命の価値

 西方の大国、黄昏と幻想のサントハイム。
 海に近き場所に臨むその国は、夕焼けになると夕霧とともに赤い霞に包まれたかのような幻想的な国となる。数々の魔法が研究され、数々の魔法道具の精密さは他国の追随を許さない、まさに魔法の王国。歴史を感じる石畳と町並みを行く人々はローブを纏いて杖を持ち、会釈一つも古風で訪れる人々を過去の幻想に誘う。
 魔法都市として名を馳せた地のギルドの長が国王を務めて長き歳月の流れる王国に、武き王女が生まれたは近年の事。黄金色の髪に暁の瞳。唇は薔薇の花弁を散らし朝露を乗せ、頬は朝霧のように甘く暁を帯びたような朱に染まる、まさに日の出の王女アリーナ。魔法の術より武術の才に長けたる王女は夢を見る。
 白髪を整え濃紺の瞳を持つ老師ブライはその夢に頭を悩ませる。魔法の力量は歳を経て尚、国内一の魔法使いは王女の力量を誰よりもよく知っておられる。魔力を秘めておられながらも、その魔法の扱いに不得手な性は麗しくまた雄々しくお育ちになられた今に修正は非常に難しい。ましてや、彼女が雄々しくなってしまった一端を、己が担ってしまっているとなれば放任する訳にも行かぬ。
 その折に届く大国エンドールの武術大会の知らせ。王女は居ても立ってもいられない。
 腕立て、腹筋、スクワット、いつもの倍はこなされる。衛兵見つけて取っ組み合えば、瞬く間に衛兵は医務室に担ぎ込まれるこの始末。隙を見つけりゃ城を抜け出し魔物相手に武者修行。挙げ句の果てにお城を出てエンドールに向かわれた。
 数多きアリーナ姫の武勇伝。始まりとなるは、この話。

 □ ■ □ ■

 サントハイムの北に位置する山脈と山脈の谷間に存在するテンペの町。
 大陸の中央を分断する山脈は余りにも険しく、山脈を迂回するように刻まれた旅人達の道の中継地点でもある。山脈と山脈に挟まれ谷底になっているそこは、迂回する道は存在しないサントハイムの領地の街道の要。緑深い森の中には小さく小川が流れ、この地域で取れる赤土で作られた煉瓦は赤く、別名赤い宿場町とも呼ばれていた。旅人達の道が齎した多くの地方の伝統が融合したこの町は、どこか異国情緒を漂わせる町だ。
 エンドールからサントハイムへ向かう途中の俺も、当然そこに滞在していた。
 この町の聖堂はサントハイム大聖堂を凌駕する各国の書物が置かれていると言われている。巡礼の道として必ず詣でるべき場所としての指定はなかったが、巡礼者にとってこの赤の聖堂もまた必見の価値のある場所である。ここで旅人の安全を祈願し、祝福されたアミュレットも遠方から購入する価値のある良品である。
 赤い煉瓦に使われた赤い土の粒は細かいらしく、聖堂の壁は滑らかな曲面を描いて蝋燭の赤を広めた。じりじりと音を立てて燃える蝋燭の音に混ざり、遠くから嗚咽が漏れる。祈る姿勢を崩さず片目を開けて見遣ると、そこにはまだ年若い夫婦が互いを支えるように神父殿と共に現れた。
 最近の事件の被害者であろう。俺はそう思い追悼の祈りの言葉を呟き、奥の部屋へ消えていくその背中を見送った。
 現在、テンペには若い女性を狙った殺人事件が続いている。
 突然家にその家に住む女性の名が記された封書が投げ込まれ、満月の日に忽然とその姿が消えてしまう。そしてその次の半月の日に女性の衣服が玄関先に置かれるのだ。添えられた手紙には女性の死を悼む内容が認められ、犯人の残虐極まり無い精神に家人の悲痛な叫び声が響いた。どんなに町の自警団が警備を強化しても、被害者が増えていく。
 しかし、今宵の満月は違う。
 今回の被害者はこの町の住民ではない。旅人の女性であるらしい。
「もし、そこの巡礼者殿」
 祈りの終わった頃を見計らったのだろう。威厳溢れる老人の声が掛けられた。
 目を開き振り返ると、声相応の高齢の老人が座っている。枯れ木のように皺の刻まれた色黒い手には黒いシミが何らかの魔法陣の類いと錯覚するほどに染み付き、老人がその歳に至っても尚生粋の旅人であるのを察する。その手が梳いている髭は真っ白で胸元に届くほどに豊かだが油気を失い、藁のように固くある。髪も整えてはいるが髪本来の質感も手伝って、二つに分つ髪が天を向いている。緑の法衣は自然を庇護する呪文に秀でた事を表し、杖の先端を飾るサファイアは水の導き手であると察する。
「何か御用でしょうか、老師殿。神の御前で語らねばならぬ事ならば聞き及びますが、そうでなければ場所を変えましょう」
「無論。信者の祈りを妨げるつもりはない」
 俺の言葉に応じられ、老師殿が立ち上がった。相当ご高齢と見受けられる風体には合わぬ機敏な動き、すくりと立ち上がりローブの裾を直す仕草はあまりにも自然で洗練されているのを感じるのすら隠してしまう。ご自身の頭身よりも大きい杖を枯れ木のように皺の刻まれた手が掴むと、コツコツと床を軽く突きながら近付いてきた。濃紺の色彩の瞳が山脈の雪のように被さる眉毛の下でふと和んだ。
 付いて来い。そう、物語る。
 強い魔力が獰猛な獣のように蹲りその身の中に練り込まれているのを感じ、これほどまでの魔法使いが何の用事なのか俺は興味が湧いた。
 教会のある路地からそう遠くない場所に赤の町に流れ込む川を汲む運河があり、街路樹が繁る。秋になれば紅葉し落葉する様はたいそう美しく数多くの画材に取り上げられている。町の子供達が戯れる声と、近隣の住民の他愛ない話の声がその川の流れと共に場に溢れる。その一帯を見渡せる場所で足を止めた老師殿は振り返った。
「今晩は満月。殺人鬼が現れるそうじゃ。殺人鬼の話は聞き及んでおられるかね?」
「酒場で流れている一般的な内容ならば…」
 それならば話は早い。老師殿は少し辺りを見回して周囲を探り、声を潜めた。
「今回、狙われているのは儂が付き添っている御方なのだ。その方は勇猛果敢、猪突猛進という所が少なからずある。封書はあの方には挑戦状にしか見えんようでな、討ち取るつもりまんまんであってな…」
 老師殿老師殿はそこで少し愁いを帯びた溜息を付いた。女性の戦士は別に珍しくはないと思うのだが、これほどまでの魔法使いを同行者にしている女性だ。ただの女性では先ずあり得ない。どこかの貴族の令嬢。ならば、武術に秀でてやんちゃでは色々とマズかろう。
 俺がその溜息で色々と思う中、老師殿は杖を持ち直して言葉を続けた。
「まぁ、民が困っているのを見過ごせない正義感に溢れているのは嬉しい限り、やる気なら儂も援護するべきだろう。……じゃが」
 そこで老師殿が俺を見る。
「我々は回復の術に欠ける。このような町の真ん中での戦闘ではどうあっても市民への被害を無くす事は出来ん。神父殿は市民の心の安定の為にこの場に出すのは難しいし、シスターは戦闘の経験が無いので頼むのも躊躇う。救急に対処できる回復の呪文の使い手というのは限られてしまうのじゃよ」
 絵空事に感じていた感覚に現実味が増す。本気でこの老師殿と彼が付き添う女性は殺人鬼を打ち倒す気なのだろう。
 殺人鬼の情報は現時点で無いに等しい。武術に秀でているのか、呪文も扱えるのか、どんな獲物を使うのか何も知られていない。ただ、満月の日に目的の女性を攫い、2度と帰さない。それだけなのだ。本当は殺しているのかを物語るのは、服と共に返送される手紙だけで実際の死体は見つかっていない。
 実は被害者や被害者予定になりうる存在以外は、それほど恐怖しておらず関心の対象になりつつある危険な実態がある。
 そのため戦闘が長期戦化した時には、必ず見物したがる野次馬という者が現れる。神父殿等に市民へ家より出ないよう伝えていただいたとしたら、その野次馬は最初から1人や2人居るかもしれない。なにせ殺人鬼は今までは、目的の女性しか狙っていないのだ。しかし、今回は違う。戦闘になれば相手がどのように行動してくるかなど、誰にも予測できないのだ。
 老師殿が声を潜めたのは、噂ですらも広めたくない狙いが伺える。敵である殺人鬼を気にする様子は無かった。
「命の保証が無いと言っては厳しいかもしれんが、全く安全という仕事ではない。当然、見合った報酬を支払うつもりだ。…良き返事が貰えると嬉しい」
 紺色の瞳が試すように俺を見る。
 ある意味、彼らの中では保証とされていると見受けられた。絶対に必要ではないが、周囲の安全の為に居れば良い。そんなものだ。野次馬など危険に自ら近づく愚行をして危機意識を持たぬのであるなら、実際殺人鬼との戦闘に巻き込まれても全くもって文句など言えない。老人の試すような瞳は、俺の良心を試しているのだった。
「分かりました。私に手伝える事であるなら、喜んで」
 俺は笑って応じた。
 老師殿は目元を和ませ、小さく魔法使いが用いる礼をした。俺も聖職者が用いる礼で応じた。
「儂はブライと申す」
「私はクリフトと呼んで下さい」
 日は天の最も高みを超え、傾き始めている。老師殿は杖など要らないような歩調で宿屋へ歩き出した。
 赤い煉瓦の元となる赤土から育った木の幹は赤い。宿屋の壁を構築する木の板は木目を生かした美しさと、赤の光沢を十分に引き立てる。取り立てて高級感など無く一般的な宿屋で華美な装飾など無いかわり、使いやすさを重視し採光を十分に取り入れた簡素で清潔感のある作りだ。一階はレストランとなっており、その上部の階層が宿屋となっている。レストランに到着すればそこには遅めの昼食にも早めの夕食にも遠い時間帯であるにもかかわらず、がっつりと飯を食っているお嬢さんが居る。お嬢さんは扉のベルの音に気がついたのか、老師殿を見つけ手を振って呼んだ。
「お帰り、ブライ」
 お嬢さん私よりも年下で、あどけなさの残る顔は少女と言っても良いくらいだ。肉体の逞しさは戦士に引けを取らず、櫛すら通っていない髪であるのに妖しく絡まり戦争の女神の彫像を彷彿とさせる。眉は濃く、唇の色は瑞々しく、肌の肌理は細かい故に、化粧すらしていないなどと気が付くには時間がかかった。旅装束として纏ってるのは、どちらかと言えば男性もの。硬い生地の黄色い衣の下に黒い伸縮性と通気性に富んだ長袖とズボンを履いている。老師殿の後ろに付いて来た俺を見つけて猫のように目を開く。
「その人が助っ人?」
 赤に金を溶かした鮮やかな色が、真っすぐ俺を見てくる。整った顔立ちに残る豊潤な頬の丸みが、汚してはならぬような純粋無垢な乙女のようだ。この子が殺人鬼と渡り合う気満々だなんて、俺としては即倒しそうな思いだ。
「クリフトです」
 俺が黒皮の手袋に包んだ手で礼の仕草を取ると、彼女も笑って『僕はアリーナ』と応える。良く響くが決して甲高くない心地よい声色だ。
 俺と老師殿が席に着くとお嬢さんはメニュー表を手渡した。
「さ、皆食べよう!戦いの前に早めに食事を摂っておかないと、戦いの時の動きが鈍るぞ!」
 にこにこと白い歯を見せ明快に笑う様は、確かに目麗しさよりも生気に満ちて非常に魅力的だ。俺は殺人鬼の人選のセンスは基本的に人並みと思う。
 俺も基本的に胃がもたれるような食材は選ばず、適当にパンとサラダにスープの付いた地鶏の料理を選んで注文する。
 食事が始まると、お嬢さんのナイフとフォーク運びは目を見張るほど。武術に秀でているという事を知らなければ徹底的に叩き込まれたというのが分からぬほど、自然で流れるような運び。水を注ぎに来たウェイターに礼を失せぬよう、絶妙のタイミングで口の中身を消して礼を言う。いったい何者なのだか気にはなるが、あまり気にしてはいけない事は分っている。何故なら俺は巡礼者。神の真意を説く道程を途中で投げ出す事は出来ないからだ。
「アリーナ様。ちゃんと靴の準備はされましたかな?」
 リゾットを食べる手を止めて、老師殿が話しかける。お嬢さんは『うん!』と明るく大きく頷いた。
「何たって今回はブライが本気出してくれるんでしょ? ご飯食べてちょっと休んだら体しっかり暖めて準備運動しておくから、大丈夫!」
「今回は貴女の生命が掛かっておりますからな。立地条件が良くて幸いしましたぞ」
 そう言って、老師殿は水の波々と注がれたグラスを持つ。
 少し意識を集中された、そう思った瞬間グラスの水は波立ち鋭く高く響く音が空間を叩いて一瞬にして様々の花の咲き誇る氷のブーケが出来上がる。花びらが一枚一枚精巧に光を反射して潤い、草に宿った一つの雨露を蝶が留って摂る様まで再現されている。一番外側にはレースの包みが花々を覆い、リボンがグラスの持ち手にまで伸びる。
 目を疑う。
 ここまで魔力の制御にすぐれ、呪文の発動をも感じさせぬ力量を持つ魔法使いを見た事が無い。
「このブライとて、やはり年齢には勝てませぬからな」
「相変わらず絶好調じゃないのブライ!」
「いや、今回は貴女を乗せさせられる氷柱等を作らねばならぬでしょうからな。規模によっては今少し時間が必要かもしれませぬな。状況を有利に進められるよう仕込みが必要でしょうな」
 そう言うと、老師殿はウェイターを呼びつけて一袋の塩を依頼する。また会計を先に支払い、俺に少しばかしの金銭を手渡した。
「もし追加を頼まれるようであったら、そこから払ってもらえぬかな? 金額は十二分に足りるじゃろう」
 『それでは、また夕刻に』老師殿はウェイターの方が稚拙に見えるほど優雅な会釈をして店内を出て行った。入り口に添え付けてあったベルが鳴り終える頃、俺はお嬢さんと二人きりになっている事に気がついた。真っすぐに俺を見てくるお嬢さんはなんとも上機嫌だ。
「クリフトさんって旅して長いの?」
「まぁ、かれこれ5年は巡礼地を巡っているので、長いと言えば長いでしょうね」
 へー。と瞳を輝かすお嬢さんの頬に、パンの欠片が付いている。俺が自分の頬を指差すとお嬢さんは直ぐに意図に気がついて、欠片を拳の背で拭った。ちょっと恥ずかしかったのか紅潮する頬に見とれると失礼だし、俺は話題を変える。
「……で、本来はこれからどこへ向かわれる予定だったんですか?」
 答えとしては南の魔法大国サントハイムか、街道の果てにあるエンドールだ。
「僕らが目指してるのはエンドールなんだ。あの国で武術大会が開かれるって話だから、それに参加するつもりなんだ!」
「そうですか。エンドールはその準備に大変賑わっていますよ」
 俺はナイフで切り分けた鶏肉を口にし、時折耳に触れたかの大会の話題を思い出す。
 エンドールの武術大会は4年か5年の周期で行われる。完全に一定ではないのは、大国故に重大な理由と重なると武術大会は中止になる事もあるからだった。今まで中止になった理由は戦争がほとんどであった。その為、エンドールの武術大会は一種の平和の祭典としても名高い催しである。世界中から強者と、見物客が押し寄せる賑やかな大会である。俺がエンドールに滞在していた時期はまだ準備の段階であったが、日に日に人が集まり賑わいが日夜問わず続き大きくなるのを感じていた。
「行った事あるの!?」
 瞳が輝き、腕がテーブルを付いたと思った瞬間、前髪がこすれるほど前に顔がある。あまりの早業に俺はたじろぎながら、言葉をどうにか繕う。
「今は私が滞在していた時期よりも、もっと凄い賑わいになっているでしょうね」
「そうか! 楽しみだなぁ!!」
 お嬢さんはその可愛らしい頬を期待に朱に染める。楽しみで楽しみで仕方が無いその様子は、可愛らしいというか無邪気な幼さを感じる。互いに食事を終えるまで話を通してもお嬢さんという印象はなかなかに拭えない。一通りエンドールの様子や俺が行った美味しい料理店を聞くと、お嬢さんは満足したように笑った。
「そろそろ、ブライの所に行こうか?」
「そうしましょうか」
 俺は彼女の皿も空になっているのを確認し、鞄を手に掛ける。
 彼女の鞄はあまり大きくもない形ではあるが、持ち上げた時に金属音のような女性が持つ鞄としてはあり得ない音を立てる。俺は一瞬その鞄が重いのなら代わりに持とうと考えたが、お嬢さんはあっさりと肩に担いでしまった。二の腕の緊張して盛り上がった筋肉に、必要ないかと内心呆れるような感覚が襲う。
 既に支払いを済ませているが故に、頭を下げるウェイターに俺も軽く会釈し扉を開けた。

 □ ■ □ ■

 月の眩い満月がその光を惜しみなく目下に投じる。
 隣で装備の確認をしているお嬢さんの軽装では、準備運動して体が温まっていても寒いのではなかろうかと心配してしまうほどである。
 俺は季節外れの白い息を眺める。昼とは比べ物にならない澄み切った空気は、旅の為に厚手のコートを着込んでいる俺ですら肌寒いと感じるほどに鋭い。乾きに乾いた空気に流れる寒気には微細の魔力が宿っており、コートを貫通して鳥肌を立てる寒さとは違い術者の敵意に似た気配が感じられる。老師殿に協力する精霊が、彼の意識と同調しているのだろう。俺は川の側で瞑想しているのか微動だにしない老師殿を見た。
 この空間は老師殿の敷いた魔法陣の中であるとお嬢さんは語る。
「今回のブライは超本気だよ。はっきり言って、殺人鬼は負けたも同然だね」
「だが、お嬢さんが逃げないからこそ、老師殿は戦う事を決めたのではありませんか?」
 俺の言葉にお嬢さんは『そう言えばそうだな』と神妙に頷く。
「頭良いな。クリフトさんは」
「………」
 考えれば分かる事だろうに……。
 俺はそう思いながら夜空を見上げる。星の輝きも飲み込んでしまう明瞭な月明かりが、淡く巨大な円を描いて闇を黄金色に溶かす。街の赤い煉瓦は収穫前の小麦を思わせるような、熟れた果実のような濃厚なオレンジ色に彩られ川辺の鮮やかな緑と相まって極彩色の景色を生み出した。ランプの白色の明かりが等間隔で川辺の脇に沿って続く遊歩道を照らした。俺が見る限り人影はない。
 いや、一人、来る。目深にフードを被り体をマントで覆っていて、どのような体格でどのような人相をしているのか全く分からない。身長は俺よりも若干低いか同じくらいだろうと遠目に分かる。石畳を踏みしめる足音は金属音を帯びて鎧か金属製の何かを持っているのだろうと判断する。
「来たな」
 お嬢さんが楽しげに笑った。俺は剣に手を掛け、空気は張りつめる。
 お嬢さんは拳を握りしめ、間合いを置いて立ち止まった相手を見やる。
「僕の名はアリーナ。貴様の行って来た行為を今宵で終わらせる者だ」
 川の水音が響く。老師殿が高める魔力によって、水音に硝子を踏みしめるような甲高い音が混ざり始めた。
 相手は動かない。
 お嬢さんが
「…!?」
 左手を若干払うように動いた。お嬢さんの黒いグローブの先にあるのは、不気味に爛れた武器を装着した腕。腕に刃を固定する異国の武器の輝きが、灰色のマントが風をはらんで満月の光を銀に灰色に黒に刃の色を塗り分けた。黒い鉄鋼の仮面は緩やかな曲面をフードの下にさらし、相手の顔はまるで真っ黒い卵がはまっているかのよう。それが、お嬢さんに肉薄する。一瞬の、瞬きのする間に詰め寄った事実に俺は内心震えた。
「僕を手に入れるつもりで戦おうとするなら……」
 黒い悪意であろう黒い球面に移り込み、それを通して見るお嬢さんの微笑みを俺は妖艶と思う。
 相手の肩に手を置いただけで、お嬢さんの体が宙を舞う。まるで花の花弁から羽ばたき舞い上がる蝶のごとく、静かで飛び立つ素振りすら感じぬ動作にまるで彼女が重力という柵から解き放たれる事を許された存在のようだ。そして霧がお嬢さんを取り巻くと一瞬にして氷の藤が川辺より伸びて、お嬢さんは上空を覆った藤棚に足を付いた。
 逆立つ黄金の髪が月明かりに白金に輝き、氷の破片が砕けては星屑のように散って行く。
「貴方は負ける」
 冷気が足下から砂塵のように舞い上がり、茨の蔓が川辺より伸び始める。薄氷の透き通った八重咲きの薔薇が次々にその莟を広げ、その下に潜む小指の長さはあろうかという刺を鮮やかに隠す。氷は月明かりを乱反射させ、戦闘の繰り広げられるべき舞台はライトアップされたかのように明るい。
 お嬢さんが藤棚を蹴って相手に突撃する。刃をグローブの底で弾き、脚が顔面を狙い振り下ろされる。
 彼女のブーツの底には金属の鋲が仕込まれていて、氷の上を滑らず氷に引っ掛けて足掛ける事も出来る。なるほど、老師殿が言った『靴の準備』とはこの事であったのか。
 俺は魔力を高め、スカラの呪文を唱える。
 相手の剣も然る事ながら、老師殿が生み出した薔薇の刺も彼女の柔肌を傷つけるのに十分な鋭さを持っている。老師殿もお嬢さんが触れそうな部分を魔力で調整して氷を融解させるという離れ技と言うべきとんでもない制御を見せてはいるが、それを差し引いても彼女が傷つく事は老師殿にも俺にも本意ではない。神の御言葉による守護の言葉は確実に氷の茨からは守られる。
 というか、俺が入る隙がない。風のように氷の破片を舞わし、互いに肉薄する戦闘は剣での戦闘に比べて援護の難しいものだ。僅かに入り込める隙間という隙間は老師殿の魔術が滑り込んで絶妙のタイミングの支援を行っている。
 旅人として必要最低限の剣技と戦闘経験を持っているつもりではあるが、お嬢さんの体術の技量は旅人というレベルを超えている。格闘技の達人という域に達した身のこなしは、鮮やかな葉を茂らす若木のよう。これからも更なる精進にて強くなる事を感じさせる双眸に一片の曇りも無く、相手である殺人鬼の動きを悉く看破する。子供と戯れるようにあやすように差し出された手に攻撃は防がれ、嗜めるように何気なく出された一手は容赦なく急所に落ちた。
 殺人鬼がよろめいた。
 後ずさる先は無数の茨が槍襖のように生い茂る一角。逃れられぬもその巡る頭部と走らす視線は、しっかりと逃げ道を模索していた。殺人鬼は覚悟を決めたのか、一瞬身を固くした。
 お嬢さんが手を伸ばす。
 茨の中に飛び込んだ殺人鬼のフードを鷲掴み、力の限りに引きずり出す。老師殿の力にて鋼よりも固く鋭く伸びた茨故に、殺人鬼の体から吹き出した血が透明な色彩に生々しいほどの朱を投じ薔薇が鮮やかに色づいた。舞い散る朱にお嬢さんは表情に嫌悪が差す。
 どうと鈍い音を立て、殺人鬼が氷の上に倒れた。氷の大地からさらに氷の植物が芽吹こうとする様に、お嬢さんが川辺を見やり叫んだ。
「ブライ! もう、勝負はついた!」
 草花は成長を止め、今度こそ凍り付いた。
 ようやく訪れた沈黙に、お嬢さんが小さく息を吐く。
「クリフトさん」
 テンペを恐怖の底に追いやった張本人を前に、お嬢さんは振り返り俺を見た。
 燃えるように瞳に覇気を帯びて、その深紅の薔薇よりも高貴な香りのするだろう唇が開き命じたのだろう。
「こいつに回復呪文を唱えてやってほしい」
 俺はその時、お嬢さんの体にも無数の浅からぬ傷がある事を認めた。
 それでも、彼女は願う。
 その願いの気高さに、俺は思わず頭を垂れた。