人が死ぬ掟

 ヴィアはフレン隊の応援と称して複数の部隊を派遣できた幸運を感謝した。
 今、ダングレストは『天を射る矢』と『戦士の殿堂』とが、一触即発の事態を向かえようとしている事は人伝に広まっていた。ノードポリカを治める『戦士の殿堂』の統領ベリウスの死去も噂程度の信憑性しか無かったが、それの引き金を引いたのが『天を射る矢』を含むユニオンに属するギルドである事は誰もが知っていた。様々な要因が重なっての死去であったのは確かであったが、混乱した現場から正確な情報を収集できた事は幸いだった。
 さらにシュヴァーン隊が外回りの多い部隊である特色を生かし、ヘリオードに滞在している騎士達とノードポリカから引き返して来た小隊が合流できた。現在ダングレストに集まっている小隊の規模ならば、それなりの規模の作戦が実行可能な状態にある。
 ヴィアは経験した事の無い巨大なギルドの闘争に、出来うる限りの手を用意している。
 住人達の避難経路は刻々と変わるだろう激戦区を想定して数十通りを用意している。街の外へ逃げられない場合は、地下水路を避難場所に用いる事すら想定していた。任務を担う騎士達には最新の情報を常に申し送り、旅行者に警告と呼びかけを行い非難希望者には安全な場所に案内させている。騎士達は今までに無い緊張感に不安を抱きながら、職務を忠実にこなしていた。
 帝国と調停を主に担うユニオン幹部のレイヴンに接触したかったが、それすらも難しい状態だった。ヴィアの予想外の事態に陥った場合は独断で動き、ユニオンを通してのギルドとの調節は後で頭を付き合わせなくてはならないだろう。
 オレンジ色の長衣を風になびかせ、ヴィアはダングレストの町並みを眺めていた。溢れる程多くの人間がそこに居るにも関わらず、嵐の前の静けさに似た細波のような不気味さが人々の間を伝って流れている。極限まで張りつめた緊張、状況が理解できない不安、一触即発の闘志。それが皮膚の一枚下に爆発寸前にまで満たされているのだ。戦場でもなかなかお目にかかれない予測不可能な状況に、ヴィアは久々に冷や汗が止まらない思いだった。
 街の状況を見つめていた視線が、一人の男に留めた。『戦士の殿堂』の一団から少し離れた位置に佇んでいる男には見覚えがある、ヴィアは記憶を辿る。辿りながら近づいてそっと彼の横に立った時、彼がベリウスの補佐として『戦士の殿堂』を支えているナッツという戦士だと思い出す。屈強な戦士でもそうは持てない上腕二頭筋は、闘争心の余波も受けていないようで静かに彼の厚い胸板に寄り添っている。
 ナッツもまた敵意無く歩み寄る老齢の女性を静かに向かえた。ギルドの人間に配慮してか、ヴィアは濃い影に沈んだ壁に背を預ける。
「『天を射る矢』に喧嘩を売るそうね」
「我等が統領を殺されたのだ。黙ってはいられん」
 ナッツはヴィアの事を帝国の騎士とまでしか認識できなかった。警戒に神経が尖っているような気はするが敵意は無く、帝国の騎士として最も嫌悪されている嫌味がない。これから起きるだろう事に対して忙しなくダングレストを駆け回るオレンジの隊服はナッツには好ましく映り、彼女の年齢や威厳はどこか失って間もない己の主を彷彿とさせる。
 ちらりと視線を横に向ければ、黒い闇の中に燃えるような赤い髪と瞳がある。
「貴方達の言う『ケジメ』って、命じゃないといけないのかしら?」
 『そうだ』とナッツが生真面目に応えると、ヴィアは『馬鹿じゃないの』と呆れたように言って言葉を続けた。
「想像してご覧なさい。ドンが応えなかった場合、結論だけ言うとダングレストは血の海になるわよ。『天を射る矢』も『戦士の殿堂』も壊滅状態に近い死者を出すだろうし、下手をすればドンを慕う他のギルドも参戦して貴方達のギルドだけの喧嘩じゃ収まらないでしょうよ。騎士団だって住人避難に躍起になるけど、救えない命は当然出て来る…」
 視界の隅に他のギルド員を認める距離でありながら、隣同士にしか聞こえない音量。それは静かで淡々とした事実で、ナッツには遠い昔のお伽噺かなにかに聞こえてしまう。
 ヴィアは小さく溜息をついた。
「ドン・ホワイトホースは馬鹿な男じゃないわ」
 遠回しにドン・ホワイトホースが自害する事を選ぶだろうと示唆した言葉。ナッツもあの御方ならそうするだろうと頷く。
 しかしヴィアにしてみれば、その言葉は珍しいギルドへの賞賛の一つだった。この地を制圧し勝利を見ても油断しなかった夫の作戦を尽く突き破って来た男に、夫は一生忘れる事の無い悔しさと賞賛の念を抱いたという。撤退する背中を追い討てばギルドは騎士団を全滅させる事が出来たろうが、ギルドの先陣に居た男はそうしなかった。当然だ、過剰な殺人は世界から脅威と見なされ、世界を敵に回すだろう。剣を振るう戦士でそこまで理解しているというのは、実は難しい事でもあった。
 だからこそ、ヴィアはドン・ホワイトホースが死ぬ事を悼む。間接的に彼に救われた身であるからだ。
「貴方達が仇と殺す相手に、結局命を救われるのよ。屈辱ったらないわね。それが判らない愚かしさを喜ぶと良いわ」
 八つ当たりも良い所だとヴィアは思う。それでも言わずにはいられない。
「隊長命令が届いていれば、この場で全員牢屋にぶち込んでやるわ」
 騎士達が特に今居て欲しい隊長シュヴァーンには、指示を催促する言葉どころか報告すら届かない。時々、彼はヴィアが誇る情報伝達網すら届かぬ場所にいたり、その速度を超えて移動したりするのだ。今回もそうだ。ここぞという時に使えないのでは意味が無い、もっと改良が必要だろう。
 ヴィアは法に触れてでも良いから、彼女の主である男から逮捕の言葉が欲しかった。この頭が変な方向で堅いギルドの連中を、全員牢屋にぶち込めたらどんなに晴れやかな気分になる事か。思わず出そうになる闘気を目を瞑って堪える。
「帝国の人間にギルドの掟の意味が分かるものか」
 その言葉はナッツを始めとしたギルド員全員の言葉だった。ユニオンの盾であるレイヴンですら『なかなか理解し難いと思う』と言う程、その意識はギルドの中に浸透していた。
 当然である。ギルドの掟は帝国の法に満足できなかった者達が作った法律で、帝国では認められない内容を多分に含んでいる。時には、帝国の常識では有り得ない事が認められている。今回の『ケジメ』、血の制裁は帝国の法の中で生きているヴィアにとってガキ共の喧嘩にしか見えない。
 ヴィアは沈黙で肯定した。周囲の音が煩わしく感じる頃、ヴィアは口を開いた。
「私の愛しい旦那も子供達も人魔戦争で死んだわ。大切な人間を殺したも同然の戦争参加者であるベリウスを目の前にしても、きっと私は刃を向けはしないでしょうね……」
 レイヴンは向けなかったでしょ?
 言ってはいけない事が口に競り上がって来て、ヴィアは慌てて口を閉ざす。
 冷静に考えればベリウスは敵だったのか味方だったのか、それすらも未だ曖昧なままだ。戦争参加者という事は掴んでいたが、帰還者の一人であるシュヴァーンも敵が何者で何と言う名前であるかなど構っていられぬ戦場だったのだ。しかし、ヴィアにとって人魔戦争そのものが憎んでも憎みきれぬ程の存在で、その参加者がどうのという問題では既に無かった。
 遠くを見つめ、ヴィアは消え入りそうな声で呟いた。
「虚しいのよ。昨日まで居た大切な人間が居なくなる、それが自分のものでなく他人のものであったとしても…もう、辛いものとしか思えない」
 レイヴンは悲しむだろう。あの碧の瞳が憂いに満ちて閉じられるのだ。あの態度と体だけはでかい老体め、それだけで牢屋にぶち込んでやる理由は十分だ。
 誰かの悲しみに敏感になり過ぎている。
 これからが本番である。己の感情に流され判断を誤れば、子供達の命を散らす事になる。ヴィアは怒りを飲み込んでナッツから背を向けた。
「感謝を一生忘れない事ね。貴方達の怒りを受け止める相手となってくれたドンへ…。そして一生謝罪なさい。ベリウスの願いを裏切ってまで人を殺す事を選んだんだからね」
 そこでちらりとナッツを…いや、その奥に現れたドン・ホワイトホースを見る。泣き縋られる者を跳ね飛ばし、様々な声を受けてなお巌のように威風堂々と現れるその姿を認め、ヴィアは吐き捨てるように言った。
「貴方の掟は素晴らしいわ。でも、私は嫌い。大嫌いよ」
 自分だって本当はこんな結果を望んじゃいない…。彼女の言葉を聞いた人間は誰もがそう思うだろう。
 しかし誰も己の心の内を漏らす事は無い。淡々とその時が来るのを待っている。この時だけは帝国の法に頼りたくなる。しかし、それが不可能であるのは誰もが理解していたし、帝国は自分達に関与しない星々のように遠くにあるべきだった。それでも自分達の正義の正しさに悪態を吐き、呪ってしまいたくなる。
 清々しいまでの嫌悪の言葉に、ナッツは何処か救われた気持ちになった。