法王猊下の謀略の果て - 後編 -

 完成した。ついに『エテーネルキューブ』が完成した。
 ボロジウムが時渡りの力を帯びる事で、白銀にプリズムを滲ませる光を纏わせる完璧な正四面体。精緻な彫刻が指の腹に吸い付き、覗き込む成人男性の顔を写していた。
 ウルベア大魔神の格納庫と等しく堅牢な開発中枢区が、襲撃に揺れている。爆発の振動が足の裏から這い上がり、照明がちらちらと明滅する。警報器が鳴り止む気配はなく、無機質な声が脱出の勧告を繰り返す。もう一つのスペアも取り出したかったが、不安げなウルタ皇女の肩を俺は守るように抱いた。
 気持ちがざわつく時、胸ポケットへ手を伸ばしてしまう。
 そこに収められた記憶の赤結晶は、事ある毎に触れて、暇があれば握っていた為に滑らかな丸い宝石になっていた。とうに記憶の結晶の映像記録は乱れ、音声記録は途切れ途切れだ。そんな記憶の結晶は転送の門が動作不調を起こし使用者が行方不明になっていた頃、エテーネ王国軍軍団長である俺の執務机の上に置かれていた。
 再生すれば、手の上の結晶は姉さんの姿を映し出していた。
 不思議な事に見慣れたドレス姿ではなく、動きやすい膝下のワンピースと冒険者のような出立ちだ。姉さんは何を着ても良く似合っているが、これは冗談にしては悪ふざけが過ぎる。
 自由人の集落へ堕ちた者がいるように、エテーネ王国の治世に不満を持つ者は少なからず存在する。王族を貶める悪戯をする者もいるのだろうが、姉さんを貶す事は許されない。
 …後で犯人を捜索するとしよう。そんな事を朧げに思っていると、結晶が投影した姉さんが訴えたのだ。
『クオード。貴方の胸の内に秘めた疑いは、正しい。自分を信じ、進みなさい』
 その言葉に胸が突かれた気がした。当時の俺は父ドミネウスに懸念を抱いていたからだ。
 エテーネ王国の生活の基盤を担っている魔法生物を、俺がこの地を離れたと同時に処分すると宣言した。結果、遠征から戻ってきた時には、エテーネ王国は重要な労働力である魔法生物を失って恐ろしい物価高騰に陥り、家族の一員であったものを処分されて国民の多くが意気消沈し、魔物から身を守る術も削がれて異形獣の襲撃に命が脅かされる始末。異形獣の最初の報告に対して、不在の軍団長に代わり国王の指示を待てと言われて完全に後手に回っている。これに加えて転送の門の不調に対して、王宮から何の反応がないのも不審を増強させた。父王は何を考えているのか、息子であるのに全く分からなかったのだ。
 こんな時にパドレ叔父さんが居てくれたら、どれだけ心強い事だろう。海を隔てた隣国の悲劇に巻き込まれた叔父さんの死を信じたくはなかったが、従者ファラスから朗報は未だない。兄弟仲は良くなかったとはいえ、心配する素振りもなく死亡を宣告した父を非情に思ったものだ。
 パドレ叔父さんの奥方マローネ叔母さんは、乳飲み子を抱えているだから巻き込みたくはない。姉さんの手を煩わせないならば、俺が決断し実行しなければならなかった。
 膨れ上がった疑惑を、背を押すように肯定する。
 姉さんが記憶の結晶は作成したのか、聞く機会は訪れなかった。王立アルケミアの虐殺と、所長ヨンゲの残した『時の指針書』と異形獣であろう『ヘルゲゴールの資料』。異形獣によるパドレア邸の襲撃とマローネ叔母さんが昏睡状態に陥り、以前ドミネウス邸に侵入した不届き者達が国家反逆罪で黄金刑に処される。そして拉致された姉さんを追って、時の神殿へ行き王宮が崩壊した。今思い出しても息つく暇も惜しい怒涛の日々。崩壊の土壇場で時渡りの力が発動し、見知らぬ土地に放り出された際に荷物を改めるまで忘れてしまっていた。
 それからというもの、真偽はともかく俺の心の支えになったのは事実だ。
 俺は姉さんの言葉に従い、自分を信じて歩き出した。
 同郷の時の迷い人テンレスと出会い、皇帝ジャ・クバに取り立てられた順風満帆な出発だったろう。しかし一年、二年、と歳を重ねると同時に焦りも募らざる得なかった。
 その主な原因が、テンレスの気の長い性分だ。
 王立アルケミアでの日進月歩の研究を思えば、建国者レトリウスの双翼と呼ばれた錬金術師ユマテルの魔法のような開発が望めるとは思っていない。しかしテンレスは地下帝国の民に頼まれれば断らず、ジャ・クバ皇帝やリウ老師と茶飲み友達となってくつろぎ、ウルタ皇女の遊び相手に一日を潰す事などザラだった。体を潰してでも研究に打ち込め、とは言わない。時を超えるという難しい問題が、簡単に解決するとは思っていない。些細な事で喧嘩する事は数えきれなかったが、錬金術の才能のない自分がどうして文句が言えようか。
 そんな性分を差し引いても、テンレスは優秀な錬金術師だ。故郷の様々な錬金術の産物を世間話のように打ち明ければ数日後には再現するのだから、王立アルケミアの所長の座すら射止める才能の持ち主だろう。我流だからこその柔軟な思考は、エテーネ王国にはない錬金術を成功させると期待すらした。
 だらだらと怠惰な日々を過ごすテンレスを視界に入れないよう、俺は俺の出来る事に時間を費やした。剣の腕前を錆びつかせないよう魔物討伐に繰り出し、ウルベアの民の為に様々な政策を皇帝に提言した。その傍で、大エテーネ島がこの時代の地図から消失した理由を探った。レンダーシアにはドワチャッカの国々のように高度に発展した国は存在せず、ほんの一行しか記載のない研究資料を紐解き、冒険者を雇って情報を手に入れるだけで数年を要した。
 何時しか俺は宰相の地位に着き、テンレスは時を超える論理を見出す事が出来た。
 そこからは、停滞した時間が嘘だったかのように動き出す。
 大エテーネ島が大規模な地盤沈下にて海に没した事が判明し、それを回避する為に発見した地脈エネルギーはウルベアのエネルギー革命に至った。地脈エネルギーを動力とした魔神機の能力が劇的に向上し、国民の生活の質はエテーネと同等かそれ以上になっていた。テンレスは『エテーネルキューブ』の開発を始め、宰相の地位を利用して研究を始める。
 自分を信じ、進みなさい。
 姉さんの言葉は正しい。俺は故郷に帰り、王国の滅びを回避し、姉さんと幸せに暮らす日々が手に届く所にまで迫っていると感じていた。
 そんな俺の前に、様々な人々が立ち塞がり歯車が狂い始める。
 皇帝ジャ・クバが最も信頼を寄せる男が、敵国ガテリアに亡命したという知らせが宮殿を揺るがした。元々帝国から遠く離れた場所に研究所を構えていた為、即刻箝口令が敷かれ、老師リウの亡命は皇帝と腹心のみが知るところとなった。
 しかし、皇帝の落胆はあからさまだった。
 宮殿は松明の火を消したかのように陰鬱な雰囲気に呑まれ、娘のウルタ皇女の慰めも皇帝の心には届かなかった。全ての政務が停滞し、家臣達の顔は見る見る暗くなっていく。皇帝が病に臥されているという噂が、囁かれるようになった。
 塞ぎ込んだ皇帝を前に、俺の計画にも翳りが見え始める。
 『エテーネルキューブ』の制作に必要なボロジウムは、ガテリア皇国でしか採掘できない、膨大な魔力を蓄え永久の輝きを放つ希少な鉱石だ。採掘されれば国宝としてガテリア皇国に献上される為、市場に出回る事はない。正規の方法で譲り受けようと交渉を試みたが、長年の敵国の宰相では相手にしてもらえない。皇国の人間を買収しようとしたが、罰が怖いのか、それとも誇りの為か、悉く拒絶された。
 最終的に行き着いたのが、リウ老師の開発した魔神機を兵器として運用してガテリア皇国を脅す事。賢明な皇帝ならば、国民と国宝を天秤に掛けるまでもない。
 俺の目論みを、リウ老師は全て見透かしていたのかもしれない。
 国王は親友とも言えるリウ老師が亡命したガテリア皇国を、攻撃出来ぬと言い出している。奴はただ亡命するだけで、俺が説き伏せていた軍事計画さえ頓挫させようとしている。
 意志を削がれたのは皇帝だけではなかった。
 クオード。もう、やめないか?
 そんな言葉に顔を向ければ、錬金釜の前に座っていた同志がこちらを向いていた。テンレスの為に誂えた赤と緑の奇抜なツートンカラーの服装は、筆頭研究員とはいえテンレスにしか似合わないだろう。剽軽で笑顔を絶やす事がなかった男は、不安に曇った顔を軽く掻いていた。
『俺さ、代替品の開発頑張ってるじゃん。ボロジウムに固執する事はないって』
 それは遠巻きな非難に聞こえて、俺の心に小さく怒りが灯った。
 『エテーネルキューブ』を作り上げる為に必要なものは、どれも入手困難なものばかりだ。この時代に存在するボロジウムより、入手が絶望な素材がある。『時の球根』。エテーネ王国の浮島の一つに作られし、王家の浮島に存在する王家の宝だ。大エテーネ島の沈没と共に、錬金術によって維持されていた浮島も海中に没した事だろう。テンレスは『時の球根』の代替品を作る為の研究に集中していた。手に入らない物を手に入れようともがき苦しむ俺に、そんなに頑張らなくて良いという労りのつもりの言葉だったに違いない。
 …その代替品は何時完成する?
 俺の呻くような声に、テンレスは表情を硬らせた。
『明日か? 明後日? 一年後か、それとも十年? お前なら百年後には完成させているだろうな』
 ウルベア地下帝国での日々は、俺を大きく成長させてくれた。判断力や行動力だけでは無い。俺の身長は大きく伸び、体はより筋肉質になり、姉さんが直ぐに気がつくか不安になるくらい立派な青年に成長した。
 テンレスは出会った当初は俺より少し年上くらいに見えたが、今では同い年か年下に見える。それでも成人した男性だ。少年が青年になるような著しい成長はないだろう。毎日見ていれば変化に気が付きにくいのも分かる。
 だが、違う。違うのだ。
 テンレスは変わらない。いつまでも若いままなのだ。
 奴はこの地に流れる前、難しい錬金に数十年も費やしたと何気なく溢した。本人は世間話のつもりだったろうが、こちらはそうとは受け取れぬ。その話が本当ならば、テンレスは父であるドミネウスよりも年上になるのだ。
 テンレスの呑気さは性格由来だけではない。普通の人間ではあり得ない、不老と長寿がもたらす余裕がそうさせるのだ。そう分かってしまった瞬間、小さな火種は大きく燃え上がり、頭に血が上り腑が煮え繰り返った。羨望と嫉妬で目が眩む。歯を剥き出し唾を吐き散らかし、喉が痛むほどの絶叫でテンレスの心を抉った言葉は、もう飲み込む事はできない。
『俺には時間が無い! 一年、いや、一日すら惜しい!』
 表情を無くした顔が下を向き、冷えた眼差しが外れる。テンレスは静かに立ち上がり、普段からは想像もできない声色で俺を諭した。
『自分の都合の為に犠牲になって良いものなんて、ひとつもない。クオード。よく考えてくれ。取り返しのつかない事になる前に…』
 何を考える? 俺は良く考えている。
 ウルベア地下帝国の軍事力を増強しても、実際に攻撃を仕掛ける訳じゃない。ただ、こちらが少しだけ強くなって、ボロジウムを差し出せば全て丸く収めてやると言うだけだ。誰も犠牲になんかならない。
 何が、何がいけないんだ。
 俺は胸ポケットにしまった記憶の結晶をぐっと握りしめた。
「貴様が亡命さえしなければ、全てが上手くいったんだ」
 そこには全ての元凶、リウ老師とテンレスが立っていた。
 先帝がリウ老師の為に誂えた求道師のローブは、砂に塗れ薄汚れていた。記憶の中では若々しかった顔は深いシワを刻み、その背は一回りも縮んで見えた。ウルベアの宝と称された稀代の天才の面影は既になく、疲れた老人が一人立っている。ルアムが連れていた球型の魔神機が傍に浮かんでいるのを見て、老師がウルベアに差し向けた間者だと察した。
「お久しぶりにございます、ウルタ皇女様。リウにございます」
 それでも所作は腐っても、皇帝の腹心だった男。洗練された一礼をウルタ皇女に捧げた。憎たらしい程に何も変わっていないテンレスも、丁寧な一礼をする。ウルタ皇女は突如の乱入者に向き直り、挨拶を受け入れるよう頷いた。
「少し窶れたか、リウ」
 心根優しい皇女は憐れむように眉根を下げたが、一つ息を吸って表情を引き締める。亡命したとはいえ地下帝国に多大な貢献を齎したリウ老師ならば、襲撃者に混じり開発中枢区にやってくる必要などないはずだ。
 リウ老師は額が床に付くほどに、深く深く首を垂れた。
「僭越ながら、貴女様のお父上ジャ・クバ様の死の真相を明らかにする為に参りました」
 なんだと? ウルタ皇女の口から迸った同音異口が、俺の口走った呟きを掻き消した。
「父上を殺したのは悪鬼ビャン・ダオじゃ!」
 皇女の眦は吊り上がり、喉を引き裂いた怒りの声が迸る。紫の髪を怒髪天のごとく振り乱し、古傷に刃物を突き立て塩を塗り込まれたように悶え苦しむ。皇女を苦しめる張本人は、眉ひとつ動かさずに冷静に言葉を紡ぐ。
「ビャン・ダオ様がジャ・クバ様を殺した瞬間を、ウルタ様は直に見たのですかな?」
「目で見るまでもない! 父上は殺害された事実と、忠臣グルヤンラシュの報告が全てを物語っておる! 薄汚い悪鬼が逃げ出したのが、暗殺を認めたと同意じゃ!」
 リウ老師は小さく瞑目してから、ゆっくりと目を開け視線を外した。いや、ウルタ皇女の横に控えていた、マリッチに静かに命じた。
「…零壱号。ジャ・クバ様の最後の記録を再生しなさい」
 は。口から乾いた息が漏れた。
 今更、ビャン・ダオの皇帝暗殺の事実が覆るとは思えぬ嘲笑か。今更、真実が明らかになるという焦りか。どんな意味がその息に溶け込んでいるかは、俺自身もわからなかった。ただ、脳の芯が痺れるように鈍く痛む。
 マリッチを訝しげに見ているウルタ皇女に、リウ老師は訥々と説明する。今この時も戦闘の騒音が周囲から押し寄せているというのに、王宮の最奥の雰囲気で満たされている。
「ウルタ様が側仕えを許しているマリッチは外装こそ異なりますが、私がジャ・クバ様に献上した魔神機零壱号なのです」
 俺は目を見開き、マリッチを見遣った。
 傷心のウルタ皇女が拾ってきた鉄屑を修理し側仕えにしていた、凡庸としか形容出来ない魔神機。ウルタ皇女の類稀な技術があればこそ付け足された機能はあれ、地下帝国の一般家庭が購入する魔神機よりも性能は劣る。皇女の心が癒やされるなら、別に優秀な必要などない。姉さんの飼っていたチャコルのような認識だった。
 この男は何らかの方法で、マリッチが零壱号だと知ったのだ。
「零壱号は移動制御、人や障害物を見分ける認識機能、指定した対象のスケジュールや健康管理、魔神機が存在する上での最低限の機能しか備えていません。しかし初めてにして唯一、しかも皇帝に献上した魔神機故に特別な仕様を設けています」
 リウ老師のモノクルがきらりと光る。
「記録機能。零弐号から採用した、古い情報を消去する機能を有していません。故に零壱号の記録は、私が起動した瞬間から今に至るまで専用の記録媒体に保管されているのです」
 そんな事は、帝国技術庁の研究員達ですら知らなかった。
 それもそうだろう。支援・労働・警備・防衛・そして兵士、枝葉を広げるように特化した魔神機の開発に研究員達はのめり込んだ。地下帝国の栄光に直結したからだ。彼らの開発は瞬く間に帝国を発展させ、人々は世界でも指折りの豊かな生活を手に入れた。だからこそリウ老師の開発した全ての魔神機の基礎である零壱号は、開発者と献上された皇帝以外見向きもされなかったのだ。
「さぁ、零壱号。再生しなさい」
 マリッチの目がチカチカと明滅を繰り返し、『ジャ・クバ陛下の最後を検索中…』と無機質な声が告げる。
 俺は足早にマリッチに近づきながら、すらりと剣を抜く。その様子をきょとんと見上げるウルタ皇女を横目に、俺の剣は柔な外装に深々と食い込んだ!
 マリッチ! ウルタ皇女の悲鳴を掻き消して、マリッチが床に叩きつけられた。切り裂かれた外装から溢れる部品がぶち撒けられる音が、この時だけ外の騒動の音を上回った。
 マリッチ。マリッチ! ウルタ皇女が膝を付き、破壊されたマリッチに縋り付く。跳ね上がるように顔を上げると、空色の瞳から大粒の涙が砕けて宙を舞った。可愛らしい唇を噛み締め、怒りに眉根は釣り上る。
「なぜ、マリッチを攻撃した! グルヤンラシュ!」
「騙されてはなりません、ウルタ皇女。これはガテリアの謀略です」
 そうだ、まだ修正は効く。リウ老師はガテリア皇国に亡命し、ビャン・ダオの師を努めた男だ。皇帝暗殺を行ったビャン・ダオを裏で操っていたと、皇女を丸め込めさえすれば…
『ジャ・クバ陛下の最後を再生します』
 マリッチの頭部から強烈な光が迸り、俺の目の前に小さい体が映し出された。皇帝が好んで着ていた臙脂色の質素なローブの背越しに、床に転がった破片が透けて見える。腹を抱えるように蹲ったドワーフの前には、頭と変わらぬ大きさの立派な王冠がある。国民達がせめて代々受け継いだ王冠だけは被ってくださいと懇願され、苦笑を浮かべていた顔には苦悶の表情と脂汗がこびり付いている。
 ちちうえ。皇女は呼びかけようとした言葉を、思わず飲み込んだ。映像の皇帝の体の下から、血溜まりがぬるりと広がっていくのだ。その量は、誰が見ても死に至ると考える多さだった。
 俺の体に重ねられて、かつての俺の姿が投影されている。
 そう、あの時もそうだった。
 切り伏せられ鉄屑となった零壱号が横たわり、胸を深々と切り裂かれた皇帝の姿。剣を握る俺の足元には口から大量の血を吐き、真っ白な顔をした皇帝が最後の力を振り絞って縋り付いてきた。俺の足元には血溜まりが広がり、ズボンの裾は生暖かい血に濡れて膝下に不快に纏わりついた。顔から小さい眼鏡が落ちて、レンズに走ったヒビが血を吸い上げる。
 ごぼ。ごぼっ。皇帝は息の代わりに血を吐きながら、言葉をどうにか紡いでいた。
『グルヤン…ラシュよ…、ならぬ。ならぬ…ぞ』
 皇帝は全てを見抜いていたのだろう。
 己が死を利用し暗殺の罪をビャン・ダオに着せ、皇帝の仇討ちという大義名分を振り翳しガテリア皇国に宣戦を布告する。ウルベア大魔神の威圧により、恐怖による支配の時代が始まろうとしている…と。誰よりも大陸の平和を願った皇帝自身が、戦乱の引き金となる。その未来を回避すべく皇帝は懇願したのだ。
 しかしこの男が生きているだけで、ウルベアの軍備増強は許可されず、ガテリア侵攻計画は上手くいかない。大エテーネ島の地盤沈下を防ぐ為にドワチャッカ大陸から地脈エネルギーを奪っているが、その際の急激な砂漠化に言及して地脈エネルギーの使用を中断されては困る。挙句の果てに一言の相談もなくガテリアの第一皇子と和平条約を結ばれたら、俺の計画を台無が台無しにされてしまう。
 俺は故郷に帰還し、滅びの運命から救う。
 俺の意志を妨げる者は、誰であろうと絶対に容赦はしない!
 早く死ね。心の底からそう思った。死ぬ事でしか価値のない、無能な皇帝め。
 俺は皇帝の懇願を一蹴した。足から剥がれた感触は紙や羽のように軽く、成人のドワーフの体はべしゃりと音を立てて血溜まりの中に転がった。己の血溜まりに埋めた顔を僅かに上げ、痙攣で震える手を鉄屑に伸ばす。
『ぜろ…い…ごう。愛する…ウルタに…』
 この鉄屑に何ができる。
 錬金術で生み出された魔法生物達は皆優秀で、エテーネ王国を支える重要な存在だった。魔物と戦って民を守り、危険な作業を民の代わりに引き受け、畜産や農業作業といったものから人々に寄り添うことまで様々な役に立っていた。
 それなのに、この鉄屑ときたら自立して移動するだけが精々。最初に開発された魔神機と皇帝に献上されたが、話し相手になるかも怪しい無能だ。この程度で天才と持て囃されるリウ老師に献上されて喜ぶ皇帝には、お似合いではあろう。
『余の…死を、乗り…越え、よ。ウルベアの…これ…から…を……おま、え…に……』
 俺は無言で剣を逆手に持ち、皇帝の背に剣を突き立てた。
 剣が壮年のドワーフの硬い肉と太い骨を絶って進み、硬い床に到達して跳ね返るような衝撃が腕から肩へ貫いていく。びくんと大きく仰け反った瞬間、ウルタ皇女が息を呑み凍りついた。絶命した壮絶な顔が血溜まりに突っ込んで、二度と動かなくなる。
 ちちうえ? そう、慄く唇が動いた。
 ウルタ皇女の目は限界まで開き、瞬きひとつせずに絶命した父の姿を見ていた。そろりと鉄屑に置いた手が、動かぬ父を揺すり起こそうと宙を掻く。その震える指先が、腕を伝い全身へ広がっていく。
 弾かれたように皇女は駆け出そうとして、足が絡れて床に倒れ込んだ。過去の映像の血溜まりを掻き分けるように這って進み、この時代にはもう存在しない亡骸に縋り付く。
「ちちうえ! ちちうえ! ちちうえぇええっ!」
 皇女は二度父を殺された。
 その痛ましい姿を見て、胸を掻き毟りたくなる罪悪感が募った。姉と永遠の離別を強いられた若き日の自分と重なって、その絶望と苦しみを己の事のように理解した。父を救う為に過去を目指そうと囁いたのも、父の仇を討つべくガテリアに戦争を仕掛けようと嗾けたのも、何も写さぬ瞳に光が灯す為だった。皇女の厚い雲に覆われた燻んだ瞳が晴れ渡る青空になり、枯れ葉の肌が瑞々しい新緑に移り変わる様にどれほど安堵したか。
 その安堵は何処から来ている? 己の罪悪感を紛らわす事が出来たからだろう? 心の奥底で己の声がそう囁いたが、心に留める事なく泡のように消えていった。
 長く乱れた紫の髪が、項垂れて床に広がった。キツく握りしめて震える拳の周囲に、大きな水滴がいくつもいくつも降り注ぐ。
「こんな現実が、あって、なるものか…」
 皇女は、今、全てを悟った。
 己が忠臣と信頼していた俺の言葉を鵜呑みして、ガテリア皇国の王子に暗殺者の濡れ衣を着せた事。真実を明らかにせぬまま、ガテリア皇国を消滅させた事。時を超え父親を助ける事に関心を向け、残された国と民を放棄し、己が滅ぼした国の民を虐げた事。
 皇女は大好きな父の願いを、全て、最悪の形で踏み躙ったのだ。
「ウルタ様、ごめんな」
 テンレスがウルタ皇女の傍に膝を付き、嗚咽する小さな背に手を置いていた。『エテーネルキューブ』のスペアを、皇女に見せるように片手に持っている。
「君にずっと伝えなくちゃならない事があったんだ」
 はっ。はっ。短く早い過呼吸に、ウルタ皇女が身悶えた。それでもどうにか深呼吸を繰り返し、それでも浅い呼吸を堪えきれず漏れる苦しげな呼吸音が、突然の爆発音に掻き消された。
 咄嗟に頭上を見上げれば、光線の残滓が闇にきらりと残る中、巨大な穴が壁に開く。連鎖的に空間を支えていた柱や梁、巨大な器具が次々と傾ぎ出したのだ。土砂降りに降り注ぐのはどれもこれも、巨大な家具のと変わらぬ瓦礫。
 テンレスは腰を抜かして悲鳴を上げている間に、吸い込まれるように柱が倒れてくる。もう助からないと悟ったのか、両手に『エテーネルキューブ』を握りしめた。溢れる光に顔を融かして額を押しつけ、必死に己の制作した時を超える箱へ訴える。
「動け! 動いてくれ!」
 テンレスの手から『エテーネルキューブ』が浮かび上がり、正四面体はより細かい正四面体に分割され上下左右に回り出す。白熱した光は蛍光色の粒を纏い始め、テンレスとウルタ皇女を包み込む。耳鳴りを伴うエネルギーの上昇が、りいんと小さい鈴の音の余韻を残して光が散る。
 光の残滓が舞い散る中、残されたのはウルタ皇女一人。
「ウルタ様!」
 リウ老師が駆け寄り呆然とする少女の腕を掴むと、同時の柱が倒れた。瓦礫が床の上で砕け散った轟音と衝撃が研究区を揺らし、もうもうと湧き上がる塵と埃が二人を呑み込んだ。しばらくして舞い上がる塵に影が生じ、少女を抱えた老人が現れる。
 口元を袖で覆い咽せ込む老人の胸の中で、皇女はくすくすと笑っていた。
「見たか、リウよ。傍にいた妾は、共に時を超えられはせなんだ」
 皇女の狂気に濡れたの先、吹き込んだ風に塵が払われ露わになった瓦礫の下に死体はない。それは『エテーネルキューブ』が正常に作動し、テンレスが時を超えたという証左であった。そして同時に、真横にいたウルタ皇女が『エテーネルキューブ』で時を越える事が出来ないと証明もしてしまったのだった。
 そう、『エテーネルキューブ』を使えるのはエテーネ人のみ。
 最初から時渡りの力を有していない、ドワーフのウルタ皇女が時を越える事は出来ない。俺が彼女の耳に囁いた甘い言葉は、全て嘘だった。
 ウルタ皇女は老師を押し退け、しっかりと床を踏み締め立ち上がる。腰のホルダーに震える手を伸ばし、愛用の銃を俺に向けた。かちゃりと安全装置が外される音、銃弾が装填される音が瓦礫が落ちる音の合間に淡々と届く。
「第十一代ウルベア皇帝ジャ・クバが娘、皇女ウルタが問う」
 一点の曇りもない青空色に、俺が写っていた。
「皇帝ジャ・クバを暗殺したのは宰相グルヤンラシュ、そちに間違いないか?」
 俺は深く息を吸い前を見た。
 ウルベア地下帝国の大量の国庫を注ぎ込み『エテーネルキューブ』を研究していた場所は、跡形もない状況だった。大出力の力による破壊と連鎖的に起きた崩壊は、帝国技術庁の壁を取っ払ったかのようだった。暗い瓦礫の合間に、眩い黄金の砂漠と雲ひとつない晴天が広がっている。
 そこに吸い込まれるように足を向けながら、俺は答えた。
「そうだ」
 靴底越しに瓦礫を踏み、手を使ってゆっくりとテンレスを押し潰そうとした柱を乗り越える。
「皇帝暗殺の罪をビャン・ダオに擦り付け、帝国の実権を握り、意に沿わぬ技術者や廷臣を戦地へ送り込んで密かに謀殺したか?」
 人殺しなど出来そうに無い澄んだ目の少年は、娘よりも皇帝ジャ・クバに似ていた。
 このドワチャッカにある争いという争いを、己なら止められるという信念と行動力があったからこそ、皇帝は心から信頼した。彼がガテリアの皇帝として戴冠した暁には、平和な未来があっただろうと誰もに期待させた子供。あまりにも眩く、突き上げる妬み。何も苦労など知らぬ無垢さは、苛立ちと憎しみを生んだ。
 ガテリア侵攻に丁度良い理由だった。そして輝かしい未来に泥を塗った暗い喜びが、計画が順調に進む歓びと混ざり合っていた。
 皇帝を失って帝国が喪に服す間に、実権を握った。皇帝の遺志に逆らうなと俺に意見した者、不透明な『エテーネルキューブ』に注ぎ込まれる莫大な予算に苦言を呈した者、俺への不満を少しでも零したならば片っ端から戦地へ送り込んだ。思想が伝播すると厄介だから、魔神兵の開発に反対する技術者は魔神兵のメンテナンスを理由に最前線へ送った。戦地へ送るのが難しい者は、ガテリアの捕虜共々ダラス大鉱脈の強制収容所へ送った。その結果、王宮はがらんどうになり、塞ぎ込んだウルタの無関心も加わって動き易くなった。
「そうだ」
 外の砂漠と青空の眩さが強まり、俺は目を眇めた。
 真横から風が吹いたので視線を向ければ、大魔神の格納庫が遠巻きに見えていた。どんなに遠くからでも赤く燦然と輝いていた、地脈エネルギーの結晶が見えない。この緑豊かな大森林を広大な砂漠に変え、ドワチャッカの自然環境を破壊尽くしてでも手に入れたかった、故郷を救う力。
 それが、奪われてしまったのか。
 胸が大きく震え、失笑がひとつ零れ落ちる。
 俺は、何をしていたんだ? 奪われると分かっていたら、こんな事なんかしなかった。
「過ぎた時を戻すと妾を唆し、時間跳躍制御装置の開発を行い、実際は自分だけが時を渡ろうとした」
 震える声が、一拍の間を置いた。
「…これも間違いないのじゃな?」
 俺はようやく足を止めた。鼻先を砂塵混じりの風が横切り、視界いっぱいに砂漠と青空が広がっている。半歩先の地面は遥か下方で、生きる砂が全てを飲み込むべく蠢いていた。俺は胸いっぱいに空気を吸い込み、空っぽで、全てがどうでもよくて、なぜか晴れ晴れとした気持ちで問いに答える。
「あぁ。その通りだ」
「…申し開きの一言もないのか!」
 悲鳴に似た怒声に、俺は何の反応もしなかった。
 弁明するならばガテリア皇国消滅は、不運な事故だった。
 ウルベア大魔神の圧倒的な力に熱狂した連中は、俺の威圧という退屈な命令に従うつもりなどなかったのだ。リミッターを解除した最大出力の破壊光線でガテリア皇国を焼き払った一部始終を、興奮と陶酔に塗れた顔で俺に報告する連中の醜悪な顔を未だに忘れる事などできない。
 だが、それを言ってどうする?
 許して欲しいなどと、俺は口が裂けても言わん。
 俺が許しを請うのはただ一人、メレアーデ姉さんだけだ。
 姉さんさえ許してくれるなら、世界中の全てが敵となっても構いやしない。星の数ほどの命を奪っても、どんなに無垢で優しい人を裏切り心を切り刻んでも、未来永劫悪鬼と呼ばれる存在に成り果てようと、姉さんさえ許してくれるなら苦でも無い。
『クオード。貴方の胸の内に秘めた疑いは、正しい。自分を信じ、進みなさい』
 それでも姉さんの言葉が蘇り、様々な疑問が蘇ってくる。
 ウルベア地下帝国を利用し、ボロジウム欲しさにガテリアと戦争紛いな事を仕向けて良いのか? 己の計画の為に、皇帝を殺すべきか? その罪をガテリアの皇子に着せ、真実を隠して良いものなのか? ドワチャッカの環境に修復不可能な深刻なダメージを与えてまで、エテーネ王国を救う為に地脈エネルギーを奪うべきか? 自分が死ぬ程の時が必要であったら、研究を完成させたテンレスに故郷の事を託せば良いのではないか?
 その疑問に対して、俺は正しい答えを出せたはずだった。
 しかし、俺は都合のいい『自分を信じ、進みなさい』という言葉だけしか見ていなかった。
「奸臣グルヤンラシュよ。ウルベア地下帝国皇女ウルタの名において、そちを断罪する!」
 メレアーデ姉さん。貴女は正しかった。いつだって、俺を正しい方向へ導こうとしてくれた。
 許してくれなくていい。失望しても、二度と言葉を交わせなくなってもいい。
 あぁ、会いたい。せめて一目だけでいい。姉さん。貴女に会いたい。
 呼吸をひとつふたつと繰り返す間、断罪を宣言したウルタは強く銃を握り締め震えているのだろう。砂漠を吹き抜ける風に見逃された嗚咽が、俺の背を濡らすように張り付いてくる。優しく、愚かで、可愛らしい娘だ。父を殺し、騙し、民を虐げた極悪人を、ただ心から信じていた親しい存在という理由だけで殺害を躊躇っている。だから彼女によって撃たれ、全ての罪を命で贖う事は本望だった。
「…撃て! 皇帝ウルタよ!」
 青い空に銃声が飛び立っていく。
 銃撃の衝撃に胸が貫かれ、俺は虚空へと放り出された。
 あぁ。太陽がこんなに眩しいものだって、どうして忘れていたんだろう?
 姉さん。やっと会える。