瀬や暗礁が数多くあるとされ、航海技術も然る事ながら船の性能も必要不可欠とされている。現在アレフガルドとムーンブルクの間の海域を安全に運航できる船は、世界最強の海軍国家デルコンダルの突撃形である最も小回りの効く軍艦だけとされている。
 アレフガルドを南回りでムーンブルクへ行く航路など前代未聞と言ってもいい。
 その為のデルコンダルの軍艦借り出しなのだろうが、俺はその船に乗りたくねぇよ。
 俺の感想が顔に出てしまったのか、ハーゴンが苦笑する。
「その為なのですが、現在は使われていない大灯台の解放する事になったのです」
 そしてルクレツィアが、手に持っていたランプを捧げるように持ち上げた。
「ルクが祝福した聖なる種火だよ。この炎の光は災いを和らげ、潮風にも決して消えないんだよ」
 白熱したような色合いが、ランプの波打つようなガラス面に映り込み白と明るいオレンジの移ろいを放つ。それでも焚火の炎のような揺らめきは見えず、魔法の光のような均一な輝きを放っていた。暖かそうを通り越して熱そうな印象をもたらす炎は力強さを与える印象で、確かに潮風にも消えず災いを和らげそうだと思う。
 俺がランプを覗き込んでいる間に、ハーゴンが言葉を続ける。
「私は流石に建物内での戦いに向いていません。その為、私の護衛…というよりも私の補佐をしてくれる傭兵を雇う事に決めたのです」
「それが、俺って事か?」
 ハーゴンが苦笑するのを俺は睨み付ける眼差しで見上げた。
「サトリ君にはお話は通してありますし、君がいない間はムーンブルクが全力を挙げて彼を守ります。まぁ…守られるような方ではありませんがね」
 なるほど、根回しも完璧って訳か。
 実質ルクレツィアの依頼が俺達二人に与えられており、ハーゴンと一緒に依頼を遂行する事を事前に知らせる必要というのは確かに依頼人には存在しない。ましてや俺が現在承っている依頼は、彼女の依頼遂行中は王国で代行してもらう上に、護衛の対象が了承してしまっては俺に断る理由などある筈がない。
 俺は腰に手をやり、ルクレツィアに頷いてみせた。
「分かった。引受けるよ」
 ルクレツィアが満面といえるほどに眩しい笑みを浮かべ『ありがとう!』と言う。そして、空中庭園へ歩み出した。
「あのね、ルクが旅の扉開いて大灯台近くまで送るから、そんなに長旅にはならないよ!」
「え?」
 確か以前ルプナガに行く為の砂漠越えをする前に、草原の彼方に塔が見えていた。リウレムさんがあの塔が使われなくなってしまった大灯台である事を説明してくれたが、どう考えてもムーンブルクからは長旅を覚悟せざる得ない距離離れているはずだ。
 第一、旅の扉って……。
「ムーンブルクから大灯台の直ぐ近くまで強力な魔力の流れがあるのです。その力を用いて、ルクレツィア様が旅の扉を開いて下さります。ま、君と私なら明日の夕刻にはここに帰って来れるでしょう」
 どんどんと背中をハーゴンに押されて、ルクレツィアの隣にまで歩かされる。
 目の前に青く輝く光の渦が広がった。ルーラの際に溢れ出る色と同じ澄んだ透明感のある青い光から、光の粒子と共に沸き上がって強い風が俺の顔を撫で上げて通り抜ける。黒い前髪がばしばしと顔に当たり、空気を含んで帽子が浮き上がるのを慌てて両手で押さえる。
 背後でハーゴンが慇懃にルクレツィアと話す声が聞こえる。
「ルクレツィア様、帰りはキメラの翼で戻ってきますのでお構いなく」
「二人共、気をつけてね」
 どん。と案外大きな掌に押される感覚にバランスを崩し、俺は盛大に叫んだ!
「いきなり押すな、バカヤロー!!」
 言葉を最後まで言い切ったと同時に頭から水面に突っ込まれるような姿勢で、俺は旅の扉に突っ込んだのだった。

 □ ■ □ ■

 先ほど王宮にいた頃と大して変わらない位置に太陽が輝いている。
 ムーンブルク近辺に自生する植物と異なり、熱帯を彷佛とさせる植物が多い。降り立った場所も城の大黒柱くらい太い巨大な木の根っこで、思わず躓きそうになった。アレフガルド南端の暖かい気候と西の砂漠の熱気が、ロンダルキア大地から吹き降りている乾燥した空気と反応し、膨大な雨を落としているんだろう。デルコンダルに負けない熱気と湿気がある。
 見上げるほど巨大な大木の木々の間から、その大木に負けぬほど高く塔が聳え立っている。黒い石材を積み上げた塔の壁は長年の潮風に塩が粉を吹いたようにへばりつき、紫のような濃い灰色のような色彩となっている。巨大な柱が外壁に食い込むように取り付けられ、頂上まで伸び上がる様は圧巻を通り越して高圧的だ。普通の塔とは違い外壁が崩れ落ちている箇所も多く、外から中が見えるところも数多く存在している。
 俺が見上げていると、ハーゴンが塔の扉を押し開けた。錆び付いた扉の音が森の営みを引き裂くように響き渡り、俺達の前に真っ暗な内部が口を開いたように広がる。ハーゴンが小声で呪文を唱え掌にレミーラの光を生み出し、もう片手にメイスを握る。
「さっさと行こう」
「あぁ…」
 普通、小回りが利く俺が先に入るべきだというのに…。ベルトに大事な火種を括り付けてというのに、ハーゴンはさっさと先に行ってしまう。
 ………。
 なんだかなぁ。
 俺は腑に落ちない気分で剣を抜いて彼の後を追う。
 内部は相当に入り組んでおり迷路のようになっている上に、重厚な基礎で一階は内部に光りすら届かない。淀んだ空気は重く、小走り並の速度で進む足音が反響し、床に積もった埃に足跡を刻む。魔物も出るには出るが、俺達の敵ではない。
 だが、俺はいつも以上に魔物には出て欲しくないと願っていた。
 というのも…。
「この塔を破壊するつもりなのか!?」
 彼の横の壁に開いたでかい穴は未だにガラガラとレンガが崩れ、レンガの下にはメイスで叩き潰された魔物が埋まっている。どう見ても俺の二倍は大きく開いてしまった穴に、塔の倒壊の不安を抱かずにはいられない。
 俺の悲鳴に近い訴えに、ハーゴンはにっこりと笑ってひらひらと手を振った。
「大丈夫、大丈夫。大黒柱さえ壊さなければ問題ない。でもこれで天井に穴があいたら、二階に上がれるんだから好都合じゃないか。天井が高くてメイスが届かないのが残念でならんよ」
 ハーゴンは周りの環境ごと敵を薙ぎ倒すのを得意としている。確かに、敵への追撃やダメージ加算などで利点は数多くあるが、時と場所を大いに選んで慎重に行ってほしいものである。『建物の中での戦闘に向いていない』どころの話ではない。普通なら倒壊しているか、軟弱な武器なら武器が壊れているところだ。
 しかも、この男。せっかちにも程がある。
 落ち着きがないという訳ではないが、この迷路のように入り組んだ道を覗き込んでは当てずっぽうに進むので、俺は道を覚えるので精一杯だ。後を追いかける俺に、前を行く男の背だけが追い抜けぬ位置に常にある。
「昔…」
 ハーゴンがぽつりと言葉を漏らした。
「まだ西の大砂漠が森であった頃に、その地域一帯を治めていた今は亡き王国の王はとても傲慢な王様だった。己が特別で何をやっても許される、己の行いはミトラの意志なのだと豪語して止まない愚かな王だった。王は塔を建て、天空へ昇る事を考えた。天空、神のおわす場所こそが己のふさわしいと考え、この場所に塔を建て始めた。塔は伸びる。雲を超え地平線の彼方からもどの国からも見えるほど高くなったこの塔は、やがて人々から恐れられるようになる。ある日、ある者が王に進言した」
 恐らく大灯台の事の始まりの話であるのだろう。
 ハーゴンは足取りを全く緩める様子もなく、大灯台の内部を進む。
「天を見ず、地を見よ。神は天を見上げる事なく、常に地上を見守っている。…とね」
 前を行く背中が小さく動く。小さい祈りの仕草であることが、背中越しではあるか感じられた。
「王は進言した者に問うた。お前は何者だ…とね。フードを深くかぶりし進言した者は両手を王の前に差し出し、王はその手を見て悲鳴を上げた。進言した者は瞬く間もなく光り輝きてその光は王を焼き、親指の欠落した両手に王であった炎を納めて言った」
 親指の欠落した両手は、ミトラの姿を表現する唯一の言葉である。
 自ら折り取り神の生み出した者達の住処に投げ入れた両手の親指は、神託を預かりて授ける者として生命を導いたという。それがムーンブルクの王家の始祖、『ミトラの両拇指』と呼ばれる神官である。その話は最も古い聖書の時代から存在し、ムーンブルク王家の携える予知と神託の正しさに、ミトラの両手が親指の欠落したものであるというのは一般常識といえるほど認識が高い。
 俺が聞き耳を立てながら追いかけている合間も、ハーゴンの話は続く。
「炎を塔の最上階に安置し、世界を照らしなさい。最も高き場にて光り輝くものとならん、かの者の願いを私は叶えたのだ。…そう言って消えた。その一年後、この塔は大灯台と呼ばれ始める」
 そこで、ハーゴンはクリスタルで出来たキングの駒をすっと肩口から覗かせた。
「最近の最高傑作なんだが、どうだね?」
「作り話かよ」
 俺は呆れて相手が年上であるのも忘れて悪態を付いた。その様子にハーゴンは肩越しに振り返って、小さく笑う。
「大神官という者は、とにかく話し上手で聞き上手でなければいけない。話の真偽よりも神の恩寵に添う意味こそが重要で……、お、明かりだ!上に続いているのかな?」
 ハーゴンが駆け出すと同時に、俺も暗闇を追いやる太陽の光を見る事ができた。足早に進む背中を追いかけると、4つの階段が巨大な柱に向かって伸び天井を貫いている。どの階段を上るかという意図は、ハーゴンのせっかちさにあっけなく押しつぶされる。彼は一番近くにあった階段を早速登り出したのだ。
 ……どれでも良いって訳じゃないだろ。
 思わず渋い顔になったが指摘してみれば、『登ってみんと分からないだろ?』と言い返されてしまうに違いない。正論すぎて俺も返す言葉も見つからないから、黙って先を行く彼の背中を追う。
 階段を上りきった瞬間に、強い風が横殴りに通り過ぎていく。
 潮風に風化して脆くなった瓦礫の積み重なった床には、吹きすさぶ風のおかげで埃すら積もっていない。階下が真っ暗であった事に比べれば、そこは眩しいほどに明るい。そう、明るいと感じるほどに壁や天井が崩れ落ちていて外と通じていたのだ。崩れた壁の向こうには塔の二階とは思えない高さから眺める風景がある。西の大砂漠が一望でき、さらに登れば砂漠を超えて水平線が見えるんじゃないかってくらいだ。淀んでいた階下の空気とは違い、薄くも流れる風が美味く感じて胸いっぱいに吸い込む。
 少し離れた所でハーゴンはレミーラの光を打ち消して空になった手にメイスを持ち、肩に担いで辺りを見回していた。
「魔物が……いない?」
 風に流される前に届いた言葉に、俺は殊更に神経を研ぎ澄ます。
 あの暗い淀んだ空気越しに伝わってきた魔物達の気配、闇に響く足音や鳴き声、黒に浮かんだ光に反射して爛々と輝く瞳。階下で嫌という程に生息していた魔物が、この階では影すらない。息を潜めている気配すら感じられぬここは、痛いほどの静けさを持って俺達を包み込んでいた。
「下の魔物が脅える程に強い魔物の縄張りなのかもしれない」
「その推測が妥当だろう」
 ハーゴンが頷いて両手にメイスを握る。慎重になった歩みに続こうとした時、影が差し辺りが暗くなる。
「ん?」
 俺は視界を巡らす。影が差すほど近くに魔物の気配も姿もない。
 すると、外の光を遮る巨大な影が右から左へと飛び去るように速く動く。一軒家並の大きさを持つ巨大な翼が悠然と光を遮り、黒い巨大な影を塔の内側に投げ込んでいる。光に透かされた翼の色は薄紫の色彩を鈍く帯び、鋭く大きな嘴が金属質に似た光沢を得て輝く。風に首周りの羽毛がわさわさと蠢き、巨大な尾が翼の動きに合わせて角度を変える。
 瞳が殺気を滲ませて俺達を捉えた。
 ハーゴンがメイスを構えてやれやれと首をまわす。
「ヘルウィングだろう。なかなかどうして…、厄介な魔物が住み着いてくれたものだ」
 ヘルウィングの開かれた嘴から灼熱の火炎が放たれるのと、ハーゴンが祝詞を発するのはほぼ同時だった。突如生じた輝く大気の層が火炎を遮り、俺達の両脇を通り過ぎて掻き消えていく。揺らぐ熱気を海風が拭い去るのに時間はかからず、俺は剣を構えたまま周囲を見回した。
「この地形、圧倒的に敵の有利だな。場所を移動しないと勝機が見いだせないぞ」
 天井と床の間はヘルウィングには小さすぎて内部に入り込んでまで直接攻撃してくることはないだろうが、こちらも接近戦が出来ない以上決定打を与える事もできない。しかも相手は火炎の息を吐いてくる。どんなにハーゴンが完璧に防いでみせても、勝負は一向に付かないままだろう。
 俺の言葉にハーゴンも頷いた。
「私も攻撃呪文の心得は基本的にないから、攻撃手段は直接攻撃になる。もう少し広く高い場所に登ってみよう。あと、いくつか役立つものを渡そう」
 ハーゴンが手渡してきたのはキメラの翼と変哲のないロープ。それを俺の手の上に乗せて、ハーゴンは早足で歩き出す。
「もし塔から転落する事になった時は、迷わずキメラの翼で先に戻るんだ。私は奴の火炎を完全に防ぐ事ができるから、負ける事はまずないだろう。そしてそのロープは私がフバーハの力を施してある。数時間の間だけ呪文の力で燃え上がる事はない。持っているといい」
 俺から背を向けて語りかける言葉は、冷たく感じるほどに真剣味を帯びていた。早足になる足並みは、まるで率先して敵を打ち倒そうという思いが伝わってくるほどに強く床を踏む。
 やがて大きく塔の壁が崩落した場所に出た。大きく三階分の床が抜け落ちた吹き抜けのような空間からは、海峡を挟んだアレフガルド大陸まで見渡す事ができる。若干西に傾き出した日差しが眩しく目に刺さるも、その風景は絶景といっても差し支えがない。
 俺とハーゴンがその空間に出て間もなく、例の魔物の翼の音が響いてきた。
 剣を逆手に持って両手をできるだけ使える状態に整えると、俺は大きく後ずさる。魔鳥が突っ込んでくるタイミングを見計らい、俺は全速力で駆け出した!
「ロレックス!!」
 ヘルウィングに飛びつこうとした俺の服を、ハーゴンはとっさに掴んできた。そのままバカ力と言って良い力で、強引に後方に投げ飛ばされた! 後方にあった壁にぶつかった俺は、衝撃に息が詰まり咽せ込んだ。肺に空気がうまく入らず、苦しくて背を丸める。
 目の前にまで歩み寄ったハーゴンは、きつい口調で俺に言い放った。
「無茶はやめろ!」
「知るかよ」
 俺は視線を上げてハーゴンを睨み付けた。敵は追い払ったのか、既にそこにはいなかった。
 どう考えても空を飛ぶヘルウィングを仕留める方法で、敵に取り付いて攻撃する以上のものは浮かばない。体格がでかいが為に、この塔から与えられるダメージでは致命傷には到底至らないのだ。同時に巨大な為に人間が乗ったとしても敵は浮力を維持せざる得なくなり、飛ぶ事と攻撃する事を同時に行えない故に隙も生じさせることができる。
 俺はあの厄介な敵を倒すのが、その方法しかないと確信までしていた。
「俺の命は俺のもんだ。アンタのお願いは聞けないね」
 ハーゴンの錆び色の瞳が大きく見開かれた。
 俺は剣を拾って持ち直し、ハーゴンに向かい合った。
「飛びつくのが危険と思うんなら、俺が安全に奴に取り付いて仕留められるよう協力して貰いたいもんだな。今一番危ない行為は、ヘルウィングの背に取り付くことなんだからな」
 取り付いてしまえば致命傷を与えて失墜した所で、キメラの翼で逃げでば良いんだ。どれだけ安全な条件で、どれだけ力の入る態勢で相手に取り付き、どれだけ相手が冷静さを取り戻す前に素早く致命傷を与える事が出来るか。そう、ただそれだけなんだ。
 傭兵にとって、それだけでいい。
 己の命におよぶ危険など、考えていては全員など生き延びてなどいられない。敵を倒す、仲間を守る、その為に自分が何をしなくてはならないのか。それが、一番大事なんだ。
 俺が鋭くハーゴンを睨んでいると、ハーゴンは溜め息をついて視線を反らした。
「私がおとりになり、敵の動きを出来うる限り鈍らせてみせる。その間に君が仕留める。それで…良いかね?」
「あぁ、十分だ」
 協力してもらえれば、成功の確率だってぐんと増すからな。
 俺はにやりと笑ってみせると、その表情の変化にハーゴンは切なそうに目を細めて背を向けた。背を向けた後、彼は何かを呟いたようだったが、何を言っているのか良く聞き取れなかった。それでも、俺から無言で背を向けた事は、無言の了承に感じられた。
 一階と二階の高さは相当違ってはいたが、それ以上の階は一般的な間隔の高さで作られている。上の階から飛び付く位でちょうど良いくらいだろう。ヘルウィングに取り付きやすいよう上の階へのぼり、崩れた床から階下を覗く。ハーゴンも気にしていたようで、天井から見下ろしていた俺に軽く手を振った。周りを巡らして外から見えにくい場所を探して、身を隠し息を潜める。
 翼が大きく広がり塔の周りを旋回しているようで、影が流れるように滑る。滑空していた影は、この付近で旋回を繰り返し姿勢を改めた。ヘルウィングがハーゴンに気が付いたのだ。
 次の瞬間、巨大な影は突っ込むような形でハーゴンに向かう。
 ハーゴンは微動だにせず魔鳥を待ち構える。
 巨大な嘴が彼の頭上をつばもうとした瞬間、ハーゴンがメイスで己が立っていた床を穿ち抜いた! 元々脆くなっていたのか、それともハーゴンの力が強かったのかは知らないが、ハーゴンはそのまま階下へ落ちていく。魔鳥は驚きと獲物の喪失にほんの僅か、呼吸一回分にも満たない時間だが動きを止めた。
 俺には、その隙で十分だ!
 助走とつけて鳥の首筋の羽毛を掴み取り付く事に成功すると、俺は最初に翼の付け根に剣の刃を差し込み盛大に蹴りつけて深々と刺し貫いた! 剣が根元まで突き刺さると、俺はてこの原理で柄を踏み遣って敵の体内に埋め込んだ剣を回転させる。骨に引っかかった部分を支点に、翼の付け根の筋肉という筋肉と筋を断ち切った!
 悲鳴と激痛、そして片翼の筋が断たれて平衡を保てなくなったヘルウィングは残りの翼と足を使って何とか塔にしがみつこうとする。その暴れっぷりをどうにか羽毛にしがみつきながら耐える俺は、剣を引き抜いて敵の首筋に刺す! 姿勢が不安定すぎて足が使えないため、俺は拳で鍔を叩いて剣の刃を敵の首に深々と埋めていく。
 ヘルウィングが鼓膜を破ってくれそうな絶叫をあげて、さらに暴れ出した!
 完全に痛みに我を忘れてのたうち回り、魔鳥は完全に塔から足を踏み外す。落下する重力に俺の体が一瞬浮いた。
「うっ……!」
 噴水のように溢れ出した血液が羽毛を濡らし、手もとが滑る。顔に飛び散ってきた血液はゴーグルしていたから目には入っていないが、体が魔物の血液に濡れるのはすごく気持ちが悪い。
 俺は体全体の力を掛けて剣を両手に持ち、引き抜いた!
 魔物との繋がりを失った体が一瞬浮くと、俺は予め先ほどのロープを結わいて置いた短剣を塔へと投げる! 短剣は勢いも乗らなかったせいか、塔の壁に弾かれてしまう! …仕方がない、キメラの翼で離脱するしかないか。
 俺が懐にしまったキメラの翼を取り出そうとした時、急にロープが引かれる。顔を上げるとハーゴンがロープを掴んで、引き寄せようと手繰ってくれていた。再接近する事ができ塔の崩れ落ちた壁の中に転がり込んだ俺は、再び転がり込んだ崩れた塔から下を覗き込んだ。もう、魔鳥が飛び上がってくる気配は感じられない。
 あれだけ致命傷を受けて生きているとしたら、回復呪文を使える存在だけだろう。だが、回復呪文の制御を行えるほどの冷静さが相手に残っていればの話だがな……。
 俺はその場に座り込んでようやく一息ついた。
 なんつーか、疲れた。
「…大丈夫かね?」
 背後の瓦礫を避けながら、ハーゴンが歩み寄ってくる。見遣った時に長く伸びて壁に凭れ掛かる影を見て、大部日が傾いてきたんだなって俺は思った。小さく頷いても動く気配のない俺の隣に、ハーゴンはどっかりと座った。そのまま日が落ちてゆくのを見る。
「昔…」
 またハーゴンの作り話かぁ…?
 俺は呆れて突っ込む気も失せて、隣の男の言葉を待つ。
「とある神官が伝説を頼りにこの塔を登ろうとした。理由は言っても誰も信じてはくれなかった。バカ正直に訴えても、誰も信じてくれなかった。そんな時、ローレシアからやってきた傭兵が一緒に塔に登ってくれた。それが縁だった。腐れ縁という奴だ」
 そこでハーゴンは失笑してポーンを取り出した。
「駄作だな」
「……大神官様なんだから、もっとしっかりしてくれよ」
 俺の言葉にハーゴンは力なく笑った。俺達の目の前で最後の光が沈み世界の空に砂の様に星が散り、大陸にも灯火が灯りはじめる。世界中の光が散らされる。漆黒の闇の中を行く者に映る、確かな印として彼等は輝くのだ。
 これからこの塔もその一つになる。再び人々の道標となる為に…。
 でも、その光を灯すのは俺達人間だったりするんだな。