忘れられたとき、ひとはきっと本当の死を迎える - 後編 -

 人生で初めて馬に乗った。
 あたし達は移動に魔法生物を使っていたからだ。王都に人口が集中して僻地が過疎化した関係で、魔物の討伐の必要性が弱まり、強い魔物の縄張りが街道に隣接している。だから王都の外の移動は、強そうな魔物の形をした魔法生物に乗るか、馬車を引かせるんだ。
 勿論、エテーネ王国にも馬はいる。
 でも、生きた馬に乗ろうとは誰も思わない。馬は魔物に遭遇すれば驚いて乗せた人間を落とすし、人間を置いて逃げ出す事もあるらしい。扱いが下手なら走りもしないそうじゃないか。人間の為に最善を尽くす魔法生物の方が、安全であると分かってるんだ。
 魔法生物を研究するあたしも、人々の判断を誇らしく思う。
 だが、王国の命令で魔法生物が一掃された今、王都の外を高速で移動出来る手段は馬しかない。乗馬ができて技量に優れたレナートの駆る馬は、キラーパンサー型やダッシュラン型の魔法生物にも決して後れを取らない速さだ。
 王都から海岸に向かって駆け降りていく様は、まさに風のようだった。
 最短距離を最速で駆け抜ける。整備された街道からは外れ、なだらかな斜面ではなく川が削った段差を飛び降りる。丘に生えた木々をすり抜け、水溜りを跳ね散らかし、ももんじゃ溜まりの上を飛び越える。周囲の風景が線になって過ぎ去る速度に、振り落とされる恐怖がべったりと背に張り付いた。ぐんと大きい馬身に持ち上げられ、空に上がった瞬間落ちてく感覚に心臓が縮み上がった。
 なんだって、人間が尻込みするような所を馬が走れるのさ? 悲鳴を上げられたのも最初だけ。今は真っ青になって、レナートに抱きつかなきゃならなかった。
「レ、レ、レナート! も、もう少し、ゆっく、ゆっくり走っておくれよ!」
 レナートは決して意地悪している訳じゃない。あたしが『一刻も早くシャンテの元に、連れて行っておくれ!』って言ったから、急いでくれてるんだ。
 細身にしては厚い胸板が、屈んだ拍子に押し付けられる。
「喋ると舌を噛みますよ。しっかり掴まっていてください!」
 馬がフォレストドラコの背を飛び越え、あたしは悲鳴を上げた。
 短い時間だったけれど、人生観が変わった気がした。
 馬から降ろされると、砕けた腰が白い砂浜にべたりと落ちる。毛皮の縁取りに砂が入り込んで洗うのが大変だけど、構ってなんかいられない。ざざん、ざざんと打ち寄せる波の音と、海鳥の呑気な声が、がなりたてる心臓を宥めてくれた。青い海の向こうには、大災害で滅んだリンジャハルの影が浮かんでいる。強い日差しに温められると、恐怖に竦んだ体が解れて余裕が出てきた。
 レナートは少し離れた所で、膝を付き砂浜を見つめていた。あたしの視線に気がついて顔を上げると、砂浜に深く刻まれた轍を示す。そして、獣とは思えない不思議な形の足跡もくっきりと残っていた。
「指針監督官達が、魔法生物達を閉じ込めた柵は鋼鉄製の頑丈な物でした。あの大きさと重量では、運び込める範囲は随分と絞られますからね」
 ゼフが店を開けて直ぐの事だった。店に指針監督官達が押し入り、強制執行と称してチュラリスとコポとジョニールを連れ去ったのだ。シャンテの部屋に踏み入り、隠れていたコポまで引き摺り出しやがった。指針監督官が魔法生物登録記録を参照して、この店の魔法生物を全て把握した上で踏み込んできやがったんだ。
 錬金術師に闘う力はない。阻止しようと立ちはだかった あたしは、突き飛ばされてカウンターに体を打ちつける。『打ち所が悪ければ死んでいましたよ』と嗜められた時には、成す術なく家族を奪われてしまったのだ。
 リンカさん。顔を上げたあたしの目を、レナートが真っ直ぐ見つめてきた。
「この先は異形獣と戦う事になるでしょう。大変危険です」
 あたしは轍の先を見る。
 白浜の端は断崖絶壁が迫り出していて、海に侵食されて出来た天然洞窟の入り口がぽっかりと口を開けていた。激しい白波を反響して増幅させては、残響を吐き出し続けている。侵食に複雑化した海流は落ちた何もかもを粉砕してしまう危険さから、人には見せられない錬金術の失敗作を捨てる場所としてまことしやかに囁かれている洞窟だ。
 真っ暗闇から漂った冷気に舐め上げられて窄んだ勢いを、奮い立たせる。
「バカ言ってんじゃないよ。家族の為なら、あたしの命なんざ惜しくないんだよ」
 レナートとシャンテはラウラリエの丘からの帰り道、家族を連行中の指針監督官達と遭遇したのだ。
 当然シャンテは猛抗議し、予想だにしなかった場所で遭遇した相手に指針監督官も戸惑った様子だった。しかし、ベルマが『家族とやらと最後の時間を過ごさせてやろう』と、檻の中に入れてしまったのだ。
 この時、檻を乗せた荷台を引いていたのは、辺境警備隊詰所を襲った異形獣の色違いだったそうだ。直接戦った事のあるレナートは護身用の剣では倒す事ができないし、直ぐに檻の中にいた皆が殺される事はないだろうと判断したらしい。装備を取りにキィンベルに戻った足で、店に立ち寄って事の次第を話してくれた。
 危険な洞窟で起きた不幸な事故を装い、シャンテも始末する腹積りだったろう。だけど後日、軍団長と面談予定のレナートがいれば、そう無茶もできない。そう踏んで、せめてシャンテだけでも救い出そうとしてくれていた。
 でも、シャンテだけ助ければ良いだなんて、あたしは思えない。
 チュラリスも、コポも、ジョニールも、あたしの家族なんだ!
「自分の命を軽んじてはいけない」
 有無を言わせぬ圧力に、思わず喉が詰まる。
 あたしを射抜く翠の瞳は、今にも泣きそうな程に切実な感情で張り詰めていた。少しでも気が緩めば、目の表面の水分が滴となってこぼれ落ちてしまいそうだ。まるで、あたしが大切な身内で、どうか死なないでくれと懇願されているようだった。
「大災害で妹さんが死んだと思った貴女なら、残された者の気持ちが分かるはずだ」
 リンジャハルの大災害の知らせを聞いた時、心臓が止まってしまったのかもしれない。胸から心臓が抉り出されたように激しく痛んで、肺が石になっちまったように息が吸えも吐けもしない。頭は大金槌に叩かれているかのように響いて、身体中の骨が砕け散ったように力が入らない。
 血の繋がった、たった一人の肉親。
 親父が死んだ後、絶対に守ってやるって誓った可愛い妹。
 大災害に巻き込まれた時、どれほどシャンテは恐ろしい目に遭っただろう。想像するだけで、リンジャハルの公演に同行しなかった過去の自分をぶん殴ってやりたかった。
 確かに隣国は、エテーネ王国の辺境よりも近かった。疫病が収束して復興で賑わうリンジャハルを、大災害が襲うだなんて誰も予想できやしなかった。行方不明者にはエテーネ王国の王の弟がいるくらいだ。
「あぁ、そうさ」
 あたしは肯定して、大きく息を吸い込んだ。腹の底に力を溜めて、安全な所で待っていろと言わんばかりの視線を睨み返す。
 目の前で笑うシャンテが愛おしい。
 記憶がないあの子に、あたしはかつてのシャンテの全てを注ぎ込んだ。好きな食べ物はこれだと教えれば、本当に美味しいと目を輝かせた夕食。好きだった歌を一緒に歌って笑い合った午後の昼下がり。お世話になった人に挨拶をした清々しい朝。性格は教えるまでもなく、素直で良い子で妹そのものだ。口調はちょっと指摘するだけで、二度と同じ間違いを繰り返さない。
 全てを、素直に信じてくれた。一生懸命、あたしの妹であろうと努力してくれる。
 たった一つ、思うようにならなかったのは下手な歌だけ。
 それすらも、愛おしくてたまらなかった。
 姉さん。そう、あたしを呼んでくれる妹。
「大事な妹と離れ離れになるなんざ、二度とごめんだ!」
 真剣な表情が小さく頷き、レナートは背に背負っている剣を引き抜いた。
 それは普段使っている大量生産の護身用の剣とは違う、黄金の翼を広げた鳥の鍔の片手剣。王立アルケミアの研究員だった父の元に足繁く通った幼い頃から、国宝と称されるユマテルの秘宝も、数え切れぬ最先端の錬金術を見てきた。しかし、そのどれと比べても眩い一品だ。太陽の光のような黄金に視線は吸い寄せられ、刀身の輝きは星空を見上げるかのように心を清めていく。神話にある勇者の剣を彷彿とさせる、この剣に断てぬ物はないと思わせる逸品だ。
「危険だと思ったら、直ぐに逃げてください」

 陽の光を反射した海水が奥へ奥へと光を投げ込むので、洞窟の中は神秘的な青い光で満たされていた。波の波紋が壁に青く照らし出され揺らめき、潮騒に混じってチュラリスの甲高い悲鳴が聞こえていた。しかし、駆け出す事はできない。海水と共に流れ込んだ風が、侵食して狭まった隙間を通って突風となって横から殴りつけてくる。しっかり踏ん張ってないと、橋みたいな道から落ちて海に真っ逆さまだ。
 真っ直ぐに開けた道にうたた寝していたガメゴン達が、あたしたちに気がついて首をもたげる。レナートが剣を構えて、あたしを先へ送り出す。
「全く、良く喋る虫ケラ供だ。バラバラに解体してから、海に破棄してやろう」
 低くとも響くベルマの声に続いて、金属をフォークで引っ掻いたような耳障りな咆哮が響く。家族の悲鳴が上がるのを歯を食いしばって聞きながら、海水に濡れた滑りやすい坂道を登る。
「ゼフの店の歌姫。命が惜しければ檻から出てこい。この魔法生物の破棄は、エテーネ王国の幸せの礎となる為に指針書に定められているのだから」
 そんなことないわ! シャンテの声が潮騒の残響を掻き消した。
「指針書が私達を幸せにするなんて嘘よ! 家族が死んだら、私達は絶対に幸せになんかなれない! 私は指針書を持ってないけど、姉さん達と幸せに生きているわ!」
 あたしは祈った。どうか、気が付かないでくれ。と。
 しかし、無情にもベルマの訝しむ声が潮騒の底を這う。『時の指針書』を盲目的に信奉する監督官は、シャンテが指針書を持っていないという言葉を逃さなかった。
「届け出には『リンジャハルの大災害で消失した』とあったな。指針書の再発行の手続きは行われていないが、魔法生物の件で少しでも疑いを消す為なら、再発行しない選択はない。もしや、できない…のか?」
「やめろ!」
 迸った私の声が洞窟の中を響き渡った。シャンテの『姉さん!』って驚いた声が、チュラリス達の『きちゃだめ!』って叫びが、やまびこのように帰ってくる。
 ぱちんと指を弾く音が響いた。
 なに? やめて! 来ないで! シャンテの怯える声に続いて、悲鳴が轟いた。
 こんな時に限って、滑る岩に足を取られあたしは盛大に転んでしまう。天井から雨のように滴ってくる水が、坂道に腹ばいになった服の内側に流れ込んで濡らしていく。ぐっしょりと濡れた白い毛皮で縁取られたケープとマントは、まるで岩のようにあたしの上にのしかかっていた。
 あたしは肘を立てて胸を起こすと、首元の留金へ手をやる。冷え切ったかじかむ手が、いつもは無意識で外す留金に苦戦する。早く。早く! 焦りが募るばかりで、指先から留金が逃げていく。顔に張り付いた前髪を乱暴に払い、見えもしない首元へ目を凝らす。
 耳障りな笑い声の合間に、なるほどと連呼される。
「時の指針書を持っていないのは当然だ! お前はエテーネ王国の人間ではないどころか、人間ですらないのだからな!」
 やめろ! やめろ! あたしが叫びながら力ずくで留金を毟り取ると、水が滴るケープとマントが肩からずり落ちた。膝を立てて上半身を起こすと、マントを繋いだ金のチェーンを引き千切った!
 べしゃりと重いマントが地面に落ちる音を聞きながら、あたしは駆け出した。羽が生えたように軽くなった体が、坂の果てにある光へ飛び込んだ!
 男性監督官二人に抑え込まれ、シャンテはベルマの前に膝をつかされていた。ベルマは取り巻きの一人に顎をしゃくって見せると、仮面をつけて窺い知れぬ顔がシャンテの後頭部へ向く。美しい黒髪の長髪を引っ張られたシャンテが、苦しいうめき声を上げて顔をのけぞらせた。
 黒い制服のせいで死人のように青白い指が、シャンテの首に伸びる。やめて、触らないで! と、シャンテが拒絶を叫び、髪を掴まれたままに首を激しく振った。
「そこには大きな傷跡があるから、絶対に見ちゃ駄目だって姉さんが!」
 あぁ、かわいそうに。ベルマが甘ったるい声を囁き、シャンテの頬を慈しむように撫でた。シャンテの瞳を覗き込んでいた視線が、あたしに向けられてはっきりと愉悦に歪む。
「そう、ご主人様に躾けられている事すら分からぬとはな。お前達が『家族』と呼ぶ魔法生物以下の扱いを、お前は受けているのだよっ!」
 強い語気の勢いと共に、シャンテの首元からチョーカーが剥ぎ取られた。
 コーラルピンクと可愛らしいレースのフリルのチョーカーが、吹き込んだ潮風に飛ばされる。目の前に落ちて水を吸い込んで色が変わるチョーカーから、のろのろと視線を上げた。
 狂った笑い声が爆発した。
 目を大きく開けて、呆然と首に触れるシャンテがあたしを見ている。
 滑らかな真っ白い首元には、大災害で受けたという大きな傷跡など一つもない。
 喉仏の位置に、丸く磨かれた宝石が埋まっている。人間には絶対あり得ない、肌とは違う冷たく滑らかな石の感触。魔法人形の証である真紅の宝石を、健康的な肌色の指先が信じられないように何度も撫でていく。
 全てを理解したように、シャンテの瞳から涙が溢れた。
 シャンテの顔がぐらりと揺れる。ベルマの取り巻きの男性監督官達が、シャンテを檻の中に投げ込んだのだ。駆け寄った目の前で、乱暴に檻が閉じられる。ぐったりと項垂れるシャンテを労わるように取り囲んだ家族を、ベルマは穢らわしい物を見るように一瞥した。
「あぁ、執着もするはずだ。人間型の魔法生物は、現代の技術でも実現できていない。未発表のまま闇の葬られては、お前の功績は評価されないものなぁ」
 軍帽の下の表情が喜びを滲ませて、形の良い唇が甘い声を紡ぐ。
「錬金術師リンカ。人間型の魔法生物の発表の場を、用意してやろう。栄光ある第一号であるこの魔法生物は、王立アルケミアでさらなる研究の礎になる。評価されれば『王立アルケミアの研究員の申し出を受けるべし』と、指針書に書き込まれるだろう」
 良かったなぁ! ベルマは歓声をシャンテに向けた。
「錬金術師にとって、魔法生物とは便利な道具。魔法生物たるお前も、ご主人様の栄光の助けになれて嬉しいだろう!」
「道具じゃない。あたしの大切な家族だ!」
 叫びながら振り抜いた拳は、殴りかかるのを予想して一歩下がった顔に届かなかった。ベルマの幼さすら感じさせる顔から拭ったように喜びは消え、蔑みの色が覆っていた。
 こんな奴にシャンテを絶対に渡さない。
 体の隅々まで調べ尽くされ、様々な実験は苦痛が伴うかもしれない。用が済めば機能停止されて未来永劫展示される。そんな未来にシャンテを送り出せるものか! 大事な家族を踏み台にして手に入れる栄光なんて、クソ喰らえだ!
「その子も、シャンテも、あたしの大切な妹だ!!」
 魂の叫びが轟く空間で、ベルマの唇が『くだらん』と動いた。
 すっと背後に向けられた視線に振り返れば、真っ赤な魔物が背後に立っていた。どうして今まで気が付かなかったのだろう。真紅の塗装を施した機械のような体には、至る所に刺々しい突起が生えている。爪は長剣のように長く、大剣のような厚みから切れ味鋭く研ぎ澄まされている。全身を黄色い線が頭頂部に伸びた、長い角へ集中する。めぐらした顔らしき場所には、まん丸い月のような真円の硝子から黄金のような光が溢れている。
「予定通り、魔法生物の強制破棄を執行する!」
 がちゃんと巨大な手が檻を挟み、爪が格子の間から中へ入り込む。
 チュラリスは全ての毛皮が弾け飛んでしまいそうな悲鳴を上げ、コポはこのまま消えてしまそうなくらい小さく縮こまり、ジョニールはクリーム色の体が霧散するほどに激しく震えている。そんな彼らを抱き止めて、シャンテはまっすぐあたしを見ていた。
 ラウラの蕾が綻び大輪の花弁が開くように、口が開いた。
 紡がれるのは、シャンテに教えた愛する人との別れを惜しむ歌。それは人の聴覚では壮絶な不快感を伴う、人間成らざりし声だった。金属を引っ掻いた音を聞いたような不快感が、シャンテ自身の声量と合わさって問答無用で耳の中に押し込まれる。全身が粟立ち、頭の中を引っ掻き回され吐き気が込み上げる。流石のベルマも取り巻き共も、初めて聞くシャンテの歌声に耳を押さえて悶絶した。
 それは異形獣も同じだった。
 持ち上げた檻を取り落とし、悶えるように上半身を振った拍子に檻が転がった。歌が止んで頭を振ったベルマは、悶え苦しむ異形獣に怒鳴りつけた!
「どうしたというのだ! 言うことを聞け! その檻を崖から海に突き落とすんだ!」
 その怒りを敵意を見做したのか、異形獣はベルマに向かって爪を振り下ろした。取り巻きの一人がベルマに体当たりをして避けさせるが、その背中は掠っただけなのに深々と斬り裂かれている。痛みに悲鳴一つ上げず、異形獣から遠ざけようとする背中をベルマが叩く。
「どけっ! グレイン! あいつが『時の指針書』に書かれていた、危険な魔法生物だ! 殺せ!殺せぇ!」
 ベルマからから迸った言葉を認識して、あたしは怒りが込み上げてきた。
 『時の指針書』に危険な魔法生物を殺せと書いてあったから、エテーネ王国中に存在する全ての魔法生物を殺害したのか! 勿論、その魔法生物がシャンテの事を指していたとして、おいそれと差し出すつもりはない。だが、ある程度特徴が示され候補が絞られれば、何の罪も関係もない数多の魔法生物は死なずにすんだだろう!
 なにがエテーネ王国の栄光だ!
 魔法生物を根絶させるまでに殺した事の方が、王国の損失だ!
 あたしは国王の身勝手さに、ぐつぐつと腹が煮え繰り返っちまいそうだった。
 もう一人の取り巻きがグレインと呼ばれた男からベルマを受け取ると、じりじりと後ずさる。ベルマは尚もけたたましく殺せと騒ぎ立てるが、その指示に従う者はいない。馬扱いしていた異形獣は、もう奴らの手には負えなくなっているのだと分かる。
 異形獣は手近にあった檻に爪を振り下ろす。
 がぁん! がぁん! 凄まじい音が響く度に、頑丈な鋼鉄の格子が大きく凹んでいきやがる!
「やめろぉおっ!」
 無駄だとはわかっている。それでも、あたしは異形獣に体当たりをしようと駆け出した。まるで虫でも払うように、ノコギリの歯のような尾があたしの頭へ振り下ろされる。世界が静止して洞窟の中に反響していた波の音が、シャンテの悲鳴が、ゆっくりと消えていく世界に、真っ赤で刺々しい死が夕暮れの日差しのように傾いてくる。簡単に逃げられる速度なのに、縫い留められたように目が離せない。
 きん。
 一つ澄んだ音が響くと、まっすぐ上を向いていた尾が大きく揺らいだ。あたしの体を温かい何かが抱きとめると、尾から引き離される。真紅の尾が水飛沫を上げて落ちたと同時に、異形獣の絶叫が響き渡った。
「遅くなってすみません。運が悪く、金ピカのガメゴンに遭遇しましてね」
 あたしを下ろしてにっこりと笑ったレナートは、瞬く間に異形獣を切り伏した。まるで海老を腹の辺りで千切るように手の蛇腹部分を切り飛ばし、足の関節に剣を差し込んで横に切り裂けば足がすこんと外れてしまう。念のために角を切り落とすと、震え上がるような恐ろしい声をあげた。視線を廻らせば、指針監督官達の姿はもうなかった。
 黄色い光が消えて力尽きた異形獣から視線を外すと、レナートは檻の鍵に剣の刃を当てる。こんと軽く叩くだけで、錠前が壊れて地面に落ちていった。
「姉さん!」
 シャンテが飛び出した次の瞬間、彼女の柔らかな感触があたしを抱きしめた。真実を知って絶望しただろうに、あたしがバケモノに殺されそうになったのを本気で怖がって、こうして互いに生きている事を心から喜んでいる。あぁ、姉さん! 妹の涙に、喜び溢れる声に、あたしも涙を堪えられなかった。
「ごめんな、シャンテ。今まで、本当にごめん」
 ベルマの言う通り、魔法生物の最低限の権利すらシャンテにはなかった。リンジャハルの大災害で死んだシャンテではなく、あたしが奇跡的に生み出した人型の魔法生物だから、あるべき記憶などあるはずがない。それなのに、あたしは嘘を吹き込んだ。記憶を蘇らせようと、無駄にシャンテを苦しめた。
 嘘で塗り固められても幸せだった日常。それはいつかは終わる。シャンテが喉に埋まった宝石に気がつく前に、あたしは真実を告げなきゃいけないって分かってた。分かってたんだ。
 でも、出来なかった。
 シャンテは、もう、本物のシャンテと同じくらい大事な存在だったんだ。
 大事にしたかった。二度と失いたくなかった。死んだシャンテに注げなかった幸せを、この子に存分に与えようって誓ったんだ!
「リンジャハルで死んだシャンテと、お前は違う。それでもお前は、あたしの妹だ。誰が、なんと言おうが、あたしの妹なんだよぉ!」
 華奢な体を折れんばかりに抱き締める。ずぶ濡れで泥だらけな体が押し当てられて、リンジャハルの公演に着た最後の舞台衣装と同じものをわざわざ作らせたってのに汚れちまう。ラウラリエの造花をあしらったコーラルピンクのオフショルダーのドレスは、シャンテのお気に入りだってのに。涙が止まんなくって、シャンテの髪を濡らしちまうって分かってる。でも、想いが溢れてどうしようもなかった。
 あたしの背中に、そっとシャンテの腕が回る。
「確かにショックだった」
 でもね。胸にシャンテの暖かな息が掛かる。
「真実を知った今、手に入れたの。記憶を失う前のシャンテじゃない、私だけの本当の気持ちを…」
 そっと胸が押されて、あたしは力を抜いた。
 エテーネ王国で開かれた公演を記録した、記憶の結晶から再現した完璧な妹の姿。瞳の色も、ぱっちりとした目元も、通った鼻筋も、健康的な頬の色、唇の形に歯並びまで。幼い頃から妹を知る誰もが、見抜く事ができなかった。
 器は簡単にできた。
 人の形の器を魔法生物とするのは、親父にすら成し遂げられなかった偉業だ。
 でも、そんな事はどうだっていい。
 魔法生物の性格は起動直後にある程度、誘導はできる。しかし同じ製造過程を経ても、気性が荒かったり、逆にのんびり屋だったりと、魔法生物には個性が存在した。命令すれば、魔法生物はその個性も押し殺して従ってくれるだろう。だが、個性を消す事はできなし、書き換える事もできない。親父はそれを『魂』と仮説立てていた。
「私にとっての姉さんは、他の誰でもない、あなただけよ」
 大災害の日から、二度と見れないと諦めていた笑み。あぁ。見間違えるなんてあり得ない。腕に力を込めて抱きしめたあたしを、シャンテは強く抱き止めてくれた。
 妹は帰ってきた。あたしの元に、帰ってきてくれたんだ。