死神は魂の道行きを定める - 前編 -

 こんなに走った事など、生まれて初めてだ。
 樽宛らに蓄えた腹の贅肉が、走る毎に上下に激しく揺れて膝に伸し掛かり激痛を走らせる。四十肩の痛みに満足に触れぬ腕を、水の中でもがくように振って少しでも早く進もうとした。しかし、尻から太腿にへばりついた肉は砂を詰めたように重く、私に座って休ませようと限界をちらつかせる。肉をまとった首は顎と胸を繋げ、隙間に流れ込んだ汗を集めて滝として下半身に向けて放流した。心臓はこれ以上もない程に激しく脈打って豊満な胸を大きく振るわせ、王立アルケミア所長であるこのヨンゲの優秀な脳を血流で潰す勢いで揉んでいる。
 はっ。はっ。熱い息遣いが空間に響いている。覚束ない駆け足で激しく揺れる視界に映るのは、エテーネ王国の叡智が集う場所とは思えぬ凄惨な空間だった。
 天使の羽で織られたと評判の極上の柔らかさを持つ絨毯は、夥しい血を吸って乾き、最早、廃墟に放置された床板のようにガタガタと波打っていた。壁は芸術家が真紅の塗料をぶち撒けたように、芸術的な線で彩られている。
 床に転がっているのは、王立アルケミアで研究をする事を許された栄誉ある錬金術師達。ある者は胴体を切断されて絶命し、ある者は手足を断たれて失血して息絶え、ある者は踏み潰されて体がひしゃげた後も通路の真ん中にいた為に細かな肉塊と成り果ててしまった。
 息を吸えば口の中に血が溜まるような、濃厚な血の匂いで溢れかえっていた。
 どうして、こんなことになった? いや、理由は分かりきっている。
 口封じだ。
 王立アルケミアで研究されていた戦闘向きの魔法生物が残されてさえいれば、全滅は避けられただろう。しかし魔法生物を取り上げられてしまえば、錬金術師は魔力に優れた魔法使いだ。身体能力は優れてはおらず、距離を詰められ攻撃されれば抵抗できずに致命傷を負う。魔力が尽きれば赤子と変わらぬ。
 魔法生物の破棄を強いたのも、この襲撃を完璧に遂行する為だろう。
 私はどこの研究棟の錬金術師か知れぬ手を踏んで、大きくよろけた。所長である私を煩わせおって! 罰として手を蹴り飛ばすと、勢いよく壁に激突した。
 想像以上に大きな音がして、私は体を硬らせた。ずずっと建物が揺れ、窓硝子が音を立てて軋む。
 恐らく、最後の抵抗をしている研究棟で戦闘が始まったのだろう。私達を襲撃している連中は大きな物音に惹きつけられているようで、先進研究区画に向かう廊下は耳が痛くなるような静けさだった。先進研究区画から証拠を回収し、所長室から逃げ出すのだ。転送装置が生きていれば、先進研究区画から所長室に飛ぶ事が出来る。この先にある扉に飛び込んで閉鎖できれば、私の勝ちだ。精々、派手に暴れて注目を集めてくれたまえ。にまりと笑みが浮かぶ。
 アルケミアの研究者達を皆殺しにし、全てを闇に葬るつもりだ。
 だが、私が生き延びれば全てが水泡と帰す。
「何が何でも、生き延びてやる!」
 そして全てを明らかにし、計画を台無しにしてやるのだ!
 気力を奮い立たせ、粘着く血を引き剥がす。足元はとても重量のあるものが踏み締めて、階段と錯覚するような凹凸を作っている。この先にある先進研究区画は研究員の少ない行き止まりで、死体の数は減り、錬金術研究所の頂点に相応しいあるべき姿を残していた。
 天井から吊るされた荘厳な光を放つ照明は、一日を通して窓もない空間でも昼間のように施設を照らしていた。壁は壁紙を引き剥がし頑丈な土台であろう石壁が剥き出しになる程に、数え切れぬ鋭い鉤爪が深く刻み込まれている。研究棟の寄木細工の床は鏡のように滑らかで、威光を示すような豪奢な装飾された壁が堅実の美を引き連れてそそり立っている。柱の間に並ぶ培養液を満たしていた水槽は、尽く破壊され鋭い牙のように残骸を尖らせる。床は培養液が乾いて成分がゼリー状に残り、表面を覆う油の膜が照明に七色に照っていた。
 錬金術師なら憧れる頂点。
 魔力や体力を譲渡する術に秀でていた私は、故郷では錬金術師というより名医として知られていた。様々な薬を生成する錬金術師が、医師に従事するのは珍しくない。しかし、私は薬だけではなく、譲渡する魔力や体力の質で薬の効果を高めるという手法で一つ抜きん出ていたのだ。『時の指針書』に王立アルケミアで研究を行うべしと書き込まれた時、両親は涙を流して喜び、故郷の人々は両手を上げて盛大に送り出してくれた。
 若かった私は希望を胸に、エテーネ王国の頂点へ足を踏み入れた。
 待っていたのは厳しい現実だった。
 エテーネ王国から選りすぐった錬金術師達は、皆が皆、優秀だった。私の研究は華々しい成果を齎す研究から程遠く、時期所長と期待されたワグミカは特に優秀だった。王立アルケミアの隅の研究室に閉じこもって、医師業の傍でしていた魔力や体力を保管する研究に明け暮れたが虚しいばかり。それでも、魔力や体力を物質などに保管し必要な時に誰でも取り出せれば、人々が直面する多くの危機を救うだろうと確信していた。一度、ワグミカと議論を交わした時『良い研究だ』と同意してくれたのを今でも覚えている。
 鬱々とした日々の転機は突然訪れた。
 当時エテーネ王国第一王位継承者だった、ドミネウス王子が王立アルケミアを視察なされたのだ。王族の視察は定期的に行われていて、王子が来る事も特別ではなかった。王立アルケミアは年に一度その成果を王宮に報告する義務があり、大きな成果は王都で国民に向けて披露された。王族が時見の結果から注力すべき研究を命じる事もあった。
 青紫の髪をゆるく首元で纏めた、アルケミアの錬金術師達が檜の棒に見える偉丈夫だ。端正な顔立ちは厳しいが、将来の王のお顔と見れば相応しい威厳さを醸していた。
 そんな王子が私の研究室に足を運び、『素晴らしい』と喜びを露わにした。
「これぞ、余が求めた栄光の未来へ至る力」
 激励に感動した私に、王子は熱く語り出した。
「破滅の未来が存在するとして、未来を変えられると思うかね?」
 そう問われて、私は専門外ながらに頷いた。
 なにせ、エテーネ国王は時見の神殿で未来を見るし、『時の指針書』には持ち主の未来が書き込まれる。この王国が滅びるような大きな災いが訪れるとしても、この国ならば未来を変えるなど容易いと思うのは私だけではないだろう。
 しかし、ドミネウス王子は頭降った。
「破滅の未来を視るのは容易い。それは巨大な可能性として、今と未来の間に横たわっているからだ。重要なのはその横たわる破滅の未来を、いかにして避けるかだ」
 私は相槌を打った。真っ黒い雷雲が迫れば嵐が来ると誰もが分かる。その嵐をどうやって、やり過ごすかを見極めるのは難しいのだろう。頑丈な家に閉じこもって嵐が過ぎ去るのを待っていても、土石流が家を飲み込み死ぬかもしれない。巨木に落ちた落雷が森を焼き、逃げ場を失うかもしれない。人々がどの未来を選べば安全に嵐を越せるかを『時の指針書』に記す為、王族達は未来へ目を凝らし王国を導く義務があった。
「余は破滅の未来から王国を守ろうと、時見に挑んでいる」
 しかし。王子の厳しい顔が悲しげに俯かれた。
「余、一人では見えぬ。より多くの力が必要なのだ」
 なるほど。私はドミネウス王子の求めるものを理解した。
 実は研究の中でエテーネ王国の民だけに宿る、魔力因子が存在する事を突き止めている。同じレンダーシアの人間でも、エテーネ王国の民でない者には存在しない。王族に近ければ近い程に魔力因子は強く、辺境の村の子供ですら弱くとも持っている。
 エテーネ王国の民だけが持つ特別な力。
 それは時渡りの力と呼ばれている。
 最も身近なものは私達の未来を示す『時の指針書』を書く為、未来を覗き見る時見だ。この時見の精度を上げるのに、エテーネ王国の全ての民を招集するのは難しいだろう。しかし、この魔力保管の技術と、その魔力から時渡りの力だけを抽出出来れば、王子の望む破滅の未来を変える道筋を見出せる助力になるかもしれぬ。それを、王子は望んでおられるのだ。
 私は無力に打ちひしがれる王子を励まそうと、殊更声を明るくしていった。
「このヨンゲも、微力ながら王子のお力になりましょう!」
 王子は驚いたように目を見開くと、ふっと目を細めて微笑まれた。
「うむ。其方の研究が実を結ぶ事を期待しておるぞ」
 差し出された大きな手を、私は両手で捧げ持った。『時の指針書』にも研究に邁進すれば良い成果が結ぶと書かれた私は、研究に没頭していったのだ。
 王立アルケミアは定期的に行われる人事異動で、随分と様変わりした。病気の治療や健康維持に寄与する不老長寿の研究部門が縮小され、魔法生物の部門が拡大する傾向が見て取れた。私の研究にも多くの予算が与えられるようになり、助手も付くようになった。私は所属し続ける錬金術師の中では古株の方となり、新たな所長としてワグミカが就任して随分と経った頃だ。
 所長室に呼び出された私は、大きな机の前に立つワグミカと向き合っていた。
「王都で酒池肉林の宴を開いたそうですね」
 私は二日酔いの頭を抱える。だって、研究室で飲むお酒は美味しくないし、王立アルケミアには美しい女性が圧倒的に足りない。私だって既婚者に手を出さない常識は弁えているんだから、このくらいは目を瞑ってほしいものだ。
 助手達も他部署の同僚達も、私の催す宴会を楽しみにしてくれていた。逆に目の前にいるオリハルコン並の堅物は、何度誘っても酒も嗜まぬし宴会にも顔を出さない。
 所長室に呼び出される時は、決まって注意のお小言である。
「まぁ、貴方は二日酔いという罰が、既に神から与えられています。これ以上は言いますまい」
 ワグミカは人間の女性としても大変小柄で、同じく小柄な私と比べても胸くらいしかないだろう。くるりと内巻きになった髪は愛らしく、大きな瞳やふっくらとした頬は子供のあどけなさを彷彿とさせる童顔っぷりだ。それでも丁寧に前に重ねられ指先まで伸ばして揃えた所作や、ぽってりとした唇が紡ぐ錬金術師の祖と討論できるような知識量が、所長に相応しき者だと皆に認めさせていた。ワグミカはふわりと誇らしげに微笑むと、ゆったりと頭を下げた。
「ヨンゲ殿。魔力保管系統を、魔法生物に制御させる研究が完成したと聞きました。まずは、完成おめでとうございます」
 研究が完成すると、所長直々に祝いのお言葉をいただく。所長のワグミカはそんな儀式めいた事をしたがったし、所属する錬金術師達は憧れの所長の言葉をいただける栄誉に喜んだ。互いに所属年数が長いだけあって浮き立つ事はないが、所長直々の祝辞は感慨深く染み入った。
 王子の激励の後、私は『時の指針書』の方針に従って保管するエネルギーを魔力に限定して研究を深めた。魔力切れを起こした場合、魔力回復の方法は魔力を含んだ精製水を摂取する他ない。しかし、この研究があれば、昏睡して精製水を摂取できない状況でも魔力を対象に補充し命の危険を遠ざける事が出来る。特にエテーネ王国では魔法を使う分野が盛んなだけに、需要も救われる命も多いだろう。
 最初は古くは二つ目の神話にあった『祈りの指輪』に着想を得て、保管方法を道具の形状にしようとした。しかし『時の指針書』が魔法生物に組み込むよう示したのだ。
 確かに魔法生物が管理すれば、意識を失い道具を使えない対象者を助ける事が出来る。さらに魔法生物に魔力保管を制御させる事で、錬金術の補充なく連続した活動が期待できる。魔法生物の活躍の場はますます広がり、王国の発展に貢献するだろう。すでの多くの部署から、この研究を活用したいと申し出が寄せられていた。
「ありがとうございます」
 私もゆるりと頭を下げて祝辞を受け取る。ヨンゲ殿。名前を呼ばれて顔を上げる。
「この研究を凍結し故郷へ帰りなさい。貴方の成果は世に広く伝えられ、故郷に錦を飾ることになるでしょう」
「何を言っているのです。この研究はこれから発展していくのですよ?」
 私が語気を強めて問えば、ワグミカは『わかっています』と苦々しく囁いた。
 ワグミカが私の研究を横取りし、己の功績にしようと考えていない事はわかっていた。そんな事をせずともワグミカが本気になって研究すれば、どの分野も五十年前進すると言われているのだから横取りなど必要ない。
「しかし、今はなりません。どんな良薬も、使い方を誤れば毒薬となります」
 使い方を誤れば。その言葉を汲んだ私は、声を潜めた。
「誰かが、私の研究を悪き事に使おうとしていると…?」
「私は錬金術に人生を捧げた身です。私は全ての権限、知識、命を賭けて、全ての錬金術師の研究が正しく使われるよう抗議します。しかし、それでも及ばぬ場合は…」
 肯定して頷いたワグミカは、己の無力を噛み締めるように唇を閉ざしてしまった。だが、その先は既に遠回しに言われていた。
 逃げろ。と。
 警告を受けても、いつだって逃げる機会がある。そう、私は自惚れていた。
 ワグミカが辞表を王国に叩きつけ、『時の指針書』を焼き払い、夜逃げ同然に自由人の集落に降った。人伝に聞いた話では、酒の溺れて廃人になっているそうだ。彼女は全てを賭けて抗議し、敗北したのだ。
 その後、私の『時の指針書』に王立アルケミアの所長になるよう書き込まれた。
 願ってもない栄誉だった。
 錬金術師なら誰もが一度は夢見る、王立アルケミアの所長の椅子に私は嬉々として座った。最高の座り心地で、権力も名誉も思うがまま。王都の美女達も所長の肩書きに、黄色い歓声をあげて持て囃した。故郷からエテーネ王国最高位の錬金術師誕生したという、吉報を伝えられたのが何よりも嬉しかった。
 研究は変わらず続けられ、魔法生物が生き物の魔力を収集し、保管し、放出するという一通りの成果が得られた頃から全てが狂い始めた。魔法生物研究の部門と連携し『時の指針書』の方針に従って、強固な魔法生物に私の研究結果を組み込む事になった。
 その魔法生物を見て、私は血の気が引いた。
 魔法生物の手には身の危険を感じる程に鋭い爪が生え、人間を遥かに上回る巨体を有していた。思わず後ずさって見た顔らしき部分には、目も鼻も口すらなく、巨大な丸い玉が嵌まっている。魔法生物は動物や魔物に似せた姿形をさせるが、これは魔物でも機械という鋼で出来た系統に似ていた。何をモデルにしたのかと問えば、お告げの通りに作ったと答えが返ってくる。
 魔法生物の頭から生えた角に、私の研究成果である魔力を保管する器官が宝石のように光を反射した。
 私の研究成果がどう使われようとしているのか、一目瞭然だ。
 培養液に浸っていながらに脅威を感じる存在が、人々に幸せを齎すなど想像もできなかった。その鋭い爪は私達を引き裂く為に存在したし、屈強な足腰は私達を追い詰める為にある。その尾は障害となる全てを薙ぎ払い、どんな抵抗も鋼のような外装に弾かれてしまうだろう。
 逃げようと思った時には全てが遅かった。
 一足先にアルケミアから降りた研究者は、数日のうちに死亡したと知らせが届いた。消されたのだと、私も逃げ出そうとすれば殺されるのだと瞬時に理解した。
 『時の指針書』に魔法生物を改良し増産せよ、と書き込まれるようになった。
 それに従っている間は、殺されるのを免れる。『時の指針書』は私が生き延びられる、最善の未来を知らせてくれているのだ。私は『時の指針書』に従い、魔法生物を生み出し改良していった。口封じに殺される未来など、書かれてなどいなかった!
 私の足は疲れに縺れ、何もない廊下で転倒した。
 もう少しで先進研究区画に着くからと、握りしめていた鍵が床に転がって音を立てる。床に押し当てた腹から、私を追いかけてくる複数の足音が這い上がってきた。この王立アルケミアを襲撃するものの足音ではない、軽やかな人間のものだ。
 肘を床に突いて上半身を捻れば、二人の人間と猫耳の魔法生物らしいものが向かってきていた。明らかに錬金術師ではない出立ちと、手にした武器に確信する。
 あれは私の口を封じ、証拠を隠滅させる為に差し向けられた殺し屋だ、と。
 赤い猫耳の魔法生物が、次の瞬間鳥のように滑空し頭上を飛び越えた。遥か先に小さく見える先進研究区画の扉を遮るように、ぬいぐるみのような体が立ち塞がる。赤い毛並みと、ぽってりとした尻尾は、レンダーシアの外で暮らす他種族を模した姿だ。
 愛らしい仕草で首を傾げ、スライムの口の形に開いた口が舌足らずな声を紡ぐ。
「おじちゃん、どーして逃げるんだよ?」
「どうして? 貴様らが一番良く分かっているだろう!」
 如何にも無害そうな体を装ったとて、このヨンゲは騙されんぞ!
 私の背後に立った二人を見遣る。青紫の髪の少年は手に持った弓に矢を番えているし、白金の髪の男は二振の剣を抜いて立っている。はだけた服の間から隆々とした筋肉を覗かせ、男は抜き身の剣を提げて歩み寄り、私の顔を覗き込むように片膝をついた。
「こんな状況で落ち着けというのは、酷だと理解している。其方は王立アルケミアの所長、ヨンゲ殿で相違ないか?」
 ぐっと息を詰める。やはり私の命を目当てで追ってきたのだと確信した。
 既に王立アルケミアと王都を繋ぐ転送の門は、襲撃の時には封鎖されている。そうなれば、秘密の通路から侵入してきたのだろう。そこまでして、私を葬り去ろうとしているのだ!
「そうやって汚れ仕事を続ければな、貴様らも私と同じ運命を辿る事になるんだぞ! 今から貴様らが手に掛ける相手の死に様こそ、貴様らの末路であると覚えておけっ!」
 私が唾を飛ばしながら捲し立てると、少年は嫌そうな顔をして一歩下がった。弓に矢を番えたまま、やれやれと首を振る。
「王都の転送の門を直して欲しいと頼みに来ただけなのに、とんだ誤解ですね」
「異形獣によって同僚達が無惨に殺されているのを目の当たりにすれば、気が触れてしまうのも仕方のない事だ。施設内で異形獣が闊歩する状況は、何者かの襲撃と考えるべきだろう」
「とにかく、おじちゃん連れて逃げよーぜ。いぎょーじゅーおっかな過ぎじゃん」
 三者三様の反応は、場違いな程の長閑さだった。私は、口に溜まった唾を飲み下した。
「本当の本当に、貴様らはこの件と関係がないのか?」
 信じられなかった。
 なにせ、現在の王立アルケミアは口封じの為の虐殺の真っ最中だ。転送の門は封鎖されて外部から侵入する事は不可能。そんな中で、秘密の通路をわざわざ通ってくるのが、私の命を狙う殺し屋でないなら何だというのだ?
 王都の転送の門の修理依頼などという少年の言葉を、額面通り受け取って良いのか? この施設が襲撃されている現状を、訝しむ様子を演技だと疑うべきでは? この魔法生物の言葉を間に受けて、共に逃げて良いのか?
 だめだ。私は頭振り、よろよろと立ち上がった。
「証拠を持って脱出しなくてはならん。全ての錬金術師の研究が正しく使われる為に…」
 私は先進研究区画の鍵に手を伸ばし握りしめると、猫耳のぬいぐるみの横を通り抜ける。
 王立アルケミアの所長に、私は相応しくなかった。もっと優秀な錬金術師がいた筈なのに、なぜ私が選ばれたのか今なら分かる。所長の椅子に、可愛らしい娘の色香に、功績を築く事に、そして生きる事に、私は貪欲過ぎた。恐ろしい謀略も、己の欲望の為なら目を瞑る。そんな浅ましい錬金術師が必要で、それが私だったのだ。
 それでも、今は、今だけは、王立アルケミアの所長の責務を果たさねばならない。
 あ! 少年の声が弾け、私にぬいぐるみの軽い体がぶつかる。
 赤い猫耳の裏越しに、闇から真っ白い影がぬるりと這い出していた。強化型ヘルゲゴーグの銀色の長い爪が、闇の中で長い長い尾を引いて迫ってくる。私とヘルゲゴーグの爪の間に、赤毛のぬいぐるみが滑り込み、腕に嵌めた爪とヘルゲゴーグの爪が火花を散らした。
 しかし、悲しいかな。強化型ヘルゲゴーグの膂力は、通常型が破壊に苦労するプラチナ鉱石をバターよろしく切り分ける事ができるほどだ。私を守ろうと間に入った生き物は綿毛を払うかのように純白の爪に押し退けられ、私の脇腹に爪が当たる。気がついた時には、爪は私の上半身を抜けていた。
 口から熱い血が溢れ出し、悲鳴と混ざって泡立っていく。
 意識が激痛に焼かれ真っ白く塗りつぶされていく中、丁寧に腹の前で手を揃えた小柄な女が立っていた。声を発する事なく動く口は、かつての警告を告げていた。
 あぁ、ワグミカ。
 感謝の言葉か、謝罪の言葉か。
 告げようと思った言葉は、焼き切れて失われてしまった。