でこぼこ

 ふさふさの前髪がはみ出た兜の下から、ボッコスは不安そうに隣を歩くアデコールを見上げる。
 廊下に規則正しい間隔の足音と、時折鼻を啜る音が聞こえる。鎧が擦れる音がその間にがちゃがちゃと響くのだが、この王族だとて居る王宮の廊下に体調が優れない人物など普段は居らず鼻を啜るなどという音は否が応でも響いた。そして細長い顔の顎にまで届きそうな鼻提灯。ちょび髭は鼻水コーティング済みだ。擦れ違う騎士達が皆振り返る。
 ボッコスとアデコールは同時期にルブラン小隊に入隊した同期だ。背の低くぽっちゃりとしたボッコスとひょろ長いアデコールとは同期で同小隊という事もあり、彼等の属するシュヴァーン隊以外からでも『デコボココンビ』と言われている。更に彼等は似たような性格から良く足の引っ張り合いのような行動が見られ、その任務の遂行過程は散々たるものでシュヴァーン隊の恥曝しと悪評を重ねている。
 勿論、そんな事を知らない程に彼等は無能ではない。ましてや彼等の尊敬する上官であり隊長主席の立場にあるシュヴァーンの評判を落としていると思うと、非常に申し訳なく思う。しかし、その為にどう努力すれば良いのかという理解は乏しかった。
 『デコボココンビの奴、今度は風邪でもうつして回るつもりなのか?』そんな冷ややかな視線を感じているからこそ、彼等は焦りを隠せなかった。
「アデコール、まだ休んでいた方が良いのではないか?」
 看病や見舞いに病床の床にあったアデコールを見ていたボッコスにしてみれば、目の前のアデコールの状態は良好と言っても良い。白いピロケースよりも青白かった顔には赤みが差していたし、水を飲むのも一苦労だった咽頭痛とガラガラに枯れた声は回復している。今ある症状は鼻水と、時々くしゃみ。絶好調ではないにしろ早く復帰して挽回したいという思いは一緒だったが、今までの辛そうな状態を知る故にボッコスは珍しく気遣う姿勢を見せていた。
「心配無用なのであーる」
 アデコールはそう言って歩みを止める事はしない。
 こちらはというと、風邪もだいぶ回復したという事で頭がいっぱいでボッコスの思いやりが届いていなかった。
 帝都警邏や下町の税徴収などはシュヴァーン隊が定期的に行う任務の一つだ。その任務の最中に下町で腕の立つ若者…ユーリ・ローウェルに打ち負かされた挙げ句に、アデコールは不運にも川に突き落とされたのだ。追い打ちを掛ける様に風邪をひき3日寝込む顛末を向かえた流れは、瞬く間に騎士団内に広がった。まさに騎士団の恥曝しと流布されても文句の言えない内容で、今思い返すだけでも恥ずかしい。
 その恥ずかしさが、アデコールを駆り立てた。早く、速く、と体調が万全でないにしろ任務を得たかった。
 アデコールの歩調が早まり、ボッコスが軽く駆け足になって来た。宮廷内の廊下をこんな速度で行く事は緊急事態以外認められていない。誰かにぶつかったら大変な事になる。アデコールの焦りをよく分かっていたボッコスだったが、『もっとゆっくり歩くのだ』と口を開こうとした。
 彼等の行く先にある廊下の交わる角から、ゆったりとした歩調で人影が現れる。
 オレンジの隊長服、黄金色に見える加工を施した鎧は白を基調とした壁の中で炎の様に目立った。色黒い肌色に艶やかな黒髪が更に濃い影を顔に落とし、碧の瞳がより鮮やかに浮かぶ。彼等の隊の隊長にして帝国騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインを前にして、アデコールとボッコスは条件反射とも言える反応で敬礼をとる。歩調の度に鳴った鎧の金属音が、一際大きい敬礼の際に立てる金属音を響かせて止む。
 シュヴァーンもまた、彼等に気が付くのは早かった。
「任務に復帰して問題ないのか?」
 本来なら声をかけて下さる事すら稀な隊長の気遣いの言葉だった。
 しかしシュヴァーンにしてみれば数日前に報告を受けた内容もあり、目の前の彼も『元病人』と言って良さそうであったがまだまだ体調が万全でないのは鼻水が垂れているので良く分かる。思わず聞きたくなるのも当然だった。
「もう大丈夫なのであーる!」
 姿勢を尚更正し、直立不動の棒の如きアデコールから更に長く鼻水が垂れる。その様子にボッコスは内心溜息をついたが、彼等の隊長は目を僅かに和ませるに留めた。
「今回の件は帝都内であったが、結界外であれば任務に甚大な影響を出しただろう。時には自他共に生命に危険が及ぶ。これを教訓にたかが風邪と体調の不調を侮るな」
 叱責を覚悟していたアデコールだったが、その内容に多分に含まれる優しさに驚いた。
 アデコールにしてみれば周囲の騎士と同じく、騎士でもない下町の住人風情に遅れを取るとは何事だと呆れられると思っていた。しかし、目の前の隊長は仲間の為、そして己の為に体調管理を徹底しろと述べたのみ。その内容の慈悲深さに、廊下を行きつつも聞き耳を立てていた騎士達は感激すらした。
 ボッコスが顔を上げれば、身を翻し歩み去ろうとする朱色のマントが見える。
 彼は堪らず口を開いた。『隊長』と僅かに言葉が漏れる。
「なぜ隊長は我々の事を…」
 『除隊しないのだ?』
 掠れて、小さい、呟きに似た声だった。ボッコス自身も内容の凄さに気が付き、途中言葉を濁す様に小さくした。いつもなら尽く音を吸い込んで静寂に浸す王宮の壁は、こんな時には意地悪にも言葉を吸い込まず弾いた。それでも届いてなど欲しくなかった。僅かに揺れるマントの微風に流されて、黒髪に覆われた耳に届かなければ良いのにと願った。
 しかし、こんな時だからこそ意地悪なのだ。
 シュヴァーンが振り返った。前髪の多い黒髪の隙間から、ちらりと碧の瞳が見下ろして来る。
「俺が諸君等を除隊する理由が無い」
 その言葉には何の感情も含まれてはいなかった。むしろ何を今更と言いたげな、淡々とした事実を告げるような意味合いが滲んでいた。
 シュヴァーンは再び彼等に向き合って言葉を続けた。
「諸君等の上官、ルブラン小隊長からは諸君等を除隊する事を考慮するような報告は受けていない。諸君等は忠実に任務をこなし、騎士の名誉を高め、人々に貢献している」
 隊長主席の口から発せられる言葉に驚きを通り越して恥ずかしくなり、デコボココンビと言われ続けて来た二人は顔が燃える様に熱くのなるのを感じた。
 それに…。
「君等の事を一番理解しているのは俺ではない」
 シュヴァーンが一拍間を置いた。不思議そうに己を見る部下を、愛おしそうに見る。
「ルブラン小隊長が認めている騎士である諸君等を、俺は信じている」
 まだ言葉を飲み下し理解まで届いていないものの、みるみると顔つきを変える部下達にシュヴァーンは恥ずかしさが込み上げる。全く、己はこんな事を言うような人間じゃないというのに。シュヴァーンは、苦笑と恥ずかしさを隠す様に雰囲気を改め姿勢を正した。
「ルブラン小隊には帝都警邏の任務を言い渡した。ルブラン小隊長を待たすな」
 少々仰々しく言えば命令の様に騎士には響く。彼等もまた例外ではなかった。条件反射の様に二人して再敬礼する。
「了解であります!失礼するのであーる!」
「シュヴァーン隊長!失礼するのだ!」
 ほぼ同時に言えば、ほぼ同時に振り返り、がっちゃがっちゃと鎧をならして駆け足で去って行く。振りまくような明るい気配に、先程の死にそうな陰鬱さは微塵も感じられなかった。
 その背中をシュヴァーンは『全く…』と内心微笑んで見送り、彼自身も身を翻した。
 ルブラン小隊長はシュヴァーンが信頼を置くに足りる人物の一人だったが、同時に隊員の中では思い出の多い人物でもある。シュヴァーンも隊長に昇格しドレイク顧問官から多くを学んだが、今でもルブランには難題を向けられる。正義感の強い彼から迸る言葉はどれも純粋で正論で、言葉の答えとこれからの行動にいつもシュヴァーンは悩まされる。
 ルブランは、シュヴァーンにとって出来すぎた講師だった。部下からも学ぶ事が多いと思える柔軟さこそが、豪物と言われる理由でもあるのだがそれに気が付ける程の自惚れは無かった。自己への関心がとびきり薄いのは、今に始まった事ではない。
「ルブランの部下だ。将来は良い騎士になってくれる」
 隊長として何かが欠けている彼もまた、どこかしらアンバランスなのだろう。
 今日も何処かで騎士らしくないシュヴァーン隊の声が響いている。