LUNARCADIAの椎名様とコラボまとめ3


■ どうか名付けないで ■

 今宵は満月だったか。
 粗末な木枠の窓に申し訳なく垂れ下がったレースのカーテンが、月の光を透かして絹織物に負けぬ光に染め上げている。部屋も月明かりの青白い光に照らされているが、のっぺりとした壁面以外にあるとしたら粗末なテーブルと十本近くの酒瓶くらいだ。色の濃い硝子も透明な硝子の中身も、皆平等と言わんばかりに空になり一滴二滴の水滴が名残惜しそうにへばりついている。
 記憶の中ではまだ少し残っていた肴は、最早ナッツ一つない。それどころか、盛っていた皿すら無い。片付けたのか。俺は鈍い痛みに回らない頭の片隅で、感心したような感情が湧いた。何に感心したのかすらまだ明確ではない。
 頭を動かすと石が転がるように鈍い痛みが頭の中をごろごろと移動したが、新しく肌に触れたシーツは冷たくて気持ちがよかった。シーツは安物の麻布だったがどうでも良かった。頭を動かした拍子に、今まで視界に入っていなかった部分に目がいく。
 人影。俺は認識した瞬間、総毛立った。
 窓の明るさに気を取られ、その真横の最も暗い部分は頭上のヘッドボードと同じく死角だった。その闇に沈み込むように人影が踞っていた。しかも、光の加減から剣らしき物を抱えてである。その形容だけで己の迂闊さに舌打ちしてしまう。察せられない程度の静けさと慎重さで手の届く範囲を探っても、己の剣が見つからない。無防備であって無事だから害意はなくとも、その事実は絶望を目の前に突きつけるのと同意義だった。
 闇を凝視していて徐々になれる視界の中で、暗闇が解れて来る。沈んでいた人影に月の光が手を伸ばして愛撫する度に、輪郭が現れて来る。柔らかい髪質に、外套に埋めるように顔が伏せられている。等間隔で上下する衣類と剣。先程の焦りから早鐘の様に鳴った心臓が鳴り止めば、微かに寝息が聞こえて来る。
 寝ている。安堵からか、頭痛は頭蓋の中を奔放に転がる玉なのに身を起こす。
 アレフだ。
 窓枠を支える柱に寄りかかり眠っているのは、傭兵のアレフだった。その事実を確認すると、この状態に至るまでの事を鮮明に思い出せた。自称酒豪と宣ったアレフの挑発に、自分が乗ってしまっただけの事だ。酒場が全て閉まり、意地からか宿で杯を開ける。結果はアレフの酒の強さは師匠並みで、俺がそのような人物と競って勝てる訳が無いと確認した事くらいだ。潰れてしまったのだろう。その後はアレフは肴を盛った皿を片付け、宿の主人に連れが潰れた事でも説明したのだろう。そう思うと、彼は酔ってすらいなかったのかもしれない。俺の負けず嫌いが疼く。悔しい限りだ。
 それでも酒が入った事により眠りは深いのだろう。俺が身体を起こしても目覚めないのが、それを物語っている。傭兵である彼は仕事中は酒は一滴も飲まないし、町以外の場所で酒を飲む事を嫌う。これだけ酒に強くても影響はあるのだろう。
 頭痛が酷い。目の真裏をゴロゴロと重い音を立てて毬栗が転がっているようだ。身体も酷く重かった。これが二日酔いという症状なのかと、文献で読むだけではない経験にこれからは二度と深酒はすまいと誓うしかできない。回復呪文も効かないのだから、ミトラは容赦のない神だ。
 するとアレフの手に瓶が一つあるのに気が付いた。コルクの簡素な栓が押し込まれた瓶には、酒の銘柄が書き込まれたラベルが張り付いていない。使い込まれた様子の硝子を虹色に輝かせる液体の色は、どうやら透明のようだ。それを見て、俺は安易にだが水ではないかと思った。
 吐き出した息はアルコールの匂いを含んでいる。少しはマシだろう空気を取り込み、深呼吸を繰り返して息を整える。頭痛に慣れ身体が少し楽になったと思った瞬間、身体に力を入れてベッドに端座位になる。体中が軋むが動く事を嬉しく感じたのは久々だ。ゆっくりと足の裏に体重をかける。床がぎっと軋む音に息を詰めて力の移行を留めて、床の音が過去になるのをじっと待った。
 ゆっくりと床に降りて膝をつく。転がる頭痛に身体が転倒してしまうのを堪えるのに、また随分と時間を使った。
 アレフの足に触れぬ様に膝をついた為に、アレフの手元にある瓶まで途方の無い距離に感じた。そこで、俺は何故アレフを起こさず瓶を取ろうと必死なのだろうと気が付いた。例え酒の影響で眠りが深くとも、アレフの事だ、触れるだけで目を覚ますだろう。それは一流の傭兵としてあろうとする彼を知るからこその確信でもある。
 だからだろうか。首を擡げた不安をその一言で押さえつける。
 一流の傭兵だから、気づかれず取ってみせようとでも思っているのだろう。その考えは俺を納得させてくれた。
 利き手をそっと彼の大腿部の横の床に添えた。ゆっくりと時間をかけて身体の体重を預ける。己の腕が頼りない棒切れの様に震えていたし、髪の毛がさらさらと落ちる音が針金が這い回るような不快さと感覚を齎す。それでも、動き始めて支配下に置く事が出来てきた身体は、簡単に屈せず倒れなかった。
 もう一方の手で、後は瓶を取るだけだ。
 そこで俺はアレフの顔を見遣った。気配と呼吸の間隔で覚醒しているかどうかは把握出来るので、見る必要性は無かった。こんな間近に迫られて気が付かない馬鹿者の顔でも見たかったのかもしれない。
 視線を上げて見た顔は思った以上に近かった。それは互いの髪が触れる程に近く、顎を上げるだけで鼻先が触れてしまう程の距離だった。閉じられた睫毛の一つ一つの長さすら、己の息で揺れてしまうかもしれない。砂漠と乾燥した山脈を行き来する肌はお世辞にも綺麗ではなかったが、鼻筋や唇の形は整っている方かもしれない。髪によって生まれる闇と、月明かりに照らされたコントラストは美しかった。
 頭痛が重く頭蓋を破りそうな程膨らんだ。息を殺し、眉根を寄せて、歯の奥を食いしばる。俺はこんなに辛いのに、なんでお前はそんな平然と穏やかな顔で寝ている。怒りに似た感情が頭痛と重なって割れ金の様に響く。
 それでも、俺はきっとお前の胸ぐらを掴んで怒りをぶつけたりはしないだろう。
 その穏やかな顔に触れたいとすら思う。今は手が重くて仕方が無い。顔が届くなら、それでも十分だ。
 だが、駄目だ。お前は目覚めて、今、俺の目の前に居るお前ではなくなってしまうだろう。驚く顔も見たかったけれど。
 腕がか弱い少女よりも頼りなかった。息は全力で坂を駆け上がっている程に苦しかった。頭痛は酷く、頭の中がどうなっているのか想像したくもなかった。膝から下は床の上で砕けていそうだった。体中が重く、重力が甘く囁いて招いている。
 俺は身体に動けと命じた。
 身体は、命令通り従った。手は宙を移動して瓶に掛かり、指先はその瓶を持ち上げるのに十分な力を込めた。床を突いていた腕に預けた体重を、体幹は順序よく膝に移した。ごとりと瓶の底が床を叩いたが、その音が消え去る前に俺はアレフの前に膝をつく体勢に戻っていた。
 すぅと呼吸が変わる。アレフは直ぐに目覚め、黒曜石にすら間違えられそうな瞳の色を影の中で瞬かせた。
 その表情を見て沸き上がった感情は、何とも言葉にし難かった。しかし、幸いだった。その感情に呼び方があるとしたら、それは…
「あぁ、すまん。水が欲しかったか」
 瓶を手にした俺を見て、彼は暢気にそう言った。


■ 恋する赤い鳥 ■

 戦うアレフの姿は美しいと思う。
 師匠が俺に学ばせた剣技は、王宮の騎士や貴族が学ぶ整った型に似ていた。剣よりも呪文に秀でた師匠がその剣をどこで学んだかはともかく、探索商人である俺には大きなプラスになった。整った美しい剣技は、容姿と等しく高く評価される事だったからだ。時には頬を染めた令嬢に剣の腕を披露して欲しいと囁かれ、かつては腕に覚えのあった貴族は一つの余暇にと相手を依頼された事もある。俺にとって剣技とは交渉を有利に進める一つのカードだった。
 無論、戦闘でも剣技は俺を何度も救ってくれた。
 だが師匠共々呪文に秀でていた俺は、剣よりも呪文の力に頼る事が比較的多かった。剣で切り裂くよりも、呪文の殺傷能力の方が高い。盾で防ぐよりも呪文による防壁を用いた方が安全だ。極めつけは薬草で、ホイミとどちらが優秀かと言えば薬草がそれ程重宝されていない世間が答えを示していた。
 アレフは呪文が使えないと、世間話の様に話していた。彼が魔物に振り下ろす剣は、あらゆる動きを封じ込めた。突き出し身体に滑り込ませた一撃は、間違いのない必殺の刃。紙一重で避ける様は舞踏のようで、受け流した脅威が刃の横を流星の様に滑り抜けた。呪文を放とうとするならば、鬼神の如く敵を圧倒した。
 俺は彼に会って本当の剣技を見たと思う。
 敵を殺す為の技術。そこには優雅さは欠片もない。貴族や俺が使う、装飾や競技や補助の延長ではない。
 勿論、呪文が使えない彼にとって剣で敵を殺す事は当たり前の事だ。だが、俺は剣一つで敵を討つ実力に敬意を表していた。逆に彼は呪文が得意な俺を羨ましがるかもしれない。先程まで魔物がいただろう黒く炭化した一角を見ながら思う。
「どうかしたか、アレス?」
 振り返ればアレフが剣を手に歩み寄って来る。
 敵陣の真ん中で舞ってきたからか、彼には細かい魔物の血飛沫が花弁の様に散っていた。緑の血も黒い血もあったが、それらは日の光に反射して白く光っていた。
「いや」
 俺の返事にアレフは特に表情を変えず、視線を行く先に向けた。剣をベルトに固定しないのは、アレフがまだ周囲に警戒し続けている為だろう。
 その背に俺は思わず声掛けた。アレフ、そう言った声が届くと彼は振り返り言った。
「やっぱ滑るか?」
 アレフは真面目そうな表情で俺が握る柄を指差した。最短距離を行こうと森に入り、予想以上の魔物に遭遇していたが為に俺の剣の柄は魔物の血に滑っていた。握りが安定しない為に、俺は森の中でも呪文を使わざる得なかったのだ。敵を的確に殺せる自信が、俺にはなかった。
 アレフは自身の深紅のマントの端を手に取ると、俺の剣の柄をマントの上から握り込んだ。じわりと深紅が濃くなり黒ずむ。アレフはマントの面を変えて握り込み、俺の剣の柄に染み込んだ魔物の血を吸い取った。彼の日に焼けた浅黒い指の間から、魔物の血が滲み出て地面に向かって落ちて行く。それを何度か繰り返すと、アレフは一つ頷いた。
「こんなものだろう」
 握ってみろ。そうアレフが促すので握ると、柄の滑りは払拭され手に吸い付くような感覚が掌にあった。俺の反応が納得いくものだと感じたのか、アレフは再び進路に身体を向けた。礼を受け取る事もどうでも良さそうに、黙々と歩を進めて行ってしまう。
 俺は彼の後を付いて行く。
 自分でも驚く程無防備な足取りで。


■ 華奢なてのひら ■

 戦場で細腕の人間程、警戒してしまう。
 特に意識してしまうのは、戦闘が行われると予測される場所で見かけた時だ。例えば町や村の自警団の守護範囲外であったり、魔物の住処と隣接するような森の中を貫く街道であったり、盗賊共が嗅ぎ付けるような荷物満載の荷馬車の横がそうだ。そこに武器を携帯しておきながら、その場に相応しいとは思えない程の細い腕の人間がいるとしたら手強いだろうと俺は先ず思っている。
 この世界には呪文と言う、腕っ節とは関係のない強力な暴力が存在するのだ。
 呪文を唱えられ発動する力は、どんなに剣を強く振っても倒せない魔物を生み出すようなものだ。それは火炎であったり爆発であったりと姿は様々。救いなのはそれが一瞬の暴力であって、森の木々や家々を薙ぎ倒す事はあっても災害に発展したりする事が滅多に無い事だ。
 俺は呪文が心底恐ろしかった。
 自分が使えないというのもそうだが、発動した呪文に対する防御や回避が難しいのだ。マジックバリアやマホカンタという呪文の効果を反射する手段はあるが、それは魔法使いが使う呪文の一種で俺は使えない。呪文を反射する武具や道具が存在はするが、目を剥くような高価な値段になる。
 俺が呪文を回避する為に選ぶ事の出来る方法は、魔法使いが呪文を使う前に妨害するという一択となってしまうのだった。
「何だ?」
 声を掛けられて、俺はアレスの手元をぼんやりと見続けているのに気が付いた。
 宿場町の簡素な食堂のテーブルを挟んで朝飯を食っているが、食事の手を留めてまで見入っていたようだ。アレスはラダトーム王宮で通じる完璧なナイフとフォークさばきで、目玉焼きと切り分けたハムと少々の野菜を乗せたモーニングプレートはほぼ完食だ。バスケットに盛られたパンを取る手付きすら優雅だ。がたがた言うテーブルも相まって全く似つかわしく無い。
 アレスの手は剣を握る職業とは到底思えなかった。何度か手袋を外しているのを見た事があるが、指は細く長く全体的に華奢な印象だった。ほんのりと桜色で整えられた美しい爪と、花の香りが漂いそうなきめの細かい肌が覆う手の平だ。そんな手が無骨な手袋を嵌めて剣の柄に指を掛けているのが、とてもアンバランスに感じていた。
 見る男が見れば、美しい薔薇に刺があるような魅力でも感じるんだろうな。
 俺はアレスの手から視線を外して簡潔に答える。
「不思議な手だと思ってな」
 答えの内容にアレスは不思議そうに俺を見た。模範的な解答としては『手が綺麗だ』とか『思ったよりも小さい』『指が細いな』等を挙げられてきた事だろう。確かにアレスの手は、戦いを知らない城下の貴族の手と見間違えても可笑しく無い美しさがある。僧侶ですらここまで整えた手を持っている者は、戦いの場には現れない。だが俺は何度も彼が剣を振り翳して魔物を屠り、呪文を放ち仕留めたのを見てきた。こんな白魚の手が暴力を振るうなんて、全く、ミトラ神のご趣味には付いて行けねぇな。
 俺自身の手はどんな服を着ても、手を一瞥しただけで剣を持つ人間だと看破されるだろう。それに困った事は一度も無かったし、それは結局個性みたいなもんだ。
 アレスは上品に紅茶を啜って言った。
「何かしら特徴のあるような手ではない」
「そうかな? 俺はきっと手を見ただけで他人とお前が識別出来ると思うぞ」
 パンに野菜とソーセージを挟みながら言う俺に、アレスは睨んでいると思う程鋭い視線を向けてきた。このハムは少し塩気がキツ過ぎると思いながら、俺はパンを頬張って視線を受け止める。もぐもぐ口を動かしながら、まるで女性のようにカップに添えられた手を見遣る。まぁ、男の貴族がどんな風にティーカップに手を添えるか等、俺の知った事ではないが…。
 どちらにしろ、俺よりも先にアレスの方が先に食事が終わっちまった訳である。俺はその後は無言でせっせと食事を胃袋に流し込んだ。
「だから…何だと言うのだ?」
 焼き過ぎた目玉焼きに口の中の水分を強奪されながら、1人呟くアレスを見た。アレスはティーカップに残った紅茶を見ていたかと思っていたが、彼自身の手を見つめていたようだった。目の前に俺が座っていて大変残念ではあるが、端から見れば憂いを帯びた美しい男子の姿は一幅の絵の様だろう。
 残念ながら卵が焼き過ぎで黄身はぼそぼそしてるわ、白身の焦げ付きは刺さるわで口で答えられる状況ではない。どんな答えをするにしろ、俺に向かって呪文を放ったり剣を向けたりする結果になるかもしれない。可能性一つあるなら沈黙は最適な答えかもしれない。
 だが、意地悪に答えてみても良いか。俺は完食して立ち上がりながら言った。
「好ましいって事だろうな」
 血に塗れて、泥に汚れて、呪文の光に輝いても、嫌だと思わないならきっとそうだろ。


■ すくわれると嘘ぶいた ■

 しとしとと雨が降り続き、山を渡る雲の加減で雨脚が強まったり止んだりを繰り返す。それでも俺達が歩いて来た長い道の間降られてしまえば、雨風を凌ぐマントからは水が滴り衣類は張り付いて体温を奪う。安物のマントだから仕方が無い。
 真冬の雪に閉ざされるような時期でないとはいえ、この季節の風も十分に冷える。木々の下で雨宿りをするよりも、確実に雨風が凌げる山小屋まで進む事を選んだ。アレフガルドの旅人は基本的にテントを持っては歩かない為、山小屋は旅人達の重要な拠点だった。
 容赦なく濡れた衣類が体温を奪う。何時もは気にしない荷物がやけに重い。疲れを自覚する程に体力が奪われていると思うと、やはり外套くらいは高い物を買おうと考える。結局買わないが。
「アレフ、大丈夫か?」
「問題ない。気にするな」
 背後から追随するアレスの言葉に、俺は短く答えた。
 捜索商人のアレスは他人には深く関わる事はしないし、付き合いも非情に冷淡だ。探索商人がどれだけ単独であらゆる依頼をこなす一匹狼共であっても、その武術や魔術の力量は並みの傭兵を遥かに凌ぐ。以前仕事をした時に俺の生命に関する事に注意を払う必要は無いと告げてある以上、俺の実力をアレスが否定しない限り問題ないと答えればそうだろうと納得するだろう。
 そうだ、問題ない。俺の身体なんだから、俺が一番分かってる。
 水を含み靴底に張り付くような泥に何度も心の中で悪態をつきながら進む。時折風に木の葉がざわめき、遠くで魔物の鳴き声が聞こえて見遣るも敵の姿は無い。雨が降る中では魔物達も獲物の匂いが分かり難い為に、そんなに活発な動きは見せないのが救いだ。
 背後から影の様にアレスの気配がある事を感じながら、俺達はようやく山小屋まで辿り着いた。
 太い丸太を組み合わせた頑丈な造りの山小屋は、魔物達からも身を守れる優秀な砦でもある。木材にはマホカンタまでではないが遮術性を備えた技術が施され、魔物の呪文による放火を防ぐ。火炎の息は流石に防げないが、一生を確実に終わらせて来るような魔物以外の雑魚なら十二分に防ぐ事が出来るだろう。地域の魔物に対応して、小屋の造りは様々だ。
 明かりも無く鎧戸もしっかりと閉じた小屋には、どうやら先客はいないようだ。
 剣を抜いて扉を開けると、真っ暗な小屋の中に魔物の気配も存在しない。扉を開け放ち雨雲が覆う空からの薄明かりに照らされた内部は、魔物に荒らされた形跡も無い。入って直ぐの土間には乾燥した薪が積み上げられ、その奥には飲み水が入っている壷がいくつも置かれている。旅人の為に各自治体が整備している備品を横目で確認すると、俺は剣を下げたまま小さな窓の鎧戸を少しずつ開け始めた。
 ぽたぽたとマントから雫を落としながらも、小屋の全ての鎧戸を少し開けると小屋の中は随分と明るくなった。小屋は町にある馬小屋よりも狭い。農耕具を少し置いておくような小屋で、4・5人入ると手狭に感じてしまう程だ。
 俺が明るくなって来た内部を見回す間に、アレスは暖炉に薪を焼べて火を起こしていた。温かい光が音を立てて広がる。
 安堵から思わず大きな息を吐いてしまう。俺の様子にアレスが振り返って俺を見た。
「なんだ?」
 俺が何気なく尋ねる。アレスの白い肌が暖炉の炎の照り返しで、血色の良い肌色に染まっている。マントが俺よりも上物であったからか、それともアレスの魔術の成せる業なのか俺程より濡れてはいないようだ。アレスはなんとも綺麗な蒼い瞳を僅かに伏せ、剣先で暖炉の薪を突いた。
「濡れている服を絞って来い。小屋を水浸しにするつもりか?」
「あぁ。そうだな」
 俺は荷を解いて小屋の隅に降ろすと、冷えて動きの良く無い指先に苦労しながら鎧を外して行く。足下の土間は小さな水溜まりが出来ていた。身体が軽くなった筈なのに、あまり実感が湧かない。身体が濡れて体力が奪われた為に、体調まで崩れかけているのだろう。情けない。外套は高くても良いから買い直した方が良いかもしれない。今度こそ、買おう。
 俺は一度外に出て先ず外したマントを絞った。小気味良い程に、ばしゃばしゃびしゃびしゃと水が零れ落ちて地面を叩く。マントは窓枠に引っ掛けて、オレンジのインナーを脱いで絞るとこれまた面白い程水が出る。素肌に触れる冷気が剃刀のように鋭く、俺は僅かに奥歯を噛んだ。
 随分酷い雨の中歩いて来たんだと、改めて実感する。着替えないと確実に風邪をひくだろうな。
 マントと服を持って小屋に戻ると、アレスが俺を見て息を呑んだのが分かった。蒼い瞳が俺の身体を凝視しているのが分かる。
 そんな反応には慣れていた。だからこそ、俺はドムドーラ地方を渡る時も長袖を着込んでいるのだ。
 俺は傭兵としては傷が多い方だろう。回復呪文も使えず、盾を装備せず戦いのド真ん中に突っ込むのだから無理は無い。日に日に傷は増え、傷が傷を重ね抉れて痕がどんどん深くなる。神経に触れるのか疼く所もある。露になった肌の至る所に刻まれた無数の傷を見て、同業者でさえ何らかの声を漏らす。
「回復呪文は掛けないでくれよ。今出来た傷じゃないからな」
 俺がそう言うと、アレスは僅かに開いたままの口をようやく閉じて頷いた。
 大きなくしゃみ一つして、俺は着替えが濡れていない事を祈りながら鞄の中身を確認し始めた。アレスは俺に決して手を差し伸べたりしないだろう。俺が助けを拒絶しているのが、彼には分かるから。