質問解答

 アレクセイ・ディノイアには趣味がある。それはクロームやシュヴァーンという限られた者しか知らない事である。
 普段の団長が執務に使う机の上には騎士団に関わる書類しか乗る事はないが、アレクセイが心を許す極一部の前では彼の趣味に関わる手記を見る事が出来るだろう。アレクセイの手記は頻繁に換わっており、シュヴァーンはその手記に一体どんな多くの事を書いているのか戯れに訊ねた事があった。結果は即倒しそうな内容に二度と見たいと思わなくなった程度。
 アレクセイが個人的に書き溜めているのは、魔導器を始め古今東西様々な魔術に関わる事だった。アレクセイはアスピオ等で発表された論文を踏破しては、独自に解釈を加えたり発展させては己の知識にしていた。発表された論文は勿論、鉱物の成分、エアルに関する分析から噂まで様々だ。他に建物や帆船の設計図、武器の鍛え方に菓子の作り方まで混沌としている。気になった事は何でも調べ尽くす性分だった。
 今までに目紛しく換えて来た手記の内容全てを知っていると思うと目眩すらする。シュヴァーンは時折アレクセイの知識の深さに、騎士ではなく魔導器研究者になれば良いのにと思う事があった。アレクセイがシュヴァーンに菓子職人になれば良いのにと思う頻度とほぼ同じ程度なので、お互い様ではある。
 当然その手記が物語る通りアレクセイの趣味は趣味で留まる領域ではなかった。
 身を以て体感するシュヴァーンであったが、その知識や技術を世に役立てようとはアレクセイは一切しなかった。己の胸に埋まり心臓の代役を務める魔導器だったが、その不調や言葉に出来ぬ不安は並の人間に耐えられるものではない。しかし心臓魔導器という発明を差し引いても、アレクセイの頭脳はテルカ・リュミレース随一と言えた。しかし、あくまでアレクセイにとってそれは趣味だった。
 さらに一年のある時期には、彼は手紙と呼ぶには膨大過ぎる物を書き綴る習慣を持っていた。少ない時は十数枚。多い時は分厚い本に匹敵する。
「アレクセイ、それは誰に宛てた手紙なんですか?」
「これが手紙に見えるのか、シュヴァーン」
 ある時の問いに驚いたのは、他でもないアレクセイであった。本当はシュヴァーンが驚きたかった。
 年を重ねる毎に、アレクセイの自称手紙は手紙と呼べる物では到底無くなっていった。それは論文の写しに延々とアレクセイの見解や解析、他者が発表した論文との符合する点等を重ねて更に発展させていたようだった。シュヴァーンはまるで採点をして、甲斐甲斐しく助言しているように見えた。最終的にその手紙は次回の課題を告げるような内容で終わっている。翌年の今頃には、課題の内容の返答と言える論文をアレクセイが採点している。
 シュヴァーンはアレクセイの友人関係を全くと言っても良い位知らない。
 平民出身という事もあって貴族との付き合いは遠慮したいのもあるが、アレクセイが貴族の利害関係抜きで個人的な付き合いをしている所を見た事がない。アレクセイの個人的な友人に宛てた手紙と判断出来るそれは、シュヴァーンが唯一目にするアレクセイの友人関係だった。
「その手紙は相手に喜ばれますか?」
「私はこれを手にする相手の顔を一度も見た事はないし、彼女は差出人が私だとも知らないだろう」
 なんだそれは。しかも相手は女性なのか。なんという色気も優しさもない手紙なのだろう。尊敬する団長殿だがこればかりはどうかと思う。
 シュヴァーンは呆れてしまうのをどうにも隠せなかった。当然、アレクセイもシュヴァーンの呆れ顔を見るが、それを何事もなかった様に流す。コンコンと机の上に広がった紙を白い指先が叩くと、嫌が応にも頭痛を引き起こすような文字の羅列がシュヴァーンの目に入る。
「こんな論文を書くのだ。お前の心配するような可愛げは恐らくない」
 銀色の髪が氷の様に冷えきって見えるが、その答えはなんとなく納得してしまう。その論文は魔導学問において最先端と言える内容であり、それを発表した人間は間違いなく天才と称されるだろうとシュヴァーンは思った。アスピオには幾度となく訊ねた事があった為に、あの薄暗い陰鬱とした雰囲気に帝都の華美さを求めるのは難しかった。湿気を含んだ淀んだ空気と印刷されたインクの匂いが、黒い髪先に染み付いたような気がして摘んだ。
 天才と変人は紙一重と世では言う。こんな濃密な論議を文通の様にやり取り出来る人間が多く居るとは誰も思わなかった。
「ですけど、アレクセイは可愛がっているのですね」
 一つ、間が空いた。
 どんなに可愛げがなかろうと一人の女性である。女性好きである事も一因ではあるが、シュヴァーンは基本的に女性には皆優しく丁重に対応していた。地位に関わらず女性であれば貴婦人の様に対応し、男勝りの女騎士でもエスコートする。女性は愛されて然るべきという考えのシュヴァーンの問いは、アレクセイに否定を言わせない圧迫感があった。
 今までの会話で文字を美しい線で描いていたペンは、色白い細い指が動かない事を不満に思う様に一つインクを紙に落とした。彼の赤い隊長服が日の光を浴びて燃えるようだったが、それは彼の白い肌に照り返して頬を染めている様に見えた。銀髪が灼熱しそうな色を帯びているというのに、黒髪に隠れなかった碧の瞳は涼やかにアレクセイを見ていた。
「そうだな。そうかもしれん」
 団長にしては珍しい声色で漏れた肯定だった。
 アレクセイは相手を見て女性としての扱いを決めていた。如何にも護って欲しいと主張する女性は貴婦人の様に、毅然とした騎士である女性には騎士として対応する。アレクセイにしてみれば学術に秀で向上を目指す相手に対し『可愛がっている』と認識しているのは珍しかった。
 答えず流す事も出来たのだから、アレクセイにとって最上級の好意かもしれない。
 シュヴァーンはそれ以上の事は問わない。それはアレクセイにとって非情に居心地よく感じた。
 アレクセイが手紙を送る相手は、今は亡き友人の忘れ形見だった。話に聞くだけの子供だったが血は争えない。彼女は正にアレクセイも認める天才の資質を秘めた子供だった。友人が天才であった為に自分が名乗る事が出来なかった天才という称号を、これから先も本当の天才が得られる事をアレクセイは望んだ。どんなに才能や知識があっても、自分が趣味から抜け出さないでいるのはこの為なのだろうとアレクセイは自己分析していた。
「その手紙は喜ばれますよ」
「どうだか」
 シュヴァーンの言葉を素っ気無くアレクセイは流す。喜ばれるのかどうか、アレクセイが一番良く分からなかったからだ。手紙は一方的に送りつけられる。それをアレクセイは十年近い歳月繰り返していたのだ。
 結局、シュヴァーンはその手紙が封する直前を見た事はなかった。アレクセイは最後の最後に自分の名ではない一言を添える。
 受け取る彼女だけが見る事が出来る一文が、署名の代わりだった。
 賢い子。誕生日おめでとう。