雪の白、黒の闇、血の赤 - 後編 -
武とは敵を倒す為にある。
刃は肉を斬り、血管を断ち切る。衝撃は骨を砕き、内臓を潰す。翼を裂き、足を貫き、首を切断する。そうすれば大抵の生命は身動きが取れなくなり、やがて死に至るだろう。敵意を向け合う者同士が相対すれば、弱い者が淘汰される。
淘汰された者は弱者であり、紛れもなく敗者である。勝者によって財産を毟り取られ、獣によって血肉を喰われ、土に埋もれてゆく定めだ。オーグリード各地に存在した部族達がそれぞれに王国を名乗り戦いを繰り広げた戦乱の時代。勝者であり続ける為、今では考えられぬ程の過酷な修練の末に傑出した戦士達が輩出された。
その時代に猛威を振るったゾンガロンは、オーガ族の戦士達が力を合わせれば勝てるような簡単な存在ではなかった。それを蘇った現在において痛感している。
ゾンガロンの光線を浴びて正気を失ったランガーオの戦士達は、運良く戻ってくる事ができた。村に滞在していた吟遊詩人が太陽神の祝福が施された鏡を持っており、ダズニフの友人が邪気を払う聖なる鳥の尾羽を持っていたからだ。戦士達は己を取り戻し、体内を蝕むゾンガロンの力から解き放たれた。
しかし、この幸運に次はない。
それを俺こそが良く分かっている。
「盗賊団を率いるレギオンは、ガートランドで指名手配中の凶悪犯だ。護衛だけでなく、商人まで皆殺しにする残忍さで知られている」
オルセコ高地に馴染む黄土色の外套を目深に被ったルミラが、これから戦う手合いの情報を伝えてくれていた。彼女の背には使い慣れた両手剣はなく、一振りの片手剣と短剣が腰に固定されている。年に一度の儀式の時以外は顔を合わせぬ幼馴染だが、見る度に美しくなっていた。白金の髪は油で丁寧に手入れされて艶やかに背に流れ、肌は磨いた花崗岩のように滑らかだ。村の若者達が告白し、袖にされたのを何度も見た事がある。
ルミラは村を出て儀式に参加する頃には、ガートランド騎士団の下働きとして働いていた。騎士の守りに重きを置いた技術を学んでいたが、その硬い守りを如何に抜くかを考える好戦的な性格だ。戦うのが好きだろうと思うと、数少ない同類だった。
ルミラこそ、女である事を武器としない女だった。決して涙は見せず、泣き言を言わず、男に色目を使ったりなどしないだろう。だから不思議に思うのだ。
どうして、武には関係のない美に気を遣っているのだろう…と。
ジーガンフ、聞いているのか? そう訊ねる声に、俺は頷いた。
「レギオンは騎士殺しを成して一年経つ手練だ。気を引き締めてほしい」
ガートランドは同胞殺しに対して容赦がない事で有名だ。騎士を殺したが最後、騎士達によって地の果てまで追いかけられ殺害される運命が確定する。それがオルセコというガートランドに隣接した地域を拠点にしながら死んでいないのだから、よほどの強敵なのだろう。
俺は強敵に浮き立つ心を押さえつけ、静かに頷いた。
すり鉢のようになだらかな斜面には、身を隠せるような植物や岩はない。所々に垂直に聳り立つ巨岩が点在しているが、ぐるっと回り込むだけで小一時間必要な大きさと、命綱無しで登るのは命知らずと揶揄される高さを誇る。その巨岩の中には風が生み出した小さい隙間や、地震による亀裂が生じており、そのうち一つがレギオンという目標の拠点であるらしい。
滅多に雨の降らぬ乾燥した岩と砂だけのオルセコに、繭の影響で乱れた天候が霧雨を注ぐ。頬を伝った雨を拭うと砂がじゃりっとこびり付いた。視線を落とせば、亀裂に吸い込まれる轍や足跡は比較的新しいように見える。
「このままじゃ、俺達は殺されちまうよ!」
洞窟の中から悲鳴に似た声が迸った。
ちらりと背後を見遣り、ルミラが頷いたのを確認して奥へ進む。こんな辺鄙な場所には誰も来ないと、見張りも立たず声を憚る様子もない。揉める声色の数から複数の男が中に居るようだ。
薄明るい外から中にするりと入り込めば、焚き火を絶やしていないのか煤の匂いと熱気が濡れた顔を撫でる。洞窟の端には木箱や食料が入った布袋が積み上げられ、魔物を解体して食らっているのか物陰に骨が見える。木箱には片手剣や斧が立て掛けられているが、お世辞にも手入れが行き届いたものではない盗品と分かる。
「ガートランドの精鋭を、二人も殺しちまったんだぞ! 騎士団は本気で俺達を殺そうとしてくる! 違うのは騎士団に殺されるか、レギオンさんに殺されるかだ…!」
商人が強盗に見舞われ殺害された凶悪事件であっても、まずは冒険者などに依頼を出し対応するものだ。ガートランド騎士団が直接乗り込んでくるあたり、この連中は多くの罪を重ねているようだ。
物陰から見る盗賊の数は三人。平均的な体格のオーガ族の男性で、この暗がりでは年齢までは読みきれない。旅人と言うには薄汚い布の服の上に、戦いの凹みや傷を直していない痛みの激しい鎧を着込んでいる。三人の顔はべったりと絶望に塗れていて、飛び降りれば助かるぞと唆せば崖を飛び降りそうなくらい追い詰められていた。
「第一、俺達が騎士を殺したんじゃないんだぞ!」
絶叫した金切り声の男に、蚤が付いてそうなボサボサ頭が諦観した表情を向ける。
「レギオンさんが殺したって言って、騎士団が信じてくれると本気で思ってんのか?」
三人で襲い掛かれば、ガートランドの精鋭たる騎士を一人は屠れそうだ。レギオンというのが殺害の実行者だとしても、騎士団は彼らの言葉を信用しないだろう。彼らとレギオンが仲間である限り、彼らも同罪だ。
こんな大声で騒いでいるのだ。この場にはレギオンは居ないのだろう。
しかし、この場から逃げ出さないところを見るに、隠れる場所のないオルセコの地ではレギオンに発見され殺されるのが彼らの中では確定事項らしい。騎士殺しを成し遂げたのがレギオンなら、最も警戒しなければならぬのはその男だ。
とんとん。見張りに立っていたルミラが二の腕を軽く叩くと、囁く声が耳の裏をなぞる。
「誰かが向かってきている」
噂をすればなんとやら、か。
「レギオンとの戦いは避けられんだろうな」
俺の呟きに、ルミラの肘が小脇を突く。
「声が弾んでいるぞ。戦いたかったのなら、素直に喜べ」
悪鬼ゾンガロンの復活を報告する為、俺達は飛竜に乗ってグレンへやってきた。そこで、ゾンガロンの研究に足繁くランガーオ村に通い顔馴染みになっていたエリガンと再会する。初めて会った時から落ち着いた大人であったエリガンは、何日も眠っていない憔悴した顔で俺達に頭を下げた。
『レギオンが所有する『ガズバランの印』という至宝を、手にしてきて欲しいのです』
頭上に繭がのさばる現状で物探しを依頼するのだ、余程大事な事なのだろう。
聞けば、古代オルセコの時代、ゾンガロンを封印する際に生き延びた王族が探し求めたオーガの根源が記されている重要な至宝であるらしい。当時の王族はオーガの根源を知る事で、自身を喪失させ獣に変える悪鬼の力に耐えうるのではと考え至ったらしい。
エリガンは当時の王族の悲願を引き継ぎ『ガズバランの印』を探し求めた。かの至宝の所在を突き止めたと思えば、あと一歩届く所で別の人手に渡る蜃気楼を追うような日々であったそうだ。そして数ヶ月前、ガートランドで競売に賭けられるのを知った。しかし、ガートランドに至宝が届く直前に、レギオンが率いる強盗団に襲われ奪われてしまったのだと説明した。
『ガズバランの印』が手に入るなら、レギオンと戦闘する必要はない。
この拠点から人がいない間に忍び込んで『ガズバランの印』を手にするはずが、様子見の段階で背後を取られるとは思わなんだ。不可抗力というものだ。決して、騎士殺しをした強敵と手合わせが出来る現状を、喜んでいる訳ではないぞ。
息を顰め物陰に隠れていると、こつこつと金属を仕込んだ靴底が地面を叩きながら近づいてくる。手下だろう三人組は絶叫に近い声で捲し立てていて、レギオンだろう足音には気がつかない。
篝火に浮かび上がったレギオンを、俺は盗み見た。
オーガ族としては立派な体格だろう。胸筋から上腕へはち切れんばかりの筋肉と、腰に穿いた三日月刀にヘルジュラシックも一刀で首を切断するだろう力量を感じる。腰に毛皮を巻き、素肌に袖なしの服を着ている。しかし、服と呼ぶのは憚る程に擦り切れており、ズボンは膝から脛へ大きく裂けて垂れ下がり、汚れからか黒い肌は無言で立っていれば死霊の類と見間違われても仕方ないだろう。しかし、この男ならガートランドの精鋭を討ち取るだろうと確信するのは、鮮烈な殺意だ。
まるで真っ赤に焼け爛れた鉄を顔面に突きつけられているようで、本能が痛みを伴って危機をがなり立てる。喉にナイフを差し込まれるような、痛烈な殺意。
「逃げるのか?」
声と呼ぶには感情のない声で、一瞬、物音かと思った。
三人組が弾かれたように振り返り、赤い肌が新雪のように白く変わる。そんな三人組に、三日月刀を振り翳した影が落ちた。
「逃げる者は死ね」
咄嗟に体が動いていた。『死にたくない!』と悲鳴を上げる声を踏み抜き、『逃げなくたって殺すくせに!』と非難する声を押し退け、『お母さん!』とここに居ない者を叫ぶ声を掻き分け、振り下ろそうとした手首をがっちりと掴んだ。レギオンの筋肉が倍以上に膨らみ、俺の体が宙を舞う。手首を離さぬ俺ごと、凶刃が振り下ろされた。光が一閃するごとに、悲鳴を上げてそれっきり。
レギオンは血まみれの剣を片手に、振り落とされて足元に転がる俺を見下ろした。
「俺に逆らうのか?」
何故だ? そんな言葉が脳裏を埋め尽くす。
三人の怯えた態度と、止めに入った俺ごと剣を振り抜く膂力を思えば、レギオンは恐怖で彼らを完全に支配していたのだろう。逃亡の素振りで殺すのなら、襲撃の混乱に紛れて逃げる事は許されないだろう。襲撃で重傷を負っただけで、止めに殺害する程度の暴君ぶりだったに違いない。しかし、三人を留めたのはレギオンであり、少なくとも有象無象の世界の中で個別に認識されていたはずである。
ぽたり。目の前を白い液体が滴り落ちていった。
地面に丸いシミを作ったそれから、視線を上げる。闇に浸されたレギオンの口から顎に伝う唾液が、篝火の僅かな光を吸って赤く光っていた。ぞっと背後を撫で上げた戦慄に、意思とは裏腹に身体は咄嗟に地面を蹴って大きく後ずさる。目の前を銀色の線が過ったのを感じて、全身から冷や汗が吹き出た。
身体の全ての細胞を揺るがす程の悍ましい雄叫びが、レギオンの口から迸った。
「レギオン…?」
目に焼き付いた銀の線の向こうに、レギオンが剣を抜いて立っている。斬り臥した仲間の返り血を浴びて尚どす黒い肌は大きく膨れ上がり、理性を失った瞳は獣のように爛々と光っている。そう認識した次の瞬間には、自分の分厚い金属の小手とレギオンの剣が眼前で火花を散らしていた。
加勢しようと短剣を引き抜いたルミラに、俺は喉も裂けよと叫んだ。
「近づくな!」
レギオンは俺を殺すつもりだ。正確に急所を狙って来る軌道と鋭く速い剣撃とは裏腹に、子供の剣術のようにあからさまで避ける事も防ぐ事も簡単だった。騎士殺しまで犯した強敵が、まるで獣のようではないか?
いや、この戦い方を俺は知っている。
ゾンガロンの光を浴びて獣にされた者の戦い方だ。
何故だ? ここに戻る前に、ゾンガロンと接触したのか?
いや、オーガ族に強い憎しみを持つゾンガロンが襲撃するなら、都市部に赴き一人でも多くを屠ろうと考えるはずだ。往年の力を取り戻す事に全てを費やす状況では、オルセコを一人歩くレギオンに興味など持たぬだろう。
なら、今のレギオンの状態は一体何だと言うのだ!
悪鬼の力がなくとも、オーガ族はこのような状態に陥ると言うのか?
両手を交差して全体重を乗せた一撃を振り下ろす敵の表情が、間近に迫った。
まるで笑っているようにも、怒りに震えているようにも見えたが、それらの印象は目を見た瞬間に消え失せた。目は、狂気に爛々と光り、瞬きする事も忘れてヒビ入った眼球から血が玉のように転がり落ちていった。
狂っている。
俺は拳を握り込み全身に力を込め、一気に間合いを詰めた。急所を狙う事に執着するレギオンの動きは、決まりきった動きしか許されぬダンスだ。予測された剣の軌道が銀の線になって空間に描かれて行く。そこに立ち入らなければ、俺は傷1つ受ける事はないだろう。
幻惑による命中率低下の影響もない、己を中心にした範囲攻撃のギガスラッシュも前方の範囲だけ。この狂乱の状態で明らかに戦士の技量が低下している。
俺の手がレギオンの首に至る道が見える。
そこに拳を乗せるだけで、吸い込まれるように俺の大きな手がレギオンの太い首を掴んだ。頸椎は繊細ゆえに、ちょっと力を込めるだけで筋肉ごと粉砕できるに違いない。
狂ったそれは、レギオンではない。
それは、オーガではない。
指先に力を込めた瞬間、嘲笑が耳を打った。
「やはり、貴様は俺と同じ…」
俺は、ジーガンフと呼ばれた男の首を掴んでいた。
一体、どうなっている?
俺がジーガンフだ。目の前の男はレギオンだったはずなのに、何故、俺の姿に成り代わっている? 今俺が着ている修練着も、刃を防ぐ為の鋼鉄の手甲も見慣れたものだ。
いや、目の前の男は間違いなくレギオンではなくジーガンフだ。
封印された悪鬼に操られるまでもなく、俺は周囲を侮っていた。村一番の実力者でありながら、村王の娘であるマイユが俺よりも弱いアロルドに惹かれているのを心底理解できなかった。アロルドに勝利する為の対決で手加減されたのに気がついた時、血が沸くほどの怒りを感じた。
俺よりも弱いアロルドに手加減されるなぞ、屈辱以外なんと表現したらいい?
手加減などされずとも、圧倒する程に強くなろうと思った。
明け暮れた修行の中で、世界は姿形が変わっていた。
最初の変化は魔物だった。弱いか強いかで認識していた為に、ランガーオ山地に生息するスライムや一角兎の見分けが付かなくなった。それは次第にランガーオ村の人々にまで伝播し、住んでいる場所やいつもいる場所で見分けるようになる。その変化を俺は何とも思わなかった。
強く。
強くなろうとした。
その意思が、俺から人らしさを削ぎ取っていく。
ゾンガロンに操られた時でさえ怒りに満たされた世界は代わり映えなく、ランガーオ村の人々を認識できなかった。あの時、マイユとアロルドが止めてくれなかったら、俺は母をくびり殺していただろう。
今、レギオンにしようとしたように、母を母と認識せず、オーガとも思わぬうちに。
心臓が萎んで凍りついていく。
狂っているから、殺していい。
その免罪符が、目の前に魅力的な香りを放ってぶら下がる。俺の手が、香りに引き寄せられる蝶のように頼りなく伸ばされていく。
「ジーガンフ! 惑わされるなっ!」
声が閃光のように貫いた。
声の方へ向けば小さな窓がある。白い雪で眩いランガーオ村の窓は、大口をあけた魔物の口のように暗かった。その窓の下の方に、形の良い小さな白金の丸が転がっている。丸がひょこっと動くと、くりっとした瞳が俺を見てきらっと光るのだ。闇から浮かび上がり雪に白く照らされた青白い頬に、さっと朱が走る。手に触れたら溶けてしまう淡い雪のような、美しい娘。
そんな幼馴染はスライムより弱いかった。家から出ただけで風邪をひいて昇天の梯を登ってしまうという母の言葉に、冗談と笑って落とされた拳骨が人生初めての気絶だったろう。
弱い。
弱いけれど、俺はその弱さを卑下しようとは思わなかった。
なぜ? 幼い俺が窓に触れると、幼馴染みは恥ずかしそうに枯れ枝のような指先を窓に這わせた。 硝子が互いの体温にほんのりと温まる。嬉しそうに微笑む顔を、具合が悪く苦しむ辛そうな息遣いを、悲しげに伏せた長いまつ毛が隠す目元を、俺は窓越しに見ていた。
笑った顔が、一番好きだった。
「お前は姉が恋焦がれた、最強の男だ!」
心が燃える。心臓が激しく脈打ち、熱を全身に送り込む。足が地面をしっかりと捉え、根を張ったように揺るがぬ点から己の肉体が構築される。血を巡らす筋肉が躍動し、膨らんだ筋力が点から前へ力を送り出す。その動きは無意識にまで体に染み付き、儀式の為に一晩踊り抜く戦の舞そのものだった。
俺の正拳突きは窓を突き破り、今は亡き幼馴染の背後に立っていたレギオンの胸を貫いた! 泡を吹いて昏倒したレギオンの向こうで、窓越しの彼女と同じ顔で、似ても似つかぬ快活な笑みがある。
その顔が俺を見て笑っている限り、俺はその笑みを曇らせぬ存在であり続けたい。そう、強く想う。
向けられた笑みに、ほっと熱い息が溢れた。