LUNARCADIAの椎名様とコラボまとめ1


■ 次回の挨拶はぜひ貴方から ■

 □ 日が暮れて夜が来て
 絢爛豪華な王宮の正門で振り返った男は、やや疲れた面持ちで城内を見遣った。
  純白の壁と深紅の絨毯とのコントラストを甘くぼかすのは、木漏れ日の柔らかな影と新緑の香る風。深く豊潤な森に包まれた森林の王国サマルトリアは、信仰と 魔法に溢れたムーンブルクと違い太古の生命の厳かさがにじみ出ている。夕焼けも赤々とした光をようやく鎮め、夜のさわやかな風が淡い輝きの中に染み出して来る。
 男はムーンブルクの外交官。紫と赤に色移ろう特殊な衣をまとい、王国の紋章が刻まれた銀色の時計を掛ける王の代弁者。ようやく終えたこの国の国王を始めとした有力者と謁見し、様々な調整を行った気疲れ……かと彼を知らぬ者は思われるだろう。しかし、この外交官は違う事に疲れている。彼はこの王宮の貴族の存在に疲れていた。田舎村出身者のくせに王国の外交官に就職した彼は、同僚の誰よりも貴族という存在を嫌っていたのだ。
 ましてや、この城には彼がその貴族の中でも屈指と言って良い程に嫌悪する存在が居る。
 そんな存在に会わなかった安堵もあるが、それでも過剰なまでの警戒に疲労困憊した故の表情だった。男は豊かな紫の髪を掻き回し、仕事の顔を納め城下へ振り返った。
「こんばんわ」
 心地よい青年の声が振り返ったと同時に男に届く。目を伏していて何者がそこに居るのか分からなかったが、そんなものは1秒も掛からずに確かめる事ができた。あまりのタイミングの悪さに、男は礼を完全に失して立ち尽くした。
「こんばんは、リウレム殿」
「あ…はい。こんばんわ、カイン殿」
  返答がない為に繰り返された挨拶に、リウレムはようやく返事を返した。カイン殿は、ただ挨拶しただけだ。そう、リウレムは己に言い聞かせる。だが、城外に 限りなく近い場所での邂逅で非常に助かったと、不運の中の幸いを喜んだ。外交官の装束を纏い、外交官として訪れた今しがたに、交渉相手の国の王子に礼を失したなどと知られれば首が飛ぶ。
 大人の内心の焦りなどどこ吹く風と言いたいのか、カインは微笑む。
 サマルトリアの次期国王、賢く気高 く、気品に満ち満ちた青年を讃える詩を吟遊詩人は歌う。その詩の内容に違わぬ容姿、流れるような洗練された動作による一挙一動の美しさ。サマルトリア内外 を問わず女性がその羨望の視線を余さず投げかける人物は、確かに王としての資質を十二分に備えていた。カイザディーゲン=フォン=フレーベルク=サマルトリア。リウレムが最も会いたくない相手その人である。
 一刻も早く立ち去ってしまいたい。リウレムが『失礼』と口を開こうとした瞬間を狙うようにカインが口を開く。
「夕食一緒にどうです? この辺りにお気に入りの店があるんだけど?」
 しまった。
 リウレムは心の中が後悔の色にずぶ濡れにされるのを感じた。私服ならまだしも、まだ外交官としての装束を纏ったまま、優先事項も今の所無いとあれば目上の存在の誘いを断る事は許されない。ましてや、生まれながらのお貴族。道楽なのか趣味なのか、様々な仕事をして来た己には遊んでいるようにしか見えない。だから嫌いなのだ。分かって誘うのだろう、なんて強かな…。リウレムは瞳に沸き出しかねる嫌悪の色を、どうにか目を瞑っている間に飲み下す。
 すると、手に暖かい物が触れる。
 それがカインの手である事に気が付くのに時間はいらない。リウレムの後先など考える余裕など風に吹き飛ばされる花弁宜しく舞い散って、焦ってカインに触れられた手を引きはがした。
「おっと」
 カインがバランスを崩した。片手をリウレムの胸元を押し付ける事で、転ぶのをどうにか堪える。リウレムは己のした事をようやく理解して、早口に、非常に焦った口調で謝罪した。
「も、申し訳ありません…!」
「気にしないで、リウレム殿」
 カインが目を細め微笑する。十分な間を持って、ゆっくりと言葉が紡がれた。
「俺、貴方の事、気に入ってるんだから」
 なんてものに気に入られてしまったんだろう。リウレムは若干絶望に似た感情に、胸を強く圧迫されるような苦しさを感じた。

□ 知らない貴方を知ってみて
 美味い店は地元の住人に聞け。
 年上の知り合いで、世界中を旅している傭兵はこれだけは重要だと真剣に語っていた。理に適っていてもこのような形となるとは、全く考えられなかったとリウレムは外交官のローブを脇に抱えてカインの後を追う。
  金髪の直毛は決して鬱陶しくない程度に纏められ、どこか上品というよりも自然で粗野とすら思う印象を与える。己の目の前で跳ねる髪の一本一本が、街の明かりを写し取って真っ白い光を金色に這わす。暗めの緑にオレンジのアクセントを利かせた貴族としての普段着も、質は良いが市民の装う流行を積極的に取込んだ一品だろう。白い肌の覆う腕は細いがしなやかに伸び切っており、腰に掛けられた細身の剣は飾りではあるまい。
 思った以上に住人には友好的な王子様なのかもしれないな。リウレムは入り組んだ城下町の路地を行く背中を、初めてじっくりと見ながら思った。
「ここさ。貴族向けの店とは違うけどさ、俺はこういう店の料理、好きなんだ」
 カインが足を止めたのは、大通りから少し奥まった所にある食堂を兼ねた宿屋だ。旅人が泊まるような店は、確かに貴族向けではないを通り越し市民の憩いの場と言うべき場所だろう。木造の造りの内装は家庭的で、既に多くの客が席を埋めていた。カインが真っ直ぐカウンター席に着くので、リウレムもローブを膝に乗せ隣に腰掛ける。
「ここのはさ、特にトマトソースのスープが良いんだ」
 店長らしき男性と親しげに挨拶を交わしながら水を受け取るカインは、そのまま明快な声で注文を頼む。
「オヤジさん、『トマト煮込みのリゾット大盛り・カインスペシャル』二つで!」
  驚くリウレムにカインはすかさずウインクを一つ飛ばして、メニュー表を開いて指差した。メニューを見るとトマト煮込みのリゾットの項目には大中小盛りの他に、半熟卵乗せやチーズ各種山脈盛りの他に『カインスペシャル』とオプション付けされている。その項目を見つけたリウレムに、カインは楽しげに笑った。
「俺ここの常連だからさ、俺用の好みの味付けを用意してもらってるんだ。美味しいから安心しなって。何せ俺以外でも注文するからな」
 『そうなんですか』と曖昧に返事を返しながら、リウレムはメニューをじっくり読みふける。そんな事をしていると、カインは嬉しそうにカウンターの奥を見遣った。
「お、来たな」
  顔を上げて目の前に飛び込んで来たのは、とても濃厚な香りを放つ大皿に乗ったリゾットだ。煮込まれたウィンナーを贅沢に乗せ、米一粒一粒にまで染み込んだ赤の上に新鮮な粗刻みのトマトの濃厚な赤が飛び込んで来る。香草の緑が赤の中にひと際映え、銀色のスプーンが誇らしげに輝く。鼻をふわりと撫でるのは、香草と調和して米の中に巧妙に隠されたワインの香り。リウレムは一瞬不安な表情を浮かべ、カインを見る。
 一口食べたカインは満足げにリウレムを見た。
「ああ、やっぱここのオヤジさんのスープは格別だよなぁ。代々ずっと続いてるここの一番の自慢のスープだぜ。美味しいだろ?」
「えぇ、そうですね。とても…美味しいです」
 一口食べた感想は、紛う事なき本音。しかし、だからこそ問題だった。
 二人は黙々と平らげて、たまにカインが冗談を言っているうちに、このお店の看板メニューを平らげた。
「な、美味しかっただろう?」
「えぇ、大変美味しかったです」
 カインの言葉にリウレムは満ち足りたような笑みを浮かべて答えた。顔色は何の異変もないというのに、その口調は明らかに好意的な意図が滲んでいる。今まで張りつめ距離を置いていた警戒心がすっぱりと抜け落ちたリウレムを見て、カインも嬉しそうに笑う。
「マスター、会計お願いします!」
 あれ?
 カインが笑みを凍り付かせて、小首を傾げた。
「おいおいおい、まだデザートがあるんだ。このカインスペシャルはデザートもセットだから待ってて…」
  思考が潤滑に流れ始めた瞬間、目の前の年上の行動を理解してカインはとっさに言葉を掛ける。しかし、見た目や行動では全く酔っているように見えないリウレムは、確実に酔っぱらっていた。『あのねぇ』と吐息を吐くように囁いたと思いきや、ずいっと顔を覗き込んで来る。不満げな表情が次の瞬間、楽しい悪戯でも考えている子供のように綻んで笑う。
 酔っ払いの考える事は分からない。目紛しく変わる表情に、カインは呆然としながらも内心は心の中を掻き回されるほどに混乱していた。
「兄さん。釣りだ」
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
 立ち上がって勘定を済ませたリウレムは、カインを楽しげに見下ろした。にんまりと笑うと、やや前屈みになって見下ろす。ばらばらと紫の癖毛が落ちてカインの直毛に掛かる。
「あんまり、馴れ馴れしすぎると人は嫌がるもんだ。そう……こんなふうにね」
 右手がゆったりと動いてカインの頭に置かれた。
 殺意は無い。悪意も全く感じられない。だからこそ何が起きているのか…何が起きようとしているのか…そんな気持ちがカインの心から沸き出して来て冷静な心を躍らす。悪意でも一欠片あったならば、カインはこうまで混乱などしなかったろう。じっとりと汗すらかく程の緊張感に、突如、風が巻き起こる。
 そう、それは確かに暴風さながらの風だった。
 リウレムが、思いっきりカインの髪を撫でくり回したのだ!!
 もはや汗すら吹き飛ぶ。ぐしゃぐしゃになった髪の下で、カインが滅多に見せぬ驚きを表情に張り付かせる。ぽかんと目を見開き、口すらどの言葉も告げられずに半開きになっている。その様子を、リウレムは非常に楽しげに確認し、愉快と言わんばかりに笑った。明快な笑い声がカインの鼓膜を存分に震わせる。
「く……ははははは!!ま、接する相手は選ぶんだな!」
 上機嫌に笑うリウレムはローブと荷物をまとめ、荷物を持っていない手でカインの乱れた髪を軽く直す。
「そろそろ子供達の所に帰るよ!! ごちそうさま!」

 □ 明日は世界が華やかに色づく
「リウレムさん、酒飲んで来るなんて珍しいな」
「リウレムもこういう事になるから、滅多に酒なんて飲まないんだヨン」
  真っ黒い髪の下で真っ青な瞳が呆れたように細められる。グローブの嵌った手に絡み付く薄水色の触手をあやしながら、ロレックスは濡れたタオルを持って部屋を覗き込んだ。窓を開け放ちさわやかな風が吹き込む室内に、まったく爽やかさの無いうめき声が響く。ベッドの脇に座っていた、ルクレツィアが振り返った。
「はい、追加のタオル」
「ロレックスさん、ありがとう!」
 にっこりと天使のように微笑んだルクレツィアが、ぺとりと呻く本人の頭にタオルを乗せる。そして、ふわふわと近づいて来たシクラと呼吸を合わせ呪文を唱える!
 ヒャドの氷がタオルの上にコロコロと落ちる。頭に響くのかリウレムは非常に辛そうに呻いて枕に顔を埋めた。
「皆の迷惑になるから、お酒は禁止って約束したよね?」
「元々嫌いじゃなくても、仕事の時も飲まないで断るって約束だったヨン!」
 女性二人の叱責に、枕から細々と謝罪らしき言葉が漏れる。リウレムは酒を飲んだその時の酒癖は全く悪くはない。しかし、翌日には必ず二日酔いの症状が出て1日は寝込む。
 子供達と旅をするようになってシクラと決めた禁酒であったが、その事実を知られてからは子供達からも強く止められている。リウレムだとて、その事に関してはかなりの気を配っている。対談や接待の際には決して酒を口にしない事は、外交官として仕事をし出した時には心に誓ってさえいた。
 しかし、断れない場面というのは長く共に旅をしていれば現れてくる。
 第一、子供達に酒癖の悪さを暴かれたのは、子供達の仕掛けた悪戯という名の好奇心からだった。
「おい、おっさん。相変わらず見苦しく床に臥せってるのか?」
 開いていた扉を覗き込んだのは、不機嫌丸出しのサトリである。彼は室内の様子を見ると、室内の者には見えぬ廊下の方に視線を巡らせて何かを言おうとした。その何かを言う前に長身の体が小柄な影に押しやられ飛び込んで来る。ロレックスに似た面持ちのある少年は、カインの友人、アルローリート=アデル=ローレシアという王子様である。
 少年は床に臥せる紫の髪を睨みつけ、わなわなと震える。ルクレツィアとシクラだけが見る事ができたその表情は、今にも涙がこぼれそうな程に張りつめた紅潮した顔である。女二人は何事かと思い、目を丸くして少年を見上げた。
 少年は震える息を吸い込んで、衝撃波のように言葉を放った!
「カインに近づくな!!」
 最後の言葉が叩き受けられるのと、少年が駆け出すのはほぼ同時。少年の後ろ姿と足音が、瞬く間に部屋の者達から遠ざかる。
 冷静さを取り戻すのが最も早かったのは、事前に事の次第を知っていたサトリだった。サトリは一つ咳払いをして、未だ呆然と扉の方角を見遣る仲間に告げる。
「…… カインというこの国の王子が、おっさんと一晩過ごしたとか有らぬ妄想を吹聴して回っているらしい。その演技は役者の技として見るなら目を見張る程素晴らしいものだったが、事実無根に他有るまい。おっさんが昨晩の事を覚えていないとはいえ、戻って来たのは夕食直後だったしな。そんな事をしている暇などあるまい」
 そこまで一気に説明したサトリが、嫌悪に顔を歪めた。若干殺気立ってすらいる。
「僕に容姿が似ているような奴が、そのような行為に及ぶなど信じたくもない」
「それを信じる、あの坊やもどうかと思うけどな」
 ロレックスが奇麗な氷を一つ作ってもらい、グラスに入れて冷たい水を作りながら言う。
「何を思って言いに来たか知らないが、甲高い声で叫んで相手の声も聞かずに逃げるなんて………まるで女じゃねぇか」
「シクラも愛するリウレムが浮気しちゃったら、マヒャドって叫んで逃げちゃうヨン☆」
 シクラが何を妄想しているのか、恋する乙女の視線を明後日の方向に向けてうっとりする。その横で、ルクレツィアは毛布の上に落ちた氷を掬い上げ、更に濡れたタオルの上に落とした。今にも死にそうな、情けない声が枕から染み出て来る。
「リウレムさん。だらし無いぞ。さっさと元気になれ」
 その言葉に、毛布から手が覗いて力なくも了解の意図を示した。
 二日酔いに利く回復呪文は無い。
 それは酒好きの人間に下した、ミトラ神の罰であるとされる。


■ 好奇心はあらゆる壁を壊す ■

「シクラ! シクラ…!」
 遠くで呼ぶ声が高い天井を微かに反射して届いて来る。その低い声からプリスティアは声の主がリウレムだと分かった。
  外交官のリウレムは、彼女の目の前ではいつも従順な仕官のように振るまい畏まっている。目上の身分には徹底的に礼を失せぬ完璧さを持ち合わせている反面、彼の個人的な情報というものは王宮にはあまり知れてはいなかった。唯一、彼を知るのは彼の側に常にいる、しびれクラゲ一匹。彼女の目の前でふよふよと浮かびながらも、不安げに目の前の人間を見上げている魔物だ。どんなに出世を見込まれても頑なに出世を拒み、どんな難しい交渉を終えても誇らない。能ある鷹は爪を隠すというが、彼の場合は隠し過ぎて不気味にすら思う。
 ある意味、その得体の知れなさに苦手とすら思っているのかもしれない。そう思いプリスティアは顔を上げた。
 深紅の高級な絨毯の上ではなく、冷たく堅い床を走っている足音がだんだんと近づいて来る。底の堅い靴は、殊更高く床を蹴り床に着く音を響かせる。そこでプリスティアはある事に気が付いた。ムーンブルクでは屈指の身長と体格の良さを誇る割に、その足音は非常に軽快で高く軽く響いている。リウレム自身が声を出しているから気が付けなかったが、その気配の消し方はただ者ではなかった。恐らく、絨毯の上を移動し黙って近づかれたら、プリスティアが本来なら気が付くべき距離では気が付けない。
 プリスティアはうっすらと笑った。
 紫のやや波立った髪質がするりと立ち上がる動作で光を落とし、毛先に留める。仄白い肌に赤み差す唇が僅かに開き、しびれクラゲを掬い上げた手を上品に前で重ねる。深紅の瞳が駆け寄って来る殿方を待ち受けるその笑みは、まさに 一服の絵のごとき貴婦人のような麗しく年齢相応ではない威厳を秘めていた。しかし、足下まで覆うドレスの裾に隠れた足下は、肩幅に広げられ何時でも何事にも対応できるよう緊張させていた。
 廊下の角から出て来たのは予想通りの人物。リウレムは、シクラを持つ王女に驚いて目を僅かに見開いた。その豊かな紫の髪を深々と下げて、慇懃に会釈した。
「私の連れが貴方様のお手を煩わせておいでとは存じませんで、大変申し訳ありませんでした」
 畏まり謝罪を述べる言葉に動揺一つ滲ませない。再び上げた頭は、すでに彼女の手元でにこりと笑うしびれクラゲに向いていた。
「さ、シクラ。戻ってこい」
 仕官にしては珍しい日に焼けた堅い掌が差し伸べられ、プリスティアの細くしなやかな掌に乗ったしびれクラゲがふわりと乗る。舞い戻った相棒にほっと笑みを漏らす彼を、プリスティアは初めて見た。そして、次の瞬間走る警戒に堅く引き締められた表情も。
 旋風のようにドレスが舞い上がった。脚など、武術を多少心得ている物ですら目にも留められぬだろう。
 ぱっと、リウレムがシクラを放り出した。それすらも停止した空気の中にいるかのように、緩慢とした動きに見える。
  身を翻しとっさに腕を突き出せば肌を切り裂かんと迫る突風が、腕を熱する程の勢いで逸れて行く。そのまま手を突き出せば先程立っていた王女の姿は無く、一瞬にして背後をとられ姿勢を低くしていた側頭部に闘志が向けられる。リウレムはおのれの筋肉を総動員し、力ずくで無理矢理姿勢を回転させる。
 腕にがっちりと脚を受け止め固めると、目の前に迫った深紅の瞳を捉えた。
 プリスティアは相手の表情を見て妖艶に囁く。
「貴方、武術が得意なのね」
 鎮まった闘気に脚を解放されても、彼女は好奇心に似た意識を逸らさない。
「お手合わせ、願えないかしら?」
 その言葉に、とてつもなく嫌そうに顔をしかめる。それすらも余裕なのでしょうね。
 プリスティアは久々に出会えた強者が、こんなにも近くにいたのだと心の底から運命の不思議を楽しんで微笑んだ。


■ 苛めっ子 ■

「ロレックスさんは誰を見ていたの?」
 そう俺を見上げて訊ねてきたルクレツィアの言葉に、俺自身の事なのに『はぁ?』と聞き返した。
 町中で普通に旅の消耗品を補充しに買い物に二人で出掛け、その道中で少しお茶をしてルクレツィアを休ませているのだ。目の前には人通りの多い時間帯、人通りの多い大通り。特定の誰かを見ていられるような流れではないのはルクレツィアだって知っている。それでも彼女は俺が誰かを見ている反応を見たのだろう。
 俺が首を傾げていると、ルクレツィアがふうっと頬を膨らませた。
「誰か見てたよ。眺めてるような目じゃなかったもん」
「そんな事言われてもなぁ」
 俺はガリガリと帽子の中に手を突っ込んで髪を掻き回す。必死で記憶を辿り、眺めていた人の流れを出来るだけ思い出そうと努力する。
 そこで、俺はふと人の流れの中に知っている人間を見たのを思い出した。俺と同じローレシア出身で年齢も近い青年を見た俺だったが、それは風景でも見たかの様になんの感慨も湧かなかった。ローレシアの傭兵は世界各地にいるのだから、いちいち構ってられない。
 俺が思い出したのを感じてルクレツィアは満足げに笑って訊いた。
「仲の良い人?」
 俺は笑って首を振った。
「俺が一方的に殴ったりして苛めてた奴」
 俺の返事にルクレツィアが目を丸くして『えぇ!?』と信じられない様子で声を上げる。
 逆に俺がその反応に、愉快そうに笑ってしまう。
 そういえば、サトリもルクレツィアもリウレムさんも俺のローレシアでの評判は知らないだろう。逆にローレシアでの俺を知っている傭兵や知人は、あまりの丸くなり様に驚くかもしれない。ローレシアは傭兵の国。強くなり優秀な傭兵になる事が生きる為の方法と言わんばかりの国で、特に俺には両親が居なかった為に決断は誰よりも早かった。だからライバルと言える人間は同い年ではなく年上ばかりで、俺は大人にすら楯突く筋金入りの不良だった。
「ロレックスさん、どうしてその人を殴ったりするの? ロレックスさんは人を殴るような人じゃないでしょ?」
 いいえ、ローレシアでは道端で良く大人を殴り飛ばしてました。
 …とは、流石にルクレツィアを前に言えず。
 それでもルクレツィアの言う通り、昔の俺はなんであいつを殴って苛めていたんだろうと思い返す。
 あいつもいずれは俺と同じく剣を取って戦う事を仕事とするような、誰よりも強くなる必要がある道を選ぶ人種だった。家柄はローレシアでも屈指の名家で、俺はそいつがローレシアで誰よりも力が必要だと思っていた。力が必要なら努力しなければならないのに、そいつは強くなろうとしなかったのだ。強くなるのを諦めて弱いままで居る事に甘んじる事は、死ぬ事と同じだ。それで善しと思っているそいつの家族の護衛も、俺は何度となく殴り飛ばした記憶がある。俺は苛立ちを感じていたんだろうが、それがあいつ個人なのか俺なのか ローレシアという国なのか良く分からない。
 あいつの歳は上だったか下だったか良く覚えていない。それでも、弱くて小さくて消えそうな印象ばかりが浮かんで来るので、俺は思わず呟いた。
「なんで殴ってたんだろうなぁ…」
 本当は護る対象になるべきだった。それくらい弱かった。
 俺が本気で悩んでいる様子だったのか、ルクレツィアが首を傾げて訊ねた。
「ロレックスさんってその人、好きなの嫌いなの?」
「別に、どうでも良いと思ってる」
 俺の答えにルクレツィアは唇を尖らせて言った。
「どうでも良い人に殴ったりする程の感情は抱かないよ。ロレックスさん」
 目を真ん丸くする俺にルクレツィアは再度同じ質問をしたが、結局俺は答える事が出来なかった。