書斎劇 de かく語りき1


■ 吟遊詩人という王様 ■

 紺色の暖簾に達筆な文字で書かれた『大魔王』の文字に、隠れ居酒屋なのかという疑問は野暮というものです。
 僕は暖簾を押し上げ、がらりと情緒溢れる音を響かせて横に扉を押すのです。アレフガルドではジパング式としてマイラでしかお目に掛かれない引き戸でして、すりガラスと木の格子という趣がまた素晴らしいのです。内から漏れる温かみのある灯。闇夜を闊歩する迷える酔いどれ達には、さぞや魅力的に見えることでしょう。
 僕が一歩踏み出せば、店主殿がこちらを見遣った。
『届いておるぞ』
 助かります。と深々と頭を下げて奥へ向かえば、三和土の上に木箱がドドンと10箱分。居酒屋の臨時従業員であるアインツさんが、首をかしげます。
「大変重いものなのですが、何なのですか?」
「これは全部本ですよ」
 本? アインツさんの疑問に答えるように、一番手前の木箱のフタを開ける。木箱は全てもう封を切られており、中からは夥しい量の本が現れる。厚みも装丁もてんでバラバラ。布張りの美しい上製本もあれば、背表紙を接着剤で固めた平綴じ本、糸で綴じた冊子まで、見本市さながらです。タイトルの書かれただけの本、ちょっとしたモチーフらしい絵が描かれたもの、可愛らしかったり美しい人の絵が描かれたもの、その表紙だけでも日が暮れるほどのバリエーションがあるのです。
 その一冊を手にとって、アインツさんに渡す。
「これは同人誌と言いまして、出版社を通さない個人が出版した本なのです」
 どうじんし。そうアインツさんが頁をめくれば、温かみのある手書きの絵柄で美味しいコーヒーレシピが書き込まれています。わぁあ、と表情を輝かすアインツさんのなんと素敵なことでしょう。新たなる発見、世界が開けた瞬間の輝き。福眼です。
「年に数回、この同人誌の即売会というのがありましてね。勉学のために買い漁っているのです。しかし、僕も旅人として忙しく世界を巡る身。大量の本を配送してくれるサービスはあるのですが、受け取る場所を確定できませんのでね。ゾーマさんに受け取ってもらって一時的に保管していただいているのです」
 吟遊詩人として世界を巡って多くの文学に触れるのですが、やはり同人即売会は現代の最先端、今生きている文学です。過去の傑作も確かに素晴らしいですが、破天荒な新しい才能に出会えるのも目が眩むほどに楽しい事であります。
 それに即売会は、執筆者が直にお見えになることが殆どです。この文章を書いている方がどんな方なのか、逆にこの本を買ってくださる方がどんな方なのか、互いに顔を合わすことが難しい刹那の一期一会は言葉にし辛い喜びを伴うものです。
 僕がにこやかに説明する背中で、ゾーマさんが不機嫌そうに言い捨てました。
『どれもこれもハッピーエンドばかりで、不味くて食えたものではなかった』
 ちゃっかり読むんですよね。ゾーマさんも何気に読書家であらせられる。

 □ ■ □ ■

 戸が砂利を踏みしだく音を響かせながら、ふわりと冷たい空気が流れ込む。空気には美しいバラが大輪を咲かすような、うっとりとする香りを含んで居酒屋の出汁の香りの間を通り抜けて行かれました。
 いらっしゃいませとアインツさんが出迎えたのは、麗しい金髪の美女。純金を引き延ばしたとしてもこれほど美しい巻き毛にすることはできないと表現したくなるほどに美しい金髪、すべての時代で最高の技量を持った職人の最高傑作の陶磁器でもこの温かみまでは表現できまいと言わしめる白い肌。唇は橙を含んだ柔らかい紅色で、スライムの表面みたいにぷるぷるです。
 ラダトーム元王女であらせられるローラ様が、僕の顔を見て驚いたのです。
「あぁ! ガライさん! 来てたのね! 危なかったわ!」
 そうガラガラと車輪のついたトランクを引き寄せやって来ます。
「ローラさんも僕から借りずに、即売会で購入してくださいよ。筆者への還元は、次回作への意欲、ですよ」
「えぇー。一緒に合同誌出しておきながら、お店番させ続ける人の台詞じゃないよー」
 いやぁ、物語の事となると見境がなくなりまして…。
 ふくーっと頬が膨らみます。あぁ、ロトちゃんみたいで愛らしいなぁ。僕はそういう顔に滅法弱いんですよね。
 ローラさんがトランクの中から本を取り出すと、どんどん開いた木箱の上に乗せて行きます。あぁ、大変だ。木箱から本が溢れてしまう! そんな雑に積み上げないでくださいよ! ここに置いてある本を読むのは、何もゾーマさんだけはない。ローラさんも借りに来たりするのだ。
「サラボナ姉妹がこの前、ファビュラスな香りを振りまいて一般参加しておりましたよ。ローラさんもイトニーさんとラダトーム姉妹と銘打って参加されればいいのに。楽しそうですよ」
「サラボナ姉妹はまだ愛い新参だもの。あたし達みたいな常連じゃあ、あんな反響にはなれないよ」
 僕とローラさんの会話を頭上で聞きながら、アインツさんがきょとんと僕に上目遣い。
「ガライさんもローラさんも『どうじんし』ってのを出すんですか?」
「そうよー、アインツちゃん! ガライさんって実は凄いのよ! 古参も古参、最古参。野生の出版社の異名を誇る、伝説の壁サークル『銀の竪琴』のサークル主なのよ! 最初に発表した『世界の伝説100選』は読書家垂唾の一冊でオークションでは本の最高額を叩き出したって噂だし、その後も不定期に出される作品はジャンルを問わず、ハズレなしの傑作揃い。カジノ協会が出しているトトカルチョには必ず『今年はガライさんが新刊を出すか』と『ガライさんの新作のジャンルは何か?』でコーラルレインの大波乱なんだから!」
「ローラさんストップです。ストップ」
 アインツさん、可哀想な事に頭から煙が出ております。

 □ ■ □ ■

 昼間の居酒屋は夜間の開店に向けた仕込みのために、営業はしておりません。しかし、大抵この時間は我々のような夜間利用しない者達の一種の溜まり場的な存在となっております。珈琲の良い香りと、パウンドケーキの甘い香りが漂うこともしばし。もちろん、お代金が発生するので準備してくださる店主殿には感謝ですね。
 角砂糖を5個くらい放り込んだローラさんから目をそらし、僕はホイップクリームを盛り付けるアインツさんに微笑みかけた。
「先ほどお話しましたが、同人誌とは出版社を通さない個人出版の本なので、とてもお手軽なのですよ」
 例えば。僕は珈琲を一口啜って、口を潤わす。僕を気遣ってか、砂糖の代わりに蜂蜜とミルクたっぷりでとても美味しいです。
「アインツさんが持つ一流の宿屋従業員としての経験を生かして、ベッドメイキングの方法や清掃の仕方を冊子にして配布しても良いのです。他にもお客様との素敵な思い出を、個人が特定されない程度に書いた物語を本として出しても良いのですよ」
 アインツさんは『へぇー』と口が可愛らしくあいております。
「僕の場合は世界中を巡って蓄積させた文学を、お遊びや腕試しを兼ねて物語として考えたりするんです。ですが、少々、僕の字は読みにくくてですね。そう気軽には本としての形は成し得ません。そこで、登場するのがローラさんなどの協力者なのです」
「あたしはガライさんのファンなの。『勇者ロトの伝説』もう擦り切れるほど読んだんだよね」
 ありがたいことです。僕は小さく頭を下げる。
「僕が物語を語るのを、文字に起こして頂くんですよ。大抵、文字を起こす方のリクエストの内容が、新刊となって即売会に並ぶわけです」
 ローラさんもご自分で執筆される方なのですが、面白いことにご自分で執筆される方はご自分の得意ジャンルの本を書いて欲しいわけではないのですよね。ローラさんは王宮の華美な世界に渦巻く、欲望と陰謀の中にある禁断の愛とかがお得意なんですが僕にそういう話を書いて欲しいと言われたことはないのです。
 ちなみに、一番リクエストが多いのがゾーマさん。
 絶対に救いのない物語『漆黒奇譚』は既にシリーズものになっています。とにかく『救いがない』『悲惨』『読み手も絶望する圧倒的後味の悪さ』の三拍子そろった話で、ゾーマさんが『私がオカズにできる話を書いて欲しい』というリクエストから始まったものです。良作だと一月オカズにしてご飯が食べれて、一年に一回は再ブームが来るとかなんとか。
 流石に僕が魔物達と親交があったり、医療知識の豊富なロトちゃんのリアリティーが加わったことで、魔物が人間を犯す『獣姦』ものを最も得意とするとは天使のような少女を前には口が裂けても言えませんけどね。
『ガライの腕は本物だ。流石、吟遊詩人で飯を食っているだけのことはある。臨時従業員もリクエストしてみるがいい』
 いや、流石に吟遊詩人が本職ですが、副業もしてますよ。
 僕のツッコミの眼差しを見事に受け流され、ため息一つついてアインツさんに向き直ります。アインツさんはうーんと考えたのち、緑の瞳で真っ直ぐ僕を見つめてきました。では、と彼女が神妙な面持ちで声を紡ぐ。
「面倒臭がりのケネスさんがヤル気を出すような、自己啓発ものを…」
「あ、ごめんなさい。むり」


■ 不浄の勇者と純潔の僧侶 ■

 居酒屋『大魔王』の板の間と呼ばれる板張りの空間は、格子状の壁にステンドグラスのような色とりどりの硝子をはめ込んだ美しい壁で仕切られている。テーブルはお座敷の卓袱台と同じ艶やかな飴色のテーブルだが、こちらはややアンティークな造りをしている。椅子のクッションは座り心地が良く、天井から吊るされたランプは華やかな光を散らす。ジパング式とは違った趣の空間には、ワインや紅茶が似合いそう。
 あたしの目の前に夫によく似た男性がいる。でも、あたしの夫に比べたら、とっても優しくて穏やかな男性よ。ちょっと刺激が足りないと思うこともあるけど、この人がモンスターマスターとして舞台に立った姿は本当に夫を彷彿とさせる凛々しさ。あの人もこれくらい優しい笑みを見せるのかしら? だめだめ、想像しただけで笑っちゃうわ。
「僕の顔に何かついていますか?」
「カップケーキの食べカスが付いているわ」
 おやおや、それは大変だ。彼は口元に付いたカップケーキのカスを、指先で擦って落とした。この店に出入りしているぬいぐるみみたいな殿方が、イベントで大量のカップケーキを作っているらしいわ。赤い賑やかな毛玉君が『団長に、いーーーっぱいカップケーキ作ってもらうんだー!』って意気込んで材料集めに奔走しているんですって。
 ふわりと笑って広がる甘いバニラの香り。
 旅人にしては色の白い肌に、この薄暗い店内では黒に見える髪と瞳が良く映える。アレフガルドでも寒冷地帯と呼ばれるガライヤ地方で多くみられる、毛皮を裏打ちした旅装束が重く体を包んでいる。膝に乗せた帽子には今は絶滅した極楽鳥の尾羽が付いていて、ランプとは違った妖しい光をはらりはらりと振りまいている。
「ローラ様はこんな所で僕と会っていて、旦那様に疑われたりはしないんですか?」
 向かい合った相手から最高に美しく見える所作で、紅茶を口に運ぶ。花びらが綻ぶように微笑み、貴族だったら一撃で心を撃ち抜く伏し目がちで夫に良く似た殿方を見上げる。
「私の夫を他の女にあげたりなんてしないし、私は夫以外の男に靡いたりもしないわ」
 それはそれは。笑い声が相手から漏れた。
「それで、本日は何用でいらっしゃいますか?」
「少し、お話しを聞きたくなったの。面白い噂を聞いたからね…」
 それは勇気ある一人の乙女が世界を背負わされる世界。美しい乙女は剣を背負い呪文を操り、魔物を倒して世界を平和にした。とてもよくある英雄譚だけれど、その乙女は色香が過ぎた。とても、とても魅力的だったの。仲間は全員が女性だったのに、同性の彼女らの瞳が熱に浮かされて潤むほどに。
 そこまで話して、彼は微笑んだ。
「ローラ様は誰がお気になりますか?」
「勇敢な乙女のそばには3人の同性の仲間がいたそうだけれど、聖職者の女性がいたんですって」
「では、軽くお話ししましょうか」
 彼は背もたれに背を預け、指先を緩く組んだ手を膝の上に置いた。目を閉じ少し天井を仰ぎ、深く呼吸をしているのか胸が動く。ゆったりと蝋梅の香りが漂い時の流れが緩慢に思えたのは、ほんの少しだった。彼は目を開き、その手をテーブルの上に置くと美しい声色で『お話』を始めるのだった。

 宿の壁は白い漆喰で塗り固められていて、シーツも清潔な純白。ベッドやテーブルや椅子が大量生産されたごく普通の木製品で、床板もワックスが剥げています。治安がお世辞にも良いとは言えない街道の宿場町でしたが、その宿はまるで結界のように穏やかで静かな空間を提供していました。一般的なベッドが二つ並んだ二人部屋に、本日の客人である女性が部屋を覗き込みます。同行者だろう友人達は隣の部屋をお使いになる様子。部屋の本日だけの主に、快活な声でおやすみの挨拶を告げて奥へ進んでいかれました。
 重たい旅人らしい靴底の響きを伴い部屋に入ってきた女性は二人。
 一人は空色でも部屋に差し込ん月明かりに銀色にすら見える麗しい神に仕える僧侶。腰まであるだろう艶やかな髪は滝のようにまっすぐで、肌は陶磁のように滑らかで白い。僧侶の衣は女性らしい線を浮かび上がらせる服を挟み込み、長身の身の丈の半分以上になる長い杖を凛と携えています。背筋を伸ばし、まっすぐな射抜くような瞳は男を寄せつけぬ高貴さを滲ませるのです。
 僧侶の後に続いたのは、普通の冒険者です。いや、職業も形容できないなんて吟遊詩人として失格ですね。でも、彼女は戦士の鎧を纏いつつも、魔法使いが持つだろう魔法具を身につけている。特に額を飾るサークレットは賢者のような偉大なる魔法使いが持つような素晴らしい魔法具。剣は使い込まれ、盾はしっくりと彼女の腕に寄り添うのです。冒険者を見る目に肥えた者ほど、彼女の職業がなんなのか分からず終いな事でしょう。
 もう一つ、彼女が旅人や冒険者と形容しなくてはならない理由があるのです。
 彼女は魅力的でした。鋼鉄でできた胸当てですら、彼女の女性らしい肉体を型に嵌める事ができやしない。胸当ては大きく膨らみ、腰当ては特注ゆえに大きく目を引いてしまう。サイズが合わない部分の鎖帷子は、動くたびに移ろう光沢が艶かしく見えるのです。紫の外套が彼女の肢体を包み込んで隠しても、顔を見たら引き込まれるに違いありません。
 彼女は幼いゆえの無垢さと大人の妖艶さを兼ね備えた、子供とも大人ともいえぬ丁度狭間の年齢でした。瞳は力強く爛々と輝くのに、そのうっそりと開いた唇は幼く思えるほどに無防備なのです。肌は魔物との戦いを切り抜けたとは思えぬほどにきめ細やかで美しく、その細い喉が紡ぐ声は蕩けるほど柔らかいアルト。
 一体、彼女が何者なのか、見れば見るほどに理解できなくなる。そんな不思議な女性でした。
 窓際のベッドに荷物を置いた僧侶は、重い息を吐いて月明かりに向かって祈りの仕草を捧げます。
「本当に世は乱れているのですね。あぁ、神よ。人々の心に早期の平安を齎したまえ…」
 一心不乱に祈りを捧げる僧侶の背に、荷物を置いた乙女が声を掛けました。
「そんなに昼間の光景がショックだったの?」
 『ショックなんてものじゃありません!』思わず口をついて迸った反論があまりにも大きかったので、僧侶は慌てて華奢な手で自らの口を覆いました。目が動揺からか小刻みに振れ、肩が大きく上下するのです。自分を言い聞かせるようにゆっくりとベッドに腰を下せば、ぎしりと木製のフレームが軋みました。
「治安が悪いって、城で聞いたじゃない。ただでさえ世界規模で魔物の活動が活発化して、物資の流通が滞ってる。人々の生活の質が落ちれば、貴女が想像していた世界が保てないことくらいわかるでしょ?」
 その言い方は、少女が背伸びしたとは思えぬほどに大人びていました。
 路上での堂々とした強盗や強姦、殺人に至りそうな暴力。盗人は大人子供関係なく暴力の末に死ぬだろう。殺すのは人間か、ボロ布のような虫の息のそれを摘み食いしにきた魔物であるかは大した差では無い。路上には死体が転がり虫が湧く。五体満足に揃っているものは珍しく、溶けているか、摘み食いで持っていかれて欠けていたりと損傷が激しい。妊婦らしき死体は腹を食い破られていた。
 そんな地獄を渡る者が正気であることは珍しい。賄賂が横行し、女性ならば関係を強要する。殺されないよう自衛手段として、男以上の力量すら求められることもある。
「でも、貴女が率先してすることはないのよ」
 僧侶は唇を噛み締め、思わず血が玉を結ぶ。
「貴女は勇者なのに…。世界を救っていただくお人に、なんてことを…」
「大丈夫」
 乙女は微笑んだ。
「私は楽しんでやってるのよ。一線を超えない程度で、どれくらい要求を呑ませてみせるか…楽しいゲームみたい」
 乙女の指先がそっと僧侶の唇へ向けられる。柔らかいホイミの光がはらりはらりと桜色の唇に触れ、形の良い指先が血を拭えばもう血は出て来ることはありません。僧侶は目を伏せ『ごめんなさい』と謝りました。いいのよと乙女が笑う。
「楽しむことすら罪なのかもしれない。穢れていると蔑んでも良いのよ」
「そんなこと…できるわけありません」
 乙女はここへ来るまでの道のりの交渉を、ほぼ一手に引き受けてきた。関所の役人へ賄賂を渡すこと、金をよこせと刃物を突き付ける者、盗まれた荷物を返す条件に肉体関係を求める者。それは神に仕える者として教会の外に出ることがなかった僧侶にとって、地獄の帝王の膝下のような禍々しい世界であった。
 乙女は手際よくやってのけた。自然に金を握らせ、圧倒的な力で返り討ち、ちょっと体を触らせ再び戻ってきたときに続きをさせてあげると口約束をして離れて見せた。勇者と呼ばれる彼女の手を、魔物の血ではなく、人の悪徳で黒く染めることに僧侶は酷い罪悪感を抱いていた。
「貴女が汚れ役を引き受けてくれることに、私は心のどこかでホッとしているのです。己の純潔を守るために、貴女を差し出している。私は卑怯者です。神にどんなに慈悲を乞うても、もう、許されることはないでしょう」
「もう。楽しいゲームみたいって言ったばっかりなのに」
 乙女が苦笑して僧侶の頬を指で拭う。濡れた指先を舐める乙女に、僧侶は許しを乞い続けるしかできないかったのです。過去が変えられない事実に、悲嘆にくれる僧侶に乙女は場違いなほどに明るく声をかけた。
「大丈夫。私は穢れてなんかいないわ」
 え? 許しの言葉が途絶え、戸惑いの声が漏れる。濡れた睫毛が瞬いて、潤んで溢れそうな涙を押し出すと僧侶は優しい乙女の微笑みを見たのです。乙女は自分を見たと確信してから、ゆっくりと頬に掛かる長髪をかき上げ耳朶の薄い耳に優しくかけた。まるで壊れ物に触れるかのように優しく扱われているのがわかり、ほんの指先が触れただけでその部分が熱を帯びるかのように敏感に感じたのです。僧侶はかぁっと赤面してそっぽを向いてしまいました。思い出したのは慈悲深い母。幼い子供の頃の自分が胸から顔を覗かせていたのです。
 いた。
 小さく乙女が呻いたので、僧侶は我に返りました。僧侶の髪は長いので、勢い良く顔を動かすと仲間の顔に当たってしまうのです。
 ご、ごめんなさい。謝罪の言葉は、吹き込まれた息に驚いて胃の遥か下まで転がり落ちてしまいました。
 息を飲んで驚く僧侶は、鼻先が触れるほど近くに乙女の顔があったのです。
 部屋は、呼吸音すらないほどに無音でした。月の光が差し込み部屋にゆったりと広がっていくのすら音にできるほどの静寂。動くものはおらず、二人の女性は硬直した石像のようにそこにある。まるで母に懇願する少女のように顔を覗き込んでいるのはどちらであっても、どちらも懇願を聞き入れ実行する母の顔にならぬために時が止まったかのようでした。
 動いたのは乙女でした。
 乙女は両手で包み込むように僧侶の頬に触れ、乾ききらぬ涙を全て拭って見せた。
「貴女が触れることを許してくれる。だから、私は綺麗なの」
 そう微笑んだ乙女に、僧侶は頬に包む手を握った。暖かく優しい手を、離したくないと、強く。

 強く。余韻が消え、次の言葉が紡がれない。そう思った時、あたしは思わず言ってしまった。
「え? おしまい?」
「おしまいです」
 彼はふーと長く息を吐き、すっかり冷めてしまったお茶を啜った。あぁ、おいしいなぁと微笑む顔に、あたし以外の非難が飛びかかった。
『なんでそこで終わりなんだ! 全然面白くないじゃないか! むしろ、ここからが面白くなる話だろう!』
「ちゃっかり聞いて文句言わないでくださいよ。僕は『軽く』お話しましょうと言ったんですよ。長編仕立てにするなら、もっと取材とか調べ物とか準備が必要なんですから」
 そう夫そっくりに目を眇めて見たのは、カウンターの奥の店主殿。店主殿は桐のまな板を手刀で真っ二つぱっかーんて割って激おこだ!青い人ならざる指をビシッと向けて、怒鳴りつける。
『そんなものはどうでも良い! この後、聖職者の女が神への純潔を誓っておきながら、勇者らしい女に絆されて一線を踏み越えて快楽に堕ちて行くのを悔いながらも自ら溺れて行く話が読みたい!』
 わ! あたしもそれ読みたい! 物足りなさの部分を的確にズバズバ突いてくる店主殿に、あたしは思わず拍手しちゃった。
 言われた本人はといえば、はぁ、とため息ひとつ。
「まーた無茶なことを。性交渉絡むと衛生面でロトちゃんの審査が入るんですから、簡単じゃないんですよ」
 そう、彼の小説はどれも完成度の高い作品が揃っているのだが、その影の立役者が彼の仲間であるロト嬢の存在なの。彼女は本当に馬鹿で天才が服着て歩いてるって感じで、彼の書いたものすごく滾る官能的な文章も『人の体に使うものなんだから、ちゃんと衛生面考えてる? デリケートな部位なんだから、もうちょっと皮膚炎症に対応した薬草を配合したローションとかで対応しないと後々可愛そうだよー』とか文章を読んでいるとは思えない現実的な指摘が飛んでくるのだ。結局、ロト嬢監修のアイテムを並べると、とても評判がいい。後日道具屋が製造方法の認可を頂きたいとか、お伺いにくるレベルで良い。
 個人的に恋人関係でもいけそうな二人なのだが、前途多難にしか見えない。夫の姿がたまに霞んだりしてる。
 それに。彼はお茶を飲み干し、いそいそと帽子を被り身支度を始める。
「噂があるのならオリジナルの話があるんですよね。事実は小説より奇なり。ぜひ知りたい。調べに行こう」
『そんなものは、どうでも良いと言っておるだろう!』
「良くないですよ! オリジナルを尊重してこその文学です!」
 このままじゃ、話の続きがうやむやになっちゃう! あたしは彼の『お話』を書き留めた紙をテーブルに叩きつけ、勢い良く立ち上がった。
「良くないわ! ファンの言葉に応えるのが、エンターテイナー! あたしはこの話を冊子にして、続編を望む声をあなたの顔面に叩きつけてみせるわ! ご覚悟なさって! ガライ先生!」
「えぇ!? もう、勘弁してくださいよぉ!」


■ 賢者のお遊戯 ■

 お酒の匂いがお好きでないロトさんが、夕刻からの営業時間に来ることはありません。本日も暖簾が掛かる前、明るい日差しで輝く磨り硝子に黒々を影を刻んで引き戸を開けます。にっこり笑顔が素敵なロトさんですが、今日はいつにも増してご機嫌なご様子です。こんにちわと挨拶すれば、ホイミを唱えているのか聞いているだけで怪我が治りそうな挨拶を返してくださいます。
「あ、アインツちゃんいたー!」
 ロトさんはやや厚めの紙袋を差し出してきました。その膨らみ方が最近良く見る形だったので、私は思わず尋ねました。
「それは本ですか?」
 ロトさんも悟りの書を持ち歩くような賢いお方ですが、保存状態に頓着されない方で剥き身のまま持ち歩いています。エンジュさんもそうですが、賢い方ほどすぐ開いて見たい本は何かに入れたりしないで持ち歩くのでしょうね。
 紙袋に入っているというだけで、彼女のものではない特別な本なのだとなんとなく思えたのです。
 うん。そうだよー。そう答えながら、ロトさんは紙袋から一冊の本を取り出して見せました。
「アインツちゃん、サンディちゃんのお友達だよね。彼女もお手伝いしてくれた新刊なの。よければ見て見てー!」
 サンディが何を手伝うんでしょう? 布巾で念入りに手の水分を拭うと、差し出された本を手に取りました。
 それはとても綺麗な写真集です。タイトルは『唇に華』とあり、美しい薔薇の花弁で唇を隠した乙女が写っています。その美しい指を飾るネイルの美しさに、あぁ、なるほど、サンディがお手伝いしたというのはこの事なのかと納得しました。
 ロトさんはニコニコといちごオレを啜りながら、解説をしてくださいます。
「今回はね、ガライさんが選んだ『近代小説における魅力的な女性の唇描写10選』を再現する口紅開発したのー!でも口紅だけじゃあつまらないし、美人さん達にモデルになってもらって、サンディちゃんにネイルしてもらって、アストルティア最大手サロン・フェリシアさんのご協力で超素敵な写真集出すんだー! 写真はイベントレイヤー撮影のベテラン、ルミラさんにお願いしましたー!」
 はぁー。私は口が半開きになったまま、紙面に視線を落としました。
 ガライさんの言う『個人の出版する本』とは思えない、普通に書店に並んでいそうな出来栄えの本です。女性はサラボナの大富豪の美人双子姉妹としてお泊まり頂いたこともある方や、グビアナの踊り子達が神と讃えるモンバーバラの舞姫と妹君。ローラさんやルクレツィアさんは、流石本物のお姫様で見ているこっちがドキドキしてしまいます。
 舞台設定も本格的で、戦うお姉さまは艶やかな黒髪が乱れながらも剣を片手に廃屋に佇む姿が素敵です。にぎやかな酒場で野生的な笑みを浮かべる女傑の生き生きとした姿も、やはり唇の美しさに視線を奪われてしまう。神聖な場にただ座する巫女の姿が、紅一つで女という部分を感じてしまうほどです。
 添えられた文章は写真より主張することなく、しかし目にすれば写真がより鮮明になる配置。
「すごいです…」
 ようやく絞り出した言葉に、ロトさんが頁を巻末に向かって繰る。すると、大きなものがくっついているのか、ごそりと頁が動いたのです。
「驚くのは早いよ。なんと、サンプル付きなのです!」
 大きなもの。それは沢山の口紅が入ったパレットです。桜色から赤、橙に至るまで様々な色と、使用された頁数が書かれています。さらに細かい文字に目を凝らせば、ロトさんの解説なのでしょう。成分やら特徴が事細かいこと!
「写真集に使用された口紅のサンプルだよ! 気に入った色はサロン・フェリシアさんのご好意で、お店で購入できまーす!」
 もう、言葉もありません。
「言葉って面白いよね。露に濡れたような艶やかな唇とかって表現を表すための配分は、癒し草だけじゃダメなんだ。囀りの蜜の保湿力がどんなに高くても、配合条件では花の蜜の方が優れる場合もある。桜もカミハルムイ、妖精の村、ジパングと3箇所巡ってるし、世界樹の雫も手に入る場所は全部集めたら本当に樹ごとに特色があってねー!本当に言葉を現実にするのって難しくって面白かったー!」
 私は言葉の半分以上が理解できなくて、目を瞬かせるので精一杯です。でも、すごく時間をかけて色々試して失敗したりした結果が、この素晴らしい本になったんだということはわかるのです。しかも凄いのは、素晴らしい本にする為に適任な人材に声をかけ連携を図るということ。この点は是非、私も見習っていかねばならぬことです!
 頭がいい人はすごいです。