悟りの書

 勇者オルテガと世界に名を轟かす英雄の家は、極普通の家だ。アリアハン全体で見比べれば貧相なくらいだろう。白い漆喰は潮風に晒されてボロボロで、数えきれない程の補修の跡が見て取れた。特徴と言えば、ガーデニングが得意なのか庭が素晴らしい。
 小さな泉を囲った石に腰掛け、幼子が空を見上げている。
 黒い艶やかな髪だが、量が余りにも多くてあちこちに跳ねている。蒼い瞳は海の色。丸い頬に乗った桜色、唇に落とす透明な潤いの雫は染み込んで幸いになっていると感じる。幼子は小さい手には大き過ぎる本を膝に乗せていて、ぺたぺたとその革製の表紙を手持ち無沙汰に叩いていた。
 すると幼子は私に視線を向けて笑った。
「こんにちわ!」
 弾けるような朗らかな声色。希望を感じさせる明るい声に、私も穏やかな水面のような声でこんにちわと返した。
 彼女の隣に腰掛けるには、泉を縁取る石は小さ過ぎる。植木に呑まれ掛かった塀の残骸に腰を下ろす。澄んだ水が湧く泉は鏡面のようで、私の姿を映し出した。水色を基調とした緩やかな衣、青い長髪を緩やかに流した青年の姿が私を見上げている。
 私は家を見上げて、幼子に尋ねた。
「パマーズさんはいるかな?」
「おじーちゃん いつ かえってくるか ろと わかんない」
 私は少し驚いてしまって、目を僅かに見開いてしまった。
 私はついに二人目の『ロト』に出会ったのだ。
 この子供が生まれた時、そしてその名が与えられた時、世界中の精霊達が震撼した。ある者は世界が滅亡すると赤子を殺めようとし、当時の当主パマーズが半殺しにして歩き回った為に一族の長達を集めて話し合いの場が設けられた程だった。そしてロトに出会った妖精達は、種族の垣根を超えて力の偉大さに感動した。
 私もまた、目の前に居る幼子の器に頭を垂れたくなる。
 その小さい手を取り、唇を落としてやりたい。脇に手を入れ、胸元に抱き寄せてしまいたくなる。
 それ程の力を秘めていた。
「おきゃくさん はい」
 ぐらぐらと重たい本が私の前に差し出された。分厚く重たい本を支えるには、幼子の手は小さく腕は細すぎた。私が慌てて支え持ったのは、幼子が膝に乗せていた美しい革張りの素晴らしい装丁の本を抱えている。
 悟りの書。
 今ではそう呼ばれ、多くの賢者に尊ばれた一冊である。
 私が受け取ると、幼子は嬉しそうに微笑んだ。微笑んだ表紙に、ぷっくりとした頬にえくぼが浮かぶ。
「その ほん おきゃくさん でしょ?」
 僅かに目を見張る。
 確かにこの本は私が直に書き留めた、世界に数冊しか存在しない本である。直筆の文字には書き手の魔力が載る事がある。精霊も血が薄れた事により判別出来なくなりつつあるのだから、人の身で見分ける事は不可能だ。
 蒼い瞳は私が筆者である事を疑っていないようである。
 勿論、筆者は私であるのだが、この幼子は本が私である事を訊ねているのだ。本に宿った魔力が私と同じである事を確信しているのだろう。
「なぜ、そう思うんだい?」
 私は微笑むと、少し意地悪な言葉を返してみた。好奇心が首をもたげる等、何千年振りだろう。
 私の口から紡がれる声色を、私はとても懐かしい思いで聞いてた。あれな私がまだ若造であった時、三人の叔母の声が煩わしく感じていた時代、今の私を想像する事は無い決まった未来を生きると信じ切っていた頃。パンカックスの滝に打たれ、滝から迸る水の生気で喉を潤すオンディーヌ達の無邪気な様を眺めている幸せ。弱く儚い水の精に声を掛けた自分の声に良く似ていた。
 泉が細波、彼等が笑ったように思える。
 ロトは深海の底のように蒼い瞳をくるりと回して、小さい唇を尖らせた。
「あーのね おきゃくさん うみ でしょ? ほんも うみ で できてるの。 ぜんぶ ぜーんぶ つまってるの」
 思わず声を上げて笑った。額を手で押さえ、土砂降りの雨のように髪が落ちるにまかせる。
 オンディーヌ。水面が爆ぜれば、女神のようにも、水鳥にも、自分自身の姿も真似てみせた。しかし、彼等は一度も言葉を発した事は無い。言葉を操れる知識はなく、定まった形も無かった。だからこそ愛おしく、ミトラが生かす事を許した精霊にもなれない弱い何か。
 幼子の声は、若き自分が想像したオンディーヌの声そのものだった。
 私が一頻り笑って顔を上げる。
「本は紙で出来ているよ?」
 私の意地悪に、ロトは顔を勢いよく横に振った。
「うみもね そらもね いっしょ。 かみさまなの。 かみさま ぜんぶ つながってるの」
 私は惜しみない拍手をロトに送った。
「素晴らしい、降参だ。その通り、その本は私でもある」
 表紙を開き、私の名が記されている頁を小さい手に持たせる。幼子は首を傾げて唸った。
「もしかして…まだ、文字は読めないのかい?」
 こくりと幼子は頷いた。それでも小さい爪は筆者である私の名を指差して、辿々しい口調で言った。
「おきゃくさんの なまえ しふぃる ろりくたす ぽりぷてるす」
 私は幼子の才能に目眩を起こしそうになった。ここまで完全に本の中身を理解した者に、未だかつて会った事が無かったからだ。
 悟りの書。多くの賢者がそれを読んで、悟りを開くと言う。
 執筆した私は、あまりに馬鹿馬鹿しい使い方に笑った。愉快ではなく、あまりにも皮肉な結果になったからだ。
 もともと、それは『悟りの書』という名前ではなかった。無名の海の一部に触れる為だけの装置と言える物だった。イーデン最後の花嫁の頭上を飾った、天のサファイアであるブルーオーブに似ていただろう。
 人々は理解しようと海を言葉で刻み始めた。人に混じり始めた精霊達の為に、私も本という形にした。
 しかし波に様々な呼称を付けて、並みの形を分別した。海の色が地方で違うと分かれば、その地方独特の色と表現してみせた。言葉は便利で、海を見た事の無い人にも海を伝える事が出来た。
 だが、それは極一部の情報に過ぎない。
 海の冷たさを、海流の激しさを、生命の無情なる戦いを、文字で切り取る事は出来なかった。ましてや、全ての生命が生まれ、空を巡り、地を豊かにし、人々に染み込み、また舞い戻る運命を理解出来る者はいなかった。私には一番大事な、最も伝えたかった部分が欠落していた。
 それでも、極一部の人間は文字から欠落した部分を見出す者が現れた。
 一部の言葉が湧き出る泉の如く、極一部の人間は自らを満たす事が出来ただろう。
「おきゃくさん」
 ぺたりと熱い手が触れるのを感じ、私ははっとする。どうやら考え過ぎてしまったらしい。あの賑やかしい叔母樣方に注意された事を、未だに正せないとは変わっていないな。
 私は苦笑を浮かべながら『なんだい?』と問い返そうとして、言葉を失った。
 互いが支え持っている本は失われていた。それどころか、互いの姿も元々の形ではない。
 幼子は星空を抱く夜空を閉じ込めた小さい宝石のように、私は青く輝く光となって空を浮かんでいた。空も海も溶け込んだそこに、時間と空間の概念は無い。この感覚を、私は…シフィルは覚えている。
 環だ。
 私は慌てて幼子の光を掴もうと手を伸ばす。しかし、この状態に『手』という概念はなく、動作1つとっても、大海に放り投げた針の無い釣り糸に魚を引っ掛けるように難しい事であった。ただ強大な波動に粉々にされないよう、我が身を守る事で精々なのは年を重ねても変わらない事なのだと歯噛みする。この場において『個』は嵐の海に投げ出された蟻に等しかった。
 それでも生まれて間も無い幼子が放り出されては、年長者の面目は丸つぶれだ。私は声ではない声で叫んだ。
 神官よ。巫女よ。来れ。来てくれ…!
 空間に紫の淡い光を伴って月が現れた。月は穏やかに私達の周りを周回し、懐かしい故郷の香りを振り撒いた。
 時を置かずに太陽が現れた。太陽は私達の真上に燦然と輝き、故郷の栄光を称える王冠のように隅々を照らした。
 私は目をあらん限りに見開いたつもりだった。月の巫女は使命を達せられ、イーデンと運命を共にしたと太陽の神官は告げた。神官もまた川辺の民と唯一生き残った不死鳥と共に、新たなる世界に旅立たれた。彼等は偉大なるミトラの両拇指で不滅なる存在であったとしても、この様に姿が現れるとは夢にも思わなかったのだ。
 問うたら…
 問うたら答えてくれるのか…
 私は喉を鳴らした。
 イーデンがどうなったのか。叔母様方がどんな最後を遂げたのか。アンジェリカスは、何処に行ってしまったんだ。
 いや。私は首を横に振った。問うべきは『どの選択が最善であったか』。多くの命が果てたイーデンの崩壊において、一人でも多くの命が救われる方法が他にあったのだろうか。結果を覆す事は出来ぬとも、今後に生かす事はできるのだ。
『私はミトラの恩寵に応える者と共に永遠に』
『私はミトラの試練に臨む者と共に悠久に』
 太陽と月が明滅を繰り返し、私達に告げる。
『大いなるミトラがある限り』
 すると我々を大きな何かが包み込んだ。世界が押し寄せて来るような大きな何を、私は直ぐさまに察した。
 ミトラが我々を包み込んでくれているのか…!
 それは何百年の時間が過ぎたような感覚であったが、一瞬の事であったのだろう。凄まじい倦怠感に襲われながらも、瞬きした次には幼子の手と本が先ず視界に映り込んだ。
「おきゃくさん」
 幼子が私を見上げて笑った。
「おきゃくさんの ほんは すごいね」
 凄いで片付けられる経験では無いだろう。私は呆れて言葉を失った。歴代の当主であれ誰もが見れる光景でもないし、あの場に辿り着ける者はほんの僅かに違いない。
 かつて、太陽と月は言った。世界の礎とは『ことば』と『理』と『ミトラの恩寵』であると。世界の礎を満たしたこの本は、確かに悟りの書と呼ぶに相応しいものなのだろう。
 その事を気づかせてくれた幼子の頭を、私はそっと撫でた。ごわごわとした黒髪が、私の手を押し返す。
「最初のロトと同じ道を歩んでは、いけないよ?」
 ラーミアを繰る強大な力を持った若者。世界の崩壊よりも一人の娘を選んだ男。
 幼子はそんな男と同じ名で、同じ境遇に生まれ落ちた。古く高き血の五大家の純血に、初めて人の血を混ぜた混血児。禍つ黒星を抱くとミトラに言わしめた男の真の名と同じである。永い年月が織りなした夥しい精霊の血が人に等しく混ざり込んだ時に生まれたこの子は、正しく全ての精霊達の王でもあった。大地の種族のみならず、あらゆる属性、あらゆる地位も存在も、この子の言葉に逆らう事は出来ない。人の身で最もミトラに近いとも言える。
 最初のロトは結果的にイーデンを滅ぼしてしまった。
 この子も可能性は無ではない。
「良いね。ロト・バコバ・コリドラス」
 幼子は元気よく『うん』と頷いた。愛情を注がれ、宿命を知らず、幸せな日々を送っている者が浮かべる笑み。
 幼子は歌いだす。その声に満ちた幸せと、喜ぶ世界に私の心配は霧散した。