居酒屋大魔王ログ3


■ 女勇者の葛藤 ■

 紺色の布地に白で『居酒屋大魔王』と書かれている。どう見てもアストルティア文字ではないのだけれど、意味だけはきちんと理解できるわ。なぜかとても達筆なのも、伝わってくる。文字が書かれた布が灯りの漏れる入り口に掛けられていて、それだけでピペの鼻息がとても荒い。『なんて芸術的な暖簾!感激です!』って、豪速で酒場の入り口を模写しているわ。
 始まりの伝説の勇者…グランゼドーラの建国王のことではないわ。物語で語り継がれる、一つ目の伝説の勇者が倒したとされる大魔王が経営する居酒屋。耳を疑うし、今でも意味が咀嚼しきれず飲みきれないが、こうしてやってきてしまった。
 ピペはぺちぺちと私の頬を叩いて、中に入ろうと急かす。
 横にスライドする不思議な木の格子と硝子で出来た戸を開くと、夕暮れ時のような暖かい色合いの空間と、美味しそうな匂いに包まれる。ふと鼻腔を掠めたのはお酒の香りだわ。ぱっと顔を上げたカウンターの内側の異形の偉丈夫と、席に座っている女性がこちらを見た。
 女の人が席から立ち上がって、私のところに駆け寄ってきた。
 目がぱっちりして、海のような青い瞳がとても綺麗。大きい胸が否応に目に入る。背は平均よりも低めで、剛毛が天を突きそうなくらい固く豊かに覆っている頭の先を足しても私に並ばない。それでも、胸が大きい。剣を握ったことのないもっちりとした赤ん坊のような手のひらを差し出し、乳母を彷彿とさせる福代かな女性は幸せそうに笑いかけてきた。うぅ! 胸も迫ってくる!
「アンルシアちゃんと、盟友のピペちゃんだね! 二人とも可愛いっ!」
 頬を上気させて、嬉しくてたまらない様子の彼女は私とピペの手を強引に掴んで握手する。プクリポのようなゼロ距離感に思わず頬が緩んだが、姿勢を正し挨拶をする。
「始まりの勇者様であるロト様にお会いできて光栄です」
「え!私は始まりの勇者じゃないよ!」
 え? 顔を上げると、テンションを消費しなかった笑顔が眩しく私を見ている。
「ロトはロトなんだけど、始まりの勇者様って、後世に自分の痕跡残したくなかった系の人だったみたいでさー。あまりに何も残ってないから、カウントされなかったんだよね。で、アレフガルドを光で照らした伝説が、一個目になっちゃったんだ」
『でも、貴女がアレフガルドを光で照らしたロトさんなんですよね?』
 ちょっと話についていけなくなった私に代わり、ピペがロトさんをスケッチしながら話しかける。ロトさんが『じょうずー!』って拍手する。
「うん! アレフガルドを照らしたロトさんだよ!」
 わぁ。なんだかイメージと全然違う。とても強そうに見えないし、勇敢そうにも見えない。私は剣を携帯しているが、彼女はなぜか分厚い本を専用の鞄に納めて括り付けているだけで丸腰だ。冒険者って感じもしないし、明るくて元気な村のお姉さんって感じ。
「アンルシアちゃんが大魔王倒したって聞いて、ぜひ、お話したいなって思ったの! 勇者の呪文でがびゅーん!って倒したのかなーって! 可愛くてカッコ良くて、最高の勇者様だね!」
『そうです! アンはとても勇敢で可愛いんです!』
 鼻息荒いピペとロトさんが、私が如何に格好良く勇敢で可愛い勇者かを語り合っている。恥ずかしくて顔から火が出そうだわ!
 そうよ、アンルシア。数少ない女勇者で大先輩だからって、何を気負っていたのかしら! とても良い人じゃない!
 ちょっと…いや、かなり、下手したらルシェンダ様より胸が大きそうだけど、それは関係ないわ!
 戦いがとても得意に見えないし、何かあったらお守りしてあげるつもりでいないと!
『ロトさんは物語では剣も魔法も凄いって感じでしたけど、創作だったんですか?』
 ピペ!!! ちょっとそんなことを直球で聞いちゃうの!
「うん! お父さんの行動履歴と、あたしが世界を照らした実績が混ざっちゃって収集つかなくってさー。ガライさんが、混乱しないようにって物語として整理してくれたの!」
 ロトさん!!! そこあっさり認めちゃうの!
『物語に脚色は付き物ですからね。でも、残念です。始まりの勇者様って凄いって思ってましたから』
 しょんぼりするピペを『騙してるみたいでごめんねー』と、ロトさんが撫で撫でする。私もついでに撫でて欲しいわ。だって、始まりの勇者様といえば、勇者の鑑、理想の体現者だったんだもの。こうも普通で、取り柄もなさそうな、嫉妬するくらい胸の大きい女性だと思わなかったわ。
 そうよ! 完璧な勇者なんて存在しないわ!
 でも、ロトさんの実績が乏しすぎるのは、憧れてたから残念ね。
「あ、でも、これは嘘じゃないよ。論文なんだけど読んでみる?」
 ピペに差し出したのは分厚いハードカバーの立派な本だ。『アレフガルドの気候変動による絶滅と適応』とタイトルが金の箔押しされている。ピペが輝く目で受け取ると、じっくりと本を見て、開いて紙をすべすべと撫でている。ふわっと満足そうにため息を吐いた。
 ルシェンダ様の書斎に並んでるのを見たことがある。これ以外にもたくさん、ずらっと並んでたわ。ピペの後ろからちらっと見たけど、あまりにも難しい内容で頭痛が走ったわ。
 本を返すと、ピペは嬉しそうにスケッチブックに感想を走り書いた。
『とても素晴らしい装丁です!』
「ガライさんが、装丁拘りましょうって頑張ったの! 近々新作出すから期待してて!」
 尊敬する賢者様の書斎に並ぶ論文を書く勇者。引退しても、現役?
 一瞬、目の前が暗くなった。だって、私は大魔王を倒したら、結婚して子供を育てて、平和な世界で老いていくのしか想像できない。それが良い。平和で、勇者の血を後世に伝える。これ以上ない求められたアンルシアの人生。
 それなのに、目の前の勇者は世界を救っても、研究者として第一線にいるってこと? 負けた気がする。いえ、もう、最初に見た時から負けていたわ。
 大きい。悔しくて、羨ましくて、唇を噛んでしまった。