忘れられたとき、ひとはきっと本当の死を迎える - 前編 -

 この世界には自分の家にバギクロスを放つ馬鹿者は存在しないと思っていたが、まさか自分がそうであったとは思うまい。
 王都キィンベルに吹き荒れた嵐は、ついに我が家の扉を叩いた。丈夫な古代樹の板で作られた扉を握った拳た穿ち抜くような、近隣どころか通り中央広場にすら届く音量。家の扉にメラゾーマを放たれたと言ったら、誰もが信じだろう。
 しかし、最初からそうであった訳ではない。
 隣人曰く、最初は普通のノックであったが、なかなか私が出なかったので業を煮やして乱暴になったそうだ。確かに、その時の私は客人の対応など不可能な程に忙しかったのだ。
 ドアノブを下ろした瞬間に開け放たれ、燦々と降り注ぐ高い日差しに黒い影が目を灼く。思わず下がった私を追い詰めるように踏み込んだのは、二人の男性だった。パリッと糊の効いた真っ黒い軍服に、手袋やズボンを染めるワインレッドが威圧的な重厚感を醸す。軍帽を深々と被った燻んだ砂色と茶髪の青年の顔には、目元と鼻を覆う銀の仮面が覆っている。真一文字に引き結ばれた口元と、『時の指針書』の上に両手を組んで胸を張って立つ様子は、命令に忠実な魔法生物を彷彿とさせた。
「邪魔をするぞ」
 二人の男の間をすり抜け一歩前で立ち止まったのは、妙齢の娘だった。
 赤と青を同量混ぜた髪は熟した葡萄のように深く、同じ色の瞳は軍帽の影に新月の夜の色合いになっている。青年達と同じ軍服だが、ワインレッドの差し色は黒く染め抜かれている為、色の白い顔が浮き上がっているようだった。うっすらと微笑みを浮かべた口元には控えめな桜色が乗り、目元は娘の愛らしさを蹴散らす傲慢さに釣り上がっている。
「エテーネ王国軍、特務機関所属、指針監督官ベルマである」
 指針監督官ベルマは、名乗りを終えて正した姿勢を崩した。片手は腰に、もう片手をだらりと下げ、神経質につま先で床を突く。声は女にしては低い声が、散らかった家の床を這う。
「錬金術師コンギス。我々の指導に従わず、魔法生物を隠蔽していると報告に聞いた」
「ここには、お前達が探している魔法生物はいない!」
 私が苛立ちのままに大きくなった声で反論すれば、監督官は『ほほぉ』と口に含んだ空気を吐き出して嗤う。満面に広がった喜色には、はっきりとした嘲りが浮かんでいた。
 指針監督官は『時の指針書』が正しく履行されているかを監視する、王国軍の特務機関の者だ。知恵の海を漂流する日々を送る錬金術師達と、『時の指針書』を盲信する監督官達は犬猿の仲と言っていい。『今の研究は無駄だから辞めろ』と指針書に書き込まれて『はい、わかりました』と従う錬金術師はいない。監督官の冷ややかな視線に激怒し、自由人の集落に降った者も少なからずいた。
「『魔法生物に関わる一切を錬金してはならない』と書き込まれた『時の指針書』に従ったというのだな? それにしては…」
 家の中を見渡して小さい鼻を鳴らす。
「隠蔽の最中であったように、見受けられるが?」
 私はポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出して、監督官の顔面に突きつけた。私が両手で広げた紙には『旅に出るドラ。探さないで欲しいドラ』と、おおみみずがのたくった字で書かれているだろう。
「この書き置き通り、私の魔法生物達は家のどこにもいない!」
 監督官は二重の目元を大きく見開き、大粒の葡萄の瞳で書き置きを見る。ふふっと息を吐けば、次の瞬間身を反らして笑い出した。一頻り笑っても肩は震え、愉快そうな口元に軽く握った拳を当てる。
「なるほど、魔法生物と共に一芝居打つつもりか。錬金術師を辞めて俳優を目指せと、指針書に書かれていたようだな。その努力、指針監督官として大いに認めねばなるまい」
 ふざけるな! 私の叫びが家を揺さぶった。
 確かに私は王立アルケミアから暇を言い渡され、研究の一線を退いた。だからと言って、長年続けた不老長寿の研究を止める気は毛頭ないし、不老長寿の一環で得た薬学の知識は王都キィンベルで重用されている。王都に並ぶ多くの錬金術の店から薬品製造の依頼は絶えず、何不自由なく生活できる対価を得ていた。
 私の人生を、私の研究に協力を惜しまなかった魔法生物達を愚弄する言い方に、怒りが理性を焼き払った。剥き出した歯をこじ開けて怒声が迸った。
「そこまで言うなら、好きなだけ探せば良い!」
 紫の髪が大きく後ろに流れ、さらりと元に戻る。監督官は妖艶な微笑みを、ぐっと深くした。
「そうさせてもらおう」
 かくして、家の中はバギクロスが放たれた廃墟同然だ。蝶番が付けられて開閉できる扉は全て開け放たれ、人の足の広さ程度ある床は全て仕掛けがないか乱暴に踏み抜かれた。本棚に綺麗に並べた本は全て床に投げ出され、薬品瓶は全て開けられて中身を検査にかける。ベッドシーツもカーテンも引き剥がされ、林檎や肉の塊は全て真っ二つに割られた。納屋の奥に固まった綿埃まで掻き出し、男所帯にしては小綺麗だった部屋は埃っぽくて咳を堪えられない空間に変えられてしまった。
 我が家をこんな状態にした実行犯達は、荒らすだけ荒らして帰っていく。それが一度だけなら、綺麗に片付けようと思うものだろう。しかし、細く欠けた月が丸く満ちる間に三度も行われたのだ。
 今、私は宿泊費という無駄な出費を強いられている。
 キィンベルの正門から中央広場へ伸びる建国者レトリウスの名を冠した通りに面した宿の二階は、たっぷりとした日差しに温められていた。上質な綿が詰め込まれた寝床は柔らかく、窓も鏡も手垢一つなく磨かれた、世界宿屋協会に登録されるに値する居心地の良い空間。濃い茶色の塗料を塗って磨かれた机には、家から持ち出した論文が散らかっている。朝食後に頼んだ水差しには赤い宝石が嵌め込まれ、手を翳して操作すれば中の水が沸騰する魔法道具である。ぐつぐつと沸騰した音を響かせた水差しから、茶葉を入れたポットに熱湯を注ごうとして手を止める。絨毯が敷かれて足音は聞こえなかったが、部屋がノックされたのだ。
 思わず身構えたが、奴らならノックという高度な礼儀作法など無しに扉を開けて踏み込んでくるに違いない。強張った体から力を抜き、『なにか?』と返す。
「フロントにゼフ様がお見えになっております」
 コンシェルジュの丁寧な言葉遣いに、荒れた心が慰められる。そして、来客の名前に驚いて腰を上げた。『そのまま、待たせてください』そう言ったかも定かでなく、私は見苦しくない体裁を繕ってから部屋を出る。
 塵一つなく鏡のように磨かれた廊下を進んで階段を降りると、フロントから少し離れたラウンジに見知った姿が手を振った。両手を前に組んで控えていたコンシェルジュにお茶と茶菓子を頼み、オレンジのバンダナの後頭部が踵を返すのを見送らずに進む。
 大輪の白い花が咲く垣根が見える窓の前で、ゼフ殿が立ち上がって出迎えてくれた。我が恩師の親友であるゼフ殿は、陽の光を浴びぬ錬金術師らしい色白い肌をしていたが、今は青白くさえ見える。眼鏡の奥の瞳に疲れの色が見え、痩身は窶れて一回り小さく感じた。お元気そうで何よりです。互いに親しげな笑みを浮かべ、五体満足である事を喜ぶ。
 どうぞ、座ってください。そう促して互いに柔らかいソファーに身を沈める。天鵞絨の手触りが窓から差し込む日差しに温められ、眠気を誘われる心地よさだ。
「災難でしたね。コンギスさん」
 いいえ。私は頭振った。
 ゼフ殿が差し入れをテーブルに並べる。キィンベル最大の文房具店の紙袋からは、論文を書くのに適した用紙の束、書きやすい赤い硝子のペンに、黒いインク瓶は徳用サイズだ。恩師が好んでいたチョコレートも添えられている。
 ゼフ殿の心遣いを、私は深々と頭を下げて受け取った。
「あいつらに気を遣われたのでしょう」
 『魔法生物に関わる一切を錬金してはならない』と『時の指針書』に書き込まれたのが、災難の始まりであった。
 魔法生物とは錬金術で生み出された生命体の事で、エテーネ王国の民の生活に深く関わっている。ゴーレム型は力が強く建築現場で重宝され、ももんじゃ型は愛玩用として親しまれている。魔法生物はエネルギーや損傷の修復を錬金術に頼っていて、魔法生物に関わる全ての錬金を禁じられる指針書の言葉は実質、魔法生物に対する死刑宣告だった。民の反発は強く、大挙して軍部区画に押し寄せた程だ。
 それを鎮圧したのが指針監督官だ。
 『時の指針書』が正しく履行されているかを監督する特務機関に所属する彼らは、最初は民に丁寧に説明し魔法生物を回収していった。『時の指針書』に書かれた事を履行する事がより良い未来に繋がると信じているから、最初は感情に任せて反発した民も大半は魔法生物を指針監督官に提出した。指針監督官に提出した後どうなるかわかっていても、自分の手で破棄する事は恐ろしいのだろう。最終的に魔法生物の代わりとなる、魔法具を無償で提供される形で住民は納得していった。
 最後まで抵抗したのは、魔法生物を作り出した錬金術師達だ。
 エテーネ王国の最先端の錬金術研究を行う王立アルケミアは、大規模な摘発が行われ強奪に近い形で回収されたと噂に聞く。王都キィンベルで魔法生物を所有する錬金術師も、次々と魔法生物達を取り上げられていった。
 私も三体の魔法生物を所有している。
 王立アルケミアで不老長寿の研究をしていた頃から、研究を手伝ってくれた三兄弟だ。所長ヨンゲの方針で不老長寿の研究の予算が打ち切られ、暇を言い渡されたが、彼らは私についてきてくれた。おっさん。おっさん。と可愛らしいドラゴンキッズの足をちょこちょこ動かして付いてくる三兄弟はとても愛らしかった。
 私は彼らの為なら全てを捨てて、自由人の集落に行く事すら考えていた。
 そんな矢先だ。
 テーブルの上に置き手紙一つ残して、三体の魔法生物達は姿を消してしまったのだ。
「家を出て行ってから、キィンベルの隅々まで探しましたが見つかりません。指針監督官が何度も我が家を捜索しにくるのですから、彼らも見つけられていないのでしょう」
 では、王都の外に…。
 顰められた声に、私は頷いた。
 魔法生物は王都の外には出ない。何故なら、王都の外には魔法生物達にエネルギーを補填してくれる、錬金術師がいないからだ。自由人の集落になら錬金術師はいるだろうが、たどり着く前にエネルギーが切れるか魔物に壊されるかのどちらかだ。
 それ故に、指針監督官は王都の外に捜索の手は伸ばさない。
「あの子達は寿命の長い竜の研究の為に生み出した魔法生物なので、ドラゴンキッズと同じ能力を備えています。エテーネ王国領の魔物達に殺される程、弱くはありません」
 衝撃に対する耐久力も病気に対する耐性も、一般的な魔法生物よりも強い。さらに三兄弟は我々と同じ食事から補給出来る。年月を経れば成長するし、子孫も残す事も可能かもしれない。不老長寿の研究をする上で行なった仕様が、三兄弟にキィンベルを出奔させる事ができたのだ。
「ご歓談中に失礼します」
 コンシェルジュが台車の上に乗せたティーセットをテーブルに並べ出した。白磁にオレンジの上品な紋様を描いたティーポットを、同じ意匠のティーカップへ傾ければ、飴色の紅茶から華やかな香りが溢れた。切子が施された硝子の器には、角砂糖と蜂蜜とミルクが木の盆の上に並べられる。三段重ねのスリーティアーズには、新鮮な卵やツナと胡瓜のサンドイッチが一口サイズに並べられ、その上には焼きたてのスコーンがざく切りの林檎が混ぜられたジャムや固く角を立てるクリームの小皿と共に乗り、最上段はマカロンや一口サイズの苺のタルトといった甘味が輝いている。
「なにか御用がございましたら、何なりと申し付けください」
 彼らにとっては業務の口上でしかないのだが、温かみのある優しい言葉が身に沁みる。最近は指針監督官の人格をも否定するような罵詈雑言の怒声ばかり浴びせられ、騒動に巻き込まれまいと接する人は腫れ物に触れるような態度だったからだ。フロントに目配せをして手を上げるだけで、御用聞きに来るだろうコンシェルジュの細やかな心遣いに涙すら出そうだ。
 コンシェルジュに礼を言い、世界宿屋協会の上質なサービスに舌鼓を打つ。
 互いに腹の中が温まって、私はゼフ殿を見た。
「貴方は大丈夫なのですか?」
 今やキィンベルで魔法生物を手放していないのは、ゼフ殿が構える店だけだ。
 視線を何気なく向ければ、ラウンジで寛いでいる客の何人が私服の指針監督官だろう? まだ、魔法生物の所在が分からないが家は十二分に捜索した私以上に、厳しい監視が付いている。
「何か問題になる事がありましょうか?」
 ゼフ殿は優雅に茶器を口元へ運んだ。
「私の店にいる魔法生物は、全て攻撃能力の無い無害な存在です。そもそも、なぜ魔法生物を破棄しなくてはならないのです? その理由も不確かな状態で、家族を手放すなど有り得ません」
 凛とした断言に、私は口を噤んだ。
 それは錬金術師達全ての疑問だろう。
 魔法生物はエテーネ王国の発展に寄り添って、多様な種類が生み出されている。新技術を組み込んだ魔法生物の暴走に対し、調査が行われ使用が禁止になる流れなど数えたらキリがない。魔法生物は決して安全な存在ではない。武器のように使い方を誤れば、最悪人間は死ぬ。長い年月を掛けて錬金術師が心血を注いで工夫してきたから、安全に見えるだけなのだ。
 錬金術師達こそ、錬金術で生み出される全てが危険を孕んでいると胸に刻んでいる。
 だからこそ、理由を求めているのだ。
 魔法生物が禁止される理由が明るみに出れば、全力でこれを調査し対策を立てる。小さな問題も大きな災いの引き金になるのが錬金術だ。それすらも許されず一方的に棄却されるなど、錬金術師達が無能であると断言されたようなもの。栄誉あるアルケミア研究者の椅子を蹴り、没収された魔法生物の方向性から理由を炙り出そうと躍起になる者もいる。それだけ、錬金術師達の自尊心を大いに傷つける大事件なのだ。
 そしてゼフ殿は魔法生物を『家族』と呼ぶ。その姿に、私は恩師が重なって見えた。
「指針監督官は手段を選ばなくなっています。気をつけてください」
 ゼフ殿の親友であり私の恩師である、錬金術師アルテオには二人のお嬢さんがいた。一人は魔法生物錬金学の権威であったお父上の才能を受け継いだ、リンカ嬢。キィンベルの歌姫と称される妹のシャンテ嬢の美声は、誰の才能を受け継いだのか聡明な父上もついぞ明かせなかった。
 お父上が身罷られ、二人の身元はゼフ殿が引き受けた。
 今もゼフ殿の店を手伝う形で、リンカ嬢は魔法生物錬金学を研究している。王国の命令という形で、『家族』を失うなど我慢できるはずがないだろう。父と娘が誇りを持つ研究を露骨に否定する様は、師を侮辱されたも同然の私も怒りを覚えている。
 しかし指針監督官の挑発に乗って手でも上げようものなら、公務執行妨害で逮捕され連行され、魔法生物を没収する口述を作ってしまう。
 それが分からないリンカ嬢ではない。しかし、先日のリンジャハルの崩壊で一時生死不明だった妹の死を肌で感じてしまった彼女は、『家族』の死に敏感になっている可能性がある。
 私が心配するまでもなく、ゼフ殿は何度も言い含めているだろう。
 リンカ嬢も指針監督官の挑発には乗るまいと、己を律しているだろう。
 それでもどんな姑息な手を使ってくるか分からないのが、指針監督官なのだ。
 ゼフ殿は空になったカップを置き、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。私達の身を案じてくれる人がいるというだけで、心強いものはありません」
 私は頭振り、席を立ったゼフ殿を大通りまで送る。
 明るい日差しが降り注ぐレトリウス通りには、今日も多くのエテーネの民が往来していた。同じ大きさと形に揃えられた石畳が美しく並び、花壇からは溢れんばかりに季節の花が咲き誇る。陽の光に暖められて綻んだ花々から甘い香りが漂い、今日は上着が要らない気温になると肌で感じる。中央広場には巨大な砂時計のオブジェが置かれ、中の砂が夜空に瞬く星のようだ。頭上に浮かぶ王宮の影が、軍部区画に掛かっている。
 目を眇めて見ていた私に、ゼフ殿が言った。
「良いんですか?」
 良いんです。私は黙って頷いた。
 今、私が座っていた席には指針監督官が駆け寄って、ゼフ殿が買ってきた差し入れをぶちまけて具に調べているのだろう。ゼフ殿の事だ。文房具屋の主人に『この棚の黒インクの中から一つ選んで欲しい』と、なるべく自身が関わらず無作為になるように買い物をしているに違いない。どんなに調べたとて、何も出ないに決まっている。
 それで、片付けないんだ。軍隊蟻より始末が悪い。
 私は深々と息を吐いてから、吸った息で本音を囁いた。
「『家族』が元気なら、それ以上何も要りません」
 そうですね。心の底から同意した想いが、大通りの雑踏に踏み砕かれていく。