懐に黄金を隠し持つ者 - 前編 -
マデ島の夜は深い。絶海の孤島を包み込む海は、インクを彷彿とさせる滑る黒。細波がいくら月光を反射しようと、それは大海を手で掬う程度の狭い範囲。真っ黒に切り取られた水平線から、零れ落ちそうな美しい星空が湧き上がってくる。九つ目の神話に語られし星空の守り人と対話できるような、世界にたった一人向き合う厳かな孤独。
このマデ島が発見されて最初に思い浮かんだ用途は、罪人の流刑の地であったとされます。見渡す限り地平線が続く大洋に抱かれた島には、船を作れる程の木は生えず、泳いで大陸を目指そうと考える者などいなかったでしょう。複雑な海流から辿り着く事も難しく、流刑に処した罪人を救う事すら困難を極める。まさに天然の牢獄であったのです。
しかし、その用途でこの島が使われる事はありませんでした。
その理由は、このマデ島の海底に眠る神殿にありました。
飛竜の頭の向こうに、広大な海に瞬く星のような小さな島を見たのを思い出します。島を囲む巨大な魚影。一瞬、潮を吹く鯨かと思ったそれは、透明度の高い海の中で闇を塗り固め蹲っていました。珊瑚を張り付かせ熱帯魚達が太陽の煌めきを反射して群れる中、すぱりと空間を切り取るように黒く在る。黒は時々思い出したように光を吐き出し、それは幾何学的な模様となって黒の表面を撫でて解けるように消える。星を目指すように海面から伸び上がる回廊は所々海の中に没し柱は崩れていたが、見たこともない漆黒の石が寸分違わぬ大きさに揃えられ、ぴったりと隙間なく並べられている。歴史に残っていないのが不思議なくらい、高度な文明を誇っていたのではと言われていました。
私は打ち寄せる波の音に耳を傾け、神殿から湧き上がる光に淡く光る海面に視線を落とす。海鳥達が体を丸く寄せ合って寝息を立てている音を、この島に僅かに根付いた植物達の葉が擦れ合う囁きを、祈りの中で一体化するように感じていく。
すると、肩にふわりと温かい物が掛かったのです。
「夜の潮風は体に障るわ。マザー・リオーネ」
潮風に吹き飛ばされないように、私はショールを押さえた。
祈りの仕草を解いて向き直れば、やんごとなき高貴な女性がそこにいる。丈の長い皮のワンピースをベルトで止め、分厚いタイツと歩きやすそうな靴。一見すれば旅人の装いでありますが、その肌は月光に照らされた真珠の白、夕焼けの最も美しい時間を閉じ込めたような青紫の髪は夜空の一部になっていました。猫のように鮮やかな碧が、いたずらっぽい笑みを浮かべる可愛らしい唇が、彼女の大振りなリボンに良く合う子供らしさを残していました。
私はメレアーデ様に丁寧に頭を下げ礼を述べる。
頭を下げたまま視線を走らせれば、闇に溶ける勤勉な護衛の存在を感じます。
潮騒に呼吸音を混ぜ、寝息を立てる海鳥達に己の気配を紛れ込ませる。闇に穿たれた空色の双眸と目が合うと、私は背筋にぞくっと冷たいものが走りました。私がこの高貴なる乙女に何かしようものなら、その影は水面に跳ねる魚を食う海鳥のように飛来し、私の皺だらけの首を掻き切るでしょう。しかし、そうなる未来は来ないでしょう。
賢い猛獣に視線を合わせ、わたしは余裕ある微笑みを見せる。
「なんだか不思議だわ。時代が違うのに同じ星が巡っているのね」
声に顔を上げれば、満天の星空を見上げるメレアーデ様が微笑んでいる。
あぁ。吐息を大きく一つ零すと、諦観が横顔を掠めた。
「本当にエテーネ王国は消えてしまったのね」
五千年という年月があれば、どんな大国も倒れてしまうもの。王族として永遠の繁栄はないと、私達のような一般市民よりも理解しているでしょう。しかし、島そのものが跡形もなく消えてしまうというのは衝撃だったに違いありません。
メレアーデ様が言うには、この島はエテーネ王国の最初の王宮であったそう。彼女の時代には還都した際に海中に遺棄され、現在のマデ島としての形になったのだろうと話していました。それを息巻いて聞いていたヒストリカ女史でしたが、それ以上の収穫はありませんでした。
数えきれぬ学者が島の隅々まで捜索し、多くのウェディ族に海の潜ってもらい、賢者を招いても、神殿の内部へ至る事はありませんでした。メレアーデ様も例に漏れなかったのです。
マザー。横に並んだ碧の瞳は海を見据えたまま、星屑を宿した唇が動いたのです。
「ルアムに頼めば、私は今まで暮らしていた時間に戻れると思う。私を幼い頃から支えてくれた家の者達を安心させ、父、弟、そして王宮が消滅し混乱する国を立て直さなくてはならないとわかっているの」
彼女が王冠を戴き女王となれば、名君という名誉を欲しいがままにしたでしょう。彼女の瞳は冷静に成すべき事を理解し、実行する覚悟に冴え冴えと光っていたのです。彼女がテンレスの弟と共に故郷に帰ったならば、彼女は混乱する民を纏め上げ一時の平和を齎したでしょう。
「でも、怖い」
柔らかい二の腕を、ぎゅっと皮のグローブで包んだ手が握りしめる。
メレアーデ様は、私がテンレスと駆け落ち同然に旅立った時と変わらぬ年齢でした。必ず訪れるエテーネ王国の崩壊。一つの国家の民の命が架かるには、その肩はあまりにも細く華奢だったのです。
「なぜエテーネ王国が滅んだのか。それが多くの犠牲の結果だとしたら、帰っても誰も守れないわ」
いっそ全てが夢だと目を逸らしてしまえれば、どんなに楽な事でしょう。しかし、彼女はそうしない。生まれながらに王女であるためか、彼女自身の責任感の強さなのかは私には分かりません。分かるのは、彼女は恐怖を跳ね除け、今、ここに居るということ。
遥か南に遺跡として残るリンジャハルが、疫病と魔物による蹂躙で多くの民が死んだ事による滅亡であると知っている彼女にとって、王国の消滅はそれと同等かそれ以上の災いが降りかかるものであると覚悟していたのです。
私は静かに迷える乙女の震える肩にショールを掛け、その肩に手を置きました。冷えて震える体を温めるように、私は傍に寄り添いました。
「他者を想い迷う事に、答えはありません」
民の為に帰り平和を一刻も早く届ける事も、王国の未来の為にこの時代で真相を求める事も、どちらも正しい事なのです。
しかし、悲しいかな。彼女の身は一つだけ。選択できるのは一つだけであり、どちらかを犠牲にしなくてはならないのだと悔やんでいるのです。
メレアーデ様。
私は高貴なる乙女が振り返るのを辛抱強く待った後、ゆっくりと囁いた。
「貴女に見てもらいたいものがあります」
追手から逃れる日々は、私の才能を一つ伸ばしました。
それは人々の感情の機微や些細な変化をも違和感として感じ取る、一流の戦士や魔法使いにも勝るとも劣らない感知力。特に追手の強烈な殺気は、隣の国まで接近したくらいでも感じられたものです。追手に脅されたり雇われた人間であっても、僅かに滲む感情から追手の影を察知する。だから、私とテンレスは追手に捕まる事なく逃げ果せたのです。
今ではこの島にやってくる者が、シスター達に害意がないかどうかを判断する番人を務めています。愛すべき娘達の為に、才能を錆びさせたりはしません。
今、この島は騒めいています。
本来なら気配に聡い海鳥も、生物の頂点たる感覚を有するルミラさん達を乗せた飛竜ですら感じ取れない些細な騒めき。私もこの地に何十年と暮らしているから感じ取れる、ほんの僅かな違和感でした。
ランプの灯りをかざしながら、修道院の扉を横目に鬱蒼と茂る林に向かう。落葉を踏み締める頃には、メレアーデ様の真後ろには護衛の殿方が影のように付いていました。魔物の心配はありませんが、ここは少し危ないのです。縄を張っている場所で足を止めると、並んだメレアーデ様が覗き込みました。
「ここは、扉の裏に続く穴?」
えぇ。私は頷いて、岩盤に打ち付けられた鎖を掴むよう促しました。
五百年前に偽りの太陽が天を駆けた後、崩落した事で顕になった新しい発見。それは、この地を研究する者達にとって待望の発見でした。このマデ島の海底に沈んでいる神殿に入ることが叶う場所は、修道院の地下にある扉だけだとされていたのです。
しかしそこは、どこにも繋がっていない植物の楽園だったのです。
勿論、日中に案内されたメレアーデ様にとっては、何もなかった場所に今更何の用があるのだろうかと首を傾げていることでしょう。
護衛のファラス殿に至っては、この場でメレアーデ様に害を成そうとしているのではと警戒を強めている様子。メレアーデ様を亡き者にしたいなら、海に突き落とす方が確実なのです。この周辺は海流の流れが早く、岩場から見える程度の距離で海が深くなってしまうのです。この海に飲まれれば、例え歴戦の勇士であっても救うのは困難。海に落ちてしまったと、落ちた者を助けようとして海に飲まれたと説明すれば、二人の死体が上がらぬ事も疑う者はいないでしょう。
ふふ。勿論、そんな事はしませんけどね。
じゃりじゃりと鎖を伝って金属が擦れる音を響かせながら、長い年月を掛けて掘って作った石の階段を降りていきます。ぱしゃりと水面を叩く靴底の音を聞いて、底に至ると分かる。
見上げれば大樹の梢に星空が見える、筒のような空間。周囲は苔生した岩が覆い、僅かな土に根付く植物が僅かな日光を求めて葉を伸ばす。その空間の主人と言いたげな大樹が、岩壁に凭れるように伸び上がり穴を飛び出していました。潮騒の音が聞こえながらも、溢れる水と緑の匂い。足元は湧き出る水を覆い隠すほど、多くの草花で溢れています。空間には蛍が舞い、幻想的な空間となっていました。
ここはこのマデ島で、唯一の真水が湧き出る場所でもあるのです。ここから地下を通って、修道院の井戸に流れ込む源流。レンダーシアの数々の名水にも劣らぬ、冷たく澄んだ甘みすら感じる柔らかい水であり、私達修道女達の命の水です。
草花が途切れた先には、唯一の神殿への入り口と信じられていた開かずの扉があります。
私は開かずの扉に向かう途中で、ふと足を止めました。
「こちらをご覧ください」
私が示した先で、メレアーデ様は息を呑んだのです。
「これは! どうして、ここに?」
在らん限りに見開いた目、驚きに空いた口を両手で覆い、ふらりとよろめいた体が逞しい腕に支えられる。護衛の献身に礼を言うのも忘れ、碧の双眸は植物に釘付けになっていたのです。
それは大きめな球根からひょろりと茎を伸ばし、その先端から空色の雫のような蕾を持っています。蕾が膨らめば茎は放物線を描くようにしなり、今にも雫が垂れるよう。球根を覆い隠すような葉はどれも女性の掌よりも大きな大ぶりな葉で、時を経るとくるりと丸まってくるのです。
実は蕾が綻んで花になる事はなく、歴代のマザー達が引き継ぐ程に謎多き植物なのです。
ファラス殿は抜き身の剣を引っ提げながら、困惑しきりに問いました。
「メレアーデ様、この植物は一体…」
「時の球根だわ」
驚きに震えた声が、訥々と語る。
「エテーネ王家に伝わる、門外不出の植物よ。一度だけお父様と見た事があるの」
やはり、この植物とメレアーデ様には深い縁があったのでしょう。乙女は濡れる事も厭わず、植物の前に膝を着く。
「でも誰が植えたかも分からないし、花が咲いた事はないらしいし、王族の時渡りの力に大きく関わると伝わるだけで具体的にどんな意味があるのか、お父様も知らないと言っていたわ」
雫のような蕾を眺め、葉を掻き分け、両手で包むには余る大きさの球根を覗き込みました。グローブを外して震える手がそっと触れると、親球の周りに生えた二つの子球が音もなく剥がれ落ちて転がり込んだのです。メレアーデ様は親指ほどの小さい子球を、小さい命を受け止めるように慎重に持ち上げたのです。
ぱたりと騒めきが止み、潮騒が押し寄せる。
あぁ、やはり。私はこの空間に満ちた、安堵のような空気をゆっくりと吸い込んだ。
この植物はメレアーデ様を待っていた。
メレアーデ様はこの植物と出会う為に、ここにやってきた。
しかし、この導きが何を意味するのか誰も知らないのです。メレアーデ様の王家に伝わる重要な植物が、巡り巡ってやってきた偶然ではない必然。その必然をどう生かし、故郷の未来をどう変えていくのか。彼女こそが知りたいのに、誰も教えてくれないのです。
「大切なのは独りで抱え込まない事です」
ここを終の棲家と決めた、いつかの私に語るように言いました。テンレスに最後まで協力出来なかった罪悪感と追手から解放された安堵に身を焦がし、故郷があっても帰れなかった当時の私。
膝を突き私を見上げる彼女は、何もかも違うはずなのに良く似ていたのです。
「他者の言葉に耳を傾け、己の悩みを分かち合い、共に解決の道を探るのです」
テンレスと二人で歩んできた道。振り返れば多くの人が私達に手を差し伸べていたし、追手を撃退する好機も存在しました。それを選択できなかったのは、私達が二人っきりで全てを解決しようとしたから。
私達は誰にも迷惑を掛けまいとし、実際に多くの人が深刻な被害を免れたでしょう。しかし結局は追手は私達の歩んだ道を踏み荒らし、多くの人が迷惑を被ってしまった。
浅はかな行動だったと思っています。もっと賢く立ち回る事が、出来たはずだった。
でも私達だけでは、それを見つける事はできなったのです。
「例え愚かな選択の結果、大切なものを失ったとしても、生きてさえいれば…」
そう、若く無知だった私が、身勝手な振る舞いの末にどれだけ父を傷つけたことか。テンレスと共に追手から逃げ惑う日々の中、私はようやく父に酷い事をして二度と故郷に戻る事は許されないのだと悟ったのです。母を亡くして男手一つで私を育ててくれた父を。当時、不治の病とされたメラゾ熱に侵された私を、諦めず救おうと力を尽くしてくれた父を。私は裏切ってしまったのです。
テンレスによってマデ島に残され、ただテンレスの無事と父の息災を祈るばかりの日々。そのまま天寿を全うしても、私には後悔する事すら許されなかったのです。
私は人間のクズだ。
救われる価値もない。ただ地獄に転落し、死ぬまでもがき続けるべきクズだった。
それなのに。
テンレスと同じ青紫の瞳が私の前に現れた。
私達が完成を願ったテンスの花は輝き、父と和解した今はまるで夢のよう。飛竜に跨った雄々しいオーガの娘が島と外界を結ぶ時、一番に私に父の手紙を差し出してくれる喜び。テンレスが生きていたと聞いた時、安堵に止まらなかった涙。
生きていれば。
そう、生きてさえいれば。
絶望の中で偽りの黄金と分かっていても、いつか本物になって輝くと歌うのです。
「貴女を助けてくれる人は、必ず現れます」
小さく福与かな手が導いたのは、私一人では決してたどり着けない結末でした。このアストルティアでは、幾つもの神話のように神が勇者を導いてくださる事はない。神の存在を信じていても、その神が私達に手を差し伸べてくれるとは限らないと誰もが知っていました。
だからこそ、神の采配であるかのようで。
神の希薄な世界では、奇跡であって。
私は湧き上がる感謝に打ち震え涙するしかなかった。
「メレアーデ様。私達、修道女は貴女の王国の一番新しい国民です」
私は若き女王を立たせ、巡り巡って届いた縁を手にした手を皺だらけの手で包む。冷え切った手に温もりが移るよう、彼女の心が少しでも和らぐよう、祈るように。
「ここを我が家と思って、いつでもいらしてくださいね」
はっと見開いた闇の中に光る碧が、柔らかく細められたのです。
母を見るような親愛に、私も愛しい娘を見るように微笑む。彼女の手の中にはもう、本物の黄金が握られている。その価値を、運命を、正しく使って故郷を救うでしょう。
その時、マデ島は大きく変わっている。そう、島が騒めいていました。