忘れられたとき、ひとはきっと本当の死を迎える - 中編 -

 胸に収まったコポが『シャンテ だいじょうぶ。 だいじょうぶだよ』と囁いてくる。
 部屋の薄暗がりの中で燻んだ灰色にすら見える薄い碧色の体を強く抱きしめれば、ふわふわの見た目通りの柔らかい感触が伝わってくる。春の日差しのような暖かさが胸を温め、目を閉じて暗い世界に爽やかな新緑の香りが広がる。まるで綿毛の精に手足を生やした『おむつっこり』と呼ばれる魔物の姿だが、その胸には冷たく輝く赤い宝石があった。
「やれるもんなら、やってみやがれってんだ!」
 耳を塞ぎたくなるような声が、磨かれた飴色の床板を激しく突き上げる。いつも優しい姉さんの声とは思えない、燃えたぎる憎悪が篭った声だ。
 私達を引き取ってくれたゼフさんのお店には、最近『悪いお客さん』が来るんだって。チュラリスが言うには、『悪いお客さん』はお店に来ても買い物も依頼もしないで帰ってしまうんだって。ゼフさんは錬金術のお店を営んでいるから、ひやかすだけのお客さんが『悪いお客』と言われてしまうのは、仕方がない事なのかもしれないわね。
 でも、その『悪いお客さん』に対して、姉さんは声を荒げる。
 姉さんは意味もなく他人を攻撃したりしない。一体、どんな『悪いお客さん』なんだろうと訊ねれば、『シャンテが気にする事じゃない』とぶっきらぼうに言うの。ゼフさんも『悪いお客さん』がきている時は、二階の私の部屋にいなさいと言っている。確かに、私は錬金術師じゃないから何の役にも立てそうにない。
「あたしたちは権力や脅しには、屈しないよ! 錬金術師としてのプライドに賭けてね!」
 脅し。穏やかじゃない言葉が聞こえて、部屋の扉を薄く開ける。
 丁度王宮の影が差し込む時間帯で、店の中は夜のように暗かった。店である一階で灯る暖かい光に照らされて、吹き抜けた大きな壁一面に大きな三つの人影が揺らめいている。まぁ、良い。女性にしては低い声と共に、真ん中の人影が片手を軽く上げた。
「『時の指針書』に導かれ築かれた栄光を鑑みれば、強情な反発は国家への反逆と見做される。私とて無辜の民に手荒な真似はしたくはないのだよ」
 淡々と冷えた声色だったが、粘着く感情が部屋の中を這いずり回った。
 吹き抜けに面した床から黒い帽子を被った頭が覗く。慌てて頭を下げると、手すりの隙間に見えた店の扉が開け放たれる。『悪いお客さん』は去り際に、妙に明るい声を店内に向けた。
「貴様らの賢明な判断を期待しているぞ」
 複数の足音が外へ出ていくと、扉が勢い良く閉まって大きな音を立てた。思わずコポを抱きしめて体を竦めたが、首だけそろりと伸ばせば固く閉ざされた扉の前には誰もいない。
 私はほっと息を吐いて、店内の張り詰めた空気が緩もうとした時だった。
 こんこん。
 扉を叩いた軽快なノックに、緊張が走る。
 一拍の間を置いて開けて扉を潜ったのは、若い冒険者。肩口で切り揃えられた茶色の髪は、王宮の影が動いた事で黄金の艶を這わせる。日に焼けた健康的な顔立ちは整っていて、人好きする笑みが浮かんでいた。フード付きの丈の短い外套の上から、大きなベルトを掛けて背に長剣を背負っている。皮を裏打ちした袖なしの紫の長衣を捌きながら、カウンターへ進み出た青年はメモへ落としていた視線を上げた。ただならぬ雰囲気に、翠の瞳がぱちぱちと瞬く。
「素材の配達なんですけど、後の方が良いですか?」
 いえいえ、大丈夫です。そうゼフさんが返事をし、店は素材の搬入で一気に慌ただしくなった。大きな木箱を逞しい背が悠々と運び、開け放たれた中身を総出で棚に納めていく。賑やかな一階の店舗に降りれば、冒険者さんへお茶を淹れている姉さんが手招いた。
 私が前に腰掛ければ、優しい顔がにこりと微笑みかけてくる。
 王都キィンベルに滞在している彼は、この店が素材を買い付ける道具屋さんに一時的に雇われている冒険者だ。魔法生物が姿を消したキィンベルでは、今は深刻な人手不足。特に護衛や運搬役の魔法生物を手放した商人達は、棚が空っぽで、何もしなくても高い王都の家賃が発生するという、阿鼻叫喚の地獄絵図の様相らしい。商人が素材を販売できなければ、それを購入して錬金する錬金術師の店も干上がってしまう。
 そんな地獄で喘ぐ者達に手を差し伸べたのが、辺境からやってきたレナートさんなんだって。
 辺境警備隊詰所で兵士と勤務していたので実力は言うに及ばないし、魔法生物が普及して乗り手が少なくなった馬を軍の兵士の誰よりも上手に乗りこなす。レナートさんはどんな難しい採取も二つ返事で引き受けてくれるから、神様みたいに拝んでいる商人のいるとか…。
 チュラリスがピンクのふわふわのしっぽを揺らして、小さい手に大きなお盆を乗せて運んでくる。『レナートさま どうぞ!』と少女のような舌っ足らずな声で、お客様用のお茶菓子をお出しする。ふわふわとしたクリームを絞ったような体にモノクルをつけたジョニールが、カップの遥か高みからお茶を華麗に注いでみせる。『このジョニール会心の一杯をご賞味あれ!』と蝶ネクタイを着けた胸が誇らしげに反る。
 私も姉さんからネジガラミの根を使った薬草茶を受け取る。
「何事もなく退いたようで安心しました」
 ほっと安堵の息を漏らして、レナートさんは小さな貝殻の形のマドレーヌを食んだ。気を揉ませてしまった事を申し訳なく思ったのか、ゼフさんが目録から顔を上げた。オリーブの実を彷彿とさせる燻んだ緑の髪の間で、丸い眼鏡のレンズが光る。
「貴方は『時の指針書』を持たない異邦人なので、指針監督官も深く関わろうとしません。しかし、貴方が採取途中の『不慮の事故』で死ぬ可能性もあり得ます」
 あいつらなら、やりかねないな。姉さんが使った錬金釜を片付けながら吐き捨てる。
「軍団長殿がお戻りになったら面会の予定があるので、それまでは大丈夫でしょう」
 軍団長って指針監督官よりも偉い人だよね。ふんわりと笑ってお茶を飲む横顔を盗み見ながら、レナートさんってすごい人なんだなぁって思う。
 その横顔が私の方を向いて、じっと見られてしまう。どぎまぎする私とレナートさんの間を、姉さんの夕暮れから夜空に移り変わる色彩に、金糸で星を縫い取ったマントが遮った。
「おっと、色男。あたしの妹に手を出したら承知しないぜ?」
 怒っている訳じゃなく揶揄うような声に、レナートさんも気を悪くした雰囲気はない。『もしそんな事をしようものなら、僕の顔が大きく腫れて…いえ、すみません』弾んだ声が、尻窄む。
「僕の調達した素材が、錬金術で薬になって実際に飲まれたのを見て感動したんですよ」
 そういえば、姉さんがネジガラミの根を錬金して、薬草茶にする様子を熱心に見ていたっけ。
「いつでも見学にいらしてください。貴方なら大歓迎ですよ」
 ゼフさんの言葉に『機会があればぜひ』と喜ぶ声を聞きながら、私は手に持ったカップを覗き込む。コーラルピンクのヘッドドレスをつけた黒髪の女性の碧の瞳と目があった。
「このお茶は姉さんが毎日作ってくれるの。気分を落ち着かせて、記憶に良い効果があるのよ」
 姉さんが隣に腰掛けて現れたテーブルの向こうで、レナートさんがあっと口を開けた。
「すみません。コンギスさんから事情を聞いているのに…」
 コンギスさんは私達姉妹の父のお弟子さんだ。同じ宿で寝泊まりしていて、素材が採取できる場所や、素材がどんな錬金術に使われるかを教えてもらっているんだって。今じゃ、一緒に採取に向かうくらい仲が良い。レナートさんが素材調達の仕事を短期で請け負うようになったのも、この薬草茶の材料であるネジガラミの根がないかコンギスさんに問い合わせたのが始まりだ。
「レナートさん、謝らないで」
 私はゆるく首を振った。
「優しい姉さんがいて、ゼフさんのお陰で不自由なく過ごせる。チュラリスやコポやジョニール達という家族がいる。私は記憶喪失になっても、いえ、記憶がないからこそ幸せなの」
 この家で目が覚めた時、私はシャンテという自分の名前すら思い出せなかった。私が目覚めた事に涙を浮かべて喜ぶ金髪の女性が、最愛の姉である事すら忘れていた。
 記憶を失う前の私は、『エテーネの歌姫』と評判になる歌声を披露していたらしい。その評判からリンジャハルから公演の招待を受け、私は快く招待に応じたらしい。
 しかし、その公演が行われた日、リンジャハルは大災害に見舞われた。
 翌日にはダーマ神に仕える僧兵が救援に駆けつけたが、一つの大国に匹敵する賑わいを見せた都市に存在した人間は忽然と消えていた。破壊の痕跡と石畳に生々しくこびり付いた鮮血の痕が残るだけで、暮らしていた市民も、市民を殺しただろう魔物の姿もない。大海を挟んだこのキィンベルからでさえ、深夜のリンジャハルの空を晴天のように塗り替える尋常でない何かが起きた事だけしか分からなかった。
 リンジャハルの大災害で、多くの市民や旅人が方々に散って逃げた。魔物の縄張りに飛び込んで大怪我をしたり死んだ人もたくさんいて、半年経った今でも生存者の全貌は見えてこない。私が戻ってこれたのも、リンジャハルから人が逃げ込んだ町や村を虱潰しに当たっていた姉さんが見つけてくれたからだ。
 大災害を生き延びた人は、滅亡の夜の事を決して語らず、心に深い傷を残しているという。レナートさんも大災害の被害者の傷に触れてしまったと、申し訳なさそうに項垂れる。
「大災害の記憶が戻るのは恐ろしくないのですか?」
 私は無意識に首に触れた。ドレスと同じコーラルピンクのリボンに、たっぷりとフリルを施したチョーカーが指先に触れる。姉さんはこのチョーカーの下に、大災害で受けた恐ろしい傷があるから外してはいけないと言う。
 この首の傷のせいで、私は記憶と共に美しい歌声を失ってしまった。
 話し声は可憐な音を響かせ、大声を発すれば大通りの始まりから終わりにまで届く。それでも、歌として喉を振るわせると、聞くに堪えない酷い音を紡いでしまうのだ。以前のシャンテの歌声を知っていた人達は、深く同情してくれた。喉が傷ついて歌えなくなっても、生きているだけで未来は明るいと励ます人。記憶を失っても大災害の恐怖が拭えないのだろうと、涙ながらに抱きしめてくれる人もいた。
 姉さんは笑みに少しだけ哀しみを混ぜる。笑みが含んだ悲しみが、私の歌声を心から愛していたのだと胸を抉る。
「わからない…」
 首から下ろした手が、膝の上で固く握られる。
 正直、無い記憶を恐ろしくも思えなかった。むしろ、記憶がない事に気を使われ、同情され、励まされる方が気が重い。いっそ、どんなに恐ろしくても心が傷つこうと、記憶を取り戻したいくらいだ。ネジガラミの根の薬草茶は、私が姉さんに頼んで作ってもらっているの。
「でも、記憶を失う前の、皆さんが愛した歌声が取り戻せたらって思うの。取り戻せなくても、もっと上手に歌えるようになりたい…!」
 隣から姉さんのほっそりとした手が重ねられる。シャンテ。愛おしく私の名を呼んでくれる、世界で一番優しい声に耳を傾ける。
「誰がなんと言おうと、お前はあたしの最高の歌姫だ」
「ありがとう、姉さん」
 白い毛皮の縁取りが、押しつけた頬をふんわりと包み込む。ゼフさんが頃合いを見計らっていたのか、納品された品と目録が相違無い事を確認し、サインした領収書を持ってレナートさんに歩み寄った。顰められた声でいくつか事務的な内容を交わすと、長剣を手にソファーから立ち上がった。ごちそうさまでしたと暇乞いして、店の外へ足を向ける。
 私は見送ろうと、店の外へ付いていく。
 太陽は随分と傾き、青空に浮かんだ雲がほんのり珊瑚の色を帯びている。鳥達が帰路につこうと並んだ影が、王宮の向こうへ消えていく。巨大な塀の中に犇く屋根の隙間から、街灯の眩い灯りが灯り始めた。塀の内側が明るくなり、夕焼けに染まろうとしていた空を暗く沈ませる。そんな都を、レナートさんは感慨深く眺めている。
 レナートさん。呼びかけに遠くから引き戻された視線に、私はおずおずと声を掛けた。
「あのね、お願いがあるの」

 王都キィンベルから子供の足でも一時間程度でたどり着ける場所に、ラウラの花が咲き乱れるラウラリエの丘がある。多くの国民がピクニックとして足を伸ばす道は、バントリユ地方へ向かう道のりまでは舗装されている。道から外れてさらに南を目指しても、土が剥き出しの道は歩きやすく踏み固められていた。
 王都から南の海岸線にかけて緩い下り坂になって開けていて、日当たりの良い草むらでは、ももんじゃ達が互いを毛繕いしあい、ぶっちズキーニャが光合成し、ドラゴンソルジャーが鱗を暖めている。大きな大木の横を通り抜ける時、居眠りをしていたフォレストドラゴの鼻息が掛かった。遥か彼方の砂浜では、砂のお城が岩飛び悪魔のラインダンスで崩れ去って、プチアーノンがカンカンに怒っている。南から吹く潮風を受けながら、私とレナートさんは進んでいく。
 下り坂が迫り上がった崖に突き当たり、立ちはだかった急坂を登れば、鬱蒼とした森に足を踏み入れる。暗い森を抜けると、燦々と日差しが溢れ甘い花の香りに包まれる。崖に打ち付け地面を震わせる潮騒を聞きながら、目の前に突然開けた光景に目を奪われる。
「こんな綺麗な花畑、私、初めて見るわ!」
 地面を覆い尽くすラウラの花は満開だ。
 リンジャハルの大災害時の舞台衣装にも施されたラウラの花は、エテーネ王国領の固有の花だ。一枚では透明に透ける薄い花弁が、幾重にも重なって桃色に色付いて見える。重なって大輪となった花は蜜をたっぷりと蓄えて重く、虫達を招き寄せる為にかうっとりとする良い香りを放っていた。この花の蜜を飲めば歌が上手になるような気がすると、記憶を失った私だって思ってしまう。
 花畑には蜂がぶんぶんと飛んでいるが、広大な花畑の隅にいる私達には目も向けない。レナートさんが虫除けの香炉に火を灯せば、爽やかだが濃厚なハーブの香りが立ち上った。
 レナートさんも花畑の縁にしゃがんで、青空に花開くラウラの花を覗き込む。
「蜂の巣を狙えばたくさん蜜が手に入るけど、危ないからね。きっと記憶を失う前も、こうやって採取してたんじゃないかな?」
 そう言って、レナートさんは採取用の瓶を取り出した。一つ花を茎から摘み取ると、花弁の根元をナイフで切断する。断面からとろりと滴った金色の蜜を瓶で受け止めた。一輪から採取できた蜜は、指で掬ったら一舐めで終わってしまう微々たる量だ。
「お花は捨ててしまうだなんて、勿体無いわね」
 私の為に捨てられてしまった花を見て、申し訳ない気持ちになる。とはいえ、蜂さん達がせっせと集めた蜜を横取りする気にはなれないわ。
「キィンベルではラウラの花ごと煮たジャムも人気らしいよ。岸壁側の潮風を受けた花は仄かな塩気があって、お菓子のアクセントにするんだとか。僕は岸壁側の花を摘んでくるけど、見える所にいて欲しいな」
 はい。私が力一杯頷くと、レナートさんは森の草むらを伝って岸壁の方へ向かっていく。その背を見送ると、私は渡された瓶とナイフを握りしめて花の傍らに座り込んだ。花を摘んで、花弁の根元を切って、蜜を瓶に落とす単純作業をしていると、意識は記憶の海へ飛び立ってしまう。
 ゼフさんのお店の二階の部屋は、記憶を失う前から私の部屋だった。その戸棚の奥に仕舞われていた日記には、記憶を失う前の私の日常がたくさん書かれていた。
 父さんの誕生日の日に歌をプレゼントしたら『錬金術の祖ユマテルより生み出されし、如何なる秘宝よりも素晴らしい!』と抱き上げて褒めてくれた事。酒場で歌ったらお客さんがお駄賃を渡してくれて、そのお金で姉さんと美味しいお菓子を買って帰った事。コンギスさんの三匹の赤いドラゴンの赤ちゃんに、どらどらどらと囲まれて思わず泣いちゃった事。すぐにチュラリスが駆けつけて、ドラゴンの赤ちゃん達の頭を尻尾でくすぐって笑い転がした事。姉さんが作ったコポがあまりにも可愛らしくて、ずっと抱っこして過ごしていたら姉さんがコポを取り上げて『あたしのシャンテなの!』って大泣きした事。
 記憶を失う前の、たくさんの思い出。こんな幸せな記憶を忘れているだなんて、嫌だなって思ったの。
 でも、どんなに頑張っても思い出す事ができない。
 姉さんの優しさに甘えてばかりじゃいけない。
 だから、幸せな思い出を作っていきたいって思ったの。
 記憶を失う前の私は、歌い過ぎて枯れた喉をラウラの花の蜜で癒していた。喉の調子が良くなったからって、歌が上手くなる訳じゃない。それでも、自分で選んでここに来た記憶は、今の私のものだって思うと誇らしかった。内緒でここに来ちゃった事は、後で姉さんに謝らなきゃいけないけど、それすらも楽しみに思えるくらいだった。この花をネジガラミのお茶に浮かべて飲んだら、美味しいかしら?
 小瓶の半分くらいまで溜まった蜜から視線を上げると、花畑の向こうにレナートさんが立っていた。手に持った籠の上にはボミエの魔法陣が縫い付けられた布が掛けられていて、花の鮮度が落ちないように摘んだ花を包んでいる。ふっくらと膨らんだ布の収まった籠を片手に、レナートさんは海を見ているようだった。
 私が花畑の脇を通って近づけば、彼の視線の先に何があるか分かった。
 青々とした海の果て、水平線の上に塔らしきものが浮かんでいた。ずんぐりと太くて屋根が丸い塔へ目を凝らせば、囲むように細い塔が寄り添っている。そんな塔を臨む岸壁には、一つ真新しい墓が建てられていた。
「こんな所にお墓があるのね」
 レナートさんは近づいた私に、驚いたように振り返った。
 よく見ればラウラの花に隠れて、朽ちかけた墓石がいくつもある。遥か彼方の故郷を想って弔われただろう石は潮風に白くボロボロになっていて、真新しい墓石がなければただの石だと思っただろう。真新しいお墓も、膝を抱えた子供くらいの大きさの石に、ナイフで文字を刻んだ簡単なものだ。石の真下までラウラの花に埋もれているのを見るに、亡骸は弔われていないみたいだった。
 墓石に近づこうとする私を遮るように、レナートさんが立った。
「崖が近いから、これ以上進んじゃ駄目だよ」
 蜜は十分に集まったのかい? まるで墓石に近づけさせまいと話題を振るレナートさんの顔に、焦りが滲んでいた。彼の言葉に生返事を返しながら、脇を抜ける。
 海の彼方に見える塔は、きっとリンジャハルのシンボル、リンジャの塔だ。その塔を臨むように建てられた真新しい墓石は、私が逃げ延びる事のできたリンジャハルの大災害の被害者か、その被害者を大切に想っていた誰かが弔われていると思った。そうでなくても、幸運に助かった命が、不運にも落とした命の為に祈ってい良いと思う。
「シャンテさん。待って。お願い、待ってくれ」
 確かに崖は近かったが、転んで落ちてしまう程の距離じゃない。私はレナートさんの声を振り払って墓石の前に膝を付いた。手を組んで祈りを捧げると、祈るべき墓石の主の名前を知る為にナイフで刻まれた文字を見る。
 シャンテ。
 え? 思わず声が漏れた。
 墓石には亡き者の名として、『シャンテ』と刻まれている。
 リンジャハルの大災害は、王都キィンベルの人口に匹敵する死者が出たという。もしかしたら、私と同じ名前の人かもしれない。『シャンテ』の名の上に刻まれた、少し小さい文字へ視線を走らせる。
 誰よりも歌を愛し、歌に愛されたエテーネの歌姫、ここに眠る。
 シャンテ。その歌声は永遠の空に響き渡る。
 私は墓石の前にへたり込んだ。
 このお墓、なんなの? 同じ名前ならまだわかるけれど『エテーネの歌姫』って何? それは、記憶を失う前の私が呼ばれていたんじゃないの?
 『エテーネの歌姫 シャンテ』は死んでいる。
 なら、私は?
 私はきつく目を瞑って、深く深く項垂れた。地面が崩れ去り底なしの闇に落ちていくのは、私だけじゃない。今の私を構築する全ての記憶が、ばらばらと音を立てて崩れ潮騒に砕かれていく。
 シャンテと呼ばれる、記憶のない私は何なの?
 姉さんの笑顔が浮かんだ。金色の髪を高々と結って、豊かな髪を滝のように流した背を。私よりも色の濃い緑の瞳を細め、大きな口を開けて快活に笑う顔を。錬金釜を前に、指先まで集中を行き渡らせた真剣な手元を。シャンテ。真っ直ぐに私を呼ぶ声。
 私はシャンテだ。姉さんにとって、私は確かにシャンテなんだ。
 墓石に刻まれた名前を見る。
 姉さんなら、何か知っているはず。
 記憶のない私よりも、ずっとずっと、たくさんの事を…。