DQ系雑記ログ5


■ 君に降る雨はいつだって ■

 さらさらと霧雨が大地を潤して行く。雲の切れ間から差し込んだ光が、霧雨を七色に染め上げた。
 とても美しい光景を、テラスへ続く窓から眺めるのは勇者と姫君。玉虫色の空間の中 影絵になって浮かぶ男女の影を、女官達がうっとりと眺めている。彼女等は何か勘違いしているのではないだろうか。私達がしている話は、そんな色気や聞いていて楽しい話ではない。
「駄目です」
 私の穏やかな拒否に、碧の瞳が潤むのが見えた。
 そんなひどい。
 彼女の唇がそう動き、掠れて出ない声が脳裏を掠めていく。それまでは静かに嗚咽していたのだ。喉はそれは辛い事でしょう。その『そんなひどい』の言葉を、今までの人生の中で最も浴びせた人間は私なのだろうと思っている。
 私は彼女の喉の痛みを労るように、微笑んで言った。
「お姫様。貴女のお願いを断る人なんて、きっと居なかったんでしょうね」
 ラダトームに咲く一輪の薔薇。淑やかな百合。どんな花で喩えてみても、その美しさを表し切る事は出来ない。
 彼女は本当にそんな美しい女性だ。
 アレフガルドの男性は、一度は彼女を妻に迎える夢を見るだろう。王になりたいのではない。彼女を妻にする。それはアレフガルドの全ての女性よりも美しく優れた女性を、我がものにする独占欲の表れなのだろう。でも誰もが分かっている。高嶺の花だと。
 瑞々しい桜色の唇が、薄く開く。真珠のような歯を隙間に見せ、彼女は紡ぐ。
「私は、勇者様をお慕いしております」
 まるで豊穣の象徴とされた黄金の麦の穂の様な睫毛が、雨粒に打たれ震えるようです。碧が肌色に覆われ再び相見える時、その黄金は雨を受けたように露を宿し美しく光る。
 私は彼女の頬をすっと撫で、小さい肩に手を置いた。そして優しく微笑む。
「お断りします」
「どうしてです?」
 真っ直ぐ、本当に分からないと言いたげに私を見て来る。
 あぁ、傲慢なお姫様。貴方が欲しいもので手に入らないものなんて、無かったんでしょうね。竜王が一時的に奪った自由も、何処ぞの勇者様が取り返して渡してくれましたね。
「ローラの何が不満ですか? ローラは心の底から勇者様をお慕い申しているのです」
「ですから?」
 私は哀れむように彼女を見下ろすのです。そして霧雨の中を歩き、テラスの中央へ進む。
 彼女は雨の中を歩こうとはしない。雨の届かぬ暗がりから、私を見ています。
「貴方は私の代わりに竜王を倒して下さるのですか? 勇者なら誰でも恋い焦がれるんじゃないですか? あぁ、それとも貴方の目には私が美男子に見えますか。強くて背が高くて頼もしくて穏やかな男子は、お姫様が隣に連れても遜色ありませんか」
 彼女が絶句したように目を見開き、霧雨を突っ切って私の元へ駆け寄った。侍女達の静止の声を振り切り、彼女の豪奢な金髪を雨は甘く濡らして行く。
「そんな事は…!」
 私は笑い、外套を引っ張って彼女を覆う。あぁ、可愛いお姫様。貴女に降り注ぐ雨粒は、私が遮って差し上げ上げましょう。
 侍女達は笑った。恋人達の甘い愛撫がマントの影で行われていると思っているのでしょうか? でも、残念。そんな甘く優しい事は起きておりません。
「ごめんなさい。お姫様。私は貴方のような美人の女性は嫌いじゃないですよ。むしろ好きです。胸も大きいし、美人だし、貴女と結婚したらお金に困らなそうですからね。メリットだって大きい。とてもよいお誘いだと思ってますよ」
 大きく見開いた碧の瞳から、ぽろりと一粒涙がこぼれる。
「でもね。お姫様。私は欲しいもの、殆ど手に入れる事って出来なかったんです。勇者である事を辞めたいと何度も願い欲しましたが、決して願いを聞入れてはくれませんでした。命を賭けろ。誇り高くあれと強いられました。…どうでした? 理想の勇者でしたでしょう?」
 にっこり私は笑う。
「私は世界の半分を貰う取引に応じました」
 そしてマントの影から、彼女に見せるように光の玉を取り出してみせる。
「竜王なんて最初から居ません。光の玉を奪ったのも、竜王の城の玉座に座っているのも私なんです」
 人間の世界をもらいました。
 どうしましょう?
 ねぇ、おひめさま?


■ そして、新たなる世界が ■

 それは世界のどこか。
 世界に存在する全ての生きとし生けし者の歴史を記した書物が、延々と連なる図書館。天球儀には様々な世界と、その世界を見守る星々でキラキラと輝いている。金の鎖は世界を支え、妖精達が生命の誕生と共に製本し、羽ペンが生を綴り、次々と棚に格納されて行く。紫に輝く蝶が舞い、静寂に満ちた図書館の様々な場所で羽を休めていた。
 天球儀を中心に本棚はまるで迷路のように入り組み、塔のように上へ上へと伸びて行く。金の梯子は最も高い所で輝く、不思議な優しい光に吸い込まれるように伸びていた。不思議な光は図書館の隅々にまで届き、妖精達が本を探すのにも本を記録するのにも見守っているような慈愛を感じさせていた。
 本は、この図書館では『冒険の書』と呼ばれている。
 冒険の書は一冊一冊が趣向を凝らした、世界に一冊の本だった。
 一人に一冊与えられる、人生を綴った本。生まれたと同時にこの空間で製本され、生きる間休み無く執筆され、死した後は本棚に納められる。冒険の書が消える事は、死よりも恐ろしい結末が待っていた。黄金に飾り立てられた豪華な本もあれば、鎧のような鋼鉄の表紙を持つもの、ぼろぼろで崩れ落ちそうな布切れの本、有り触れた革細工の本、芽が出て地面に根付き世界樹の葉を茂らす本、薄い本、厚い本、頁が白い物から黒い紙、血に塗れたものまで、同じ本は一冊たりともなかった。
 そこは本の森。
 世界を収めた妖精の図書館だった。
 一つの天球儀に寄り添っていた星が瞬き、閃光のように大きく光を放った。突然の光に、次々とアメジストの翅が飛び立ち、紫の風は書物の頁を繰った。羽ペン達は不平不満を言わず頁の間に挟まってしまったが、暫くして紙を押し退け立ち上がり物語の続きを綴り始めた。
 閃光が小さくなり現れたのは、一人の天使だった。
 大きな新雪のような翼を背に畳み、豊かな髪を軽く結い、ゆったりと身体を覆う衣を翻して頭上に輪を抱く。
「こんにちわ」
 そう微笑んだ天使に、一人の妖精が歩み寄り恭しく頭を垂れた。妖精は他の妖精達よりも上等なローブを纏い、ペンを剣のように、インクを鞄のように、ルーペを盾のように装備し、手には果てしない長さを誇る不思議な紙を繰っていた。
「これはこれは、ラフェット様。ごきげんよう」
 ふわりと笑みを浮かべた妖精の表情は、砂糖菓子のように儚く甘い。ラフェットと呼ばれた天使は、慈愛に満ちた表情を浮かべ巨大な図書館を見回した。
「新しい世界が出来ると聞きましたので、何かお手伝いする事でもあるかと思いまして…」
 妖精は目を丸くして、ぶんぶんと手を振った。この妖精はこの図書館で最初に生まれた妖精だったが、その仕草はやや幼い。
「ラフェット様のお手を煩わす訳には参りません。アストルティアは大きく広がるばかりで、貴方のご助力に私共は感謝の言葉は懇々と湧き出る泉と同じく現在進行形なのです」
 そう見上げたのは5つの大陸に囲まれた1つの大陸の天球儀。しかし、天球儀に寄り添うように、もう一つ大きな世界が浮かんでいた。金の鎖は世界を支え、銀の細い糸のような鎖は繋がりを示す。銀の鎖はその天球儀から様々な世界と複雑に絡まり合い、沢山の蝶が翅を休めていた。
 星々が霞のように天球儀を覆う空間で、囲んだ蔵書の量は果てしない量となっている。
 新しく奥へ開かれた先を、妖精は示した。
「ご覧になりますか?」
「お許し下さるなら」
「我々がラフェット様の申し出を断るなんて、とんでもない!」
 妖精が眼鏡をくいと上げると、ふわふわと翅を羽ばたかせ先を進む。虹色の鱗粉を衣に受けながら、ラフェットは妖精の後に続いた。床から積み上げられた閉じられた本は、現在眠りに付いているのだろう。本が開ける開けた場所に、所構わず活動中の生命の今を羽ペンが綴っている。
 本棚が真新しい木材の香りを漂わす。まだ棚に収められている本の数が少ない事が、新しい天球儀の中の世界が生まれたばかりだと物語っていた。金の鎖は世界を支え、既にいくつかの銀の鎖が別の天球儀と繋がっている。
 銀の鎖が伸びる先を見つめ、ラフェットは妖精に訊ねた。
「この天球儀の奥は、最初の大地の天球儀の間に繋がっているのですね?」
「確かに隣は始まりの大地、アレフガルドの天球儀の間です」
 妖精は神妙に頷いた。この場所に新しい世界が据えられた事は、重要な意味があるのだと妖精達は察していた。
「伝承は失われません」
 最初の大地の天球儀は、この図書館で最も古い。すでにいくつもの天球儀とは、横に金の鎖でつながる程だ。
 最初の大地の天球儀には、未だ執筆中の本がある。
 それは黒曜石の竜の鱗の表紙で、鋼ような鋭い爪の留め金で封印され、眠るように閉じられている。時々急に開いては、別の天球儀で起きている事柄が書き込まれる。純白の頁を埋める言葉は、世界の真理に深く触れる内容ばかりだった。その本一冊だけで、一つの天球儀に相当すると言っても過言ではない。その表紙には金色に輝く文字で『竜王』を意味する言葉が記されている。
「探し、求めれば、見出せる」
 最も古くに生まれた妖精の長は言う。一番最初にこの図書館に齎された言葉を、厳かな声で告げた。
「ドラゴンクエスト…竜を探求せよ」
 新しい天球儀は成長して行く。
 次々と製本され、執筆され、格納されて行く。
 やがて、その中で最も重要で特別な『冒険の書』が執筆され始めるだろう。
 11人目の英雄。
 その物語が紡がれる日がやってくる。

 to be continued DRAGON QUESUT XI


■ 竪琴とゴーレム ■

 茶褐色のブロックを積み上げた城塞都市メルキドの壁と並ぶ巨体は、侵入者でなければぴくりとも動かず静止している。肩には小鳥がとまって井戸端会議の女子並にさえずっても、馬車の車列が足の間からメルキド高原に出て来ようが微動だにしない。彼こそがメルキドの象徴、ゴーレムである。
 ラダトームとメルキドを往復する傭兵にとって、ゴーレムの姿はかなり感慨深いものである。ラダトームからであればようやく到着を実感し、メルキドから出発する時は長い旅を意識する。
 メルキドから出る際は無反応だが、メルキドに入る時は楽師達が微睡みの歌を歌って寝かしつけるのが常だ。メルキドに入る時間は決められており、その時間が迫る頃はメルキドの正面門の前はちょっとした祭みたいな騒ぎである。大道芸あり、出店あり、ぱふぱふ屋はメルキド治安部隊が連行していくので運が絡む。到着目前でみんな浮き足立ってるのは分かるが、俺みたいな出発待ちには良い迷惑だ。
 今回はメルキドからラダトームへ向かう復路だ。俺は早朝からの準備が一段落し、出発を待つばかりの馬車列の横でぼんやりとしていた。雇い主の商人もまだ顔を出さず、これからの行程の相談もできそうにない。俺以外の傭兵達も、出店を巡ったりして出払っていた。
「よー! アレフさーん! 暇そうじゃーん!」
 そう手を振ったのは、ゴーレムを眠らす為にメルキドに雇われる楽師の1人だ。楽師達は基本的に陽気で、仕事以外の来期時間は大道芸をして小銭を稼いだりしている。大抵がゆったりとした衣を纏い、大鳥の尾羽を帽子に付けている。
 ややげんなりしながらゴーレムを見上げるが、微動だにしない巨像の目元に光はない。俺が商隊の馬車と共に待機しているゴーレムの足下は、楽師達の待機場所でもあるのだ。カードゲームに興じていた、他の楽師達も俺を見てにこにこ笑っている。
「お前らよりか暇じゃない」
 俺は荷物を見張ったりして、暇ではない。魔物はメルキド大門付近には現れないが、油断をすれば手癖の悪い盗賊に盗まれる。盗賊は息をするのすら許されるべきじゃねぇから、一度でも事に及べば傭兵総出で袋叩きにしてやるけどな。
「でもでもー、ゴーレムの足下って事は、出発の順番後ろの方なんでしょ?」
 ロイヤルストレートフラッシュを決めた娘が、甲高い声で言った。
 流石、メルキド大門に長く滞在していると、待機場所の位置で出発順番まで見極められてしまう。山道は狭い為に商隊の出発の順番は、籤で決める仕来りなのだ。
「なあなあ、暇つぶししようぜ」
 顔見知りだが名前は知らない。そんな楽師の男が人懐っこい笑みで俺に語り掛ける。
 しかし、何故俺の名前は誰もが知っているんだろう? ラダトームとメルキドの往復専門の傭兵として長いが、恐らくも何も俺が知っている人数より俺を知っている人数の方が上だ。ふとした疑問だったが、聞くより先にする事がある。
「断る」
「つれない!」
 俺に構うな。面倒くさい。俺は手をぱたぱたと振って、楽師の男を遠ざけようとする。
 しかしこの楽師の男、賭け事の罰ゲームでも課せられているのか、しつこい。何故だか知らんが、俺はそういう対象に良くされていた。女子なら俺に告って来いとか、俺から一本とって来い、極めつけは俺から5ゴールド借りて来るという不可能の代名詞。たりめーだ。5ゴールドどころか1ゴールドだって貸せるか、馬鹿野郎。
 楽師の男は、手に持った竪琴を俺に押し付けるように渡して来た。
「大丈夫、大丈夫。竪琴なんか、弦を弾くだけで音出るから!簡単でしょ!?」
 押し付けられて腕にある竪琴は、流石楽師として生業にしているだけあって安物には見えなかった。ずっしりと両手に掛かる重み、輝く絹糸のような弦を支えるフレームは銀製だった。
「あ、もしかして、尻込みしてる? 爪弾くだけで音が出るけど、まさか弾けないとか…」
 ぷぷぷー。楽師は顔を水風船のようにして笑う。
 あーもう、本当に癪に障る。俺は楽器に触れてる暇があったら、剣を振ってたいよ。
「竪琴なんか弾けるかよ」
「まぁまぁ、ちょっとやってみなよー」
 楽師は俺をテーブルに引っ張ると、途端に楽師達が取り囲んだ。ここを持って。あぁ、そうじゃない。こうやって固定してね。ここを爪弾いて、と指示をする。
 馬車の荷物が気になったが、楽師の一人が心得顔で馬車の横に立っていて俺に手を振ってみせた。おまえ、盗まれでもしたらタダで済むと思うなよ。一睨みして、溜息を1つ吐く。しつこさに圧し負けて、仕方がないと指で弦を弾く。
 ぽろん。耳に優しく淡く触れる音が響く。次は2番目。4番目の弦。楽師達の指示通りに弦を爪弾くと、聞き覚えのあるメロディーになる。吟遊詩人ガライが、この広大なアレフガルドの地を行くイメージで作曲した音楽だ。物悲しいメロディーに神秘的な竪琴の響きが良く似合う。3週くらいすると、だいぶスムーズに弾けるようになった。
 もう、こんなもんで良いだろう?
 そう言おうとした時だ。
 俺の兜がずれる。誰かが後ろから持ち上げたのか、ベルトで固定していない兜が外れてしまう。兜はテーブルのカードの上を転がり、派手な音を立てて地面に落ちた。茶色い髪がもさりと顔に掛かる。
「おい、こら! 悪戯すんじゃ…」
 ねぇ! そう振り返った眼前にあったのは、なんと、赤茶けた壁。勢い余って鼻の頭が擦れて痛ぇ。オカシイ。俺の真後ろには壁なんか無かった。
 竪琴の練習で集中し過ぎていたのか、壁の存在に気が付いてから周囲が妙に騒がしいのに気が付いた。先ず、俺を取り囲んでいた楽師達の姿が無い。傭兵達の慌てふためく声、女の悲鳴、馬の嘶き。魔物が襲って来た雰囲気ほど張りつめていない、驚きが支配する雰囲気。
 何が、起きているんだ?
 俺は思わず視線を上げた。そのまま、顎が上がる。
 ゴーレムが俺を見ていた。普段は虚ろな目元に、金色の輝きが灯っている。そう、俺も初めて見るゴーレムの瞳。
「な…」
 ゴーレムが侵入者の排除以外で動くなんて聞いた事が無い!かつて、勇者ロトの時代にはメルキド高原を散歩したりしていたらしいが、そんなのは嘘だったんだと誰もが笑う物語だ。
 だが、確かにゴーレムは俺に手を伸ばし、俺の兜を指先で外したんだ。
『ガ…』
 ま、まずい。両手に持った持ち慣れない竪琴は、放り投げようとして指先に絡み付いた!動揺した俺の足を、椅子が邪魔して転びそうになる。先ずは、飛び退いて距離をとらなくては…!
 俺を追うように、ゴーレムの指先がゆっくりと迫って来る!なんで来んだよ!
 そんな視界の隅に、楽師の女が杖を構えたのを見た。甲高い声が耳を貫く。
「危ない! ラリホー!」
 ちょ!俺はラリホーの耐性な

 そこは見慣れたメルキド高原だ。山の稜線、草原の広さや、森の鬱蒼具合、微妙に違和感はあるがメルキド高原に違いが無かった。だが、妙に高い。地面を見下ろしているアングルで、目の前にはスターキメラや蛇のように長い龍が横切っていく。
 俺は手に、銀の竪琴を持っているのに気が付いた。爪弾いてみれば面白い程に上手く弾けた。俺は思い浮かぶ様々な音楽を、思いの侭に弾ける竪琴を心行くまで奏で続けた。とても楽しく、笑いが止まらない。幸福感で満たされていた。
 だが、もうそんな時間が終わる事を、俺は知っていた。
 手はしわくちゃの爺の手だ。この時間は、もう二度と訪れないと分かっていた。
 別れを告げなくてはならない。
 さよならを。
 俺は横に視線を向ける。真横にあったゴーレムの横顔に、俺はゴーレムの肩に乗っているとようやく理解した。凹んだ闇に輝く金色は、優しい光で満たされている。
 あぁ、優しい子。お前ならば人々と上手くやって行ける。俺と二度と会えなくても、優しいお前ならきっと人間に可愛がってもらえるだろうと確信した。そうだ、お前の大好きな音楽を絶やさないように、お願いしておこう。メルキドの警護をしっかり勤めているお前を、もう、皆が信頼している。もう、大丈夫。
 だから、言わなくてはならない。
 だが、俺の言った言葉は…
 がこんと、世界が揺れた。いや、揺れたのは馬車だ。目の前に広がる馬車の幌、山積みの荷物が両脇から聳え立つ。
「おぉ、目が覚めたかい」
 仲間の傭兵が俺の顔を覗き込んだ。
「ゴーレムが珍しく動いたらしくて、緊急のラリホーに巻き込まれたらしいな。災難だったなぁ!」
 あぁ、そうだった。眠っていたか。俺は寝起きの頭をガリガリ掻いて、意識をクリアにする。
 またね。
 銀の竪琴に映り込んだ男は、柔らかい茶髪で瞳の色も茶色だった。俺も茶髪に茶色い眼でも、別人だって誰もが分かるだろう。だがまぁ、相手はゴーレムだ。人間の見分けなんか、つく訳ねーか。
 それでも、兜を外したあの指先。壊れ物に触れるかのように慎重だったに違いねぇ。
 待ちわびた奴じゃなくて、悪かったな。
 俺は熱くなった顔を乱暴に擦った。


■ ローレシアの銅の剣 ■

 宿の下の階に併設された酒場から、賑やかな喧騒が響いてくる。流石に楽器を鳴らすほどに酔った奴はいないようだが、喧嘩をしているらしく、テーブルがひっくり返り椅子が投げられて壁に当たる音が薄い床を貫通して耳を打つ。眠りに就こうとしている奴なら怒り心頭だろうが、俺には好都合だ。
 月明かりが差し込むテーブルに、刃を手入れする道具一式を並べる。携帯することを優先した傭兵らしい馬の革は巻物のようになっていて、刃物を手入れする道具が一通り収まっている。俺はその中から使い込まれて滑らかな面を持った砥石を手にとって、先ずは野営で使う料理包丁を研ぎ始める。
 刃を研ぐ音は、酒場の喧騒が始末してくれる。俺は周囲に気兼ねすることなく、包丁を研ぐ。白い月明かりは刃こぼれひとつない滑らかな曲線を、流星の尾のように輝かせて見せた。持ち上げて閃かせば、油を含んだ水で七色の妖しい波紋がゆっくりと崩れていく。布で拭い、オリーブオイルを掛けて羊毛でふき取って鞘に収める。
 次に研ごうと思った剣に手を伸ばしたところで、ピタリと動きを止める。
「ルクちゃん…。いつからそこに居たんだ?」
 傍にムーンブルクの王女様がいらっしゃる。
 ふわふわした金髪に赤金色の瞳は、屈託なく次の動作を待っている。何時から居たんだろう…? 時々、この王女様は猫のように気配なく隣にいることがあって、俺は凄くびっくりするんだよな。
「俺、剣を研ぐから危ないよ」
 むいっと唇が尖る。それもすぐ元に戻って可愛らしい花弁の唇になるのだが、それでも自分の部屋に戻るつもりはないらしい。相手は幼くて、しかもお姫様。傷一つ付けたら大変だ。賠償金なんか、ローレシアが傾くような金額になるんじゃないのかな? 可能性である限りゼロじゃないなら、回避するに限る。
 俺はもう一度、お姫様であるルクレツィアに言った。
「危ないから、部屋に戻ってなよ」
「危なくないよ」
 まだ幼さの残る丸い頬に似つかわしい、可愛らしい声が響いた。
「ロレックスさんは気をつけてくれるから、ルクを危ない目に合わせたりしない」
 う。俺は餅が喉に痞える気分だった。その通りである。傷つけたら大変なお姫様であるので、隣にいれば傷つけないように細心の注意を払うわけだ。幼くても赤子ではないので、大人しくだってしていられる。臆病なくらい内気な彼女が、ここぞとばかりの場面でズバッと核心に会心の一撃を放つのは痛いを通り越して従わざる得ない。
 残念だが、いつも出してくれる助け舟は望めそうにない。俺はひとつ溜息を吐いて、ルクレツィアに言った。
「じゃあ、俺の邪魔しないで静かにそこに居られる?」
 月の国の姫がひとつ頷くと、白い光で満たされた空間はぱっと日向の黄金に変わる。
 何が面白いのやら。俺はローレシアの傭兵なら誰もが持っている、鋼鉄の剣を取り出すと鞘から抜いた。きちんと連日手入れはしているが、料理に使う包丁とは比べようもなく大きい。ルクレツィアが『綺麗』と溜息交じりに言った。
「ローレシアの人は、鋼鉄の剣が特別だって聞いた」
「うん。鋼鉄の剣はローレシアを建国した初代国王の象徴だからな」
 俺は研ぎ石を濡らすと刃の上を滑らして行く。一定のリズムを刻んで白刃の上を行き来すれば、七色の線が引かれてぐにゃりと歪む。ローレシア出身者は『明日も仕事が上手くいきますように』と願いを込めて、それを繰り返す。
「ローレシアじゃあ、10の頃には『銅の剣』を賜る程度にならなければ落ちこぼれ。そこから如何に早く、『鋼鉄の剣』になるかで将来が決まっちまうんだ。俺は銅が全部剥がれるのに、1年かかった」
「みんな、銅の剣が貰えるの?」
 んー。俺は剣を水平に構えて目を眇める。
 ローレシアは他国よりも一際武芸に力を入れた国だ。誰もが競うように一人前を目指す。
 それはローレシアの建国者であり、アレフガルドの外では凄腕の傭兵として名を馳せた勇者アレフ様に皆が憧れるからだ。勇者ロトとは違って、アレフ様の伝説はたくさんある。竜の王の背に乗って世界中を駆け巡ったとか、北方大陸の先住民と酒の飲み比べで勝ってローレシアの領土を勝ち取ったとか、奥方のローラ様に尻に敷かれてたって逸話も嘘じゃないって話だ。とにかく凄腕の剣士で、剣一本で国を打ち建てたのは確かだ。かの人は俺達が心から尊敬する王様で、俺達の親方だ。
「ローレシアの建国者にして傭兵王と謳われたアレフ様が、『俺に憧れて傭兵やる奴には、先ずは銅の剣を持たせる』って決めたんだ。銅の剣を貰うのは傭兵志望の連中だけ」
 傭兵志望の連中は、棒っきれ振り回せる歳から心決めちゃってる。さらに実家が商人でも護衛傭兵頼むのお金掛かるから、とりあえず傭兵で実績積んで跡取りになる奴も多かった。教会の坊やだって巡礼のために武器を持つ。女は女で自分の身を守って、ついでに護衛だってやってのける。世の中渡るには腕っ節がなくちゃいけない。
 ローレシア生まれで『銅の剣』を賜らないのは、病弱だったり、全く傭兵に向かない何かがある奴だけだった。
 しっかし、アレフ様ってマジ頭良いし、すげー傭兵だったんだなって思う。だって、棒っきれ振り回してるガキが銅の剣に持ち替えたって、大して変わりゃあしないんだもん。切れ味悪いからいきり立って人を襲ったって、ひどい打撲程度で終わる。魔物と戦おうったって、スライムは倒せても、大ナメクジは数で来られると押し切られちまうもん。無茶なんか到底できない。
 仕上げ用の砥石に持ち変える。砥石は使い込まれて、川底に転がる丸石のような丸みを帯びていた。
「アレフ様が俺達に与えてくれる剣は、鋼鉄の剣に銅をコーティングした特別製。こうやって、仕事で使って刃こぼれして、毎日手入れを怠らずにいると、銅の面が剥がれて鋼鉄の部分が出てくるんだ。剣を覆った全ての銅が剥がれて鋼鉄の剣になったら、ローレシアの傭兵として一人前って認められるんだ」
 水気を拭い、刃のカエリが取り除かれたのを確認する。光る一本の道が、どこまでもまっすぐ。
「焼き溶かしてズルする奴の剣はすぐに分かる。腕っ節もそうだけど、焼き付くから一目瞭然。銅が焼き付いた剣を持つのは卑怯者で、アレフ様の厚意を無下にした半端者だ。見かけたらボコって良しって御達しが出てる」
 最後に油を塗って羊毛で拭う。手入れされた鋼鉄の剣は新品のように月光を反射した。
「あんまり、面白い話じゃなかったな」
 視線を落とすとルクレツィアはどうやら俺を見ていたらしく、ばっちり目があった。小さく首を横に振り、にっこりと笑った。
「ロレックスさんが真剣に剣を研いでて、かっこよかった」
「俺を見てたの? 剣を研ぐのが見たかったんじゃねーの?」
 ふくっとルクレツィアの頬が膨らむ。
「剣はぴかぴかになったし、ロレックスさんかっこよかったし、お話はアレフ様すごいってきらきらしててたから、剣だけ見てるのはもったいないと思うの」
 俺は頬が炙られるような熱を帯びるのを感じた。そういう、小っ恥ずかしいこと、平然と言っちゃうんですか?
「また、ロレックスさんの隣に居ても良い?」
 あー。うん。はい。
 絶対に断る理由が見つからないなら、そのうち隣に座ってるんだろう。どうにも控えめな女王様には逆らえない。