君臨

 常夏の国デルコンダル。周囲が海に囲まれた島国で、巨大な入り江の影響でまるでドーナツみたいな形になっている国だ。とんでもない湿度はムーンブルクの雨期の湿度に匹敵し、とんでもない熱気はロンダルキア大陸の北半分の面積を誇る大砂漠の昼と変わらない。冷涼な気候の人間はとても耐えられる気候ではなく、実際にサトリとシクラは宿屋のベッドに臥せっている。
 俺とルクレツィアは出身国に夏があるからかデルコンダルの気候には大分耐性があり、リウレムさんが仕事で王城に出向いている事もあり買い出し当番である。旅の必需品や、補充をすませ、次の目的地への船のチケットも購入した。
 真っ青な青空に突然、ラッパの音が響き渡った。それは町中に響き渡り、俺の隣を歩いていたルクレツィアが吃驚したように顔を上げた。ふわふわの金髪の奥で赤金の瞳が、周囲の住人や観光客がいそいそと室内に入っていく様子を捕らえている。事情が分からない人間も、地元住人らしき人が声を掛けて連れて行く。瞬く間に大通りから人通りが消えた。
 俺もルクちゃんの肩をぽんと叩いて、近くの喫茶店に体を向ける。
「ルクちゃん、行こう。処刑が始まるんだ」
「しょ…処刑…!?」
 ルクレツィアが可愛らしい目が飛び出る程に見開いて俺を見る。おどおどと口元に手をやって周囲の様子を見回せば、緊迫した空気にさぁっと青ざめる。驚くのも無理はない。ムーンブルクには処刑制度なんてなかった筈だし、例えあったとしてもデルコンダル程異様な形で執行される事はない。
 住人達が鉄格子や鎧戸で窓を締め始める音が周囲に響く。俺はルクレツィアを強引に引っ張って喫茶店の入り口に向かう。喫茶店の店主も俺達を心配してか、扉に手を掛けて待っていてくれている。俺達が店内に入ると、鉄で補強された扉を閉め、鉄で出来ているのだろう頑丈な閂で扉を閉めた。
 俺は一つ息を吐いて、店主に飲み物を注文する。俺は珈琲、ルクレツィアはココナッツミルクの紅茶を頼んだ。
「ロ…ロレックスさん…処刑ってどういう事なの?」
「ルクちゃん、知らなかったのか?」
 てっきりリウレムさんが説明したと思ったが、この国はムーンブルクと違い過ぎて説明しきれなかったのかもしれない。まぁ、別に知らなくても良い事なのだから説明の必要もないのだが、こう言う時に驚かれて逃げ遅れてはたまったもんじゃないんがな。
 俺はアイス珈琲を啜りながら説明する。
 この国には世界最強の海軍と、世界最大の裏社会と言われる盗賊や密売人のマーケットが存在している。ただでさえ日差しもキツい国なので、頭にはターバンを巻き、通気性の良い長衣を纏わなくては生きていけない。身体的な特徴を覆ってしまうこの国の服装は、同時に世界の犯罪者や後ろめたい連中が隠れるには好都合と言う事だ。しかもこの国は条件付きで犯罪者に甘い。
 ちょっとだけ犯罪者に甘い国になった経緯を語るとなると、この国の歴史に触れる必要がある。この国は元々無法地帯だった。国とも呼べないこの地に立ち寄ったカンダタという指導者が、現在のデルコンダルという国の原型を作ったのだ。カンダタは盗賊であり、その実力の高さから無法地帯の犯罪者共のカリスマ的存在として君臨したという。カンダタは傭兵にも似通った仲間意識や任侠と、同業者に対して厳守させた掟をこの国に齎した。
 ちなみカンダタが作ったルールは非常にシンプル。自分の尻尾が見えるような木っ端な盗賊や密売人は面汚しとして、自分達が始末するというものだ。それは国外で起こした前科や犯罪ではなく、デルコンダル内で起きた犯罪に限る。カンダタはこのルールをこの国にだけは徹底させる事で、世界中の国からデルコンダルという国を守護した。世界で最も同業者に厳しい、裁きの国ともされている。
 カンダタの掟を管理しているのは、カンダタの名を襲名する歴代の代表達。彼等はこの国の国王として、カンダタの教えの下この国の全てを守護するのだ。
 そこまで話して、俺は努めて明るく言い放った。
「つまり下手な同業者の処刑だ。処刑対象に魔物を呼び寄せる細工をした後、この国で飼っている闘技場の魔物と共に城下に放たれるんだ」
「ひ…酷いんじゃない…?」
 ルクレツィアは完全に怯えきって、可愛い顔を引き攣らせている。赤金の瞳は涙で潤んでさえいるようだった。
 俺はそんな様子を見ながら、しれっとした顔で珈琲を飲み干した。
「自分の失敗が招いた結果だからな。他の国の様に掴まったら確実に殺されたりする訳でもなく、上手く逃げられれば生き延びられる希望もある。だから、この国で裁かれるリスクがあるのを承知で、裏社会の連中はこの国に来て仕事をするんだ」
「そ…それでも……」
 納得していなさそうな様子でルクちゃんは呟く。実際、犯罪から縁遠い人間はこのような処刑法に戸惑いや嫌悪感を感じてしまうのはしかたがない。それも、今のような口頭の説明を聞いただけでは恐ろしく感じるものだが、実際の様子を見ればそれも一変する。この国では処刑は一種の祭というのを理解させるのは、百聞は一見しに如かずの通り見せた方が早い。
 俺達の会話を聞いていた店主は、俺が立ち上がったのを見ると上の階段を指差した。俺の独特な訛からローレシアの傭兵だと分かっているようなので、屋上から処刑の様子を見るのを止めるつもりもないらしい。ローレシアとデルコンダルは気質が似ている関係もあって、こういう事を頼んだり説明する手間がないのが楽だ。
 立ち上がりルクレツィアの手を軽く取る。暗く沈んだ顔に、俺は軽く笑って言った。
「見に行こう。意外に連中は楽しそうに逃げてるもんだぜ?」
 デルコンダルの建物は重厚だ。城の建材と同じような頑丈な煉瓦と柱、窓枠は木材と鉄を組み合わせた頑丈なもの。これは元々デルコンダルが海と近かった事があり魔物の侵入が頻繁に起こった歴史が生み出した、人々の砦だ。世界最強の海軍国家だが、デルコンダルはメルキドと並ぶ要塞都市とも呼ばれている。一つ一つの家は緊急の際は強固な砦となり、砲台も設置出来る程の礎の上にある。ここ数百年のレベルでそんな事態は起きてはいないので、この処刑も人々の緊張感を持続させる為の手腕なんだろうと育ての親はよく言っている。
 擦れ違う事も難しい狭く急な階段を上ると、行き止まりかと思う天井の一部は鉄枠で囲まれて持ち上げて開く様になっている。俺がそっと開けば、処刑の喧噪と太陽の光が飛び込んでくる。僅かに開いた隙間から周囲を見渡せば、この喫茶店の屋上には魔物も処刑対象者の姿もないようだ。周囲の安全を確認し、剣の柄に手を掛けながら俺は扉を開けきって屋上に上がった。続いて来るルクレツィアを引き上げると、俺は処刑の様子が見える方角に歩み寄る。ルクレツィアが後から恐る恐る続いて来た。
 戦闘を知らない人間が見たら腰を抜かしても可笑しく無い、戦場のど真ん中の光景が目の前にある。これほど大規模な戦場が拝めるのは、今ではデルコンダルくらいなものだ。
 定期的に行われる為に、一気に数人から十数人に迫る人数が処刑される時もある。デルコンダルのあちこちから悲鳴や気合い魔物の咆哮が響き渡るのを、建物の屋上からデルコンダルの屈強な野次馬共が歓声を上げて見ている。中には己の血が滾るのを堪えきれなかったり、処刑対象者の挑発に乗って自ら武器を持って乱闘に突入する物好きもいる。もはや死刑対象も野次馬も良く分からない始末である。
 余程真剣に思い悩んでいたのだろう。ルクレツィアは呆然とその光景を見ていた。
「なにこれ……」
「ここはデルコンダルだからな」
 処刑と言っても、対象者は基本的に丸腰で放り出される事はない。防具の着用は認められないものの、自分の愛用の武器の所有は許される。腕が立つ者は武器一本で魔物を斬り殺して逃げ切って、夕刻には平然と城門を潜ったりするものだ。野次馬の乱闘が物語る通り、処刑される者を助けるのも認められている。この国では犯罪者であろうと仲間の存在が不可欠であり、仲間と運と実力がなければ裏社会では生きていけずここで死ぬという訳だ。処刑の対象になったとしても、この処刑をやり過ごせば実力ある同士として向かい入れられる。過去と感情を引き摺らないのはこの国のやり方だ。
 俺もルクレツィアの横で戦場を眺めていると、見た事のある顔に目を留める。俺がそいつを凝視していたからか、隣でルクレツィアも俺が見ている人物を捜し出した。
「知ってる人がいるの?」
「いや、こっちの業界では色んな意味で有名な奴がいたんだ」
 へらへらと笑いながらこっちに向かって来るのは、馬面のように顔の長い男である。しかも髪もぱさぱさと脂っ気がないくせにボリュームもないときたもので、後ろに結う程の長さがあっても顔の長さがどうにも引き立って仕様がない。体つきはそれなりに筋肉はあるものの、周囲で楽し気に乱闘に混ざる屈強な野次馬と比べればモヤシだ。彼はラゴス。盗賊としての腕前よりも、脱獄に定評がある泥棒である。ローレシアの牢屋にぶち込んで脱獄された事もあり、一部傭兵には非常に知名度がある泥棒である。
 大方、この国にも盗みに入ったはいいが牢屋にぶち込まれたのだろう。魔物と腕一本で渡り合える程の実力があるようには見えないので、このまま魔物に食われて彼の脱獄神話も終わりであれば良いのにと思う。流石にルクレツィアの前で言う訳には行かないが、サトリの前でなら言ってそうだ。
 ラゴスは魔物から逃げに徹しているらしく、手に持った短剣は飾りのように見えなくも無い。
 そのまま、俺達が立っている建物の横の路地に駆け込んだ。俺からは丁度死角になっているそこを、覗き込んでいたルクレツィアが声を上げた。
「危ない…!」
 俺が目を向けた時には、さっと手を通路に向けて火の玉を放ったらしい。炎が迸る音と燃え上がる音が響いたかと思えば、魔物の絶叫とラゴスっぽい男の情けない悲鳴が上がったのだった。それだけだったら良かったのだが、なんと屋上から手が生えてその下から情けない馬面が這い上がって来るではないか…!
「ルクちゃん離れて! 今、蹴り落とすから!」
「ひっひどい!超可哀想な人間を生命の危機に再び落とさないでぇ!」
 うわっ! 良く見ればなかなかいい歳行ったおっさんじゃねぇか! 女々しく俺の足に縋り付いて来るんじゃねぇ。目の前の男のまるで形容し難い行動に、俺は露骨に顔を歪める。そのままラゴスの鼻先に抜き放った剣の切っ先を突きつければ、涙も浮かべて拝み倒して来る。こっちの主張もどこ吹く風で、延々と命乞いと助けを求める言葉を悲痛な声で吐き続けるのだ。俺も堪忍袋はサトリのお陰で尾が針金かなにかで出来ていると思っているが、流石に切れる。
「良いから、地獄を楽しんで来い!」
 ぎりぎりと額を踵で押し返しているが、その踏ん張る力は大したものだと思う。なにせ、ラゴスの手は屋上の淵と壁に掛けられ、足も足場としては何とも心許ない場所に掛けている。俺だったら転落してしまうような体位でありながら、ラゴスは壁にへばりついて俺の足蹴を耐え忍んでいるのだ。脱獄を重ねた力量はどうやら嘘じゃないらしい。
「や、止めようよ。ロレックスさん」
「そうだよ! こんなこと止めようよ!」
 お前が言うな。
 俺はぎりぎりとラゴスの額を押す横から、ルクレツィアが耐えきれない様に進み出て腕を取った。赤金の瞳は涙ぐんでいる。俺は足をラゴスの頭から退かす事なく、ルクレツィアを正面に見て語り出す。
「ルクちゃん。この馬面は悪人でね、悪い事して牢屋に放り込まれて、悪い事をした罰が今下っている真っ最中なの。確かに目の前で魔物とかに食われちゃったら、可哀想かもしれないけど、この馬面に酷い目にあった善良な市民はもっと可哀想な訳。目の前に見えてるこの馬面が可哀想だと思うなら、ルクちゃんは騙されてるの。この馬面は可哀想なフリしてるだけなんだよ。運が良ければ生きていられるだろうから、放っておけ」
「真面目な顔して、なんて酷い事説いてるのっ!?」
「お前が盗んだ初代国王アレフの鋼鉄の剣を何処に流しやがった! お前のお陰で俺達ローレシアの傭兵の象徴が紛失しやがったんぞ! 俺達のプライドズタズタだ! 責任取れんのか!おら!」
「ひえ〜」
 あぁもう、態とらしく悲痛な声上げてるんじゃねぇよ! イライラするな!
 俺がラゴスに更なる力を加えて蹴り落とそうとした時、横から風が巻き起こる。追随した鎌鼬を寸での所で避けると、俺は驚きはしないものの冷静にルクレツィアを見た。これは恐らくバギの呪文だ。元々は攻撃範囲が広い故に攻撃力に斑のある呪文なのだが、腕一本なら落とせる程の威力に集中させるなんてそう簡単に出来るものじゃない。ルクレツィアの類い稀な魔力なら可能だろうし、彼女はラゴスに同情的だ。俺が避ける事を計算に入れたかどうかは、全開の竜の角の出来事で俺としても自信が無い。
「騙すより、騙された方が良い」
 ルクレツィアは涙を堪え、凛とした顔で俺を見た。
「人が死ぬのは嫌」
 そうだ、そういえばルクレツィアは故郷の民が多く死んだ。目の前の馬面のどうしようもない泥棒の命も、彼女にとっては人の命なのだろう。全く、恐れ入る。それなら目の前の一人以外のデルコンダルの処刑者は良いのかと言いたくはなるが、ルクレツィアはそのまま路地に飛び込んでいってしまう。呪文の制御で地面に羽の様に着地すると、ラゴスを見上げる。ラゴスも彼女の視線の意味を理解したのか、素早く壁を降りて一緒にデルコンダルの外を目指して走り出した。
 こりゃもう、どうしましょうかねぇ。
 俺は屋根の上から二人を見送りつつ鋼鉄の剣を弄びながら考える。
 ルクレツィアは将来ムーンブルクの女王になる身なので、その思想や行動は高潔であるべきだとは思う。彼女は女王になるべくして生まれた、女王に相応しい子だ。その高潔な意思を護る為に、補佐するのがリウレムさんを始めとしたムーンブルクに仕える者達なのだ。俺達の感覚に敢えて近づく必要も無いだろう。
 傭兵としては護衛するサトリを放ったらかしているので何も言えないが、このままルクレツィアを放置しておく事は出来ない。何かあれば魔法で木っ端みじんにされるとはいえ、世間知らずでちょっと頑固な女の子だ。このまま二人を追尾して、危険から護りつつ、自分が追っている事を馬面はともかくルクレツィアには悟られない様にすれば良いだろう。ここらへんは俺自身のプライドの問題なんだけどな。
 俺は溜息一つ吐いてから、二人を追う事にした。デルコンダルは家と家の間隔が防御の問題で非常に狭く出来ているので、屋上遣いに追いかけるのも難しく無い。それに多くの処刑を見物して来た野次馬共も、幼く天使のような容姿の女の子がいるとなれば驚いて隣の野次馬と話す。見失ってもその声を拾えばいいし、遠目からでも彼女の見事な金髪と赤と白のローブは光っているようで酷く目立つ。
 それにしてもルクレツィアは戦闘センス良いと、遠目から見ながら思う。小さいから身が軽いのだろうが、それを差し引いても魔物達の敵意に非常に敏感だ。敵意を感じて呪文に移行するまでの間も非常に短くて、俺の目から見ても動きは素人だが隙が生じ難い。魔物は殺さず牽制するために呪文を使っているようなものだが、まぁ、彼女のような非戦闘員に止めをがっつり刺しておけとはいえないな。あれくらいで、十分だろう。
 隣の馬面はルクレツィアに泣き付いている様にしか見えない。いい歳こいたおっさんが、無様だ。
 魔物を放つ範囲は基本的に城下町の中だけだ。それはというと、デルコンダルは周囲を密林に囲われている為に、城門には魔物避けの仕掛けが施されている。物理的には鉄格子なのだが処刑の日だけは城門の鉄格子を開け放つ為に、魔物が嫌う匂いの香木を焚くのだ。その煙が見える場所というのは、つまり出口だ。二人はデルコンダル城下町からもう少しで外という所まで来ていた。
 その出口間近には、ルクレツィアとラゴスの二人組の前に先客がいた。
 俺が見る限りその先客は既に骸になっているようだ。デルコンダルが誇る猛獣サーベルウルフが、その物も言えぬ先客の上に足掛けし興奮した様に吠え猛っている。俺は思わず、二人を追い越して城壁伝いに掛けて魔物を間近に見下ろせる場所まで来た。口から滴る血液は唾液と混ざり長く長く赤い糸を地面に下ろし、体を覆う短い毛は波立っている様に見える。処刑の日は魔物を興奮させる作用のある食品を食わすと聞いてはいたが、さらに人間を殺しその血肉を見た為に興奮状態は極限にまで達しているらしい。これは危ない。
 遠投器かなにか持ってくれば良かったと心底後悔する。この立地条件を生かすなら遠距離の攻撃なのだが、今は接近戦しかできない鋼鉄の剣しか持っていない。
 後悔と一緒に焦る間もなく、ルクレツィアとラゴスが接近している。もはや、サーベルウルフの目は二人を捕らえた。
 舌打ちし思わずナイフを投げつけようと構えた俺だったが、それを投げる事は出来なかった。
 ルクレツィアがサーベルウルフの前に立った。
 背後にいたラゴスが顔を蒼白にしていたが、俺も同じような顔だったろう。このままでは彼女の喉はサーベルウルフの鋭い牙に引き裂かれ、殺されてしまう。その場を見た人間は誰もが思っただろう。
「退いて」
 声が響く。硬く、空間に打って響いた声は決して大声ではなかった。
「お願い。退いて」
 再度響いた声に、その声を聞いた生き物は始めてその声の主を見る余裕が出ただろう。ルクレツィアは毅然とした態度で、じっとサーベルウルフを見ていた。呼吸を忘れ息苦しくなって来たと思ったくらいの頃合いが過ぎて、静かにサーベルウルフが退いた。まるでルクレツィアに気圧された様に退き、サーベルウルフは路地の影に向かって去っていった。
 そのまま、ルクレツィアは地面に倒れていた先客の横に膝をつく。もう息はないのだろう。魔力に優れた彼女でも、呪文を施そうとする様子は見られなかった。
 立ち尽くすラゴスは、おずおずと城門に足を向けながらルクレツィアに声を掛けた。
「じょ…嬢ちゃん」
「うん。おじさんは自由だね。もう、悪い事しちゃ駄目だよ」
 俺からはルクレツィアの背が見えて顔は見えなかったが、ラゴスは露骨に表情を引き攣らせているのは見えた。恐らく、満面の笑みで言われたのだろう。人が死ぬ現実を目の前にして、罪人を救うという事を成して、それでも笑顔を向ける事がきっとルクレツィアならできる。
「あぁ…。ありがとうな、嬢ちゃん」
 馬面を歪ませ、ラゴスはそう言うと足早に城門の外に飛び出していった。俺の居る方角に向かって来たから、俺はそのまま城壁から飛び降りラゴスの進路を塞ぐ様に降り立った。
「おっと、傭兵のボウズか」
「威勢良くなったじゃねぇか、ラゴス」
 先程までの気の弱い青白い顔はどこに脱ぎ捨てて来たのだろう。俺の目の前には、狡賢いつやつやとした赤ら顔がある。裏社会に生きる奴にとって自分の実力というのは腕っ節だけじゃなく、他人を利用する狡猾さや賢しさも含まれる。ラゴスはその狡賢さでルクレツィアの善意を利用したのだろう。彼女は奴のそういう面を俺から知って尚協力したのだから、ある意味合意の上だったと言えるだろうが…。
「そんな態度が欠片でも見えてたら、ルクちゃんの前だろうと切り刻んでやったのにな。とっても残念だ。この馬面泥棒」
「嬢ちゃんに感謝してた気持ちは偽物じゃないつもりよ」
 そこでラゴスは少しだけ悲しそうな顔になった。あの表情と言葉を向けられた後に、良心の呵責ひとつ無いとしたらこの場で切り捨てても良いと思う筋金入りの悪人だからな。
 俺は剣の切っ先をラゴスに向けて笑ってやった。
「次に逢う時は敵だと良いな」
「そりゃあ、勘弁」
 ラゴスは慌てて両手を振ると、そのまま密林に向かって走り去っていった。ルクレツィアが助けると行った以上、今日という日は奴を見逃さなくてはならない。俺も追いかける事はせず、無言でラゴスの背中を見送った。剣を納めて両手を頭の後ろに組むと、そのまま青い空が視界一杯に広がる。
 あんな凄い女王様を敵に回したくは無いよな。
 俺はそんな事を思うと笑った。城門に身を預ければ、まだ乱闘好きのならず者の賑わいが楽し気に響いていた。