マンドラゴラの叫び声

 天の神よ、地の人よ、彼の者を讃えよ。
 マデ氏族の若者レトリウスは、『獣の牙折り』の成人の証明として獣の王ムザーグの牙を欲した。岩山の如き巨体を誇る魔獣ムザーグへの挑戦を、誰もが嘲笑った。
 しかし、レトリウスは己の知恵と勇気を信じていた。
 月が欠け再び満ちた頃、無謀な試みに若者の死を噂しあった者達は見た。
 若き勇士が獣の王を打ち果たし、月光の下に高々とその牙を掲げる姿を…。
 英雄たる者の資質を示す、レトリウスの最初のいさおしである。

 ■ □ ■ □

 この世界の夜空は不思議な色をしている。
 天の頂は海の底のような漆黒を混ぜた濃紺色で、視線を大地に向けて下ろしていくと黄緑色の蛍光色に移り変わっていく。これは地上に滞留する魔力が、空から降り注ぐ光を屈折するかららしい。細かい原理は分からないが、この人類の叡智の限界に存在する大国特有の夜空の色だろう。
 満点の星空は、濃紺色の空を空色に塗り替えるほどに眩く群れている。星々の河を真っ黒く切り取るのは、エテーネ王国の要人の居住区や重要施設が建てられた浮島だ。
 どんなに技術や文明が発展しても、魔物の脅威を完全に取り除く事はできないらしい。地上には王都キィンベルを筆頭に、名が付けられる程度の規模を誇る集落が数カ所しか存在しない。利便性を追求し都市に集中した機能だが、人の住まぬ辺境が捨て置かれた訳ではない。辺境警備隊詰所は、その名の通り王都から遠く離れた辺境を行く民を守る為に作られた拠点だった。
 夜空を写し込む鏡になる程に秀麗な渓谷の水は緩やかに流れ、水辺には草花が微睡んでいる。最も大きな木造建築の本部を中心に、幾つもの天幕が大都会の屋根のように色とりどりに並んでいる。天幕は錬金術で作られた防水の糸で織った布や、メラ系の魔法陣の刺繍を施した布を重ね合わせて、露天の下とは思えない空間を作り出す。兵士達は天幕の柱に布を渡して寝床を吊り上げて、どうにもできない床の硬さから逃れていた。
 不寝番として固く閉ざされた門を見据える位置に詰めていると、本部の建物から人影がこちらに向かってくる。焚き火の光に炙り出されたのは、浅葱色の髪を引っ詰めた幼馴染の父親くらいの男性だ。勤務を終えた者達は酒を飲んだりカードゲームに興じたりして寛いでいるのに、きっちりと鎧を着込んでいる姿に真面目さが滲んでいる。
 辺境警備隊の副隊長を務めるローベルさんは、焚き火の光に目を眇めた。
「今日の不寝番がレナート殿か」
 勤務時と変わらぬきびきびとした口調で、手に持ったお皿を差し出してくる。隊長のラゴウ殿は酒豪なので、今日届いた酒樽を早々に開けて皆で飲んだらしい。お皿に乗っているのは、炒った木の実や魚の乾物、燻製したチーズや生ハムといった酒の肴だ。
 わぁ! 思わず歓声を上げてしまう。
「ありがとうございます!」
 そうお礼を言いながら受け取ると、ローベルさんは隣に腰掛ける。小振りの鍋に注がれているのは、体を温めるスパイスと共に煮出したお茶だ。この島は比較的温暖だが、夜が冷えない訳じゃない。焚き火に鍋を寄せると、僕とローベルさんの分をカップに注ぐ。
「王都から報告が届いた」
 ローベルさんはカップを傾けて唇を湿らしてから話し出す。
「結果は空振りだ。だが『ルアム』は、この地方では有り触れた名前だから気落ちするな」
 この錬金術が発展した国では、錬金術の素材から名前を肖る事が多い。
 一つの素材としては小さい効果しかないが、他の素材と掛け合わせる事で大いなる力になる。そんな錬金術のあり方が、エテーネ王国建国の歴史と相まって人々に浸透していた。
 素材の名前をそのまま使うのではなく、昔はアナグラムにして組み直したものだったが、今では一文字組み込むだけという名前もあるとか。植物の素材は生命力と美しさから女性に、金属の素材は強靭さと一族が永続に続く事を願って男性に多い。『ルアム』は昔からこの国で親しまれた響きで、年齢を問わず名付けられている。髪や瞳の色、年齢である程度絞られても、探し出す事は難しいらしい。
「王国の助力で時の指針書の検索をしてもらっても見つからぬなら、自由人の集落の者とも考えられる。即座に出来る手は尽くしてしまった以上、地道に探すしかないだろう」
 この国の民は、一つの命につき一冊与えられる冒険の書を彷彿とさせるハードカバー本を持っている。『時の指針書』と呼ばれる本には、所有者の未来が書き込まれるのだ。
 ローベルさんに見せてもらったが『王都から離れ暗闇を進む者達の篝火となり、脅威を退ける剣となれ』と書いてあった。エテーネ王国の王族は未来を予知し、王国をより良い未来へ導く責を担っている。その方法の一つである指針書を管理する王国なら、指針書の所有者の特定は簡単な事なのかもしれない。
 力になれぬ事を悔やんでいる横顔に、僕は深々と頭を下げる。
「異邦人の僕に、ここまで親身になってくれて感謝しています」
 ドミネウス邸を後にした僕は、この辺境警備隊詰所に身を寄せていた。
 行方不明になった、ルアム君を探す為だ。
 僕と共に地上に降りる為に転送装置前でメレアーデ様を待っていたら、突然掻き消えてしまったのだ。転送装置を起動した形跡がなかったので、驚いたメレアーデ様の命で屋敷が捜索されたがルアム君も同じ名前の猫耳の子もいなくなっていた。
 新王ドミネウスが誕生して暫くして、僕らが出会ったドミネウス邸は地上に墜落した。幸い、新王一家は王宮に居を移していた為に被害はなかった。
 墜落現場が辺境警備隊詰所に近かった為に、現在は護衛よりも墜落の原因調査が主な任務になっている。王宮に調査報告を早く出したいラゴウ隊長と、魔物の強さと多さに人命救助で手一杯だったローベル副隊長とで色々と揉めているらしい。
「僕は不寝番で明日は休みですが、副隊長はお仕事でしょう? そろそろ、休んでください」
 僕が穏やかに言うと、ローベルさんも小さく頷いた。『失礼する』と生真面目に言って去っていく背中を見つめながら、腰を下ろしていた岩の影に視線を落とす。
『ユーシャさま』
 秒針がカチコチ音を立てるような、独特な抑揚で僕を呼ぶ。
 真っ白い滑らかな塊に、細長く撚った手が地面に垂れ下がっている。肩掛けたショルダーバックはべったりと地面に置かれて、ちょこちょこと短い足が動く度にずるずると引き摺られている。幼馴染のエマの落書きみたいに、二つ並んだ目は真っ黒で大きく、その間に縦に細長い菱形の口がついてる。小さい足に比べれば寸胴な胴体が前のめりになると、そのままべたりと倒れ込みそうな姿勢になる。
『あの子は時間を飛び越えたッチ。探してもきっと見つからないッチ』
 あぁ。僕は小さく頷いた。焚き火の光を赤く透かし地面に影を刻まない存在を、僕以外の他人が見る事はできない。僕は形の良い丸い頭を撫でるように触れた。手の甲に、剣と広げた翼のような紋章が光っている。
「それでも、探さないといけないんだよ。クルッチ」
 ホゥホゥと梟が鳴く声がする。星が一層明るく輝き深まる夜の中を、巡回の兵士が小走りで向かってくる。黒髪を闇に溶かしたディークという年上の兵士が、立ち上がった僕の前で駆け足を緩める。レナート。弾んだ息の間から僕を呼ぶ。
「厩舎に行ってくれないか? 馬達が落ち着かないんだ」
 分かった、と僕は頷いだ。
「ここを頼む」
 不寝番をディークと交代して厩舎に向かえば、ディークと歳の近いイガラが馬達の前で頭を抱えていた。どぅどぅと口先で言って撫でてみても、馬達が落ち着く様子はない。声を荒げないだけ偉いと思いながら近づけば、待ってましたと言わんばかりに振り返った。
「あぁ! 助かった! このままじゃ、馬達が怪我しちまうよ!」
 馬達は不穏そうに首を回らし、足を踏み鳴らしている。馬が一頭でも嘶けば、大騒ぎになって骨折する馬も出てくるような一触即発の空気がある。僕は馬達一頭一頭に向き合い、首筋を撫で落ち着かせてやる。最近は世話の回数も多かったからか、僕に親しんでくれた馬達は次第に落ち着きを取り戻していった。
 はぁー。イガラが大きな溜息を零した。
「助かったよ。馬達が怪我でもしたら、キツイ罰則が下るんだ」
 こんな高度な文明であっても、地上の移動は馬が最速だ。罰則の重さは馬の貴重さを物語っている。
 しかし、魔物の生息圏を駆け抜ける度胸のある駿馬達が、揃って不穏になるのはおかしい。
 イガラ。僕が赤毛の兵士の名を呼びながら振り返ろうとした時、悲鳴が聞こえた。静まり返った夜の空気を引き裂いて響いた悲鳴は、先ほど僕と交代したディークのものだ。がぁんがぁんと警鐘が鳴り響く中、僕はイガラと共に厩舎を飛び出した。剣を抜きながら、焚き火の炎を目指して駆ける。天幕から飛び出してきた寝起きの兵士に厩舎を頼むと言いながら、剥き出しの土を巻き上げながら進む。
 ディーク! イガラが叫びながら、僕を追い抜いた。
 辺境警備隊詰所の門が破壊されている。大人が手を回すほどの年輪を刻んだ丸太が、鋭利な断面を見せて地面に転がっていた。ごくりと生唾を呑んで、赤い後頭部へ視線を走らせる。
 先程、僕が座っていた場所から少し離れた場所に、イガラがしゃがみ込んだ。イガラの上から覗き込んで、僕は訝しげに顔を顰める。ディークは利き手に抜き身の剣を握ったまま、仰向けに倒れていた。あれ程の悲鳴を上げたと言うのに外傷はなく、虚ろな表情にうっすらと開かれた瞳はガラス玉のようで必死に声を掛ける同僚を認識しない。
 首筋に触れると、きちんと脈は打っている。死んではいないようだ。
 焚き火の向こうを見遣れば、剥き出しの土が大きく抉れている。かなり大きな生き物が、力強く大地を踏み締め焚き火を飛び越えてディークに襲い掛かったのだろう。
「たっ助け…! あぁああああ!」
 奥から再び悲鳴が上がる。
 僕はディークをイガラに任せて、奥へ駆ける。なだらかな坂道を駆け上がりながら水辺に視線を落とせば、水を浄化する装置の傍で私服の兵士が介抱されている。剣を握って警戒しながら、力無く倒れる同僚の肩を揺すっているが反応はないようだ。
 悲鳴はあちこちから上がり、状況を確認しようと誰かが声を荒げる。戦場の騒めきを割って坂を登り、辺境警備隊詰所の本部に上がり込む。
 本部の一階部分は三和土になっていて、多くの隊員が食事を取ったり交流する空間になっている。ここで過ごしていた隊員達が悲鳴を聞きつけて飛び出したのか、椅子が倒れ、湯気が上るカップが残されている。奥の調理場の手前に積み上げられた木箱から視線を上げた時、二階から情けない悲鳴が上がった。
 な。息が喉元で詰まった。
 緩やかに弧を描く階段を見上げれば、立派な梁に黒い生き物が乗り上がっている。蠍のような鉤爪が付いた長い尻尾を梁に絡め、発達した太腿で支え起こす上半身。竜を彷彿とさせる姿勢だが、その爪は大振りな短剣程の大きさで、機械のような外殻に覆われていた。闇の中に沈む黒い外殻の上を、赤く輝く光が線を描いて走っている。特に顕著なのは前に垂れた顔だ。一本角が生えた場所が頭であるならば、顔らしい場所には口があっても目が無い。まるで蜥蜴のように、しゅるりと梁を這って二階に降り立とうとしている。
 僕は二段飛ばしで階段を駆け上がり、手擦りに掴まりながら方向を転換する。
「なにをぼさっとしている! さっ、さっさと、奴を殺せ!」
 二階の隊長の執務室の中央には、寝巻き姿の金髪の男性が腰を抜かしている。それでも口は達者で、唾を撒き散らしながら剣を構えるローベルさんに命令する。
 梁から降り立った黒い獣の足元に敷かれた板が、着地の重みに折れて跳ね上げる。ローベルさんがちらりと目配せしたのに応じて、僕らは同時に獣に切り掛かった!
 手の大きさの割に細い蛇腹状の腕。切り飛ばせると剣を振り下ろした僕だったが、あまりの硬さに息を詰める。剣と打ち重なった反響音は金属音よりもずっと低い音だったが、滑らかな質感は金属に近い。全力を込めても、獣はびくともしなかった。
 僕の剣を跳ね除けて大きく爪を振り上げれば、立派な執務机が切り裂かれる。舞い上がる書類や転がるインク瓶や羽根ペンに、カーペットの上で後ずさっていたラゴウ隊長が窒息しそうな悲鳴をあげる。這いずって逃げる中年の背中と獣の間に、ローベルさんが立ち塞がる。
 ぐん、と獣が身を捩れば、鉤爪の付いた尾がローベルさんとラゴウ隊長を横薙ぐ為に迫る。ラゴウ隊長は間一髪攻撃範囲の外に逃れられたが、剣で尾の一撃を受け止めたローベルさんが吹っ飛んだ。切り裂かれた執務机の突っ込んで、頑丈な机が粉々に砕ける。
 黒い獣が僕を見据える。
 大量生産の剣では、この魔物の外殻を破壊する事はできないだろう。外殻の隙間に目を凝らすが、黒い体は闇に沈んでいて関節を見出せない。弱点は。走らせる視線は、角にはまった蛍光色の宝石や、手の甲に腕輪の装飾のように施された大人の掌くらいの紫水晶を映す。しかし、生物に当てはまるような、急所らしい急所を見つけられずにいる。
 弱点を探ろうと費やした時間は、大きな隙になった。
「レナート! 逃げろ!」
 ローベルさんの声に視線をあげると、獣の頭に生えた一本角に嵌まった宝石が輝いている!
 次の瞬間、宝石から光が照射された!
 咄嗟に頭を腕で覆い、防御姿勢を取る。光は僕の体を融かさんばかりに強く降り注いだが、熱も寒さも何も感じない。訝しげに腕の下から体を見下ろせば、微かに魔力の流れを感じる。マホトラを使われたように体から力が抜けるが、魔法を使う為の魔力や生命力とは違う。
 なんだ? 何が流れ出しているんだ?
 ぴしっ!
 ヒビ割れる音がして顔を上げれば、角の根元に亀裂が走り、散った破片が光を弾く。
 ばきんっ!
 大きな音を一つ立て、根元から角が折れた。
 獣はまるで金属に剣先を擦り付けるような、生物とは思えぬ断末魔の声を上げて、前のめりに崩れ落ちた。魔物が消失するような黒い霧が外殻の間から漏れて、中身のない外殻がばらばらと床の上に広がっていく。
 突然の獣の死に呆気に取られた僕とローベルさんよりも早く、立ち上がって獣の遺骸に近づいたのはラゴウ隊長だった。真っ黒い外殻を蹴りつけると、何度も何度も踏みつける。
「このラゴウ様を脅かしおって! 愚かな獣め! いいザマだ!」
 残された外殻に害はないと判断し、息切れし出した隊長を横目にローベルさんが歩み寄る。僕に外傷がないか慎重に確かめた後、おずおずと訊ねた。
「敵の攻撃を受けたようだが、問題はないか?」
 なんともありません。僕は戸惑いながらも、そう答えた。

 空が白じむ頃、辺境警備隊詰所の被害が明らかになった。
 ディークを含む五人の隊員が、黒い獣に襲われて意識不明に陥っている。脈も正常で命に別状はないが意識が戻らない状態で、馬車の手配が済み次第、王都へ移送される事になった。
 本部二階の執務室に残された遺骸は、王都の軍部より鑑識を要請するとの事。軍部より返事が来るまで獣の遺骸はそのままの状態で置かれる為、ラゴウ隊長が顔を真っ赤にして癇癪を起こした。『軍は貴重なサンプルを重要視するでしょう』と副隊長が取り成すまで、子供のように駄々を捏ねていた。
 ラゴウ隊長は無事だったサイドテーブルの上で報告書を認めながら、目の前に転がる遺骸を見下ろしていた。うーむ。随分と深刻そうな顔で顎を撫でる。
「エテーネ王国では見た事のない魔物だ。呼び名がなければ、報告書が書けぬな…」
 手に持った角を矯めつ眇めつ眺める隊長を見遣りながら、僕はローベルさんに囁いた。
「なぜ、今回の襲撃が『時の指針書』に書かれていなかったのでしょう?」
 『こんな事が起きるだなんて、指針書に書かれていない!』そんな声を襲撃の合間に何度も聞いた。戦闘を行い汚れる事もあると携帯していないローベルさんだが、隊員の多くがこの指針書を持ち歩いている。専用のブックポーチはいつでも指針書を取り出し読めるように工夫が凝らされた品で、隊員達は暇さえあれば指針書を読んでいた。
 起こり得る未来が書かれた指針書。未来に備える利点が、どうして今回に限って発動しなかったのか。特に今回の襲撃で異常な状態に陥ったディーク達の指針書に、何も書かれていないのはおかしい。
 わからん。ローベルさんのきつく結った頭髪が、左右に振れる。
「『時の指針書』は所有者が死亡する少し前から、更新が止まる。もしかしたら、今回の襲撃で負傷した者は全員死んでしまうのかもしれん」
 悔しさに沈んだ声に、僕も歯噛みする。
 正直、魔物の棲家と隣接する辺境警備隊詰所の体制は薄いと思っていた。確かに辺境を訪れるのは素材となる植物や鉱物を採取する商人達で、それらを護衛する役目なら人員を多く割く必要はないだろう。今回のような襲撃が『時の指針書』で先読みできるなら、必要な時だけ人員を増やす事ができる。未来が見えない僕からしたら傲慢な人事が、この国にはあった。
 しかし、その根拠である『時の指針書』のお告げが意味を成さないなら、増員を王国に申し立てるべきだ。ただ『時の指針書』を盲信していると言って良いこの国の人間が、それを受け入れるのだろうか?
 でも、それは部外者である僕が言うべき事ではない。
「しかし、なぜ、レナート殿は無事だったのだろう?」
 顎に手を当てて考えている横顔から視線を足元に向けると、足に背中を預けて座っているクルッチが顔を上げた。僕の無言の問いかけに、クルッチはぴょこんと立ち上がった。
『あの魔物は時の力を奪おうとしたッチ』
 時の力? 訝しげな顔をした僕の顔に、クルッチはぴしっと長い腕を向ける。
『でも、ユーシャさまの使う力と、この国のヒトが持ってる力は元が違うッチ。ゲンリューが違う時の流れが反発して、あの獣に流れる時間をメチャクチャにしたッチ』
 レナート殿? ローベルさんの心配そうな顔に、僕は慌てて取り繕った。
「僕がエテーネ出身じゃないからでは?」
 嘘ではない。
 クルッチの言葉が正しければ、あの獣の光線はエテーネの人間にしか作用しないのだろう。しかしエテーネ王国の出身でなくても、力が同じものだったら僕も昏睡状態だった。どんな結果であれ、僕は攻撃を受けたのだ。運が良かっただけで、誉められたものではない。
 なるほど。ローベルさんは納得したように報告書に視線を落とした。几帳面な文字が、白い紙の上に次々と書き込まれていく。
「それが理由とは軽々しく判断できないが、特記事項として君がエテーネ王国出身者でない事を記しておこう」
 そうだ! ラゴウ隊長が喜色満面で声を上げた。手紙に齧り付くように筆を走らせる。
「異形のケダモノ! 異形獣! 我ながら気の利いた名前じゃないか!」
 うきうきと心が弾む様子を隠しきれず、隊長は蝋を乗せたスプーンをアルコールランプの火に掛けて溶かす。手紙を収めた封筒に溶かした青い蝋を垂らすと、王国軍の印璽を押す。
「突如現れた異形獣を撃退した功績! 私が王都に招聘され昇進するのは間違いない!」
 封蝋した手紙を翳すと、明るい未来が見えているのか高らかに笑い出す。
 そんな様子を呆れもせず真面目な顔で見ていたローベルさんも、分厚くなった報告書を封筒に収めた。僕に向けて差し出された封筒は、襲撃の状況や、獣の攻撃動作、被害者の状況など、沢山の報告書を収めて重たげに撓んで垂れている。ラゴウ隊長がたった一枚の報告書で浮かれているのとは対照的だ。
「君が馬を最も早く駆れる。不寝番で疲れている所に悪いのだが、この報告書を至急王都キィンベルに届けてほしい」
 わかりました。そう応えて封筒を受け取ると、ずっしりとした重みが腕に伝わった。
 今すぐに厩舎へ向かい、緊急事態に備えて鞍を着けられた馬に跨って駆けて行ってしまいそうな僕の肩を、副隊長は労うように叩いた。生真面目な顔が綻んで、うっすらと笑みが浮かぶ。
「腹が減っては戦闘は出来ぬ。朝食を用意する間、仮眠してくると良い」
 僕は恥ずかしさに頬が熱くなった。
 大エテーネ島全土に及ぶ王国は、大陸と呼ぶには小振り程度の広大な国土を擁している。王都キィンベルまで、馬を飛ばしても一日は掛かる。意識を失った隊員を馬車で運ぶのに、三日を予定していた。一睡もせずに馬を飛ばして、うっかり眠気に意識が落ちてしまったら馬に怪我をさせてしまう。
 なだらかな坂の上に建った本部を出ると、辺境が一望できた。
 磨かれた空気に朝日が黄金色となって辺境の自然に降り注いだ。雪を冠る程の標高がない山々は、頭のてっぺんから少しずつ濃い緑の衣を脱いでいる。島全体に無数の川が走り、増水した川に削られて起伏に富んだ渓谷を生み出していた。人の住処が王都に集中している関係か、手付かずの豊かな森林が萌黄色に染まる。
 故郷とは全く違うが、自然豊かな田舎の風情に心が落ち着いた。
 僕は大きなあくびを一つ漏らして、草むらに横たわる。涼しげな風が僕の顔を撫でて目を閉じさせ、暖かい日差しが掛けられて緊張した体を解していく。一緒に王都に行く子は誰だろう。そんな考えがふわふわと浮かんだ。
 お前って本当に寝付き良いな。そんな相棒の声が聞こえた気がした。