DQ系雑記ログ8


■ ピペのスケッチ ■

 トーマ兄様の部屋を、盟友であるピペとその保護者であるラチックのに充てている。ピペは兄様の部屋を使うことが恐れ多いらしくって、部屋ではスケッチしかしない。絵の具を使わない分、部屋にはスケッチされた紙が束になって山積みになっていた。鉛筆で描かれたとは思えないほどに精巧な白黒の世界。先日廊下に生けられていた花瓶は、花弁一枚一枚が瑞々しく葉に乗った雫に映り込んだ王宮の内部まで緻密に描かれている。
 そんな写実の世界には、勿論、私も沢山描かれていた。
 ドレス姿で要人を迎える様子、修練の激しい動き、パン生地を捏ねている真剣な顔、お茶をしていて頬っぺたにクッキーのカスが付いている横顔まで! 私が部屋に訪ねて過ごすテーブルの周辺のスケッチの山は、全て私が描かれたものばかりだ。なんだか恥ずかしいわ。
 スケッチの山は部屋全体に及んでいる。
 風景ばかりが積み上がった山。動物や魔物で寄せ集めたもの。城下町の生活を描いたり、冒険者達の喧騒を映し取ったもの。食べ物。それらを開いては眺めていた時、突然それは現れた。
 ラチックのスケッチだ。それも上半身裸の!
「…ぇ!」
 びっくりして取り落としてしまったスケッチが、ばさりと床に広がった。筋肉隆々のラチックのスケッチばかりだ。ポーズ的に全裸にすら見えてしまう際どいものまであって、思わず顔を覆ってしまう。だって、男性の裸よ! 確かに石像のように整った筋肉ではあるけれど、モデルはラチックなのよ!
 でも、私の盟友は芸術家。全裸の人物の絵の一枚二枚、芸術家なら描いている。むしろ生き物の骨格を理解する点では、人体をスケッチすることは理に適っているじゃない。私が剣術を磨くために型を覚えるように、ピペは芸術を磨くためにスケッチしているだけ。
 ぺたぺたとピペの小さい手が私の腕に触れる。おずおずと指の隙間から前を見れば、舌を出してにこりと笑う私の盟友がいる。床に広がったスケッチは全て彼女の胸に抱えられていた。
『アンは恥ずかしがり屋ですね』
 そうメモに走り書くと、別のスケッチを差し出してきた。 
 中身は全てケネスだ。警備部長としての整った服装のケネスだが、手袋を引っ張ったり、襟元を直したり、服の方が中心のものばかり。こっちのスケッチは手と煙管ばっかり書き込まれてる。顔がない分、かっこいい格好しているのねって思うわ。
 ピペは、ふすふすと鼻息荒くケネスについて語る。
『ケネスさんの服装は、シワが萌えるんです! 動作もとてもカッコいいです!』
 ほとんど露出のない格好だったので、自分が冷静を取り戻すのを感じる。ラチックの肉体美も、城の彫刻のように飲み込めつつあった。
 不意にケネスのスケッチは終わり、女性のスケッチが現れる。
 シーツに横たわる豊満な美女。弾けそうな瑞々しい太ももに、うつ伏せた滑らかな背中が凭れる事で、たわわに押される豊かな胸元。素肌を滑り落ちる艶やかな髪。その美しさはピペによって飾り立てられたものではない。忠実に紙面に落とされたことは、先日、その裸体を見てしまった私だから分かる。
 スケッチに描かれた女性に、驚きと羞恥心で顔から火が出た!
「る! ルシェンダ様…!?」
『美しい私を描くことに遠慮は要らないと言われたもので…』
 アンが驚かないよう、きちんと整理しますね。私の盟友は申し訳なさそうに笑った。


■ 天使様と一緒 ■

 路上で繰り広げられる人間の大道芸、オーガ達がクロスカウンターで相打ちになる路上の喧嘩、ウェディ達が集まって合唱する酒場、プクリポ達が踊る公園の広場、遥々巡礼にやって来たエルフ達が祈る教会の昼下がり、ドワーフ達が自慢の作品を売り込む交渉の場。グランゼドーラを行き交う人々をスケッチするピぺは、老若男女住民冒険者問わずに描かれている。
 だが、そのスケッチの束には女神ルティアナの子供達とは違う雰囲気の男女が描かれている。
 初めて見た時、息をするのを忘れてしまった。
 ただただ、美しい。
 女神の石像、絵画の中の美人。美しい人を描こうと思っても、ここまで美しい存在を描くことができるのだろうか?
 擦れ違ったら振り返ってしまう美男美女。まるで女性のような端正な顔立ちの男性から、彫刻のような肉体美の男性。女神のような美しい女性から、あどけない天使のような女の子。老人は威厳溢れる皺が刻まれ、老婆は慈愛に満ちた柔らかさがある。
 そんな人としては抜きん出た何かを持ち合わせた彼らは、人にはないものが描き込まれていた。
 翼と、頭の上に輪が描かれている。
 天使だ。
 女神ルティアナの子供達が死ぬ時、天使が迎えに来るという。
 それは9つ目の神話に描かれた守護天使と呼ばれた星空の守り人が元とされているが、多くの人が天使を信じている。私達を見守り、良き事が起こるよう祈る。それぞれの種族神よりも信仰は厚くはないが、ステンドグラスや彫刻に描かれたり、験担ぎの一つとして持て囃される。
 なんでピぺは、天使の絵をこんなに描いているのかしら?
 天使はさまざまな角度で、その人の個性を窺わせるような豊かな表情も描かれている。まるで目の前で見て来たかのような生き生きとした姿だ。
 ピぺはスケッチで空想のものを描くなんて、私の知る限りではしない。
 ねぇ。私が目の前で鉛筆を走らせる盟友に声をかけると、可愛らしい紫の瞳がぱっと紙の上から剥がれる。ぺろりとしまい忘れた舌をきゅっと口の中に収めると、にっこり笑顔で私の顔を見る。あぁ、本当に可愛い私の盟友。ぎゅっと抱きしめてしまいたい衝動を抑えながら、私は手に持った天使のスケッチを見せた。
「ピぺは天使様を信じているの?」
 まるで雷が落ちたような反応だった。
 描いている途中だったスケッチを放り出し、小走りで私の足元に駆け寄ったピぺは私の太ももの上に両手を乗せる。プクリポでも小柄な体をうんしょと持ち上げると、私の膝の上に乗り上がった。そのまま鉛筆で天使のスケッチの隅に言葉を書き込む。
『天使様はいます! とても美しくて、とても優しい方ばかりです!』
 ふんすふんすと鼻息荒く、美しいと優しいの下に線を引いて強調する。
「会った事があるの?」
 まるで会った事があるような断言に、思わずそう尋ねてしまう。私の問いにピぺは首がもげてしまいそうな勢いで縦に振る。
『時々、ケネスさんと一緒にいますよ!』
 ケネスと一緒にいる?
 天使と最も縁遠そうな男の名前に、私は戸惑いを隠せなかった。

 □ ■ □ ■

「天使様にお会いしたいだぁ?」
 この男ほど信仰に縁遠くて、天使様って言葉が似合わない存在は居ないだろう。実際に心底面倒臭そうな男の口から、天使様とか宗教用語は全く似つかわしくなかった。
 ケネスは私の部屋には立ち寄らず、隣から出られるテラスで喫煙する。柵に寄り掛かるようにしゃがみ込んで丸くなった背に乗り上がり、ピぺはケネスの背中にお願いを書き込む。それを黙って感じ取ったケネスは、深いため息のように煙を吐き出した。夜風が煙を横様に攫っていく。
「ちび助。守護天使様はそう簡単に、お呼び立てして良い方々じゃあないんだぞ」
 うわぁ。思わず声が漏れたのが聞こえたのか、ケネスが顔を上げて睨んでくる。
「素のケネスが特定の対象に敬語とか信じられないわ」
 ケネスは煙管をぴっと私に突きつける。
「失礼だな。俺は信心深いんだ。守護天使様のご加護を信じてるし、日々俺達を見守ってくださることに感謝してるんだぞ」
「ケネス 毎晩 祈ってるもんな」
 ラチックの言葉を聞いても、信じられそうにない。神なんか絶対信じなさそうな傍若無人な男が『信心深い』って説得力がないわ。ケネスは煙管を横に振って否定を露わにする。
「どっちにしろ、俺とアンルシアは見えねぇよ。来ていただいたって、無駄足させちまうだろ」
「俺とピぺ 見える」
「それは、お前達が魔物の眼を持ってるからだ。…って、こら、ちび助。こんな星が綺麗な日に、見たいってわがまま言うな」
 背中をぺちぺち叩くピぺに、ケネスの頭はどんどん下がっていく。煙が出そうなくらいゴシゴシと動く指先に対して、項垂れた後頭部から呻き声が聞こえる。最終的に折れたのはケネスだった。
「わかった、わかった。今回は特別に頼んでやる。二度目はねぇからな」
 そのままピぺを背中に貼り付けたまま立ち上がると、ケネスは手を組んで祈り始めた。なんだか、ケネスが祈る姿がとても似合わない。静かに祈っていなければ『冗談でしょう?』と茶化して笑ってしまいそうだった。
 横殴りの潮風が、ゆるりと凪いでいく。空気が温もり、背後から差し込む部屋の明かりで浮き上がった影が薄れていく。わぁ。ラチックが感嘆の声を上げ、ピぺがケネスの背中から飛び降りてスケッチブックの上に鉛筆を踊らせる。目を開けて手を解いたケネスが、深々と頭を下げて感謝を述べる。
 何も見えない。何も感じられない。でも誰かがいる。
 ケネスがピぺの手元を覗き込むと、感心した声を上げる。
「お。ラフェット様ってこんな姿してるんだ」
「ケネス 姿 見えない。どうして わかる?」
「最初は気配で、今は声で聞き分けてる」
 上手だって褒めてるぞ。そうケネスが頭を撫でると、ピぺは頬を真っ赤に染めて嬉しそうに笑う。ラチックも見惚れて視線が釘付けだ。
 勇者の眼でも見れなくて、なんか悔しい。

「ケネスはどうして天使様を呼び出せるの?」
 きゃっきゃとはしゃぐラチックとピぺを他所に、気怠げにしゃがんでいるケネスの横に立つ。私の質問に、ケネスは訝しげに顔を上げた。
「呼び出せるって、どういう意味だ?」
「言葉通りよ。普通は天使様を呼び出すことなんかできないでしょう?」
 ふぅん。ケネスは少し視線を空に向けて考え込むような間を置いて答えた。
「アストルティアの天使は地上の生命に接触しないからなぁ。お高く留まって嫌ぇだし、あれが天使と名乗っていることが既に守護天使様への冒涜だ。正直、滅ぼせるんなら滅ぼしてぇなぁ」
 なんて罰当たりなことを…!
「祈ればそこにいる。苦しむ時は傍に、悲しむ時は涙を拭ってくださる。俺達は守護天使様に守られて生き永らえてきた」
 ケネスは遠くを見るように目を細める。
「もう、誰も覚えちゃいない。祈りも、もう、捧げられない。星空の守り人になったあの方々を、古い呼び名で呼ぶ俺の声が懐かしく感じるんだろうよ」
 9つ目の神話で、守護天使と呼ばれた者達は天に還っていくという。
 切なげに言った言葉がらしくなくて、何も言えなくなってしまった。


■ 交渉術 ■

 嵐の領界の地下道は、魔物達の住処でもある。
 元々広さを確保できなかった事もあり、トロッコが走る道以外は整備が行き届いていない。人が並んで歩くのが精々の狭い洞窟に、所狭しとキノコや植物が生えている。長年通っていない道になれば、嵐がもたらした豪雨が染み込んで崩落して、道が大きく変わってしまった場所も少なくない。
 そこを通り抜ける為には、魔物達との戦いを避ける事はできない。神獣の森へは、最も近い集落からでも片道数日は掛かり、魔物と戦うなら日数は豪雨の時に雨漏れの下に置いたバケツの中身の如し。
 覚悟してほしいと神妙に告げた言葉に、ぱっと手が上がった。
 シンイ様と同じアストルティアからやってきた大柄な男は、ゴーグルで目元が隠れた妙な威圧感でずいと迫る。口元はにこにこと笑っているし雰囲気も穏やかなのだが、巨躯が迫ると否応なしに体がこわばる。
 俺 まかせる。
 その言葉の意味は、その大きな盾で魔物を薙ぎ払い突破の先陣を切るという意味なのだろうと思った。
 止まってください。そう言った言葉に従って、同行者達が足を止め素早く物陰に隠れた。流石、旅慣れた冒険者達。感心しながら物陰から先を伺う。
 地下道の真ん中に仁王立ちで立っているのは、背丈も幅もラチック殿に引けを取らぬ立派な体躯。手に持った斧はその巨体に見合った巨大なもので、万が一、あれで薙ぎ払われでもしたら受け止めた獲物ごと両断されてしまいそうだ。
「デスストーカーです。見つかったら、どこまでも追ってきます。倒すか、道を変えるかしなくてはなりません」
 ちなみに道を変えれば到着は、数日単位で遅れることになります。そう伝え考え込む同行者の中から、のそりとラチック殿が立ち上がった。顔を上げた娘達に大丈夫と笑いかけ、デスストーカーに向かっていく。
 確かに、ラチック殿なら倒す事も出来るだろう。
 しかし、見送る視線をどんなに凝らしても、ラチック殿は盾も構えずハンマーも抜かない。まるで近隣住人に挨拶するような気安さで、どんどんデスストーカーに迫っていく。ひらりと上げた手がぐっと拳を握る。
 ふん!
 一つ気合を入れると、ラチック殿の腕の筋肉がはち切れんばかりに盛り上がった。さらにこれ見よがしに盛り上がった筋肉を見せつけるように、ポーズをとる。
 何をしているんだ?
 これではデスストーカーの斧のサビにされてしまう。思わず腰を浮かせた目の前で、デスストーカーが動く。
 ぬん!
 デスストーカーもまた、己の筋肉を誇示するようにポージングを決めた。
 間も置かずに他のデスストーカーや魔物達が集まり、賑やかし囃し立てる中で、男達の気合が迸り自慢の筋肉が盛り上がる。それがしばらく続くと、デスストーカーとラチック殿はがっちりと手を握り合い、互いの肩を叩き合って褒め称えた。魔物達も惜しみない拍手を送り、満足げに散っていく。
 にこにこと笑いながら戻ってきたラチック殿は言う。
「通って 良い 言ってくれた」
 まかせるって、そういう意味だったのか…!


■ 旅立ちのススメ ■

 リッカとアインツが来てくれて、着実に堅実に宿としての基盤を固めて、お客様のリピーターも増えてきたわ。あの廃墟かと勘違いされるセントシュタイン最安値の最低の宿って悪評ともおさらば。最上階のスイートルームも昇降機も復活し、全室がリフォームされて新築のよう。世界宿屋協会に登録も済み、協会お墨付きの安全でサービスの行き届いた宿と認められた。
 先日、ウォルロのリカルドのお墓にも報告してきたの。世界宿屋協会の金印が捺印された、認定証。認定された宿屋なら、フロントの後ろに額に飾られる価値のあるもの。もう貴方に心配させずに済むわって、お墓にワインを供えて私も飲んだ。
 でも、良い事ばかりではない。
 常連達には悪いけど、宿泊の値段を上げたのよね。
 勿論、部屋のグレードを低くし食事の提供を行わない素泊まりなら、セントシュタインの宿の相場で考えればかなり良心的な値段よ。宿がリフォームしたり、お客さんが来るようになって騒がしくなり、雰囲気が変わったから長期宿泊の契約を更新しなかった常連は多い。今回の値上げでついに最後まで留まっていたケネスが、音を上げた。
「拠点を移す?」
 いよいよ去るのね。寂しさを感じながら、ケネスの言葉を鸚鵡返す。私の前で紙巻きを吸っていたケネスが、あぁ、と真っ白い煙を吐き出した。
「今、フィオーネ姫主体で、ルディアノ復興事業が賑やかだって話は聞いてるだろう? エラフィタを拠点にして、本格的に参加して欲しいって誘われてる。すごく稼ぎの良い仕事だ」
 そうかもね。私は酒場の女主人として、やんわりと肯定した。
 セントシュタインがルディアノの滅亡に、間接的に関わったという話は城下町でも噂になっている。でも背鰭尾鰭に鰓までついて、ルディアノのお姫様を巡ってセントシュタインの王子様とルディアノの美男子である黒騎士が争った末に、戦争になってルディアノを滅ぼしてしまったという全然違う話になってるの。噂って当てにならないわね。
 とにかく、セントシュタインはルディアノの復興に本格的に乗り出し、北がとても賑わっている。滅びの森というかつてのルディアノの領土は非常に危険で、護衛の仕事は高騰している。滅びの森に行った経験から先導が出来るケネスは、特需の恩恵を最も受けている人間だった。
「貴方がいなくなったら困るわね」
「まだ明るいのに、もう酔ってるみてぇだな」
 帳簿で赤い髪を叩いて、景気の良い音を響かせた。まだ一滴もお酒は飲んでないわよ。
 常連のケネスはこの宿屋では貴重な男手だった。重たい酒樽や酒瓶を詰め込んだ木箱を運んでくれるし、食事の材料の買い付けに付き合ってくれる。酒場の酔っぱらいを上手くあしらって、暴れ出したら叩き出してくれるわ。頼むと嫌そうな顔はするし、やりたくないとか口では言うけど、なんだかんだやってくれる。
 特に宿の補修や食材の確保に世界中を巡ったアインツに、付き合ってくれるのは助かったわ。ケネスはガラの悪さの割には面倒見も良いし、武術の腕もあって護衛としても申し分ない。アインツを外に出しても不安に感じなかったのは、ケネスのお陰よ。
 ドミールで行方不明になった時は、本当にありがたみが身に染みたわ。
「リッカやアインツが寂しがるわよ」
 流石のケネスも困ったように視線が泳ぐ。
 とは言え、ケネスを引き止める条件が出せないのは事実だ。ケネスは宿の事を細々と手伝ってくれた礼にと、賄い食だけれど食事を無料で提供している。泊まっている部屋も、彼が長期宿泊を契約する時に比較的状態が良かった従業員の区画にある部屋だ。
 賄い食を一緒に食べて、泊まる部屋も従業員の部屋。ケネスが従業員じゃないって知ったリッカは、とても驚いていたわ。
 ケネスの部屋には私物らしい私物はない。いつも出掛ける時に持ち出す荷物が、彼の全財産だ。エラフィタに行くとチェックアウトして、そのまま『さようなら』。やりかねないわね。
「このこと、従業員に言うからね」
 好きにしろ、ケネスは携帯灰皿に紙巻きを押し込んで立ち上がる。
「引き継ぐ事はねぇと思うが、聞きたい事があったら明日までに聞いてくれ」
 そう言い残すと、ケネスは『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたプレートの掛かった扉の向こうに消えていった。

 ケネスが長期宿泊の契約を更新しない。
 そう告げたら、アインツの手からコップが落ちた。ごとりと、重い振動が椅子から這い上がる。床板に広がるお茶を拭き取ることも忘れて、目をまん丸くして瞬きひとつせず固まるアインツの様子に衝撃の程度が窺えるわ。まるで巷で流行りの、愛しい婚約者に結婚破棄を言い渡される悲劇の女性ような放心っぷりね。
 特にケネスと相性の良かったアインツには個別に伝えるつもりだったけれど、本当に皆の前じゃなくて良かったわ。
 リッカもアインツの様子に気がつかないくらい衝撃を受けていて、随分と長く息を詰まらせていた。ようやく息をすると、震える声で訊ねた。
「…あの、どうしてですか?」
「本人はルディアノ特需で儲けたいって言ったし嘘じゃないだろうけど、宿泊費が値上がりしたのが一番の理由でしょうね」
 あ。リッカが声を詰まらせる。
 宿の経営を担うリッカにとって、値上げは断腸の思いだった。例えかつて栄光の宿王の王冠を戴いたとしても、リカルドのいない宿の経営は瞬く間に赤字に転じた。セントシュタイン最低の宿屋が潰れずにいられたのは、彼らのような汚くても安いなら利用する長期宿泊者の存在があったからだ。宿が軌道に乗ったから、客層が上がったから、そんな理由で宿を支えてくれた恩のある常連達を叩き出したくはなかったのだ。
 それでも、部屋を綺麗にし、食材のグレードを上げるなら宿泊費も上げねばならない。部屋のグレードで値段を抑えるよう苦心してきたが、世界宿屋協会の認定を受けて踏み止まれなかった。
 ルイーダさん。アインツが放心した顔のまま、可愛らしい唇がぽかりと開いた。
「ケネスさんは、ちょっとルディアノへお仕事に行くだけですよね?」
「エラフィタの宿で新しく長期宿泊の契約を結ぶそうよ」
 耳には届いても頭には入っていない様子のアインツに、私は言葉を噛み砕いた。
「ケネスは、ここを出ていくの。もう、帰ってこないわ」
 大きな碧の瞳からぽろりと涙が零れると、堰を切ったように溢れ出す。頬は氾濫した川みたいに、アインツの濡羽色の髪に染み付いて張り付き、唇にお構いなしに流れ込む。顎の滝からくつろいだ服装の中という滝壺にどんどん流れて、服の涙染みが大きくなる。
「い、いやです。ケネスさん、かえってこないの、わたし、いやです」
 ついにわんわん声を上げて泣きだした。年相応だけれど、胸が痛いわ。
 ケネスの奴、本当に恨むわよ。こんなに良い子が、あんたが居なくなるのは嫌だって泣いてるのよ。押し付けないで自分の口で言いなさいよ…!でも、そのまま『さよなら』されるかと思うと、言わないわけにはいかない。
「ルイーダさん。なんとかなりませんか?」
 リッカが縋るように私を見る。泣きじゃくるアインツを胸に抱き寄せ、形の良い黒髪の後頭部を優しく撫でる。アインツが酷く悲しむ様子に、リッカの目も涙を溜めて潤んでいる。
「なんとかならないの、リッカが一番わかっているでしょう?」
 若き宿の主人は唇を噛んだ。お客様への平等なサービスを提示するなら、特別扱いはあってはならならい。
 私はアインツのしゃっくりを上げて痙攣する背中を撫でる。リッカの胸に嗚咽を吐き続けるアインツは、このままでは一晩中泣き続けるだろう。
 あんな男の為に泣いて、なんて可哀想なアインツ。
 本当にむかつくわ、あの馬鹿男。女の敵よ。腹の底からふつふつと怒りが煮えたぎって、その蒸気で顔が蒸し上がるわ。美容には良いけど、怒り皺が刻まれそうね。
 ねぇ。リッカ。アインツ。私は妖艶に微笑んだ唇から、エルシオンの空気が漏れるのを感じた。
「あの馬鹿に、一泡吹かせてやらない?」
 リッカがきょとんと私を見つめ、胸元からもぞりとアインツが顔を上げた。

 □ ■ □ ■

 ケネスは落ちない泥染みと穴と擦り切れて布地の限界の外套と、護身用の武器と、一人で運べる程度の全財産を持って宿の受付にやってきた。あまり眠れなかったのか、ケネスの呼吸は全て欠伸になっている。重い目元を擦って開かせると、カウンターを挟んで立つ私とリッカとアインツをそれぞれ見遣った。
 ケネスの正面に立つリッカが、一歩進み出て深々と頭を下げた。
「ケネス様。長くこの宿をご贔屓頂きありがとうございます」
 そう言って、カウンターにひらりと書類を出す。重ねられた書類の一番上には『長期宿泊契約書』という見出しが、リッカの美しい筆記で書かれている。
「こちらは今回作成しました、長期宿泊契約に係る誓約書です。契約を更新せず解約に至りますが、その際の取り決めが書かれています」
 丁寧で聞き取りやすい声が、順繰りに項目を説明していく。
 部屋に残った私物は一定時間保管する。部屋の所有者であった者が引き取りに来ない場合は、一定時間が経過した後に宿が処分する事。
 宿内で見知った出来事は、他言しない事。
 以前使っていた部屋と宿泊費の条件は、再契約では結べない事。などなど。
 どれも基本的だが必要な事だ。ケネスもぼんやりしながらも耳を傾けていて、リッカの説明を全て聞き終えると深々と頷いた。項目の最後にある線を指差して訊く。
「異論はない。ここにサインをすれば良いのか?」
 リッカは『はい』と答えた。サインに必要なインクを羽根ペンを寄せると、誓約書の上に手を滑らす。カウンターの上に乗った契約書の下には、同じ大きさの紙がもう一枚重ねられていたのだ。紙がずらされるとサインをするべき欄が二つ、書きやすいように斜めに並ぶ。
「ケネス様のサインを頂いた時点で、長期宿泊契約は解約となります」
「もう一枚は控えか。俺相手に大袈裟だな」
 宿王の宿として再出発を目指すにあたり、契約は紙で交わし控えも相手に渡すという、王宮並みの厳格さで統一している。アインツと共に各地でいろんな契約を交わしていたのを見ていたのか、ケネスは懐かしむように小さく笑って羽根ペンを持つ。
 独特のクセがあるが読みやすい字で、ケネスの名前を綴る。
 一枚目を書き終え、インクをペン先につけると下に重ねられた欄に視線を向ける。さらさらと名前を綴るのが、ひどく長く感じる。私達は固唾を飲んで見守り、ケネスが最後の一文字を書き終えた瞬間だった。
「!」
 びくりとケネスの肩が跳ね上がった。
 アインツがいきなり、下に重ねられた書類を引き抜いたのだ。アインツは顔を真っ赤にして、引き結んだ唇の口角が耳まで届きそうなくらい上がってしまっている。潤んだ涙からは、ほろりと一粒嬉し涙。書類を胸にぎゅっと抱きしめ、溢れる喜びにいっぱいのアインツはリッカの胸元に飛び込んだ。昨晩散々嗚咽を垂れ流した場所は、今は歓声が溢れている。リッカが良かったねと頭を撫でているのを、ケネスは呆然と眺めている。
「な、なん…だ?」
 戸惑った阿保面に、私はにやにやが止まらないわ。私は紅を塗った指先で、アインツを指差した。
「アインツ。見せてあげなさい」
 はい! 元気いっぱいで嬉しくてたまらないアインツは、まるで満点の解答用紙を見せるように、書類をケネスの顔面に突きつけた。怪訝そうに書面を眺めていた目が、驚きに見開かれていく。
「…雇用契約書?」
「はい。ケネスさんがサインした二枚目の書類は、ケネスさんがこの宿の従業員として雇用関係を結ぶ契約書になります」
 ばっと奪おうと手を伸ばしたが、がつりと音を立ててケネスの体が突っかかる。さっと後ろに下がったアインツと、カウンターに阻まれて手は宙を掴んだだけだった。書類はリッカの手に渡り、手早く金庫の中に書類を放り込まれる。良い連携ね! がちゃりと鍵が閉まる音が響いてから上がった顔には、にっこりと満面の笑みが広がっていた。
「心配しないでください。シーツ交換から清掃、接客まで、私が一から丁寧に教えます」
「こんな契約、無効だ! 騙し討ちじゃねぇかよ!」
 顔を真っ赤にしたケネスを見て、私は吹き出した。この男、こんな顔も出来るのね。
「今まで使っていた部屋を使っていいわよ。従業員価格で契約し直したから、今までの宿泊費よりも安くなってるわ」
「なんで働く流れになってんだ! 俺はこの宿で働くだなんて、ひとっことも言ってねぇ!」
「サインしたでしょ? 契約書をちゃんと見ない貴方が悪いのよ?」
 ぐっと言葉を飲み込んだケネスの悔しそうな顔。私もリッカもしてやったりで、笑いが止まらないわ。かわいいアインツを泣かせた罰がこの程度で済んで良かったじゃない。
 カウンターから出たアインツは、ケネスの腰に抱きついた。
「これからケネスさんと一緒に働けるの、とっても嬉しいです!」
 嬉しそうに見上げたアインツの頭に、ケネスはぎこちなく手を伸ばして撫でた。

 この男、馬鹿なのか律儀なのか、この契約ずっと履行してるのよね。
 本当にシーツ交換やら接客やらされて、腹筋割れそうなくらい面白いわ。それを恨みがましく見てくるんだけど、私は優しいから手を振ってあげるの。
 可愛い子達が嬉しそうだから、ケネスの不満なんか知ったこっちゃないのよ。