侵蝕する期待

 北方に位置する険しい山岳地帯は『荒波の大地』と称された。まるで海の荒波の如く山々が連なる様が高見から臨む事ができ、そこに生きる人々の生活も実に平穏とは無縁のものだった。山の谷を一つ越えた場所、山の峰を一つ越えた場所は、距離的に隣接していても異文化の気配が濃厚に漂う。人々は時間に磨き抜かれた珠玉の文化を分かち合い、堅牢なる大地の力と結束によって魔物達から村を守っていた。数千を超える王国の山に数億の部族が居るとされ、山の陰には兆に迫る魔物が潜むとされる、人々が聞くならばこれ以上幻想的で危険な場所は無いだろうとされる場所であった。
 そんな大地に王国ができたのは、世界に並び見る王国の中ではごく最近のこと。
 獅子王とも呼ばれし初代国王となるべき戦士が、大地の全ての部族から戦士を募り魔竜を打ち倒した事から始まる。元々自衛の力を蓄え己の村へ降り掛かる厄災を解決する風潮が強かった部族の者達の認識は、共に力を合わせれば強力な力となる事を再認識した。そうして出来た王国バトランド。王宮の戦士達は優秀な者達の中で更に優秀であり、思慮深き人徳者であり、人々が羨望を注ぐべき最高の戦士達である。
 王宮の戦士が一人ライアンは、琥珀の瞳に山の紅葉の髪を持つ戦士。千の山を踏破せしがっしりとした骨格に鋼の筋肉をまとい、戦場の猛者と同時に山を知りつくせし山の賢者。隊長として部下をまとめる者としては若くも、思慮深く堅実真面目な人柄は融通聞かぬも慕われた。
 彼の伝説を語るなら、先ずにも先にもこの話。

 □ ■ □ ■

 首都バトランドよりさらに北にあるイムルという村を中心として、子供達が姿を消す神隠しが続いていた。村の自警団が連日連夜捜索し、子供達の親は一晩中家の明かりを煌煌とつけて帰りを待ったが帰ってこない。村の自警団で最も腕に覚えのある青年が早馬を駆って王宮に嘆願を寄せた頃には、すでに消えた子供は10に迫っていた。
 寄せられた嘆願、しかも幼き生命の危機を温厚な国王陛下が軽んじる事はなかった。国民の生活を守るが為に取り立てる税はささやかで、質素倹約を徹底とした王宮の主はどんな僻地の申し出も耳を傾けるお方であったからだ。即座に王宮の戦士を集い、この嘆願に応えイムルへ向かう逸材を求めた。しかし、近年の王宮には数多くの魔物の討伐の依頼が寄せられていた。武勲をあげるならば、己の力量を示すならば、強大魔物を討伐するほど好都合なものはない。集った者は『なぜ、誉れ高き王宮の戦士たる自身が子供探しなど…』と顔に出さぬも言いたげに、黙りこくるものばかりであった。
 言葉に窮した国王が、ふと俺に視線を投げ掛けてきた。
 俺は基本的に自分から任務を求める事はしなかった。自ら出世を望むほど高みを望んでもいないし、立候補して同僚の意識を逆撫でするつもりもない。俺は与えられた任務を忠実にこなし、その結果人々が安全に生きれればそれで良いのだ。
 まっすぐと陛下の目を見据え、俺は小さく頷いて見せた。
 かつては王宮の戦士にも負けぬ剣技を所有した国王陛下は、今もなお佇んでおられる姿勢の中に瞬時にて抜刀できる準備と隙の無さがあった。戦士の闘争を知り人々の妬みと憎しみを知る堅牢で温厚なる陛下には、己が明言せず使命を与えられるのを待っているのを俺以上に感じ取られた。唇の笑みの形を口髭で巧妙に隠し、目元を細めた榛色の瞳には頼りにされる期待が込められている。俺はその表情の変化に応えるように、目を伏せ畏まる。
『ライアン、行ってくれぬか?』
『仰せのままに…』
 傍らに置いた剣を取り、俺は子供達を探す旅路に就く事になる。
 ……と事細かに説明してもあまり理解できぬかもしれぬな。
 俺は苦笑しながら目の前の魔物を見る。
「子供達の親に頼まれて、俺が代わりに探しにきたのだ」
 嘘ではない。嘆願は子供達の親の切実な思いが秘められていたからだ。
「それで子供達を探しにきたの?」
 水を閉じ込めたかのような潤いをもった水色の表面は丸く、そこから木の根のように生えそろった触手は黄色く艶やかだ。黄色の先端が床を突けば、まるで重力などと無縁と言いたげにふわふわと浮かび上がる。水色の面に深い藍色の瞳が円らに嵌り、口元はへらりとした形をしていたが赤い色彩により映えて紅く見えた。
 ホイミスライムと人々が呼ぶ魔物は、一本の触手を口元に持ってきて俺を見上げた。その仕草に幼子を見るような感覚を覚えながら、俺は頷いた。
「子供達がここを遊び場にしていたそうだからな」
「そうだね。ここでよく遊んでいたよ」
 ホイミスライムがぐるりと周りを見渡した。
 子供達が遊び場と呼んでいた森にひっそりとある井戸の底には、地震か何かで繋がったのかこの遺跡めいた水路とつながっていた。いや、この水路の水が井戸に流れ込み井戸水となっていたのかもしれない。大地の下に作られた広大な地下水路は、幾億とも知れぬ石を積み重ねて壁となし、石畳を敷いて床となし、石段を築いて階段となした複雑で光が差し込むこと難しい迷宮だった。その構造は現代の建築技術に勝るほど巧妙で素晴らしい。壁に刻まれたルーン文字は見知らぬ太古の言葉、未だに水路を流れる水は澄み切っており飲む事もできる。
 この地域を生きていた部族の作り出した遺産かもしれぬ。
 バトランドにはこのような過去の部族の生み出した、今の世の人々が知らぬ遺跡が未だ数多く存在するとされているからだ。豪雪の下にて未来を断った部族は数知れず、山の鳴動に呼応した山津波に呑まれた部族までもを伝説にしては詩人の命が尽き果てる程に多かった。俺の生まれも遡れば潰えた部族の末裔であるらしい。バトランドにはそのように誰も知り得ぬ内に、時代から去った部族が数多く存在していたのだ。
 子供達が秘密にしたい気持ちは分かる。ライアンは触れた古の民族の遺産に脈打った血潮の熱さを思い出す。
「半年くらい前から子供達はこの水路にやってきて、探険したりしていたんです。松明を持って暗がりを照らして、少しずつ道を覚えて水路の構造を理解していったんですよ。ちょっと危ない場所は僕が水の流れに声を乗せて忠告したりしたけど、子供達は慎重だから誰も怪我しなかった。清らかな水の流れは邪悪な魔物を遮る。闇の魔物が住みにくい所だから、森よりも安全ですしね」
 なるほど、それで声を掛けてきたというのか。
 俺は角を曲がった先にある、先ほど崩落した箇所を見遣って一人納得する。
 子供達を探すためにこの水路を隅から隅にまで捜索の網を広げていた俺に、突然声が届いた。
 『そこはあぶないよ。こっちへおいでよ』
 その声をいぶかしんでいる間に目の前の天井が崩落した。土が落とした水のようにざあざあと降り注ぎ、大木の根が床に不吉に鈍い音を立てて床に激突した。水には大量の土砂と石が落ちる音がけたたましく響き、俺の混乱を煽ごうとした。飛び退くのが少しでも遅ければ、体の半分は埋まってしまったかも知れぬ。
 目の前のホイミスライムに小さく頭を下げる。
「俺を助けてくれたばかりではなく、子供達まで守ってやってくれていたとはな。人間とてそう出来る事ではない。立派な事だ」
 俺の言葉にホイミスライムは照れくさそうに黄色い触手を絡ませて顔を赤く染める。
「僕はホイミン」
 魔物とて名前はあるだろう。俺は今まで名を問う事もしなかった事を恥じて応える。
「俺はライアン。バトランドの王宮の戦士だ」
「ねぇ…」
 ホイミンは躊躇うように俺の顔をちらちらと見上げた。何か秘め事を漏らす時の逡巡のように、その青い顔に満ちた水がぐらぐらと揺れて動く。
「人間の仲間になったら、人間になれるのかなぁ?」
 それは呟きのような、囁きのような、水の流れに消え入りそうな声色だった。俺は一瞬、ホイミンがそう言ったのか自信が持てなかった。
 だが、ホイミンの期待に満ちた黒曜石の瞳の輝きが、俺にその呟きが真であった事を知らせる。
 復唱するように脳裏に浮かんだ内容は純粋無垢な子供の願いのようで、俺は無い頭を絞る。魔物が人間になれるかと問われれば、たとえ智人賢人と言えど軽々しく首を縦に振れるとは思えない。俺が魔物になろうと思ってそれは不可能、それは学の無い俺ですら判る。かといって、簡単にその願いを否定する事は躊躇われた。ホイミンの視線からは、俺がその願いの可否を神から賜るような熱意を感じたからだ。
 俺はどうしても、ホイミンを落胆させるような答えを与えたくないとさらに頭を捻る。
 そこで浮かんだのは、俺が接した数々の人間。
 立派な偉人であり尊敬に値する者もいる。同時に極悪非道な行いをして裁かれた者もいる。…そうだ、奴らのような悪人に『血も涙もない』とか『悪鬼そのものだ』と罵倒し批難投げた民は多かった。存在はその行いで、人以外にも見られてしまうもの。
 ならば…、この魔物も行いで魔物以上に、いや、人と同等に見てくれるのではないか?
 俺は暗い脳裏に浮かんだ屁理屈に、希望の光を見た気がした。
 だが、その希望は己の中で瞬時に消す。
 魔物の姿の相手。覆る事の難しい事実が、どうしても目の前にあったのだ。
 自分がそうできぬ事が、他人ならば出来るかと言えばそうではない。人に受け入れられる事の難しさが、嫌が応にも八方を塞いだ。
「そうだな…」
 俺は口ひげを弄んで、少し考える素振りをした。
「魔物らしい魔物にはならないだろうな」
 それが、俺の出した結論だった。
 人間と旅をすれば、その人間が魔物であるこのホイミンも受け入れてくれる存在であるならば、この魔物は世にいう『魔物』とは違う存在となるだろう。魔物らしいと人が定める、人里を脅かし人命を奪う存在にはなるまい。共に旅をする人間を通じて、人との人脈を得れば人と共に生きるという可能性だとてある。人となる事は難しくホイミンは悩むかもしれないが、魔物すら受け入れる存在ならばその悩みを共に分かち合い悩み歩んでくれるだろう。
 前提となる人間の同行者のハードルが高いが、ホイミンの幸せを思うなら低くあってはならぬとも思う。
 それが、叶い難い願いであるが故に…。
「ねぇ」
 思ったよりも深く物思いに耽っていたのだろう、気が付くのが一呼吸ほど遅れた。視線を合わせた瞬間、ホイミンは響き渡る声で言った。
「僕を連れてって!」
 ……
「は?」
 俺は内容を飲み込むのに時間がかかり、飲み込んだと同時に絶句した。
 先ほどまで真剣に考え抜いていた人間の同行者に、まさか俺自身がなろうとは思う訳がない。だが、断る事はできない。視線に秘められた期待に応えてやりたいという思いは、俺のどこかに確実に存在していた。それはまるで不出来な部下を見るような、人の面倒も見て人の上に立つ事もある俺の人生経験の生み出した感情の一つだと思う。
 俺はようやく気持ちを持ち直し、小さく頷いてみせた。
「まぁ…いいだろう」
 返答した直後のホイミンの顔はまさに花咲くようといってもいい。不安げに引き締められていた顔の緊張が緩んだ瞬間、大きく口が開く。瞳の光に喜びの色が含まれ、触手は握手を求めるように伸ばされて俺の手を掴んだ。
「ありがとう!ライアン様!!」
 余りに嬉しそうに俺の手を掴んだ所を支点にふわんふわんと舞う様に、俺も思わず笑みを零す。
 首都バトランドでも、王宮の戦士様と慕っては囃し立て戯れ付く子供達がいた事を思い出す。王宮の戦士の中には相手にしないものや邪見にあしらう者はいたが、俺はどちらかといえば『やさしいせんしさま』で通っていたらしい。俺も意外に子供好きなのやも知れぬ。
 俺はホイミンが落ち着いたのを見計らって声をかけた。
「俺は子供達を探しに来ていたのは知っているだろう? 子供達がどこへ消えたか知っているのか?」
 ホイミンは触手を放して、『さぁ…』と言いながら青い頭を傾げた。
「でも、どこで遊んでいたかは知ってるよ」
 俺はその言葉を聞いてホイミンを促すように頷いた。
「では、案内してもらえるか?」
「うん!こっちだよ!」
 水気を多く含んでいる体が、ふわりと床を蹴った。俺の持ったランプの光は体内で七色の光を宿し、前を行く影は淡い色彩を壁に投じた。
 これで良かったのかもしれない。
 俺はそう思うと、後に続いた。
 子供達が遊びに用いていた場所はそれほど多くは無かったが、水路の最も奥に存在していた。ホイミンの案内がなければ、そのどれか一つに到達するのでさえ足を棒にする必要がある。魔物が襲ってこない場所とは言え、魔物の住む住処を俺は荒らすつもりもない。ホイミンはその場所場所で住処にしている者の縄張りを把握しており、そこを避けたり、時には一言声を掛けて挨拶してから道を行く。相手の姿を俺は見る事はできなかったが、感じる事ができた息を潜める気配や色濃い警戒心が緩むのは分かった。
 小さな王国であり、人の社会でも当然である事柄がそこにあった。
 人でさえ、自分の家の庭を無断で横断すれば良い感情は抱きようがない。挨拶抜きで前を通り、姿を認めれば斬りつけられる。魔物と人間の仲の悪さは、互いを知らな過ぎる事からくる無知と無礼から来るものも多かろう。争いを好まぬ種とは互いに共存の道すらあるのではないかと、錯覚するほどである。
 俺が感心しながら進む道は、相変わらず複雑な水路。
 子供達が遊び場としていた場所のどれもが、子供達が遊んでいた形跡など殆ど残されていなかった。子供達もこの場所を大切にしていたというのが伝わってくるかのように、何も壊された形跡もなく、人の物と思わしき物品や忘れ物もない。迷子の時の目印に何かしら壁にでも刻み付けているかと思ったが、それすら何一つ見つからなかった。
 影達は語る。
 迷子の子供はそっと出口に押していく。
 子供達は迷子になっても助けてくれる、そんな優しい存在を心の底から慕っていたのだろう。だからこの場所に、彼等の住処に敬意を払っていたのだろう。子供の成す事の偉大さに、俺は己を少しだけ恥じる。
「ここが、人間の子供達が最後に遊んでいた所」
 ホイミンの黄色い触手の一つが、それを指差した。
 そこは高い場所にぽっかりと開いた穴から僅かに光が降ってくる、小さい地底湖だった。懐中時計を見て、時刻は夕刻である。あの差し込む光は月光だ。
 地底湖といっても小さい家の敷地程度しかないが、浅い水面は透き通っており小魚が光を反射して閃く。砂は白く砂利のように大粒で重みがあり、所々に真っ白になった木の枝が見える。貝の虹色の虹彩が水面に七色の光を移し、暗い壁に伝う木々の根と蔦を無気味なものではなく神聖な彫刻のように照らした。
 光の差し込む場所に近い場所に、子供が立てる程度の大きさの陸地がある。苔に覆われたそこに、この美しい自然に不釣り合いな何かがあった。
「なんだ? あれは」
 ホイミンを見下ろして訊ねる。
「あれは     だよ」
 …………なぜだろう、全く聞き取れなかった。
 俺が戸惑うのも構わず、ホイミンは水面の上をふわふわと浮かびながらその発音の不確かな物体に近付いていく。俺も黙って突っ立っている訳にもいかないので、ホイミンの後を追う。湧き水の刺すような冷たい水を感じながら、この自然に満ちた空間に異質にも桃色の光を反射する物体の全容が見えてきた。
 それは絹のような光沢を宿す羽毛のような獣毛のような毛皮を持ち、兎の耳のような昆虫の触角のような長い帯が前から後ろへ橋を架けたかのように流線型を描いて流れている。水の流れに生まれる風の仕業と思いたいが、毛皮の先はフワフワと動き、帯のようなそれが質の悪い冗談のように時折動く。踵と横に付けられた妖精の羽のような透ける突起物が羽ばたくように揺らめき、虹色の色彩を放つ。靴先が口を動かしているようにもぞもぞと動いているように錯覚してしまうと、触れた指先の熱は生き物の体に触れるように脈打って感じられてしまう。
 しかし、それは靴だ。どう見ても靴の形をしている。
 俺が履いても少し余裕があるだろう大きさで、淡い桃色の色彩は少女が履いたらさぞや可愛く見えるだろう。だが、なぜか、生き物が二匹、蹲っているようにしか見えない。俺は思わずホイミンを見下ろした。
「この子達は次元と次元の狭間に生きる生き物で、この次元に留まらせる為に特別な魔法で靴の形になっているんだ。大昔の人々はそうやって次元を超える力を少しだけ借りて、遠くの場所へ一瞬に向かったり空を飛んだりしたんだよ」
 俺は目眩を覚えた。
 魔法の事などてんで理解できぬが、それを差し引いてなお畏怖に似た感情が走る。生き物に魔法を掛けて利用する行為が、何らかの邪法のように思えて人の侵してはならない禁忌に触れたかのような錯覚を覚える。
 だが、今目の前にある『コレ』以外に手掛かりらしい手掛かりは無い。これが子供達を救う為に残された道の一つであるならば…。
「大丈夫だよ、ライアン様」
 俺が尻込みしているのを見透かしたように、ホイミンが笑った。
「人間の呪文で言うなら『ルーラ』や『リレミト』と同じ効果があるんだ」
「う…うむ」
 俺は唾を飲み込み靴を足の前に並べて、ブーツを脱ぐ。素足に冷たい水の感触が触れ、思わず身震いする。俺はブーツを抱えてホイミンを手招いた。ホイミンが触手を外れないように腕に絡み付かせると、俺も用心のためにホイミンを抱える。互いに準備が整う間があって、一呼吸置いて覚悟を決める。
「では…履いてみるぞ」
「うん!」
 ホイミンが頷くのを感じると、俺は片足を生物の靴として足を通すだろう箇所に突っ込んだ!
 瞬間に視界がぐにゃりと歪む。意識が遠のくのと覚醒するのを光の明滅のように短い間隔で繰り返し、吐き気と共に立っているのですら困難になってくる。俺は意識が覚醒する感覚を見計らって、残りの足を靴に通した!
 言葉にできないが、一瞬意識が遠退いた気がする。
 しかし、俺はあまりの緊張から解き放たれたかのように倒れた。
 ホイミンの掴まっていないだろう腕で頭部を庇い、同時に腕に掴まっているホイミンが俺の上にくるよう腕を背中の方に投げる。鎧越しに響く硬質な衝撃、響いた金属音は俺の腰に括り付けられた剣と盾であるが、それを差し引いても反響として返ってくる音が大きい。顔に触れた床の感覚は、先ほどまで満ちていた湧き水ではない。変わりに激しい水の流れが生み出す音が絶え間なく聞こえてくる。先ほどの水路に敷き詰められた黒い石畳を彷佛とさせる床が、俺の前に転がったランプの光を反射している。
「ライアン様。大丈夫?」
「あ、あぁ……」
 魔物であるが故に人間に比べ影響が少ないのか、ホイミンが心配そうに前に回り込んで俺を覗き込んだ。
 俺はゆっくりと身を起こす。見回して最初に目に付いたのは、壁に穿たれた窓。月光が差し込んでいる角度から、先ほどの地底湖から移動して時間は経っていないだろう。俺が倒れた場所はちょっとした広間になっている場所であり、俺の足下には先ほどの生物が寄り添うように転がっている。ブーツを拾って履いていると、乾いた強風が吹き込んだ。山と水の匂いを含んでいる。
 立ち上がり軽い立ち眩みを堪えながらホイミンと共に窓辺に歩み寄る。
「ここは……」
 目の前に広がるのは城の尖塔から見るような、高い視点から見下ろす大地。山の形でバトランドのどこかを判断する事はできそうにない。塔は激しい流れの川の一端にある強固な岩場を礎に建っているらしく、川の流れる音がここにも届いてきた。塔の横には崖があるのか、それとも塔が崖から切り出されて作られているのかは知らないが、おそらく人々の目にはそう簡単には触れられぬものであろう。内部は乾燥し、荒れていなくとも誰かが使用している気配は無かった。
「……魔物の気配がしない」
「そのようだな」
 ホイミンの言葉に軽く同意を示す。
 この塔には魔物の気配がなかったのだ。しかし、子供達の気配もしない。そう、何の気配もない。
「子を捜索にきたのか? 戦士」
 それは夜の声色。静かに広がる声は決して大きくはなかったが、俺の耳に一文字一句しっかりと響いた。
 俺は窓辺から大きく引き下がり、壁を背にして剣の柄に手を掛けた。ホイミンを腕から離れさせ、素早く視線を巡らす。そして大声で応えた。
「俺はバトランドの王宮の戦士、ライアン! 親達の懇願に応じて子供達の捜索に来た!!」
 空気を震わす音量であったが、それでも塔の中に瞬時に染み込んでしまう。いや、違う。先ほどまで聞こえていた水の流れの音すら、しない。俺は震えた。俺には魔法の学は無い。剣一つで渡り合える敵ではなく、相手は魔導師だと直感的に感じた。ホイミンは魔法が使えるだろうか? いや、この状況では戦力と考えて作戦を立てるのは危険すぎる。
 俺は剣を握る手に汗を感じ、握りを確かめる。
 意識が一瞬手元に向けられてしまったからだろう、相手はいつの間にか俺の目の前の窓に立っていた。
「我が子に栄光を望み学を授けても、村の学び舎ではそう多くを得る事はできぬ。もっと知識を授け、力を与えよ。その声無き声に応えても、やはり手元に置きたいか。欲深き者達よ……」
 そこには月光を背に受け黒い外套が夜風に大きく膨らんで姿形は分からぬが、誰かがいた。銀糸のような髪が夜露に濡れたかの如く、三日月よりも細きそれに月の光に妖しく光を這わす。全ての時を凍り付かせる中、その存在だけが悠然と時の流れに身を任せている。
 戦慄が背部を撫で上げ、体毛という体毛が逆立つ。一瞬でも目を離せば首を刎ねられてしまいそうな、瞬き一つで首元に剣先を突き付けてしまいそうな、圧倒的な気配。殺気など微塵もないはずなのに、次の瞬間には爆発的に発せらるような緊張と恐怖が俺の体を硬直させた。俺が剣を抜こうとすれば、いや、既に抜いていれば殺されていただろう。心臓が破裂する勢いで鼓動を繰り返し、目がちかちかと光走り、こめかみが錆び付いた音をたてるように痛んだ。
「戦士よ」
 声が俺を打った。
 応える事すら許さぬ威厳と慈悲を持ったような、低く冷たい声色。
「遠路遥々御苦労であった。汝の役目を果たすが良い」
 驚きと呆気無さに瞬きをした。一瞬にも満たない間に、かの存在は幻の如く消えている。先ほどまで立ちて臨んでいただろう石の窓辺には、かの存在が立っていた気配すら残されていない。だが、舞い込んだ夜風の香りがかの存在の残り香に思えて、俺は震えた。ホイミンの触手が今までにない冷たさで、俺の手に恐る恐る触れた。互いにあの存在に恐怖を感じたのだと、それだけで理解できた。
 遠くから何か聞こえる。
 子供達の声だ。
 俺はその声に使命を思い出し、打ち追われるように身を翻した。