三段論法
天の神よ、地の人よ。彼の者を讃えよ。
その知恵と力を友の為に尽くせし、キュレクス。レトリウスの無二の親友である。
行き倒れし放浪者の『静かに眠りたい』という願いの為に、レトリウスはその小柄な体を背負いゆっくりと四つの山を越えた。三日の後に目覚めると、放浪者は一杯の水と五つの果実を得て、瞬く間に活力を取り戻し、自らをキュレクスと名乗ったのである。
レトリウスと友情を深めたキュレクスは放浪の旅を終え、マデ氏族に多くの恵みを齎した。
二人の絆は時を超え、永遠に語り継がれている。
■ □ ■ □
窓の鎧戸を開けると、澄んだ朝日が家の奥にまで差し込みました。
チュラリスが大きな箒をよたよたと持って外の掃き掃除に向かえば、ジョニールが布巾を持ってカウンターや商品を磨き上げる。そうしている間に朝食が整い、家族が顔を合わせてテーブルを囲むのです。食後のお茶を楽しんだ後、チュラリスとジョニールが競い合って店に掛けられたプレートを『営業中』にひっくり返します。開店をいまかいまかと待っていた急ぎのお客様がお帰りになられると、店に流れる時間はずいぶんとゆっくりとなります。その頃合いにカウンターの内側に置いた腰掛けに浅く座り、今朝投函された新聞に目を通すのです。
錬金術師達はまずは朝刊にてバザーの相場を確認し、素材の値段やその素材からできる錬金術の品の相場がどう動くかを予想します。この読みが、店の収益に大きく反映されるのです。
護衛の役目を果たしていた魔法生物の居ない状態では、王都の外で素材を獲得する量が少ない状態が依然続いています。ここ数年では見た事もない高騰ぶりに、頭が痛くなりますね。それでも、神が垂らした蜘蛛の糸があるからこそ、この程度の値段で収まっているのです。もしもレナートさんがいなかったら、薬草一つに家が買える値段が付いた事でしょう。想像するのも恐ろしいですね。
バザーの相場を流し読み終えると、一面に視線を落とします。
王都に帰還したクオード軍団長の命令にて、魔法生物の破棄という指針書の是非を一旦白紙に戻した事が大きく記されています。指針監督官の職分を超えて国民を脅迫し、魔法生物の破棄が国民の生活を著しく損ねた事に、軍団長は特に苛烈な行為に及んだ指針監督官を軍法にて裁く事を決定したと書き立てられています。
ここには書かれていませんが、異形獣を使役した事が決定打になったのでしょう。実際に軍団長が指針監督官達が使役している状況を目撃していなくとも、現在王国の民を脅かす脅威と何らかの繋がりがある者を野放しになどできません。異形獣との関係を洗い出さぬ限り、ベルマ達は私達の前に姿を現す事はないでしょう。
「ようやく安息の日々が訪れたけど、ちょっと遅かったね」
「ルオン。そんな事を言ってはいけませんよ」
新聞を畳んで背を伸ばし声の方を振り返れば、カウンターの裏にある棚があるばかり。『イヒヒッ』と引き攣った笑い声が、この棚の裏にある弟の部屋から聞こえていました。
「明日からの一面記事は『転送の門封鎖事件』で埋め尽くされていくんだろうね。王立アルケミアの怠慢のことは書かないで、修繕依頼を断った僕達を無能だって揚げ足取るつもりなんだよ。安息の日々も今日限りだね」
諦めを含んだ声に、私は嘆息して頷きました。
エテーネ王国の上空には、権威の象徴たる浮島が浮かんでいます。錬金術の結晶である浮島に、王宮が、王族や要人の居住区が、そして王国の重要施設が移転していきました。浮島には結界が張られて虫一匹入り込めず、転送の門を遮断すれば何人も入れぬ完璧な防衛を実現しました。
そんな浮島と地上を結ぶ唯一の手段である転送の門が故障したのは、魔法生物の破棄で王都が混乱していた時期でした。
安全上の理由で封鎖していると公表されていて、嘘ではありません。転送機能は動いています。正しく転送先に転送されているかが不明である事が、故障と判断されたのです。
最初に転送の門の不調に疑問を持ったのは、軍部の兵士が戻らぬ事でした。
王宮に報告を上げ、戻ってくる新兵でさえできる簡単な業務。しかし、王宮へ行った兵士は待てど暮らせど戻ってこない。様子を見に行った同僚も、同じく転送の門を潜ってそれっきり。それが三人も続いてしまえば、もう、偶然とは考えられなくなるのも当然でしょう。
更に、王宮に上げる食材の目録を持って、定期的に王宮から降りて来るはずの人もこない。
転送の門を使用した人々が、どこへ転送されたかも未だ分かりません。失踪者を生み出した結果に、転送の門は故障していると結論付けられたのです。
転送の門が故障した際に修繕を行うべきアルケミアとも繋がらぬなら、王都にいる錬金術師に依頼が出されます。しかし、王立アルケミアの錬金術師が担当している整備を、何の引き継ぎもなく王都の錬金術師にやらせようだなんて、一夕一朝の話では済みません。王都で店を構える錬金術師達はこの難題に『すぐには直せない』と返事をしたでしょう。私だって、先輩方と同じ答えを返しました。『日々生きる為の出費を気にせず』『湯水のように研究費用を用意して』『年単位』で『直せる』。それを十文字以内で簡潔にまとめたのが『すぐには直せない』なのです。
この転送の門の不調は、まだ一般人が知らぬ事でした。
しかし、魔法生物の破棄に躍起になり王都を引っ掻き回した指針監督官が拘束され、人々の生活が落ち着けば目に留まるのは時間の問題です。ルオンのいう通り、新聞記者が次の話題として転送の門の不調を挙げ、明日にでも記事に書くのは冗談と言い切れません。
王立アルケミアは王国が抱える専門機関。王国にペン先を向ける勇気がない記者達は、弱い我々にインクをぶち撒けるのです。指針監督官が連日来ていた時の売上も酷かったものですが、今暫く続いてしまうのでしょうね。
やれやれ。途中で失敗を確信したような暗澹たる気持ちを払うように、首を振りました。軽やかなベルの音が来店を告げ、来店者は店内に元気な挨拶を響かせたのです。
「こぉんにちわぁ! 配達だぞぉ!」
開いた扉を潜ったのは、私達の腰くらいの大きさしかない、ふわふわで猫耳のぬいぐるみ。いいえ、このエテーネ王国が存在するレンダーシア大陸から、海を隔てた大地に住むプクリポという種族です。赤い毛皮にふわふわパンケーキな肌、屈託無い笑みと華やかな雰囲気を振りまく彼の手には大きな木箱が抱えられています。初めてのおつかいに来た幼子のような大きさでも、木箱を頭上に持ち上げてどっこらしょとカウンターに乗せてしまいました。
ぴょこんと飛び上がってカウンターにお腹を乗せると、配達の品が書き連ねられた目録が差し出されます。にっと笑った拍子に、猫耳に似合う可愛らしい糸切り歯が覗きます。
「全部あったら、サインして欲しいんだぜ!」
では、早速。私は荷物を改めつつ、暗くなった気持ちが吹き払われるのに気がつきました。
彼はルアムさん。レナートさんが探していた『ルアム君』の一人です。
探していた『ルアム君』は実は二人いて、同名の人間の少年と男性のプクリポだったなんて想像もできませんでした。エテーネ王国にも他種族は存在しますが、どの種族も片手で数えられる程度です。レナートさんがお会いした当時プクリポの方の『ルアム君』は具合が悪かったので、医療機関に問い合わせていない事を確認できたそうです。だからこそ、人間の少年の方の『ルアム君』を探していたのだそうです。
無事に再会を果たした『ルアム君』達は、現在、レナートさんと共に採取の仕事に従事しています。しかも二人の『ルアム君』は採取に行きたい人を募って、彼らの護衛をしているのです。魔物が強い地域や危険な場所、難しい素材の採取はできませんが、多くの素材が王都キィンベルに齎されています。基礎素材の相場は、ここ数日で随分と安定してきています。
本日の配達依頼の品は多くなかったので、直ぐに確認を終えて羽ペンを手に取ります。そこで、赤いぱっちりとした瞳が私の顔をじっと見ているのに気がつきました。
「私の顔に何かついていますか?」
んーん。笑った形の唇をへの字に結び、気付け草の束のような髪が左右に揺れます。
「この前、ティプローネ高地に緊急依頼の素材取りに行った時に、自由人の集落の方に行ったんだ。そこで錬金術師に会ったんだけど、飲んだくれのおばちゃんでさー」
「ワグミカ女史ですね」
名前を言い当てた事に、大袈裟に驚いたのはプクリポならではなのでしょう。
ワグミカ女史はエテーネ王国の錬金術師なら一度はその名を聞くだろう、王立アルケミアの所長を務めた人物です。先代であれ王立アルケミアの所長の座を有した事は、エテーネ王国最高の錬金術師の代名詞。あの方ならば転送の門を修理できるでしょうが、例え軍団長が頭を下げにいき協力を仰いだとしても応じないでしょうね。
「女史はお元気でしたか?」
「全然死ななそーだけど、人生つまんなそーだった。 笑かしてやりたいって血が騒いだけど、なんか目が昇天の梯の先に行っちゃってて、目の前のオイラを見てくれてなくって悲しかったな」
そうですか。相槌を打ちながら、私の胸も哀愁に冷えていました。
ワグミカ女史は最高の錬金術師に付随する全ての名誉を捨て辞表を提出し、『時の指針書』を燃やして、自由人の集落に降ってしまいました。エテーネ王国の民がそれを成すという事は、王国のやり方に強い拒絶と絶望を抱いているに他なりません。
あれほどの情熱に燃えていた方が、絶望に溺れてしまう様を想像するだけで胸が痛みます。生きながらに死んだと、親友の死に立ち会った時の悲しみがまざまざと蘇ります。
「旅の娘からバントリユの化け物の話を聞いたって凄んできてさ」
異形獣の噂は自由人の集落にまで届いたようですね。
「王都に行くなら、ヨンゲに手紙を書くから持っていけ! ってペン持ったのはいーんだけど、カクテル作ってるみてーにブルブル震えててさー。結局、お供のキンキラのモーモンが代筆してくれたんだ」
ヨンゲ所長に女史が手紙を…? 疑問が口をついたようで、うん、と肯定が返されます。
「この後、相棒と届けに行くの。あの俗物のデコに突きつけて参れ!って念押された」
私は首を捻る。
王立アルケミアの所長たるヨンゲ氏の邸宅は、当然王都にあります。自由人の集落から王都へ戻る『ルアム君』達に、手紙を託すのは理に適っているでしょう。しかし王立アルケミアの所長は最も優れた錬金術師であり、万が一の状況に備えて王立アルケミアに滞在しています。王都に降りる度に響く豪遊の噂を聞かぬのなら、ヨンゲ所長はキィンベルにはいないでしょう。第一、王立アルケミアも転送の門で繋がった浮島にあるのです。
どうやって、ヨンゲ所長に手紙を突きつけるというのでしょう?
「秘密の通路の通行書持ってるなんてすごいね」
ヒヒッとルオンの笑い声を聞いて、丸い尻尾がぼんと膨れ上がりました。
「わ! 棚が喋ってる! すげー。王都って棚も喋るんだなー」
ミミックやパンドラチェストがある世界を渡る冒険者は、棚から声が聞こえる事に疑念を持たぬのでしょうか? それとも芸の道を行く者ならではの、冗談なのかもしれません。
人見知りの激しいルオンが声を掛けるとは、人徳ならぬプク徳のなせる業でしょうね。くるんとあざとく首を傾げて、猫撫で声で棚に尋ねます。
「ねーねー。棚の旦那。秘密の通路ってなーに?」
「その話、自分にも聞かせてもらえないだろうか?」
来店を告げるベルと共に開かれた扉は、外の光を店内に投げ込みました。くっきりと切り取られたがっしりとした体格の輪郭が、颯爽と店内に足を運ぶ。腰に穿いた二本の剣が歩く度に、ちゃりちゃりと金具と打ち合わさり音を立て、王都の住民なら決して立てぬ砂利が擦れる足音を響かせました。扉が閉まり店内の明かりに照らし出されたのは、腹に穴が開く度に治療をしてやった腐れ縁の顔でした。
「久しぶりですね、ファラス。いつお戻りに?」
驚きに毛を逆立たせた猫耳が、目を見開いて真横に立つ影を見上げます。
堂々と張った胸板や上腕の起伏が、日に焼かれた肌色と黒に塗り分ける。肩に掛かる硬い白金の髪は、獣の鬣のように後ろに撫で付けられている。澄んだアイスブルーダリアの色合いの瞳ですが、にこりと笑った頬にぽっかりと深く刻まれる笑窪に冷たい印象はないでしょう。胸元に手を当て目を軽く伏せて会釈する洗練された動作は、彼が粗野な冒険者ではないと誰もが察する事でしょう。
当然、腐れ縁の私にはそんな上品なご挨拶はありません。ファラスは私に向き直ると、『昨日だ』と短く答えました。そして腕を組んで、困ったように項垂れたのです。
「マローネ様の元にご報告に参りたいのだが、転送の門が使えぬと途方に暮れていたところだ」
プクリポであったら耳が垂れていそうな沈んだ雰囲気から、リンジャハルの大災害で行方不明になった主は見つからぬままのようですね。主の妻であるマローネ様や、まだ父の顔を知らぬ嬰児の為に、そして偉大なる主がこのような事で死ぬ訳が無いというファラス自身の確信から、行方不明者が全員死亡と処理された今も、彼は主を探してレンダーシア中を駆けているのです。
私はファラスを仰反るように見上げるプクリポに示しました。
「ルアムさん、彼は私の旧友のファラスです。ファラス、こちらは旅人のルアムさん。キィンベルで枯渇している素材調達のお手伝いをしてくださっています」
ほぉ。ファラスの口から感嘆の吐息が漏れると、膝を折りカウンターに腹這いになるプクリポと目線を合わせ、深々と頭を下げたのです。
「ルアム殿。エテーネ王国の臣民として、ご助力に心から感謝いたします」
その丁寧すぎる態度にカウンターから転げ落ちてしまうと、ファラスの顔の下に猫よりもしなやかに潜り込む。たしたしと蒸しパンのような手が膝を叩いた。
「ファラスのあんちゃん、頭あげてよ。一緒に棚の旦那のお話聞こーぜ!」
うむ。立ち上がって棚を見据えたファラスと、再びカウンターに乗り上がってぶらぶらする足を待っていたかのように、棚からヒヒッと笑い声が聞こえました。
「転送の門の原型は、錬金術師の祖ユマテルが生み出した技術だ。それを発展させ、改良を加えた最新の状態がキィンベルの軍部区画に置かれた転送の門なんだ」
つまりね。棚は勿体ぶるように、間を開けます。
「型が古いものは機密の問題から技術の凍結か破棄かされるんだけど、錬金術は完璧ではないという前提から、必ず同じ条件で再現できるだけの資料が残っているんだ。王立アルケミアなら、いつでも再現できる。そして再現された一つが、所長の特権の一つ『秘密の通路』なんだよ」
『秘密の通路』というだけあって本来は秘密であるのですが、最近はヨンゲ所長のせいで公になってしまったのです。ヨンゲ所長は非常に女性がお好きな方で、酒場で気に入った娘に甘く囁かれれば、国家機密すら喋ってしまうような所がありましたからね。
「では、秘密の通路を使えば王宮へ行けるのか?」
前のめりになるファラスに、私は緩く首を横に振る。
「秘密の通路と呼ばれるそれは、王立アルケミアと歴代所長に与えられた邸宅を繋いでいます。王宮に行く事はできませんし、アルケミアの機密を守る為に誰もが使える訳ではありません」
しかし。私はきょとんと見上げるプクリポさんを示します。
「先代所長ワグミカが現所長ヨンゲの元へ行くよう指示したのなら、彼らなら秘密の通路を通る事ができるでしょう」
そうそう。棚は同意して引き攣った笑い声を漏らしました。
「彼らに王立アルケミアの錬金術師を連れてきてもらえれば、転送の門を直してもらって王宮に行けるようになるよ」
「なんという名案!」
ファラスはその大きな手をプクリポの脇の下に手に入れると、軽々と持ち上げてしまいました。軽々と天井に舞い上がった赤を受け止めると、ぐっと伸びた手に高々と掲げられる。道が目的地へ繋がった喜びに、驚きに目を白黒するプクリポの様子など気がつかないでしょう。
「ルアム殿! このファラスも、同行させてもらう! こう見えて、腕には自信があるのだ! 」
「え! あ! 待って! 相棒の意見も、き、聞かな、わわっ!」
勢いよく振り回されては、元気に跳ね回る種族でも目を回してしまうのですね。あいぼーう! 悲鳴がぐるんぐるんと振り撒かれる中で、入店を告げるベルが鳴ったのです。
「兄さんったら、そんな大声出さなくても聞こえるよ」
ファラスの身に染みついた剣士としての、動きだったのでしょう。ぴたりと動きを止め、反撃出来るように肩幅に開いた足に力が籠もる。すっと巡らせた視線が入り口に立つ少年へ向けられると、後ろに撫で付けた髪から、一房がはらりと額に落ちたのです。
背に背負った弓が歩く度に背で跳ね、腰の矢筒からざらざらと矢が動く音が聞こえます。森の緑に溶け込むように染色された原始獣のコートが、高度な文明に臆する事なく堂々と踏み込んできます。ふんわりとした髪の輪郭が朝露に濡れたラベンダーの色の線を描き、逆光に沈んだ闇の中から双眸が煌々と光っていました。店内のまろやかな明かりに闇は叩き落とされ、小麦色の健康的な少年が立っていました。
ファラスの手から液体が滴るように抜け出した赤毛が、少年の足にしがみつきます。あいぼーう。情けない声に、少年は呆れたように一つ息を零して優しい笑みを浮かべました。
低い声が一つ名前を囁くと、少年は笑みを深めたのです。
「はい。僕もルアムです。初めまして、ファラスさん」
一枚の手紙を囲んで頭を突き合わせる大中小の影を見遣っていると、背後からヒヒッと声が漏れました。
「彼らがアルケミアの錬金術師を連れてきてくれれば、僕らが転送の門を修繕できませんでしたって書き連ねられる事はないね。よかったよかった」
明日から気兼ねなく、家族にふわふわパンケーキが焼けるよ。そう嬉しそうに語るルオンに、私も口元が和らいでしまいます。リンカの元に新しい魔法生物の注文が殺到しているとはいえ、この店が傾いて良い事など何一つありませんからね。
ねぇ、兄さん。ルオンが隣の部屋から声を掛けてくる。
「覚えてる? 魔法生物を破棄しろって言い出したの、軍団長が遠征に出てすぐの頃だって…」
えぇ。私は小さく頷きました。
クオード軍団長が王都に滞在していれば、今回の強引とも言える魔法生物の破棄騒動は起きなかったでしょう。魔法生物の破棄が『時の指針書』に書き込まれたのは、反対するだろう軍団長が長期で王都を開ける頃合いを見計らったかのようだったのです。
ルオンの言う通り、タイミングが良過ぎたでしょう。
「ベルマ達はシャンテの破壊が目的だったそうじゃないか。『時の指針書』に書かれていた、異形獣に影響を与える存在を無きものにしようとしたんだろうね」
レナートが辺境警備隊詰所で遭遇した異形獣を、ベルマ達は使役していました。指針監督官は軍部の特殊部隊とはいえ、異形獣の影は王国の内部にまで伸びているようです。
しかし、異形獣に影響を齎す魔法生物を予見しておきながら、シャンテそのものを特定する事はできなかったのは何故なのでしょう。
異形獣の被害にあった兵士達、そして今回転送の門で失踪した人々の『時の指針書』には、自分の身に降りかかる未来の事について何も記されていなかったそうです。
不鮮明な『時の指針書』。
未来が見え、最善の未来を選び取ってきたエテーネ王国が揺らいでいるように見えました。
「異形獣がエテーネ王国に生息する魔物の変異種じゃないなら、魔法生物である可能性が高い。大きければ大きいほど、強ければ強く、素早く動ければ動けるだけ、優れたものにするのは個人じゃ不可能だ」
人型の魔法生物という奇跡の産物であるシャンテは、外見の同年齢の女性よりも非力です。ただし、彼女は戦う力のないシャンテを目指して作られているので、力がなくても早く走れなくても問題はないのです。しかし、人型の魔法生物の技術が確立したとしても、力の強い兵士を生み出すとなると途方もない予算と労力が必要になるのです。それはどんな形の魔法生物にも当てはまります。
潤沢な資金と労力。真っ先に浮かんだのは王立アルケミア。
そして過去に遡って浮かんだのは、先ほど話題に上がったワグミカ女史でした。
「ワグミカ女史が辞表を出したのは、異形獣の研究を拒絶する為…?」
彼女は錬金術が人々の生活をより豊かにすることに、誇りを持っていました。そんな女史が錬金術を捨てた原因が、無辜の民を苦しめる悪しき錬金術を強いられようとして拒絶したからでは? 『時の指針書』を焼き捨てたのは、異形獣の研究をしろと書き込まれていた? 酒を喰らい心身共に摩耗していく事で、女史が絶対に加担できない状況を生み出しているとしたら…。
女史の次に所長に就任したヨンゲ。
ワグミカ女史が俗物と呼ばわるのには、何らかの理由があるのでしょう。例えば、異形獣の研究をする代わりに、錬金術師最高の栄誉である所長の座を与える…と唆されたとか。
しかし『時の指針書』に、王立アルケミアの所長に就任せよと書かれていたでしょう。誰がどんな好条件をチラつかせても、『時の指針書』に書き込む事はできないのです。
ただ一人。
時見の神殿にて『時の指針書』の書き換えを行う、時見の祭司以外を除いて…。
「この問題は、この王国の最も高い所まで及んでいるのかもね」
ルオンが向けている疑惑へ、私も目を向けた。遥か高みから光のごとく降り注ぐ、未来への啓示。一体、この国で何が起きようとしているのでしょう。
腰の鞄に収められた『時の指針書』が、重苦しい鎖のように感じられたのです。