巫女の祭事衣装

 純白に輝く衣は純粋な白ではない。複数の白い糸を複雑に織り交ぜていて、それは満点の星空の集いのように輝いた。縁取った金糸は、巫女達が代々受け継いだ祈りの言葉を純白の衣に縫い止める。
 それを着た女性は、もう、人ではない。魂を導く、巫女だ。
「これ、どうしたの?」
 乾いた喉を通り抜ける声が、上擦った。上擦った声は冷えた空気に響く物音に踏み潰されて消えてしまったが、物音を立てる相手には聞こえていたらしい。物音は止まり、男性の低い声が床を這うように返ってきた。
「あぁ。頼まれたんだ」
 薄暗い建物の中をうっすらと光って漂う魂達が、さらに明るい光にぼやけて消えていく。薪を焚べてかき回したんだろう。ぱっと暖かな光が夕焼けのように闇に沈んだ様々を浮かび上がらせ、その光を黒い大きな影が切り取った。影が移動し、私の横に歩み寄る。
 ヨハンの濃い髭で青く見える顎を見上げると、彼は慣れた手つきで衣類を干す為のロープを下ろし始めた。乾いた衣は熱気を受けて柔らかく翻り、ヨハンの分厚いコートを着込んだ腕に降り立った。雪焼けした浅黒い手に広げられた衣は、光を反射して室内を明るく照らす。
「洋服屋の店の女将さんに、これは店の誇りだから大事に保管して欲しいって頼まれたんだ」
 この極寒の大地の洗濯は、私だって忌み嫌う家事の一つ。ヨハンがなんで洗濯をしていたのか訝しんだけれど、この衣の為だったんだ。手先が器用なヨハンなら、簡単な繕いくらいはしてしまうだろう。疫病が流行って二十年近くの歳月を経ても、寒さゆえに虫が食う事はなく、シミも綺麗に抜かれた衣は記憶の中の美しさのままだ。
 ヨハンが衣を見て、顔をしかめた。
「大変だった…。女将さんの魂が真横にずっと居て、染み抜きの方法をあれやこれやと細かく…」
 ヨハンの真横に漂っていた魂がちかりと瞬いた。びくりと体を強張らせたヨハンの反応を見れば、その魂は洋服屋の女将さんで、染み抜きはこの白い衣にとってとても大事な事なんだって怒られたんだろう。
「大丈夫だって! ほら! 綺麗になっただろ!」
 思った通り! 私は声を上げて笑った!
 笑うなとか言われた気がしたけれど、私は肺の中の空気を全て笑い声に変えてしまった。なんだかんだ言って、ヨハンは上手く魂達と付き合えていると思う。魂達の訴えの断片を聞き取って、その訴えに応える。疫病前はこのOPUS工場のように民間でも宇宙葬のロケット制作を確立させていて、定期的に魂達は皆宇宙に上がれていたから必要なかっただろう。でも疫病が流行って人々が死に絶え、技術や知識があってもロケット制作が容易ではない今では大事な務めなのかもしれない。
 あぁ、こんな事を言ったら、ヨハンに怒られてしまうわね!
「綺麗だし地球教の紋章が入っているが、そんなに大事な服なのか?」
 言い終える頃に、広げた衣の向こうから顔を覗かせたヨハンが私を見た。地球教の紋章があるなら、巫女である私が知っていると思ったんだろう。当然。知っている。
「その衣はね、巫女が大事な儀式の時に着用するの。宇宙葬で目にする事が多いと思うわ」
 地球教の巫女達の中でも、最も重要な儀式を担う者が着る衣だ。宇宙教の礼拝で着るのは勿論だが、最も多く人目に触れるのは宇宙葬を行う時だろう。まるで人々の海を割って進むように、見渡す限り何処までも人が連なる世界をこの衣の下から見た事がある。私は腰に手を当てて踏ん反り返った。
「私も宇宙葬を行う時、その衣を着るのよ」
 衣をしげしげと見ていたヨハンが、勢いよく私を見た。驚いた表情が深呼吸と共に落ち着いてくると、小さく口元が動いた。
「そういえば、フェイは巫女だったな…」
「聞こえてるから。私は歴代屈指って言われる程の、天才なのよ!」
 ヨハンが怪訝そうな顔をする。『本当に天才なのか?』と『自分で言うか?』あたりの気持ちが、壮年の男性の表情筋を駆使して言葉よりも雄弁に語っている。怒りは湧かず、なぜか無性に懐かしさが込み上げてくる。
 私はヨハンが掲げた衣に触れる。流水のような滑らかなシルク、指の腹に布の存在を伝える刺繍の糸の連なり。ヨハンが手を離した衣は、羽のような重みをもって私の手に落ちた。裏返してよく見れば、ヨハンが繕った想像以上に綺麗な縫い目が見える。
 本来ならば地球教の第一教会にしか置かれていない品だ。門外不出ではないにしろ、巫女の権威を損ねぬ為に軽々しく寄贈されることはないものである。
「多分、この衣はマルクスタウンで行われた宇宙葬の時のトラブルに対応してくれたお礼で、地球教から寄贈されたものよ。葬儀の間際に衣が使えなくなってしまって、教会から取り寄せるにも日数が掛かる。天候次第のロケット打ち上げの延期が、どれくらい伸びるかなんて誰にもわからない。どうしようって途方に暮れた所を、この街の洋裁店のお針子さん達が頑張ってくれたの」
 ヨハンが驚いたような顔をした。きっと、同じ内容を魂から聞いていたんだろう。
「く、詳しいな」
「まぁね。私もマルクスタウンに、宇宙葬をしに来た事があるんだもの」
 妙な沈黙にヨハンを見ると、目を閉じて口をキツく結んでなんだか頭が痛そうな顔をしている。
「なぁ、フェイ。マルクスタウンの宇宙葬は、疫病後であっても20年以上昔だぞ。フェイはまだ。生まれてないだろう」
 私は思わず吹き出した。
 確かに見た目的には20歳にも満たない年齢に見えるだろう。実際に生きてきたと認識している年数だって、見た目と同じ月日だ。けれど数字だけ見れば、私は目の前の壮年であろうヨハンよりも年上だ。
 何を笑ってるんだよ、って顔に書いてあるヨハンに私は言ってやった。
「あら、ヨハン。お忘れ? 私は地球教の巫女。15325年にコールドスリープを施されて、最近まで眠っていたのよ。私はヨハンよりもお姉さんなんですからね!」
 うわぁ。そんなヨハンの声なのか吐息なのか分からないものが、情けなく開いた口から漏れた。
 私は手にした衣を大きく翻して羽織る。ばさりと布の翻る音、頭からヴェールのように視界に被さる白、重さを感じさせぬ羽のような布と鉛のように重い責務。前を留めるボタンは、特別な作りで留めるのは難しい。着たのは随分と前のことなのに、指先は昨日も着ていたと言いたげに滑らかに迷いなく動いてボタンを留めてくれた。
 それを着た女性は、もう、人ではない。魂を導く、巫女だ。
 私は両手を合わせ祈りの仕草をし、落ち着いた声色を響かせた。
「地球教の教義を、知識を、伝統を後世に伝える為。後の黄金の百年の為に、私、リン=フェイは人類全ての希望を背負って、ここにいるのです」
 幼い私は魂と生者の区別が付かなかった。生きている人の中にある魂が透けて見えて、私は地上にいながら星の海を漂うような幻想的な光景の中にいた。それを、美しいと思ったことはない。それが、当たり前だった。生まれて今まで見てきた世界そのものだった。
 幼くして私は巫女になる為に天から遣わされた存在として、教会に預けられる。生みの親の顔も、よく覚えていない。
 でも、私は何が特別なのか分からなかった。私は私として生きてきた。誰かが言う特別は私にとって特別でもなんでもなくて、どうして特別な巫女として扱われるのか分からなかった。ましてや、この疫病の後に黄金の百年を築く中心となるべく、コールドスリープを施されるなんて思いもよらなかった。
 今でも、昨日のことのように思い出す。コールドスリープ装置に押し込まれるのに、必死に抵抗したあの日。無数の手が私を機械に押し込もうとする、強い力に抗うことは難しかった。涙でぐしゃぐしゃに歪んだ視界であっても、目の前に父のように慕った長老がいてくれているのは分かった。
 私は訴えた。『皆と一緒に生きていたい! 眠りたくなんてない!』そう喉も枯れる程に叫んだ。
 皆は私を安心させようと様々な事を言ってくれた。『起きたら、皆が迎えてくれる』『皆、死になどしない』そんなのは嘘だ。今の私なら僅かな希望も打ち砕いて力強く否定しただろう。目覚めたそこは教会の内部とは思えない廃墟だった。誰一人いなかった。他に眠っていただろう巫女達のカプセルも、全て空だった。吹雪に霞んで見えたヘミスシティに、人々の息吹は感じない。歩けど歩けど、魂ばかりが溢れた世界。
 あまりにも酷い仕打ちだと、私は喉が裂ける程に叫んだ。涙が頬に凍りついて、血が代わりに流れた。
 私を待っている人は一人もいなかった。この世界には、絶望しか残っていない。託された使命が、『皆を宇宙に導いておくれ』という長老の願いが、途轍もない呪詛になって絶望の中を歩かせた。寒さの辛さも、歩き続けた痛みも、生き残り一人見つけられない絶望も、全てが灰色に燻んで麻痺していた。
 あの当時の私は何を考え歩いていたんだろう。巫女として有るまじき行為を、生きるためと重ねた。こんな私が巫女を名乗る事はあってはならないと思った。
 それでも、歩く。
 そして、耳にする。人の声を。
 目にした。人の姿を。
 見つけたんだ。ヨハンを。
「ま、確かに。俺の希望は背負ってもらってるかもな」
 ヨハンの皮肉めいた声が、私の絶望の中で光を灯す。
「もう! ヨハンったら! この衣を着た巫女をこんなに至近距離で見られる機会って、滅多にないんだからね! 感動くらいしてよー!」
 物心がついた時から、私は巫女として育てられていたから、この衣を着るのは当たり前だった。ロケットを作る事が楽しかった。長老と、教会の皆と過ごす日々が好きだった。その日々を重ねる為に、私は衣を着ていた。
 重ねたかった日々はもう終わった。私がこの衣に袖を通す意味は、もう無い筈なのに…。
「見た目が変わっても、中身はフェイだからなぁ」
 ヨハンにとって、何気ない言葉だったろう。
 でも、私は顔が熱くなって、嬉しさのあまりに口元が上がるのを堪えられなかった。
 衣を着ても、私を巫女ではなくフェイとして見てくれる人がいる。堪らなく嬉しかった。
 海の一部になった人々の殆どが、私をフェイではなく巫女として見ていた。銀河へ還る為の導き手として敬い、魂を見聞きする力が巫女に相応しいと崇めた。彼らにとって条件さえ整っていれば、衣の中身など私である必要などなかったに違いない。
 私をフェイとして愛してくれた長老が、巫女達が、教会の人々がいなくなってしまったけれど、今はヨハンがいる。
「こら! 年上を敬いなさーい!」
 照れ隠しに声を上げて、ヨハンの肩を軽く叩く。ヨハンは不満そうな声を上げた。
「我儘過ぎて敬う気にならんわ!」
 本当に不思議な人。魂を見聞きできる存在は、巫女と呼ばれるように女性だけにしか現れなかった。地球教を率いる21代地球教長老アマデウス=ヤンですら、魂の存在を認識することはできなかった。
 でも、ヨハンは違う。男であっても魂を見て、魂と言葉を交わし、魂を感じることができる。それは、今の絶望の時代において、決して幸せなことでは無いだろう。彼は絶え間ない魂の声に憔悴し、発狂しそうな程に追い詰められている。それでも、ベッドに横たわり生と死の境界線でどちらに転ぶかわからないヨハンの手を握り、私は生きて欲しいと必死に願ってしまった。
 どんなに苦しくても、共に生きて欲しい。私はこの世界でロケットを作る事が如何に大変か、この世界で人の助けがある事がどれだけ幸福な事なのかを痛感していた。
 お礼を言ったら、ヨハン、貴方は何て答えるかしら。
 『熱でもあるのか?』それとも『変なものでも食ったのか?』かな。
 どんな返事でも構わない。一緒に歩いてくれる、それだけで良い。
「あ! こら! その衣を着てうろちょろするな! 汚れたら、また洗わなくちゃいけなくなるだろう!」
 今、衣を脱いだら、ちょっと泣きそうになってるのがバレちゃうでしょ! 私は笑いながらヨハンから逃げ惑う。暗い倉庫の中をひらりひらりと舞う白と、それを追いかける黒い影が夕焼け色の世界で戯れている。
 これが、尊き地球の導きでなければ、なんであるのだろう?
 感謝の言葉で済ますには言葉が足らなすぎる。希望が、絶望の中で一際美しく輝いている。