さまよえる魂

 焦げ茶色の髪の奥で、彼自身の髪の影で漆黒に見える瞳があたしをじっと見ている。壊れた鎧を脱いで軽装になった彼の腰には、王国の宝剣と鋼鉄の剣が彼の荷物と同じ様に括り付けられている。今まで見た事の無い位ボロボロの姿にあたしが即倒しそうになったのを見かねて、体を拭って着替えて来たみたい。あまり見た事の無い服だけど、宿場町で少し寛いだ時の装いだ。
 お茶を啜ってイトニーが新しいパウンドケーキを焼いてくれているのを向かい合って待っている。
「…俺は国王からお前の捜索を依頼されてる」
 真剣な表情で慎重にアレフは言った。
 アレフが父上から宝剣を賜った。それを知った時から、夢のような時間がもう直ぐ終わるんだって思った。
 勿論、何時までも夢が続くとは思ってない。でも、魔物の皆は優しかったし、町に降りても誰も気が付かなかった。最初、町に降りて誰も気が付かないと思った時は悲しかった。あたしの事なんか覚えていない、居ても居なくても良いんだって思ってイトニーが心配する程落ち込んだ。
 だから今まで夢が終わるのを恐れていたんだ。必要とされていないのに戻らなくてはならないのかって、とても憂鬱だったんだ。でも、アレフが迎えに来る人だって知った時、どこかとてもホッとした。夢の終わりがとてもおっかないものだったのに、空を自然に見上げる様に何故だかすんなり心の中に入って来た。
 理由は、良く分からない。
 もしかしたらイトニーと殺し合いになるかもしれないのに、もしかしたらあたしを見つけられないかもしれないのに、安心感みたいなのでいっぱいになっちゃったんだ。アレフと別れるのは辛かったけど、探してくれるのが彼ならきっともう一度会えるんだって思うと嬉しかった。そうだ、アレフの事、あたし信頼してるんだ。本当のあたしの事、知ってる人なんだもん。
「お前が姫君だったのは意外だったが…」
 あたしの髪に軽く触れる。アレフの手があたしの髪をそっと払うと、さっきの失敗で付いた煤がもわっと漂った。思わず咳き込むあたしを見て、アレフは安堵した様に笑った。
「生きてて良かった」
 嬉しくって恥ずかしくって、顔が熱くなる。アレフと会うまで、人はあたしの事必要として無いんだって思ってた感情が吹き飛んじゃう。気が緩んじゃうと涙まで出ちゃいそうだよ。
「か弱い評判通りの姫君だったら、生きてなかったかもな」
「え……」
 そこで何事も無かった様にアレフは紅茶を啜る。真面目な表情に戻ってあたしを見る。
「ラダトームで光の玉と姫君が居なくなってどれくらい経つと思ってる。半年以上は既に経っているんだぞ。捜索隊が捜索しても見つからず、魔物に攫われて半年以上軟禁されているとも考え難い。イトニーには悪いが、アレフガルドの人間は魔物が攻撃的ではない事は感じているが知能的なイメージがないんだ。捕まって、最後は殺される。経緯は残虐非道の目白押し。誰もがそう思っていたんだ」
 アレフがどんなに声を潜めても、人間の倍以上の聴力を持つドラゴンが聞き逃す事は無いって分かってるんだろう。アレフは声を潜めるつもりもない。だから余計に冷たく感じる。
 思わずあたしの声が上擦る。
「酷い! 魔物だって皆優しかったよ!」
 アレフの言葉が間違いだなんて思ってない。あたしだって、竜ちゃんと会うまでそう思っていた。魔物は恐ろしい生き物で、全知全能の神ミトラと敵対する悪魔と等しき存在…あたしだって他の沢山の国民と同じ、ううん、それ以上に魔物の恐ろしさを教えられて来た。
 でも、あの日。
 光の玉を前に立つ竜ちゃんの瞳の色の光はミトラと敵対する生き物には全く見えなかった。人以上に優しい慈愛に満ちた気配は、人の気配を誰よりも敏感に感じていたから確信しても良いくらい伝わったんだ。間違いなかった。竜ちゃんもイトニーも、彼の部下達は紳士で優しい。そんな彼等を貶すなんて誰にもさせたくない!
 立ち上がり身を乗り出して魔物達を弁護し始めたあたしに、アレフは一瞬驚いたような顔をした。それでも何も反論せずに、また冷静そうな表情に戻って言葉を続けた。
「落ち着け。お前は竜王から客人扱いされてるんだ。魔物の中で一番偉い統率者の客人に危害を加えなかっただけ。竜王の側近なら手出しはしないが、客人だって知らない魔物が多いからイトニーが護衛に付いていたんだ。マイラまでの道中、魔物に襲われたろ?」
 う…。思わず言葉が詰まる。浮きかけた腰を力なく椅子に落とすと、大きく溜息をついた。
 アレフはここからは持論になるんだが…と断って話し始める。
 魔物達がアレフガルドを制し人間を滅ぼそうとした時代は過ぎ、その時代の魔物達の統率者である魔王も勇者に倒された。魔物の力は相変わらず強大で手練の人間でも殺される事のある恐ろしい存在だったが、魔物達は積極的に人間を襲う事は無く互いの縄張りに入らなければ被害という物は無かった。人間を滅亡にまで追い込んだ王を、たった数名の勇者とその仲間が退けたという事実を魔物達は忘れてはいない筈だ。互いに年月に憎しみも薄れてきた今、魔物も人間も戦争を望んでは居ないだろう。
 今、魔王が居た時代以来初めて、人間は魔物に敵意を抱いている。それは人々の憎しみからではなく、国王が抱く懸念と脅威からだ。このままの状態が続けば、いずれ国王は多くの民を動かして魔物と対決するという状態も続くだろう。
 アレフの捜索とは、最終決定の判定材料なのだ。
「意外に大任だったんだな」
 アレフは今更な様子で呟いて、話を続けた。
 人間達…特に国王を始めとした国の中核部分の敵意を削ぐ方法が、戦争回避の最も効率よい方法になるだろう。特に攫われた姫君の生死は、その敵意の増減に大きく関わる。
 竜王が戦いを望んでいないなら、捜索としてのこのこ現れた己は夏の火に入るなんとやらである。死んでいても遺体の損壊が激しければ怒りに油を注ぐが、生きていても悲惨な状況を語られては敵意は薄れない。しかし、実際の姫君は親魔派と言って差し支えない魔物への信頼を持っている。そのまま帰ってもらえれば、性格からも悪く言う訳がない。イトニーや竜王の事を臥せる事を条件に、捜索に派遣した傭兵が姫君を連れ帰ったというシナリオは双方の為になるだろう。確実に戦争の気運は収束に向かうだろう。
 そこまで話してアレフはあたしの顔を見る。
「これから、どうするんだ?」
「どうって……」
 一瞬なにを言われたのか分からなかった。決定権は今の所、あたしにもアレフにも無いような気がしたからだ。
 でも、アレフは現実的な考えの人だ。ある程度これからの事を考えておかなきゃいけないと思ったんだろう。あたしが口籠ると、アレフは言葉を続ける。
「俺は竜王という奴を知らんが出来た存在だろうというのは、お前の待遇を見て十分に理解できる。竜王が俺の想像を外れて野心に満ちあふれた覇王の様な存在でなければ、和平を望むだろう。そうなれば、さっき話したように俺とお前が一緒にラダトームへ戻るよう話を進めて来るだろうな」
 アレフはあたしの瞳を覗き込む。彼の瞳の色は明るい茶色だったが、闇を含んで漆黒のように見える。覗き込むと、その滑るような闇にあたしの心が極彩色に浮かび上がってくるよう。
「問題はお前だ。ローラ姫として戻れんのかよ?」
 あぁ…。思わず溜息でちゃった。
 ローラ姫…今までのあたしだった人。あの豪華な王城の佇まいがセピア色に浮かんでは消えて懐かしかったけれど、思い出を思い出そうとするとそれだけ白く霞んで行く。傍で仕えてくれている筈の侍女達の顔は良く覚えていたけど、その顔はいつも同じで交わした言葉も思い出せなくなってる。
「アレフ」
 城から出た時からの記憶は本当に素晴らしい限りなんだ。共に旅をしてくれたイトニーにアレフ、スライムちゃんと歩いた道は鮮明でその道中の仲間の顔は喜怒哀楽に富んで目を回す。
「あたし、帰りたく無いんだ」
 捨てたく無い。折角手に入れたなりたかった自分を。
 あたしはアレフに訴える。
「ローラは現在のラダトーム王国の娘で、時期女王になる者。王女の時から淑やかで賢く誇り高いけれど、決して傲慢ではなく謙虚に優しく人々に接する。生まれた時から帝王学を叩き込まれた、理想の王族よ。侍女達が世話をやく前に何気なく気遣って、物書きから絵や歌なんかの芸術にも通じててね、実は政治の事に詳しくて政治を担う貴族に舐められない様にしてね。ダンスを申し込まれればどんなに下心と野心丸出しの貴族でも的確なステップで踊るし、その最中に"うっかり"胸を触られてもちょっと頬を赤らめてはにかんで『まぁ…』なんて濁してみせて」
「その貴族、名前はなんて言うんだ? 今度ラダトーム行ったら殴りとばしてやるよ」
 アレフは真面目な声だけど顔は少し悪戯っ子っぽくして言う。きっと勝算があるんだろうって思う。貴族は自尊心が強いから、実はうっかりダンスの最中に姫君の胸に触れてしまいましたなんて噂が広まったら大変だもんね。
 あたしも思わず笑っちゃう。だって、そんな事言われた事ないもん。
「犯罪は駄目だよ」
 アレフが少し呆れた様に失笑する。付いてけねぇって口だけが動いた。
「決して我が儘なんて言っちゃ駄目。愚痴も駄目。弱み一つ見せたらつけ込まれちゃう。お父様に迷惑掛けちゃうんだ」
 アレフが凄く何か言いたそうな顔になったけど、結局何も言わなかった。『お前、我が儘も愚痴も言い放題だったろ?』って言いたかったし、あたしもそうだった自覚はある。いっぱい迷惑掛けたけど、今の関係はその迷惑があっても良い状態なんだって思うと個人的に嬉しかった。
 スライムちゃんを膝に置いて、静かにつるつるした面を撫でる。
「こういうふうに猫を抱いて撫でている時だけが、今までの中で一番幸せな時間だったわ」
 猫は気紛れだからずっと居てくれはしなかったけど、スライムちゃんはずっと傍にいてくれる。膝の上で、笑って、居てくれる。
「本当にあたしは必要だったのかな………って攫われて思う様になったんだ。本当に必要なのはお姫様で、お姫様ならあたしじゃなくたって誰でも良いんじゃないかって。だってアレフガルドの人達みんなが、あたしの事に気が付かないんだよ。昔、誕生日の式典の日にあたしに花束を渡してくれた女の子は大きくなってたけど、気が付いてくれない。あたしは……気が付いたのに。あの時はありがとうってお礼も言ったのに、疑うような目つきでその場を取り繕う無難な返事を返して離れたがる。それが、何人も……」
 ぺと。ぺとっ。そんな音を立ててスライムちゃんが濡れる。
 なんだか、とっても情けない。竜ちゃんの善意に甘えてこんなに楽しい日々を送らせてもらって申し訳なく思ってるのに、何時か終わってしまうのが怖い。お城に戻って、あの退屈で生きてるのか死んでいるかも分からないような日々を送る事になるのが本当に恐ろしかった。
 ラダトーム王国なんて…滅んでしまえば良いのに………
「一つ、お前に話してない俺の個人的な意見がある」
 アレフが真面目な声であたしに言う。
「国王も魔物との戦いを望んじゃい無いだろう。近衛兵が手も足も出なかった竜王、王国の精鋭である捜索隊を尽く全滅させた魔物の軍勢。それらと戦えば勝敗がどうなるか、結果は目に見えてる。だが、国王は危険を冒してでも、魔物を争う姿勢を軟化させはしていない。何故だと思う?」
 一呼吸間を置いて、アレフは告げた。
「国王がお前の父親だからだよ」
 ……!!
 あたしは立ち上がってアレフを見下ろした。見下ろしたつもりなのに世界中が滲んで見えないし、膝に抱いていたスライムちゃんは落ちてしまったのかあたしの所には居ない。
「どうしてアレフはそんな事言うのさ…! もっと、お金に汚くて自分の事ばっかり言ってれば良かったのに…どうして…!」
 お父様。あたしのただ1人の身内のお父様。お母様が死んでも、その悲しみを欠片も見せた事が無い。冷血な人だと思ってたし、そうであって欲しかった。
 だって優しいお父様なら、あたしが苦しんでるのを助けてくれるって期待してしまうから。
 お願いだから、お父様が優しいって気付かせないで。あたしが、あのお城という牢獄に帰ってからの苦しみを増やさないで……。
 伸び上がった膝がガクガクと砕けて、あたしはその場に座り込んだ。辛くって、悲しくって、何もかもが嫌になって、涙がぼろぼろ零れて来る。それが情けなくって止める事が出来なくなるんだ。そんなあたしの背後にイトニーが歩み寄って来るのを感じた。イトニーはいつもの様にあたしの肩を優しく抱いてくれて、少し怒ったような口調でアレフに言った。
「アレフさん。泣かしましたね」
 イトニーの言葉に無言だったが、居心地悪そうに座り直しているのは意識の片隅で感じた。それから暫くあたしは泣き続けていたのだが、扉のノックが部屋の中に響き渡った。
 その重苦しい空気に似合わない程明るく軽快な音を響かせて、こちらの返事も待たずに扉が開いた。
「なんだ、また泣いておるのか」
 床を爪が軽く叩く音を響かせながら、金色の瞳があたしを覗き込んだ。
 頭から角のような形の突起を生やし子供くらいの背丈に、首から下をすっぽりと覆う紺色のローブを纏った魔物。体より頭一つ分は長い杖は、硬質の杖を大胆に削り出し紅玉を嵌め込んで竜の形に見立てたものだった。首から下げた黄金と紅玉の首飾りもやはり大きめで、小さい背丈と引き摺る程ダボついたローブと相まって幼い印象を他者に与える。しかし、ローブの裾からは小さくとも竜の尾や、鋭い足の爪が光って覗いている。彼は竜王。あたしを王宮から連れ出してくれた竜のかりそめの姿だ。
 あたしははらはらと落ちた涙を拭わすに見上げると、竜ちゃんは隣に歩み寄ったイトニーを見上げていた。
「人間を入れてしまったようだな。我ながら詰めが甘かったかな?」
「いえ…私の責任です、竜王様」
 イトニーが申し訳なさそうに頭を下げると、アレフが驚いたのか椅子ががたっと鳴った。竜ちゃんはアレフにちらりと視線をやってから、少し首を傾げて彼女を見上げた。
「血の臭いが僅かにするな。相当の手練か」
「油断していれば、首を落とされるくらいです」
 イトニーの言葉にアレフは苦々しい表情を浮かべて、行儀悪そうに肘をついてイトニーを見ていた。口にはしないが『ボコボコにしたくせに良く言う』とでも思っているんだろう。
 竜ちゃんはイトニーの言葉を聞いた後、ひょこひょことアレフの横に歩み寄って彼の腰に下げた剣をしげしげと眺め回した。
「ほぉ……『ロトの剣』じゃないか。実物を見るのは初めてだ」
 アレフが凄まじく吃驚した様子で竜ちゃんを見下ろしている。それはそうだと、あたしだって思う。こんな交友的な魔物が存在するなんて、誰も思ってみた事すら無い筈だから。でも、交友的なのは人間よりも弱いとか、臆病だとかそんなのが理由じゃない。
 どんな姿でも、彼の瞳は不思議な自信を秘めて黄金色に輝いている。
 あたしは王宮で色んな人の瞳を見て来た。自分の生い立ちを利用して過剰な自信を持って威張り散らす者の瞳、実力を認められ奢り尊大な態度で他人を見る瞳、無知だからくる自信にあふれた瞳。でも竜ちゃんの瞳の自信はそんな自信のどれでもない。あんなに強いのに、部下に慕われているのに、頭もいいのに彼は揺るがない自信をその瞳に強く宿す。
 部下を信頼し、その部下が信頼に応えてくれる。彼が行うべき統治が恙無く行われ、魔物達が彼を慕い従ってくれる事への確信。竜ちゃんは、己の実力を少し出た範囲をも、己の自信に変えてその瞳に宿しているんだろう。
 そして、その瞳の自信を持つ人を、あたしはもう1人知っている。
 お父様。
「初めまして。私は竜王だ」
 竜ちゃんがアレフの横にある椅子にちょこんと座って言った。
 怪訝と戸惑いを混ぜた表情で見るアレフと笑って挨拶する竜ちゃんが、何故かあたしとお父様に重なって見えた。