朽ちた塔に過去を夢見て - 前編 -

 
 遮る物のない直射日光がじりじりと肌を焼き、爽やかな潮風が拭っていく。海の上に築かれた堤防に波が寄せては返し、ざぶんざぶんと私を包み込んでいた。
 メレアーデ様。呼ばれて顔を上げれば、階段の上に小柄な影が見下ろしている。
 肩で切り揃えた新緑の髪はふんわりと頭を覆い、赤い眼鏡のフレームの下に警戒に眇めた瞳が覗く。身長と変わらない両手杖を持ち、魔法使いらしいローブと肩掛けの鞄と冒険者らしい出立ち。腰には魔物避けの鈴が軽やかな音色を響かせている。
 ルアムの友人であるエンジュは、私には馴染みのない特徴を備えていた。
 尖った長い耳に、背に生えた透き通った翅。
 エテーネ王国では珍しいエルフ族の女性は、口元を手で隠しころころと鈴を転がすような笑い声を溢しながら傍に目配せする。穏やかでゆったりとした口調は、成熟した女性のよう。
「お気をつけあそばせ。ここは魔物の棲家ですから、ファラス殿から離れませぬように」
 目配せの意味を汲み取り、半歩後ろに控えていたファラスが『任されよ』と頼もしげに言った。二人の実力者に挟まれる形で、私達は波の音を踏み分けて進む。
 エテーネ王国の隣国リンジャハル。
 我が国の王族が外交デビューを飾る国であり、私も例外ではなかった。クォードを身籠もっていたお母様が来れず、お父様に手を引かれて訪れたのを今も覚えているわ。リンジャハルを治めるリンジャーラ様は明るくて面白いお方で、留守番をしているお母様と もうじき生まれる弟妹の為に、どんなお土産が良いか真剣に考えてくださったのが嬉しかったのを昨日の事のように思い出せる。海に入って遊んだのも初めてで、楽しい思い出がいっぱい詰まっていたリンジャハル。
 疫病を乗り越え奇跡の復興と謳われて間もなく、大災害で滅んだ記憶は新しい。復興を祝う為の式典にはエテーネ王国を代表したパドレ叔父様を筆頭に、多くの民がリンジャハルを訪れて行方不明。
 大災害の渦中にいたファラスは、生々しく当時の事を語ってくれた。
 それで、私は知った気になっていた。
 何も。何も無くなっていた。
 白い石壁と石畳に、青い屋根と海が美しいリンジャハルの街並み。白い壁には青い塗料で紋様が書かれ、都市そのものが巨大な魔法の媒体として作られている。それでも家の軒先には住人達が丹精込めて育てた花々が鮮やかに咲き誇り、家々の間には色鮮やかな魔除けの布が潮風に翻る。青い海辺には漁船から船遊び、キィンベルへの定期便まで大小様々な船が停泊していて、多く人で賑わっていた。日に焼けた人々の眩しい笑顔。エテーネ王国とは違った活気に湧いていた光景が、根こそぎ無くなっている。
 土台も潮風に晒されて風化したのか家の痕跡は残っておらず、白い石畳も鬱蒼とした雑草に埋もれている。入り組んだ水路を跨ぐ為の階段も多くが崩壊し、海に突き出すように聳える六つの塔がなければリンジャハルだと気がつけなかっただろう。
 疫病という未曾有の混乱すら乗り越えて復興した大都市が、長い年月をかけても蘇らなかった事実に胸が痛くなる。多くの死が、魔物が湧く環境が、幾度となくこの地に人を住まおうとする意志を手折ってきたのね。
 それに。
 私は海へ目を凝らす。
 晴れ渡った青い海に、線を引いたように続く水平線がどこまでも続いている。
 エテーネ王国からも遠巻きに見える六つの塔。その中で最も規模が大きく高さを備えた中央塔は、逆光に真っ黒く塗りつぶされて覆いかぶさってきた。ファラスが剣を片手に慎重に扉を開ければ、幼き日の記憶とそう変わらない光景がある。
 リンジャハルの守り神である竜神と建国者であった召喚師の石像が中央に聳え、その裏手に配置された誘いの石碑が淡い光を闇に投げかけている。二つの階段が石像を回り込むように弧を描いて配置され、吹き抜けた高い空間にリンジャハルの海を彷彿とさせる美しいステンドグラスの光が差し込んだ。
 かつんかつんと石の塔の中を反響する足音が潮騒を退け、ぱたぱたと動く可愛らしい翅を追いかけながら進む。回廊から内階段を登り、外の回廊をぐるりと回って外階段を登る。中央塔を囲む五つの塔は、背後にあるのが陸か海かでしか見分けがつかない。方向感覚が怪しくなってきた頃、一枚の木の扉の前でエンジュは立ち止まった。
 何の変哲もない木の扉。でも人が去って随分と経つ廃墟で、人の営みを匂わす存在って浮き上がるように目立つのね。ノブに手を掛けたエンジュは、くるりと私達に振り返った。
「これからお会いするヒストリカ博士ですけれど…」
 魔物が闊歩するリンジャハルを拠点とする、考古学者ヒストリカ博士。このアストルティアで最も五千年前の事に詳しい彼女から直接説明を受けた方がいいだろうと、ルアムの伝手で会う事になった人だ。
 ほっそりとした桜色の指先が丁寧に重ねられ、深々と頭が下げられる。
「お二人にお会いして、感情が荒ぶるかと思います。これも偏に彼女が歴史に真剣に向き合ってきたが故、どうかご容赦ください」
 どういう意味なのかしら? 首を傾げてファラスを見上げるが、薄い金髪を撫でつけた精悍な顔に困惑が滲んでるわ。
 私達が顔を見合わせている間に、エンジュは三度ノックして扉を開けた。
「本当に来たぁあああっ!」
 扉の向こうの闇から、悲鳴が迸った。ファラスが剣の柄に手を掛けて前に飛び出し、私は逞しい背中から中を窺う。
 レナートとルアムと猫耳ちゃんを寝泊まりさせてしまった倉庫よりも狭く感じるのは、天井にまで積み上がった本のせいね。テーブルと椅子が置いてあって、そこに腰掛けたら真後ろに本の壁があるくらいに狭い。天井に吊るされた灯りの下、私と年の変わらない女性がテーブルの上にはしたなく乗りあがって睨みつけてくる。
 頭に巻いた布にびっくりするくらい沢山の木彫りのロザリオを挟み込み、手に蝋燭と藁を束ねて人の形にしたような人形を持って ぶんぶんと振り回す。
「あくりょうたいさん! なむあみだぶつ! あーめん! そーめん! ひげそーりー!」
「ヒストリカ! お客さんに失礼だって!」
 メダパニを受けたような女性を引きずり下ろそうと、腰にしがみつくのは少年だ。そんな少年を振り払い、ヒストリカと呼ばれた女性は私達に何かを投げつける!
 ファラスが殆ど受け止めてくれたけれど、砂かしら? あら、しょっぱい。お塩だわ。
「ノー ウェイ! ノー! ウェイ! でしょ、クロニコ! だって、五千年前の人が生きてるだなんて、死んで化けて出なきゃ無理むりムリィ! ひぃえ! リンジャハルの海水で作った、特製ソルト・アタックが効かない! もう無理ぽ…」
「いい加減になさいませ! ヒストリカ博士!」
 エンジュも参戦するけれど、どうにも戦闘向きでない二人掛かりでもヒストリカ博士は止まらないようね。歯を剥き出して、扉の脇に置いてあった突っ張り棒で黄泉送りを試み始めちゃったわ。どったんばったん賑やかでいいけれど、日が暮れてしまうわね。
 ファラス。『はっ』と短い応答が響いて、のそりと大きな背が室内に押し入った。
 博士の助手のクロニコが淹れた紅茶が行き渡り、エンジュが持ってきた茶菓子が並べられる。私達が互いに自己紹介する様子を、ファラスに肩を押さえられ椅子に座らされていた博士は呆然と眺めていた。もそもそとセレドで買った焼き菓子を口にし、突然博士は叫んだ!
「げんじつ!」
 私の仲間は嘘を申しませんわよ! そう、頬を膨らませて怒るエンジュに、博士はソーリーソーリーと頭を下げる。すっかり憑き物が落ちた博士は私達に自己紹介をし、背後に用意していただろう箱を手に取ってテーブルの上に置いた。
「エンジュからの手紙で、大まかな事は知らされている。先ずは、これを見て頂こう」
 持ち運びやすい手頃なサイズの木の箱を開け中の布を解くと、一眼で古いと分かる手帳がひとつ。表紙である皮は真っ黒に汚れ、紋章が箔押しされているようだけれど箔は完全に剥がれ落ちちゃってるわね。それでも箔押しで凹んだエテーネ王国の紋章が、灯りに照らされて浮かび上がっている。表紙を補強する金属はボロボロに錆びて辛うじて体裁を保ち、中にある紙も茶色に変色してしまってまるで古文書ね。
 これがエンジュの言っていた、リンジャハルの大災害に遭遇した時期に書かれたファラスの手記なのね。劣化の具合に、私達の時代がいかに遠いか実感してしまうわ。
 ヒストリカは布の手袋をして慎重に手帳を取り出すと、ぱらりと表紙をめくった。雑に扱えば紙は粉々に砕け、頁がバラバラになってしまいそうな危うさがあった。
「これは五千年前に記された、ファラスというエテーネ王国の従者の手記だ」
 この場全員の視線を受け止めたファラスは、明るい空色の瞳を僅かに見開いた。なんと…。声にはならないけれど、唇がうめくように動いた。
 ファラスは今は粗野な見た目だけれど、細やかで筆まめな人なの。生真面目な叔父様の従者らしい丁寧で美しい文字で、叔父様と訪ねた遠い異国の事を書き綴った手紙を何度もくれたわ。今も日記を書き綴っていて、それは記憶を失った彼を確実に支えている。
 ファラスの前にひらりと紙が舞い、インク瓶や羽ペンが置かれる。
「勿論、同じ名前で同郷の別人という可能性もある。筆跡鑑定をしたいのだが、何か書いてもらえないだろうか?」
 承知した。そう応えて無骨な手がサラサラと美しい文字を書いていく様を、皆がじっと見つめている。
 何時如何なる時も、主に従い主を守る。従者が主となる王族へ忠誠を誓う文言が綴られ、ファラスの名前が添えられる。すっと回転させてヒストリカへ向けると、ヒストリカは可愛らしい黄色い鳥のルーペを手に文字を鑑定し始めた。羽の部分をスライドさせると、レンズが出てくるのね。女の子らしい可愛いアイテムで、私も猫ちゃんのがあったら絶対買っちゃうわね。
 筆跡っていうのは、同じものが二つとないくらい個性が反映されるんだよ。手記に記された文字は膨大で、衝撃的な事実を記載している時も文字の揺らぎが少ない。ヒストリカはファラスという人物は武術に長けた真面目な人物で、従者という肩書きを裏付けるって言ってたっけな。そんなクロニコの解説を聞いている間に、ヒストリカは顔を上げた。
「貴方が書いたもので間違いないようだ」
 そう言うが早いか、ヒストリカは椅子を立って膝を折り深々と首を垂れる。驚く私達を後目に、金色の旋毛から真摯な訴えが響いたの。
「ファラス殿。この手記は考古学学会で捏造と断定された品だが、リンジャハル崩壊において非常に価値ある証言が記載されている。今後の研究のため、是非、このまま私に管理をさせてはくれないだろうか?」
 私は古い手記に視線を落とす。
 この時代においては五千年前の出来事を知る手がかりだが、私達の時代においてもリンジャハルの大災害を語る重要な資料だ。彼の地に赴き死んでいった身内の最後を知ろうと、多くのエテーネの民が王宮に真相究明の嘆願書を出した。死体が上がっていない為に一縷の望みをかけ、大切な者の時の指針書の再発行手続きがひっきりなしに申請されたと聞いているわ。
 ファラスの報告は国の公的文書として残され、閲覧を求めれば誰もが知る事ができる。
 しかし、お父様が異形獣を繰り民を襲っていたという事実を知った今、国の公文書は果たして正しいのかしら? 裏には私達が知らなかった真実があって、この手記は真実への手がかりではないかと思ってしまうの。
 いいえ。私は首を緩く振った。
 知りたければヒストリカの元を訪ねればいい。エテーネの外へ開かれていく情報を、我が国の物だと抱え込む事は公平ではないわ。むしろエテーネ王国と無関係な彼女だからこそ、真実を明らかにしてしまうでしょう。
 ファラスが膝を折ってヒストリカの顔を上げさせ、了承の旨を告げる。雲のように囁いた誘惑が輝く太陽に霧散していくのを、それで良いのと心の中で呟いた。
 ヒストリカ博士。椅子に座った頃合いに声を掛け、ふわりと金髪が揺れてこちらを向く。
「手記が捏造と言われた原因は、なんなの?」
 気まずそうに目が伏せられたけれど、一つ深呼吸して彼女の紫水晶の瞳が視線を合わせる。
「主な争点になったのは、エテーネ王国が存在するかだった」
 そう言いながら、ヒストリカは立ち上がり資料を探しながら説明する。
 レンダーシアは一千年から数千年の間隔で大魔王の襲撃があり、文献が残りにくい環境となっている。それに加え五千年前なら遺跡が存在するか否か、現代までに伝承なり痕跡があるかが重要になるという。しかし当時世界屈指の大都市リンジャハルと同等かそれ以上の大国の痕跡が何一つ発見できず、捏造と言われるに至った。エテーネという言葉に限れば、この手記と内海の島の奥地にある村以外に存在しないとヒストリカは断言する。
 テーブルの上に広げられたのは、レンダーシア全土の地図。真新しい紙に書かれているけれど、地図というよりも絵画ね。地図を縁取るのは雲と太陽の精緻な線画。地図の端に描かれたペガサスが、角を北へ向けている。
「これが、考古学学会でも最も古いとされるレンダーシア全土の地図の模写だ。三千年前に大魔王と激戦を繰り広げた勇者の盟友が、大陸全土を把握する目的で作らせたらしい」
 広大な内海は、中央に少し大きな島が一つあるだけ。
 その島の南側に、ほっそりと白いヒストリカの指が置かれた。
「ここにエンジュの友人の故郷である、エテーネ村がある」
 ルアムがエテーネ村の出身と聞いて、これが運命って思ったわ。
 時を操る力で未来を知り錬金術で生活が向上した、世界に類を見ない大国エテーネ王国も、いずれは衰退し滅亡する覚悟はあった。勿論、私や私の子供の時代にそうならないよう手を尽くしし、未来の王も存続の為の努力を惜しまないだろう。それでもリンジャハルの滅亡を目の当たりにした私は、エテーネ王国が永遠に繁栄するとは思えなくなっていたの。
 だからこそ、村であれエテーネが今に残っている事は、なんだか嬉しい事だったの。未来を予言する巫女が村にいたと話せば、エテーネ王国との縁が続いているって確信したわ。
「もし何らかの理由で逃げ延びて作られた村だとするならば、彼らの故郷が内海に存在すると予測した。さらに出身地の民と名乗っていたのが、自然と村の名前として定着した可能性が高い」
 ヒストリカの聡明さに唸っちゃう。
 もし、エテーネ王国が崩壊するなら、最も近いこの島が避難先として選ばれるわ。さらにリンジャハルが都市機能を失い、陸への玄関口を失ったのがこの選択の優先度を上げている。
 メレアーデ嬢。ヒストリカが震える手で一口飲んだ茶器を置くと、恐る恐る訊ねた。
「こ、心苦しい質問なのだが、エテーネ王国はどこに…?」
 私はにっこりと笑って、ヒストリカが指差した島の西側を指差した。
 何もない、ただの海。
 分かっていた。リンジャハルに来て、海を見て、私は既に知っていたの。
 エテーネ王国は領土である大エテーネ島すら、消え去ってしまっていた事に…。
 だからこそ疑問に思うの。『一体、エテーネ王国に何が起きたのかしら?』って。
 ルアムから私が意識を失っている間の事を聞いたわ。クォードと時見の神殿に私を助けにきた事は、雪山に倒れていた時に肩に掛かってたクォードの上着で察せられた。クォードと父が対立し殺し合いに発展した事も、父に頬を叩かれた段階で予測はできていた。最も驚いたのは、パドレ叔父様が父に致命傷を与えたというもの。
 あり得ない。あり得ないわ。
 叔父様はエテーネ歴代最高の時渡りの使い手と評されるが、決して自身の力を驕ったりしなかった。人望厚い叔父様は王座も望まれる傑物だったけれど、父の戴冠を誰よりも望んでいた。妻と生まれる我が子の事を溺愛して、隣国の災害に我が事のように胸を痛める優しい人。
 民を害し神聖な時見を私物化した子供達ですら見放す王を、叔父様は最後まで諌める人よ。痛烈な憎悪を向けられようと、殺意を伴う暴力を振るわれようと、叔父様は殺す選択肢は選ばない。そう断言できる優しいパドレ叔父様。
 父の娘を犠牲にするやり方は顰蹙を買ったが、王国の滅亡を回避する為の先見を望んだ。つまり、父はエテーネ王国の滅亡を時見の箱を介して知っていた事になる。
 一体、父が見た王国の滅亡の未来とは何だったのかしら?
 もしかして、それはアストルティア滅亡の未来だったんじゃないかしら?
 それを確認する術は、もうない。
 重い沈黙を破ったのは、新たに地図を取り出して広げたヒストリカだった。陸地は太い線で縁取られ、同じ高さを線で繋いだ等高線で高度を描く、先ほどの地図に比べれば精密な地図らしいものだ。方角を示すのはコンパスで、方向を示す線が地図の端へ伸ばされている。
 相変わらずエテーネ王国がある島は存在しない。落胆しそうになった私は、エテーネ王国がある辺りに点と描かれたものに目を留める。島と呼ぶには小さすぎる。しかし、その点はエテーネ領土だろう場所に存在していた。
 私が目を留めた島に、ヒストリカは そっと指先を向ける。
「この島は『マデ島』と呼ばれている。地名に心当たりはないか?」
 マデ。マデ島。私は言葉を口の中で転がす。
 マデの響きは確かに覚えがあった。
 目を閉じ、小さい頃の私に戻って記憶を遡る。たくさんの先生の顔が時に笑顔で、時に厳しく、歴史、地理、錬金術の知識、マナー、帝王学、エテーネの時期国王として必要なありとあらゆる知識を授けていく。与えられた一つ一つの言葉を、幼い私の中から掬い上げていく。
 ふっと目を開け、暗闇に浮かんだ温かい灯りをぼんやりと見つめる。
「…マデ神殿」
 そうだ。私はヒストリカの指差す場所と、脳裏に描いたエテーネ王国の地図を重ねる。
「確かに、この辺りにマデ神殿があったはず」
 マデ神殿は建国からキィンベル上空に還都するまでの間、王宮として機能していた場所。しかし、遺跡の老朽化による危険が高まったとして、王族以外が立ち入る事が許されない禁足地となっている。私もこの地に実際に訪れた事はないわね。
 確かに立地的に大エテーネ島からは少し離れた場所に存在する島だけれど、どうしてこの地域だけが現代に残っているのかしら?
 神殿か…。ヒストリカが顎を撫でながら呟く。
「この絶海の孤島は現世の柵から逃れ、神に身を捧ぐ修道女達が暮らしている。大規模な遺跡を礎に造られた修道院で、複雑な海流の関係で数回程度だが調査が行われている」
 おそらく、エテーネに関係があるかもとヒストリカも睨んだのだろう。手に取って手繰る資料を見ながら渋い顔をする。
「まぁ、お察しの通りエテーネに関連する事柄は発見されなかった」
 五千年。その年月を私は時渡りの力で生きて跨いできたというのに、時の流れは残酷なまでに全てを流し去ってしまった。
 オーグリードの雪原に一人放り出された時、絶望しなかったと言えば嘘になる。けれど、女の子一人生きていけない環境で手を差し伸べてくれる恩人が現れ、猫の姿に変えられても共に旅をしてくれた同行者がいた。恩人はエテーネを知らないって言ったけれど、それでもエテーネ王国はあって帰れるって思っていたの。
 でも、『エテーネ王国が存在しない』と、理解してしまった今は違う。
 ドミネウス邸から王宮にまで付き添ってくれた、ジェリナンを初めとする家族同然の人々。助けに来てくれて、その後の行方不明な弟。五千年の月日が流れている今に、全員が生きていないのは分かっているの。あの温かい空間も、美味しい紅茶や私を想って作られた料理も、優しい笑みを浮かべて蘇る一人一人の顔も、もう、この時代には存在しない。
 もう、私が帰る場所はない。
 気を抜けば涙が溢れてしまいそうだった。
 メレアーデ嬢。ヒストリカが私の手を両手でしっかりと握った。
「エテーネの民であり王族である貴女が行けば、新しいディスカバリーがあるかもしれない」
 顔を上げると、きりっとした切長の目元に真摯な光を湛える紫水晶の瞳が美しかった。肩で切り揃えた金髪は暖かい光に照り出されて、赤金のように燃えている。その色の白い顔に浮かんだ表情には、謎を明らかにしようと燃える決意で満ち溢れているの。
「私とマデ島へ赴いてはくれないか?」
 あぁ。私は息を吐く。
 五千年の間に何があったかは知らないけれど、エテーネ王国は確かに存在した。それを誰よりも分かっている私以上に、この子はエテーネの存在を信じている。この何も残されていない現代から、過去を手繰り寄せる揺るぎない力となっているのね。
 私の力が求められる事が、どこまでも落ちていくような闇に光を照らす。
 ヒストリカの手に空いた片手を重ね、ぎゅっと握り返す。ぼっと血と驚きが巡った顔に、私はにっこりと自然に溢れた笑みを向ける。
 私はエテーネ王国国王ドミネウスの長子メレアーデ。
 王国が失われても、王族として成すべき事をしなくてはならないわ。