盗賊の鍵

 潮の香りを含んだ水面に浸かった石畳には、フジツボがびっしりと生えている。潮騒の音は天井に結露した水分が、露となって地面に落ちる雨音のようなものに消されてしまう程遠い。暗く沈んだ空間に、上階から差し込む光が青白く照らしている。魔物達の影はそこかしこに見られたが、襲って来る気配は今の所ない。とても静かだ。
 俺は横目で隣に並んだクリスティーヌを見た。
 日光の下では蜂蜜の様に滑らかな輝きを宿す金髪は、この暗がりで慎ましい満月のような色合いで輝いている。長い髪を二つのお下げにして皮の帽子を被った少女は、城壁の中の暮らしの人間なら一生目に掛かける事も出来ない光景に唖然とした様子で見ていた。檜の棒と皮の盾はだらりと下がった手に余り気味に握られ、その丸い頬や唇は争いとは無縁そうな柔らかさを帯びて、じっとりと汗か湿気に濡れた頬に金髪がぴたりと張り付いている。
 彼女はアリアハンの道具屋の娘だ。いずれ行商で親に同行し城壁の外に出るかもしれないが、それも金で雇った護衛が傍に居て身を守ってくれるだろう。一生涯危険を冒して立ち入る場所とは無縁でいられる筈の子供だ。
 俺にはクリスティーヌの気持ちがイマイチ分からないでいた。
 どうして、危険な旅なんか望むんだろう。
 俺が見つめている先で、クリスティーヌが振り向いた。瞳が抑えきれない好奇心を剥き出しにして、太陽の光を存分に浴びる海の様に燦然と輝いた。
「さぁ、オルテガ兄さん。登りましょう!」
 その言葉に、俺は溜息に似た息に同意を混ぜて答えた。
「そうだな」
 ここはアリアハンの真ん中の入り江に浮かぶ島に立つナジミの塔。アリアハンからレーベ村を経て西の岬の洞窟から侵入した俺達にとって、ここは塔の入り口に過ぎない。
 俺は銅の剣を握り直し、クリスティーヌの先を歩き出した。突然武器を振り回しても、決して怪我をしない間隔をあけてクリスティーヌが続く。湿った床を2人が歩く足音は、通り過ぎた道や通らない場所や進む先に遠く遠く反響した。

 16歳はアリアハンで成人と認められる年齢だ。
 周囲では商人の子は親の付き添いを始めるし、兵士の子は王国の兵士志願の試験を受ける。神に仕える職を目指す者は、世界各地を巡礼する為に出発するだろう。だが俺の親は遊び人だし、親父は何処の旅芸一座にも属さない珍しい遊び人だった。俺は将来何になるという道標も何も無かったし、とにかく親父が嫌いなので遊び人なんて選択の外だ。
 俺は何時しか、世界中をとにかく見て回ろうと考えていた。その為に仕事で得た金は殆ど貯金をし、魔法や剣術の勉強に励んだ。働いて身に付いた技術を大人達は高く評価してくれた。船の整備や荷物の積み降ろしの仕事をすれば船乗りに誘われ、腕を見込まれて真面目な顔で兵士になって王に仕えないかと声を掛けた。畑仕事の手伝いで爺ちゃん婆ちゃんは養子になってくれないかと懇願したし、商人も自分の所で見習いで来ないかと耳打ちした事もあった。どれも有り難かったが、何故か俺は全ての誘いを断った。何がしたいのか、俺は今でも良く分からない。
 数多くの仕事をこなし、賃金という対価を貰って生計をたてられるようになった時にふと思った。
 遊び人パマーズは一体何をしている人間なんだろう。
 父である男は、半年に一回程度の間隔で銀行に俺の生活費を振り込んでいてくれた。その金額と言ったら贅沢三昧しておつりが来る程だ。その事を誰にも言った事も無いし、親父を嫌っていた俺はその金に殆ど手を付けた事はない。莫大な金額が銀行の中に放り込まれたままだ。
 一体、何をしたらそんな大金が手に入るんだろう。
 その疑問は、俺も同じ様に稼ぎたいという気持ちから来るものじゃない。そう、俺にしては珍しい親父に対する関心だ。でも、別段知ったからってどうって事は無い。旅をしたい理由の一つに数えるまでもない。
 16歳。俺はアリアハンを出ると決めていた。理由も目的も無い。むしろ理由と目的を探す為に旅立つもんだった。
 そんな矢先にクリスティーヌが俺の所にやって来た。理由はなんとなく分かってる。俺の旅に同行したいと言っていたのは、彼女がまだまだ部屋から見える範囲の世界しか知らなかった病弱な子供の時からだったからだ。時は流れてクリスティーヌは次第に健康的な女の子に育った。そうして彼女の夢は現実味を帯びて行ったし、彼女自身も努力して現実させようとしていたのも知っていた。
 羨ましいなぁ…と俺は思ってしまうのだ。
 俺の気持ちはさておき、困った事にクリスティーヌの両親や兄貴共が娘の旅に賛成というのは度肝を抜いた。俺は旅も初めての素人なのに、あの一家ときたら『オルテガ君なら任せて大丈夫!』なんて意味の分からない自信に満ちているんだ! 信じられないよ。
 だが、俺は病弱だったクリスティーヌを知ってる。旅なんて大丈夫かって心配がどうしてもある。
『じゃあ、オルテガ兄さん! あの塔に登りに行こう!』
 そうして指を指したのが、窓から見えるナジミの塔だった訳だ。
「オルテガ兄さん、あそこから上に登れるのかしら?」
 クリスティーヌの声に、俺は訳も分からず引き摺られて来た回想から意識を戻した。目の前には日光らしき明かりが差し込む階段があり、この上の階の床で地下階の天井にあたる場所には鉄格子が嵌められている。恐らく、ナジミの塔の排水も兼ねているのかもしれない。
「様子を見て来る。待っててくれ」
 俺は階段に足音を立てない様に注意しながら駆け寄ると、そっと鉄格子ごしに上の階を窺う。見える限りに魔物の姿は無く、乾いた赤茶けた煉瓦が積み重なった壁と天井が見える。そのまま鉄格子を握ると、蝶番を確認する。錆び付きが酷いが、鉄格子は腐食して朽ちている訳ではない。開ける時に相当の音を響かせて魔物を呼んでしまうかもしれない。
 俺は鞄の中から調理に使う植物油を取り出すと、瓶の口に短剣を宛てがい蝶番に油を流し込んだ。蝶番にたっぷり油を流し込んで染み込ませると、鉄格子の隙間から腕を出して上から鉄格子の淵全てに同じ要領で染み込ませる。鉄格子を持ち上げた拍子に、淵でも擦る音がするだろうからな。作業が完了すると、俺は両手で鉄格子を握って持ち上げた。
 キッと耳障りな音が立ったのも、気に留める事も無い程に一瞬。続く音は全て油に飲み込まれて、鉄格子は滑らかに持ち上がった。
 目線の高さだけ顔を出し周囲を窺い、魔物の姿が無いのを再度確認。俺は地下階に視線を戻して、息を呑んで待っていたクリスティーヌを手招いた。
「大丈夫だ。行こう」
 クリスティーヌが素直に向かって来るのを確認して、一足先にナジミの塔一階に立った。地下階とそう変わらない静謐な空気が、潮風を含んだ風に流されている。魔物の気配なんか、レーベ村付近に比べれば居ないんじゃないかって思う程感じられなかった。
 階段を登って来たクリスティーヌに手を貸しながら、俺は彼女に囁いた。
「慎重に行こう。魔物と鉢合わせると乱戦になりがちだが、絶対に俺の傍を離れるなよ。俺は広範囲に威力のある呪文をいくつか知ってる。負けないから。いいかい?」
 クリスティーヌが頷くのを確認して、俺は先を見渡し歩き出した。岬の洞窟に入り込んだのが日の出より少し早い頃合いだったから、太陽は高く昇り強い日差しを投げかけている。塩が吹いた煉瓦の上に照った光は天井に反射し、塔の内部だろう地下階への入り口も薄暗い程度に明るい。
 魔物の往来があるのか、歩いても砂埃すら立たない程度に清潔だ。バブルスライムが通った跡が不気味な線の様に片隅に光っている。
 俺が足を止めてクリスティーヌに止まる様促すと、通路の先で人面蝶が数匹飛んで行く羽音が響いた。耳を済ませばフロッガーのぺたぺたと滑った足音や、魔法使いの杖を付く音、蠍蜂や人面蝶という羽音を聞く事が出来る。この音を聞いて進路を推測すれば、多少戦闘の回数を減らす事が出来るだろう。
 俺が耳を澄まし魔物の音を聞き分けている間、背後に回した袖が引っ張られた。
 振り返らなくてもクリスティーヌのはち切れそうな緊張感は分かってる。きっと不安で仕方が無くて、俺の袖を掴んでいるんだろう。俺は袖を引いて手を離させると、少し強くクリスティーヌの指を一瞬掴んだ。冷えきった指先だ。そうして行こうと促す様に手首から先を振って、歩き出した。
 湿気が無いってのは最高だな。俺は歩きながらそう思った。
 岬の洞窟は早朝の冷え過ぎている時間は体温を奪われ辛かった。黴臭い洞窟の空気が、靴底と足の裏の間にこびり付いてそうだ。魔物達の生活空間には当然相似って概念がないんだろうし、ナジミの塔の魔物も同じだろうが閉鎖的空間じゃないし海風が箒の代わりにせっせと吹き払ってくれる。匂いも足音も、通路を通ってびゅうびゅう鳴る風は味方してくれた。
 階段を見つけては、脇の暗がりにクリスティーヌを潜ませ上階の魔物の影を確認し登って行く。上に上がる程に塔の空間は狭まっているようで、階段も螺旋を描き段数が増えて行く。もう流石にクリスティーヌを待たすには不安を感じるようになったのは、2階から3階に上がる階段を上る時だった。一緒に上り始め俺は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
 少し下の段で同じく足を止めたクリスティーヌは不安そうに声を掛けた。
 耳を澄まさずとも、聞こえる。耳障りにぶんぶんとがなり立てる翅音だ。俺はクリスティーヌを一つ上の段に上げさせると、そのまま身を低くさせて彼女の耳に囁いた。
「恐らく蠍蜂だ。どうやら階段付近にいるんだろう。あの翅じゃ、こんな狭い階段を降りて来るより外から回り込むだろうから鉢合わせは心配ない。このまま互いに身を寄せ合って階段を上る。奴らが見える距離まで近づいたら、俺は奴らにギラを見舞ってやる。敵が火だるまになったら駆け抜けるんだ。俺も直ぐ後を追うから」
 クリスティーヌが少し緊張から青くなりながら、こくりと頷いた。
 今まで以上に慎重に螺旋階段を上ると、予想通り蠍蜂がいた。目に見える所には3匹程いるが、翅音は耳を抜けて脳みその裏側に潜り込んでそうなくらい煩い。奴らの巣なのか? ギラじゃきっと対応できないくらい居そうだ。引き返すのが賢明か…。
 考えを巡らしている間に、じっと息を顰めていたクリスティーヌからコトンと小さい音がした。続いて拾おうとしたのか身を屈めていたクリスティーヌが身じろいで、密着する程近くに居た俺の腹を押した。俺も敵の様子を見る為に凄く不安定な姿勢だったのが行けなかったが、ちょっとした接触にバランスを崩され足を踏み外し脛を段差にがつんと打つけてしまった!
「…っ!!」
 あまりの痛さでも声は堪えたが、クリスティーヌが驚いて声を上げてしまった。鋭く高い女の子の声に反応して、翅音が唸り声の様に響き出した。
「盾で頭を守りながら身を低くして走れ! 上の階段を目指すんだ!」
 俺は剣を構えてクリスティーヌの背中を強く押した。彼女は有無も言わずに階段を猛然と駆け上がり始める!
 逃げに徹しても上から追いかけて来る敵の方が断然早いし、上を取られた分不利だ。一匹程度は通れる空間で背中を滅多刺しにされたら殺されてしまう。防戦もあまり得策じゃない。守備的な問題で有利でも、相手の数が大量としかわからないんじゃ数に圧されてしまう。逃げ出したら背後から仕留められてしまうだろう。
 敵の警戒が落ち着くまで待つ選択もあったが、階段で発見されてしまったら増々突破出来なくなる。
 運に頼るしかないが、俺は上を目指す事を即決した。敵の懐に飛び込むのは確かに危険だが、上の階へ続く階段に逃げられれば俺達が上を押さえられる。追撃して来る蠍蜂は上から呪文で仕留められるし、外から上を目指すのも強い海風に阻まれて出来ないって思っていたい。
 クリスティーヌの背後にぴったりと付きながら、俺は呪文を唱える為に意識を集中させる。螺旋階段の終点らしい曲がり角に差し掛かると、蠍蜂がいるかどうかも確認しないで力一杯のギラを解き放った! 天井に向けて放った火炎は綿雲の様に大きく広がり、階段付近の蠍蜂を飲み込んだようだった。火炎の雲の下を身を低くして駆け出したクリスティーヌの脇に、翅を焼かれた蠍蜂が落下してヒッと彼女が短い悲鳴を上げる。
「走れ!」
 俺の言葉にクリスティーヌは走り出した。俺も彼女の後を追いながら、後方の天井目掛けてギラを放つ。真後ろまで羽音が迫ったら、身をひねり回転する要領で銅の剣を振り回した。運良く蠍蜂にあたる事もあったが、あたらなくても奴らは一回身を引いた。接近する間も与えずにギラを当ててやるさ。
 ぶんぶん、ごうごう、びゅうびゅう。この階は酷い音で一杯だ。
 ギラの炎は天井を舐めて一瞬で消えるが、天井には奴らの巣があったのだろう。黒い煙が天井に本物の雲の様に広がり、潮風に流されて視界を遮る。駆け抜ける横に連なる煉瓦は高速で前から後ろに流れ、前を走るクリスティーヌは脇目も振らずに走っているようだ。急き立てられて、怖くって、パニックになってるんだ!
 俺は出来るだけ明るく、囃し立てるように言った。
「大丈夫だクリスティーヌ! 教会のシスターが以前作ってくれた蜂の素揚げみたいに、奴らはこんがり焼かれてしまってる! 落ち着いてくれ! 回りを見て階段を探すんだ! 見つけたら飛び込め! 城の堀に飛び込むイボイボ蛙みたいにな!」
 畜生! まるであのくそ親父みたいじゃないか!
 でも効果はてきめん。全部の内容を耳にしたかは知らないが、俺の口調から余裕さを感じてはくれたんだろう。クリスティーヌの金色のお下げは右に左に揺れ始めた。
「そうだ、その調子! 今のクリスティーヌは風見鶏よりも働き者だ!」
 背後の翅音はその数と激しさを増している。俺は明るく勇気づける様に言ったが、全くもって余裕なんてこれっぽっちも無い。背後に放てるギラの間隔も徐々に開き始めて、その隙に背後からぶすりと突き刺そうとする奴を横に抜けては間抜けな頭を銅の剣でぶっ叩いた。鞭の様に撓る針の先端部分が、翅音を切り裂いて何度も迫っているのを聞いていた。
 前を走るクリスティーヌが一瞬身を竦めた様に動きを止め、さっと角を曲がった。
 階段を見つけたのか! 俺は背後にもう一発ギラを見舞って、角を曲がった!
「…クリス!」
 俺は真っ青になって叫んだ。
 蠍蜂とクリスティーヌが階段の前に鉢合わせになってしまっている! 俺が駆けつけるよりも一瞬早く、蠍蜂はその鋭く太い針をクリスティーヌに向かって真っ直ぐ突き出される。どう手を伸ばしても、彼女と針の間に滑り込めない。彼女の長いお下げ一本掴めない。刺されてしまう!
 クリスティーヌは皮の盾で頭を守りながら、素早くしゃがんだ。蠍蜂の針は虚しく空を切って通り過ぎる。しゃがんだクリスティーヌは振り返り様に両手で握り込んだ檜の棒を、ベースボールのバット宜しく振り抜いた! まるでホームランさえ打てそうな強烈な一撃に丸い腹部を強打され、蠍蜂は勢いよく吹き飛び壁に叩き付けられぴくりとも動かなくなった。
 俺はそのままクリスティーヌを階段に押しやり、追撃の蠍蜂にギラを見舞った。
 クリスティーヌが階段を駆け上る間、俺は何度かギラを放っては追って来る蠍蜂を黒こげにしてやった。そうして階段を駆け上り上の階に到着した時には、蠍蜂は一匹も追って来なかった。
 俺は階段の一番上の段差に腰掛けて下の暗闇を睨みつけながら、荒い息をついていた。そうするうちに横から皮袋の水筒がぬっと現れた。
「水…飲める?」
「あぁ、ありがとう」
 水筒の水をごくりと一口飲んで、俺ははたっと気が付いた。
「魔物は居ないか?」
「今の所、見当たらないよ」
 そう言いながら、クリスティーヌのずいぶんと丸く育った尻に敷かれた皮の盾の下に緑色の何かが見えた。バブルスライムが圧死していると思うと、俺はクリスティーヌに礼すら言えず見て見ぬ振りをした。
 呪文の連発に頭はくらくらするが、あの修羅場を乗り切って随分と安堵した。俺は水筒をクリスティーヌに返すと笑った。
「さぁ、最上階まで後少しだろう。行こう」
 やはりあそこは蠍蜂の縄張りだったんだろう。辿り着いた上の階からは、めっきり魔物の姿が減った。逆に更に高い空を飛ぶ大鷲等が巣を作っていて、大鷲は俺達が近づかなければ何もしないと言いたげに塔の外に目を光らせていた。
 もうアリアハン大聖堂の鐘よりも高い場所にやってきていた。部屋数は増々少なくなり、階段は長くなって来た。
 最上階。そこは何も無い柱と天井だけの空間だった。壁は殆ど朽ちていて、外が丸見えだ。誰かが住んでいたのか、テーブルと椅子と寝台だけが朽ちかけながらも置かれていた。ページを留める事も出来なくなった本の表紙は、何やら重厚そうな皮の手触りのものだ。昔、アリアハンには賢者が居て高みから闇に目を凝らし、国王に助言をする為に度々降りて来たというシスターの話を思い出す。ここが賢者の住処だったのかもしれない。
 俺とは別の所を見ていたクリスティーヌは、あっと声を上げて何かを拾い上げた。歩み寄って覗き込む俺に見せたのは、金属の板に何本もの金属の細い丸い棒を挿した、手の平より少し大きいくらいの何かだ。細い棒は螺子みたいに回すと動き、棒の反対側には紐を通せるくらいの穴が開いている。道具屋の娘のクリスティーヌはしげしげと見て首を傾げた。
「鍵なのかな?」
「うーん。俺には良く分からないよ」
 良く分からないガラクタを暫く見つめていたクリスティーヌは、ぽつりと呟いた。
「貰っちゃっても良いかな?」
 俺は誰かがかつて住んでいただろう場所を、もう一度見回した。ここに誰もいなくなって随分と長い時間が過ぎ去っているようだ。アリアハンの事は何でも知っている神父様も、今はナジミの塔に誰かが住んでいたなんて話をした事は無い。住み慣れた家から塔を眺めても、誰かが住んでいる事を示す明かりを俺達は一度も見た事は無かった。
「良いんじゃないか?」
 答えて嬉しそうに頷いたクリスティーヌを見て、俺は気が付いた。
 道具屋の娘クリスティーヌは幼い頃から病弱で10歳まで生きられないって言われていた。親父が遠い遠い国で採れる凄く貴重な薬でも、病気の発作を抑える程度で治す事も出来なかった。クリスティーヌの身体に体力が付いた頃から、病気は徐々に良くなって最近では同年代の子と変わらないくらい健康になった。クリスティーヌはそんな同年代の女の子よりも、素敵な洋服も髪飾りも持っていた。先が長く無いと悲観的にならないよう、道具屋夫妻はクリスティーヌが喜ぶと思う物を片っ端から買っていた。双子の兄貴共は妹の面倒を良く見たし可愛がった。
 福与かな愛らしい手に握られた、鍵擬きはクリスティーヌには不釣り合いだった。
 まぁ、持ち帰りたいって言ってるのは本人なんだ。別に良いか。
「オルテガ兄さん見て! アリアハンがあんなに小さいわ!」
 俺は呪文の使い過ぎと目的の達成に、少しぼんやりする頭を巡らしてクリスティーヌを見た。
 外は日が傾き太陽が赤くなり始めていた。天は夜の闇と星、赤い夕焼けの間に紫色のグラデーションを張っている。遠くの山々は輪郭の内側を黒々と塗りつぶし、その裾野に広がる何もかもを己の一部としようとしていた。レーベの村もアリアハンも、夕焼けに照らされて赤く輝いている。ぽつぽつと明かりが灯り始めた中に、クリスティーヌの家族の営む道具屋があるに違いない。街道沿いを行く商隊も野宿の準備だろうか、俺達が通って来た道に点々と赤い光が輝き出した。地平線は白く仄かに輝いて、遥か向こうまで一直線に走っている。
 ナジミの塔の最上階に到着したらすぐキメラの翼で帰る予定だったけど、忘れてて良かった。
 クリスティーヌが目をキラキラと輝かせながら、隣に立った俺の手をぎゅっと握った。手から、彼女の嬉しさが伝わって来る。
 あぁ、そういえばそうだ。俺はその視線と同じ先を見つめながら、記憶が昔に遡って行くのを感じた。
 病弱なクリスティーヌ。彼女の為に親父の部屋から世界地図やら、難しそうな魔法の本や色の綺麗な小瓶を持ち出した。それらを見ては、世界に想い馳せた。海と空しか見えない大海の真ん中、天を突くような高い高い山、見た事も無い異文化の国、黄金色の砂漠。今でも読めない魔導書に書かれた秘密を、一日中飽きもせず語り合った時もある。
 何時か、クリスティーヌを連れて行ってね。
 クリスティーヌが元気になったらな。
 俺は暗く沈んでそのまま死んでしまいそうなクリスティーヌが、笑って喜んでくれるのが何よりも嬉しかった。
 そっと俺は彼女の手を見た。檜の棒を振り回し過ぎて肉刺が潰れてじくじく血を滲ませている手に、俺はそっとホイミを唱える。手から零れるホイミの光は、クリスティーヌの傷に触れると光の花を散らす。蛍の光の様にほわほわひらひら落ちる光は、アリアハンからも見えるだろうか。
 治った手を見て笑った彼女に、俺は誇らしさを感じた。