囚われの姫君

 アレフガルドは大陸と称されるだけあって、様々な条件に溢れた国土を地方ごとに抱えている。
 ラダトームとガライを含む森と平野が広がるラダトーム地方。ラダトームから東にある山と雪に覆われた火山帯には、温泉郷として名高い温泉郷マイラがあるマイラ山岳地帯。王都ラダトームから一つ山を越えるか避けて南下すれば、荒涼とした岩山とドムドーラ砂漠と呼ばれる巨大な砂漠が見渡せ、そこからさらに高い山が連なるメルキド山脈へ続いている。メルキド山脈を乗り越えると広い高原に達し、メルキド高原にその地方名を関したメルキドの町がある。
 ここまでは地続きで徒歩で踏破できてしまう。
 川には橋が架かり、砂漠には砂漠越えの商隊が常に存在し、山越えは砂漠越えに比べて非常に楽だ。魔物の存在は脅威であり、俺の様に護衛傭兵を雇っておかなければならない。ラダトーム平原なら数押しで素人でも相手になる魔物だが、ドムドーラ砂漠が見える荒れ地に踏み込んだくらいになれば戦闘のプロが対応しなければ勝てない魔物も多い。ちょっと楽観視し過ぎた言い方かもしれないが、馬や馬車を乗り変える必要なく移動できるのは一種の強みである。
 アレフガルドの主要都市で唯一、徒歩ではいけない所が存在する。そこはリムルダール地方と呼ばれている。
 アレフガルドの地図の半分に迫る広大な土地を有していて、その土地は殆どが豊潤な緑溢れる平原である。山はあっても高山植物を抱える程に高く無く、南風が吹き込む為にアレフガルドでは珍しく温暖な気候で南に下る程珍しい植物を見る事が出来るそうだ。魔法の鍵を始めとした魔法技術の研究が盛んで、勇者ロトの時代の伝説の武勇伝はこの地方の物が最も多いらしい。
 この地方は先ほど述べた踏破できる地域とは違って、陸続きではない。
 アレフガルドの中央の海に流れ込む巨大な海流に分断され、川幅も対岸が霞んで見える程の幅を持っている。橋は広過ぎる川幅と激しい潮の流れに掛ける事は不可能で、渡し守の船も帆の付いた頑丈な船である。この海峡を渡る事は非常に難しく、潮の変わるタイミングや海の魔物との遭遇、渡し守の腕やら様々な条件で一年で何隻も沈んでいるとの事だ。その為にリムルダールは孤立し他の地域に比べ閉鎖的でもある。
 リムルダールは環境的に恵まれていて自給自足は事欠かなかった。商人も傭兵もリムルダール専属の者で需要が満ち、リムルダールの人々が不自由する事がない。海峡の渡航の難しさからリムルダールに危険を冒してまで行く者も居らず、逆にリムルダールからラダトームに売り込みに行く人間も殆ど居ない。売りだった魔法技術はメルキドに取って代わられ、リムルダールはアレフガルドでも存在感の無い遠い町になった。
 旅行者ですら命は惜しいと行く者も少なくなった渡し守の村は、寂れに寂れていた。その寂れっぷりは最も冬の厳しいガライの町に匹敵していたが、町は吹雪と流氷に閉ざされているだけで人々は家の中でじっとして見かけなかっただけだろう。この村は人自体がいない。
 桟橋まで歩いて大河を望む場所まで来ても、満足に整備された船は見当たらない。陸に上げられていない船は浸食され木が腐り水が滲み出していたし、陸に上がっている船も壊れているのが多く見受けられた。漁で使うのだろう小舟が数隻使えそうな形で整備されていたが、それでも大河を渡す事は出来ないだろうと思った。
 南風は生暖かく湿気を多分に含んでいて、ドムドーラ砂漠の暑さに慣れていた俺ですら参る。
「困ったもんだな…」
 リムルダールには仕事と興味から一度だけ行った事がある程度で、記憶としても10年に近いくらい昔の話になる。その時はこれほどまでの寂れを見せておらず、それなりに賑わっていた記憶があるのだが10年近く経てば変わってしまうものなんだろう。俺は記憶を頼りに桟橋から離れ、村の中の酒場を探したが探す必要もないくらいに呆気無く見つかった。
 扉を開けて驚いた。中には渡し守らしい男達が燻っていたのだ。
 酒気と煙草の煙が鎧戸を閉めてランプの明かりが申し訳なさそうな程度の空間に淀んでいる。テーブルを囲んでカードに興じる男達は中年より若い者は居らず、その腕も渡し守をするには少し頼りないくらいに衰えている。もはや海峡を渡るのすら諦めているのか、昼前にも関わらずマイラの地酒を煽り顔が赤くなっている者も多い。彼等は酒場の扉を潜った俺に一瞥をくれると、関係もないと言いたげに視線を戻した。
 なんだがマシな奴も居なさそうだ。
 だがどうにかリムルダール地方に行く必要が俺にはあるのだし、仕事を途中で放棄する事は俺の仕事へのプライドが許せそうに無い。訊く前から諦めてどうする。こんな所で足止めを食らっては、宿代でちくちくと財布の中身が減っていんだ。堪え難い拷問じゃないか。こんな田舎で仕事など無論手に入る訳がないと分かっているなら、動くしかないじゃないか。
 そんな事を深呼吸の間に結論付けて、一歩踏み出そうとした時だった。
「若造、何か用か?」
 俺の横、カウンターの隅に腰掛けた爺さんが僅かに俺を見て声を掛けて来たようだった。俺が声に振り返った時には視線は爺さんの前に組まれた手に落とされていたが、静かに独り座っている後ろ姿は何とも言えない緊張感を持っているようだった。
 俺は彼の横に座ると、うたた寝をしている店主を見遣ってから言った。
「リムルダールに渡りたいんだ」
「この時期はどうしても荒れる。10日の内1度でも渡れるチャンスがあれば儲け物な位じゃよ」
 そうして爺さんはぼそぼそと説明した。時期を問わず荒れる大河だが、今の時期は他の時期よりも荒れる日が多い。今は目に見えて穏やかであっても、岸から離れて漕ぎ出せば波は高く運悪ければ渦潮に呑まれる。よほどの腕の渡し守であっても大河のご機嫌を見てから渡る事を決心するために、定期便は存在しない。今、この大河を渡るのは外海に出るような船を用意できる金持ちな商人くらいだろう、と。
「誰に聞いても首を横に振られ断られるじゃろう」
「それでは困る」
 ここで路銀が尽きるのは困るのだ。ラダトームに預け入れてある銀行に戻るのは難しく無いが、補充してもここで再び路銀が尽きてしまえば同じ事だ。仮に路銀が尽きそうな時渡れたとしても、リムルダールの閉鎖され独占されているだろう場所で余所者の傭兵が仕事を得られるとは思えない。俺はリムルダールで路銀の調達が出来ないと想定しているからこそ焦っているのだ。
「いつかは川は渡れる程に穏やかになる」
 今だって十分に渡れそうなくらいに穏やかだったぞ。いつかを待ってたら路銀が消えてしまうじゃねぇか。野宿したって路銀が減らないんなら野宿したろうじゃねぇか。堪忍袋の緒が切れて、山賊になってこの街を襲ってもおかしくはねぇ状態になるだろうけどな。
 皮膚一枚下に迫った怒りをぐっと我慢する。
「どんな手段でも良い。急いでいるんだ」
「本当に、どんな手段も結果も厭わぬのか?」
 爺さんはその時初めて俺に視線を合わせた。年齢にしては筋肉の引き締まっていたからベテランの渡し守だったのだろう。皮膚のたるみで目に掛かる眉の下にあった眼光は鋭かった。
「ここから南方に氾濫する川の水で沼地に変じた場所に洞窟がある。勇者ロトの時代まではリムルダールまで続く地下道でもあったそうじゃが、危険な魔物が住み着いて誰もそこを地下道として使う者はおらん」
 そこで爺さんの顔に初めて哀れみに似た表情が浮かんだ。
「通り抜けた者は誰も居らんよ」
 きっと今までも同じように傭兵に道を教えて、そして帰って来なかったのだろう。爺さんの表情から察するのは呆気無い程簡単な事だった。傭兵とは危険であろうと死と隣り合わせでも、金のために命を賭け命を奪う。今は人同士の争いがないから何でも屋に思われているだけなのだ。俺達にとって金は命と同じ重さを持っている。道徳観情が欠けていると非難する者の言葉は正しく、ろくでもない職業を営む連中だからそうであって欲しかった。
 俺は爺さんに少しだけ背筋を伸ばして向き合った。
「同情するなら船出して欲しかったな」
 爺さんの前に銀貨を数枚置くと、俺は彼の苦笑を苦笑で返してその場を後にした。

 ■ □ ■ □

 洞窟とやらは朽ち果てて獣道の様になっている旧街道の果てにあった。
 爺さんの言葉の通り獣道になっているとはいえ、氾濫した水のせいとはもう言えそうに無い立派な沼になっている。目的地を見つけるのは容易かったが、沼と一体化しつつある洞窟を見つけて使えるのかと不安が掠める。覗き込んで、洞窟の中の空気は意外と乾いていて人が通る事は可能だと一安心した。
 俺はそこに辿り着いてから川の水で靴とズボンを洗って、泥を落として乾かすのに一夜を使った。その間に枯れた木と運良くあった松の枝を束ね、簡易的な松明を作るのを怠らない。地下通路として作られた道とはいえ、最低大河の幅の長さがある。ランプの油が足りなったり魔物との戦闘をを想定しておく必要があった。ゆっくりと休んで夜が明ける頃、夜行性と昼行性の魔物の動きが鈍る時間に合わせ俺は洞窟の前に立った。
 洞窟の入り口は流れ込んだ沼の泥にぬかるみ、壁には湿気でびっしりと苔が覆っている。明るくなりつつある外からの光を頼りに、慎重に降りて十分な時間を使って俺は平面な場所に降り立った。ひんやりとした空気が頬を撫でるが、水滴が落ちるような湿気は思った以上に少ない。洞窟を形成する岩盤は思った以上に強固で、洞窟に良くあるような空気の澱みがない。空気の通り道が少なからずあるのだろうから恐らくリムルダール側の出口も塞がっては居ないのだろう。
 俺は用意した松明に火を付け、奥に続く道が南のリムルダール地方に一直線に伸びているのを確認して歩き出した。
 ラダトームのちょっとした通りと同じ幅があるだろう幅と、二階建ての窓の位置くらいに高い天井、そんな道が只管真っ直ぐ続いている。砂埃の積もった地面の下には鋪装した後があり、馬車が通っても大した揺れを感じない程に整っている。時代を感じるレリーフが刻まれ、隅には使われなくなった壷や壊れた樽の残骸や、残されたテーブルや椅子の成れの果てが多く残っている。横道は入り組んでいるようだったが、南へ真っ直ぐ伸びる道よりも狭く入り組んでいて生活の痕が色濃く残っていた。
 流石に横道に逸れる勇気はないが、ここは地下通路だけではなくちょっとした地下都市の機能を持っていたのだろう。確かに、マイラとリムルダールの間には町がないので立地条件的には申し分無かった。
 洞窟内を把握して来た頃になって、俺は一つの不安を感じる様になる。
 魔物が出ると聞いていたのに、魔物らしいものとは一匹も出くわしちゃいないのだ。
 魔物が出ない場所は人の住む町くらいなもので、魔物はどこにでもいる。山や森だけではなく草原や砂漠を住処にしているものは多く、洞窟は人間の家のようなもので住み着かない魔物が居ないのは変だ。夜行性で暗闇を好むドラキー1匹すら見当たらないのは不自然で無気味だった。
 俺の勘はこの洞窟を『危険』と判断させていた。爺さんの言葉を聞いたからじゃなく、本当に恐ろしい雑魚すら住み良い場所を捨ててでも出て行く大物が居るに違いない。俺の足はいつの間にか早足になっていた。
 大河の幅を考えれば中間地点くらいまで進んだ頃、俺の髪は僅かな風で揺れた。
 ……風?
 俺は足を止めて風の吹いた方向を凝視した。ここまで進んで来て直線の道だったが、マイラの洞窟の出入り口が小さかった分そんなに多くの風が出入りする事は出来ない。リムルダール側の出口が近いならばひんやりとした洞窟の空気とは違い、生暖かく感じるような外気を感じるはずだ。松明の熱気の余波とは違う、冷たい洞窟の空気が動いたとしか思えない空気の壁が俺に当たったのを感じた。
 何かが動いた。俺はそう感じる。
 何かは魔物だろう。とても、強い。
 俺はロトの剣に音も立てずに手を掛けると、脇道の真横に立ち即座に動けるように腰を少しだけ落とす。待ち構える様にそうして程なく、漆黒の闇の向こう通路の壁すら飲み込むそこから、ろうそくの火のような朱が灯った。
「…!」
 俺はその朱が何なのか理解する前に脇道に転がり込んだ。脇道の入り口、一瞬前まで俺が立っていた場所に火炎が深紅のカーテンを張っているのを夢物語の様に現実味無く見る。松明を火炎の中に投げ込むと、松明の燃える時に放つ独特の香りが広がるどころか消し飛んだ。
 即座に逃げ道を考える。洞窟の出口は分かっている内で、マイラ側とリムルダール側の二つ。しかしそこに最短で辿り着ける道は真っ直ぐで、魔物に直ぐに見つかってしまうだろう。火炎の速度を考えれば、全速力で駆けても逃げ仰せはしない。脇道の入り組んだ構造を利用して逃げるという手段は悪く無い。魔物が小型でなければ狭い脇道を追跡するのは不可能だが、こちらが迷って野垂れ死ぬ可能性がある。ランプの持続時間は無限ではないし、魔物も賢ければ出口で待ち伏せする事だって考えられる。
 逃走は不可。相手が諦める程の持久戦に持ち込める程の装備がこちらにない。
 俺に残された方法は、敵を打倒する事しか最早残ってない。
 先程の火炎、速度と威力を考えて敵は大型の魔物だ。マイラとリムルダールを結ぶ直線通路に納まる程度の大きさ、俺が傭兵として戦ってきた魔物の中では大型に属するだろう。火炎は呪文の類いではないなら、ブレスになる。そこまで仮定されると、敵の存在の輪郭が見えて来て俺は絶望的な気分になってきた。
 まさか、こんな所で出会う事になるとは…。俺は内心舌打ちした。
 ドラゴン。
 傭兵でも見た事のある奴等居ない。もし居たとしてもそれは法螺だと揶揄される、メルキド山岳地帯の前人未踏の地まで赴けば見れるだろう魔物達の王者。知識は人を凌駕し、力はメルキドのゴーレムをも軽々と薙ぎ倒し、炎と氷の吐息を吐き呪文を行使する。圧倒的寿命を誇り、今も昔も最強の魔物として全ての生命の上に君臨している。
 確かに思い当たる節がない訳ではない。旧街道とは言え徒歩で踏破できる場所をわざわざ捨てるなんておかしい。いつ渡れるか分からない渡し船よりも、深夜だろうが歩ける地下通路の方が遥かに利便性は高いのだ。どんな理由でそれなりに繁栄していた場を封じなくてはならなかったのか、その理由がドラゴンならば十分に納得できる。
 この洞窟に魔物がいなかった理由もきっとこのドラゴンの住処だからに違いない。雑魚による後ろから挟み撃ちはないし、今動いているのもこの衝撃に近い足並みで歩み寄る主だけ。俺は壁の背越しに感じていた相手の動きだけに意識を集中できる。
 重い物が地面を突くような、ズンとした衝撃が近付いてくる。俺は荷物を降ろし、ロトの剣と相棒の鋼鉄の剣の柄を握りしめた。
 もし相手がドラゴンであるならば、近付いて来た巨体に取り付いて急所を突いて殺すしか無い。このロトの剣ならば鱗も切り裂いて急所を傷つける事も可能だろう。頭を下げていたら眉間か目玉、上げていたら背中の首筋にある急所、心臓も狙いめだが筋肉の壁に阻まれて難しいらしい。
 どれも文献の知識だが、なぁに、魔物の急所と変わりゃしねぇ。息して、血を流す生き物なら殺せない事はない。息してなくて血を流さない奴だって、壊せば勝ちだ。
 チャンスは一番接近できる、最初の一撃に全てが掛かっている。どんな重傷を負わせたとしても殺さない限り、一度でも間合いを開けてしまえば巨体故のリーチの長さとブレスがある分こっちが圧倒的に不利だ。横道に逃げる方法は地の利がない分、ブレスを避ける以外に用いる事は出来ない。
 息を殺して、待つ。足音が近付いて来る。
 漏れそうになる闘気を、殺意を、洞窟の冷気を意識して鎮める。
 壁の端にドラゴンの鼻先が見えたと同時に、俺は鋼鉄の剣を抜き放ちドラゴンの正面に躍り出る。戦闘体制のドラゴンが頭を上げて前足についた三日月刀のような爪を振り上げ、 俺は動きを見切って体を支える軸足にしていた側に飛び退る。軸にしていたドラゴンの足に鋼鉄の剣を突き立て、鋼鉄の剣に足を掛け即席の足場で一気にドラゴンの上に乗り上がった。思った通り大型だったが、ドラゴンにしては小柄なのか簡単に背を捕る事が出来きた。
 飛び上がった勢いを利用して流れる動きで、俺はロトの剣を抜き放ちドラゴンの首筋に突き立てようとする!
 殺れる!と思った瞬間
 俺は背後から巨大な壁にぶつかったような衝撃に前にふっ飛ばされる!
 暗い闇の中でドラゴンの深紅の瞳が軌跡を描いて上から下へ動く。急所を攻撃されるのを瞬時に察してドラゴンが後足を蹴りあげて、大きく空中前回転をしやがったのか。畜生、頭良いな! ドラゴンの背中で前に振り落とされ、地面に落下した俺の体に容赦なく尾が振り下ろされる!
 地面に叩き付けられる衝撃に、勢いに乗った丸太並の尾の一撃。感じた事のない圧迫感と激痛に、声も出ず痛覚がぶっ飛ぶ。息を継ごうとすると妙に息苦しい。先程の衝撃なら鉄の鎧でも砕けただろうし、鉄が砕けるなら肋骨なんぞ木の枝の様で、その結果は考えるまでもなく内蔵が酷い有様になっているだろうという事だ。自分が瀕死の重傷に一撃でなったのだと、冷静な部分が冷静に己の状態を判断していた。
 もう、人生終わりか…。流石にこの状態にさせられると、どうしようも出来なくなり観念の情が湧く。
 金を惜しんで命を惜しまずとは、なんとも傭兵らしい死に方だ。誰もが俺らしいと笑うだろう。傭兵の仕事に奇麗事などない。仕事はいつも墓穴で、どんなに多くの仕事をしても安住など得られない。それは小銭目当てで傭兵になった親不孝共の末路で、畜生畜生呻きながら真っ当でない死に方をするのは当然なのだ。傭兵達は明るく非常に良い声でそんな内容の歌を歌った。今もそんな歌を歌う。死にながら、笑って、泣きながら、仲間に看取られて。
 今までそんな奴らを何人と見て来たが、俺はそんな幸せそうな死に方は出来そうに無いな。残念な事だ。当然な事だ。
 ま、いっか。
 そんな事をだらだらと考えて今更に不思議なのだが、止めの一撃が飛んで来ない。急所を狙われ殺意ある敵を前にして、止めを刺さないのはおかしい。
 見る事に意識を向ける。そうだ、まだ顔は潰されていないんだから、見る事は出来るんだ。意外な事に小さな驚きを感じながら、俺は敵対していた敵を見た。敵は目を開けると正面に居た。
 鮮やかな緑の鱗のドラゴンだ。角張った書物や彫刻で見るようなごつい顔作りではなく、細面の美女のような輪郭だ。ほっそりとしなやかな体つきで鱗が水流のように体を覆っている姿は、柔らかい羽毛に包まれた鳥のように優美だった。爪も角も戦闘向きではなかったが、それでもレイピアのような芸術的な外見に強さを潜ませる。そして一番驚いたのはそのドラゴンが蝶の羽を持っていた。朱色を帯びた美しい模様は霞のように透けて火の粉よりも淡い淡紅の鱗粉を放ち闇を照らし、ドラゴンの深紅の瞳と相まって一つの芸術のように思わせた。
 深紅の瞳と目が合った。その爬虫類じみた瞳が見開かれると、ドラゴンはゆっくりと口を開いた。
「アレフさんじゃないですか」
 ………は?
 口から漏れたのは火炎ではなく、はっきりとした人間の言葉だった。涼やかな響きに澄んだ美声は、はっきりと俺の名を呼んだのだ。
 ドラゴンはそう言うと足に刺さった鋼鉄の剣を抜いて俺の前に置いたようだった。満身創痍の俺に優雅な仕草で首をのばし鼻先をくっつける程近付けると、ドラゴンは鋭い牙を覗かせながら笑った。ぞろりと並んだ牙に、宝玉のような濡れた瞳に俺の姿が映る。
「この姿じゃ分かりませんよね」
 ドラゴンは頭を上げて俺には聞き取れない声で吠え、震える空気が輝いてドラゴンは光に包まれる。背中にはえた羽が、長い尾が、角や爪が、瞬きを数回する間に俺と同じくらいの大きさにまで縮んでいく。光が納まって途端に暗くなった視界が慣れ前に気配は俺の横に移る。そして優しく回復呪文を唱える声が響いた。
 回復呪文の光に照らし出されたのは、マイラで別れたイトニー。回復呪文で溢れる光に眩んでも、洞窟のなれない闇の中でも、見間違える事は無い。
 深い黒のような緑の腰まである髪、真紅の瞳、褐色の肌。ラダトームの時から見ている動きやすい旅装束。淑やかな令嬢のような上品な顔立ちは、相変わらずの冷静さと優しさで俺を見下ろしている。違う所を強いて挙げるなら、少しだけ敵意が感じられる。殺気じゃないのが救いだな。
「川が渡れないからこの地下通路を使ってきたんですね。魔物も出ると聞いておられるでしょうに、全く、アレフさんらしい…」
 呆れたようにため息を零す頃には回復呪文は施し終え、掌から泡のように零れて俺の体に掛かっていた光は消える。再び暗闇が覆った洞窟を、イトニーは火炎呪文を調節して照明の様に手に翳して照らした。
 俺は警戒を消さずにはいられないが安堵して息をついた。痛みが消えたが呪文の副作用で異様にだるい。
 重たい頭を持ち上げ上半身を腕で支えるように、ゆっくりを身を起こすとイトニーをしげしげと見た。イトニーは、ローラという女を護衛するドラゴンなのだ。魔物に守られた女……それは俺が探すローラ姫の状況そのものだろう。きっと、人を見る目ではなかったのかもしれない。彼女は非常に寂しげにうつむいた。
「悪い」
「いえ。人が通る道になると少し困る方がいらっしゃったものですから」
 イトニーはそこで俺に向かいあって丁寧に頭を下げました。
「改めまして。竜王様からローラ様の世話役と監視を仰せつかっております、イトニーです」
「少しは誤摩化すなりしてみりゃいいじゃねぇか。騙されてやるからさ」
 俺が呆れて言うと、イトニーは苦笑して顔を上げた。
「ここまで知られて誤摩化せるとは思いませんよ」
 気まずい沈黙。
 別に俺は竜王や魔物を恨んでいる人間ではなが、さすがに魔物と仲良くできる人種ではないと思っている。彼女が魔物だから関係を見直そうと考えるつもりは更々なかったが、それでも人だと思っていた同族間での安堵は失われて微妙な心境が俺の中に生まれた。見た目などに捕われてはいけないと傭兵である俺は心に刻み込んではいた。それでも、魔物は?と、なるとなぁ…。
「アレフさん。もし良かったらローラ様に会って行かれますか? きっと喜ばれるでしょうから」
 護衛と監視を任されているなら、今まで通りローラとイトニーはセットなのだろう。俺はイトニーの提案に頷いてローラの元へ行く事となった。
 だるい体を引きずって歩くうちに調子も上がってくる。調子が上がって余裕が出た頃には、あの横道は相当複雑な作りだったと痛感した。街の裏路地のように入り組んで、ところどころ崩れた壁を何度も跨いだり潜ったりしている内に方向感覚が失われて行く。イトニー とはぐれたら出られないかもしれねぇが、彼女の性格から騙すような真似はしないだろう。
 ローラは何気に人の心を見抜く力に長けている。イトニーが命令に従って俺を殺したとしたら、それをローラに隠し通す事はきっと不可能だろう。
 魔物であると分かってもイトニーは悪い奴ではない。この後に来るだろう選択肢はきっと取引だろう。何かしらの理由でラルス王家から連れ攫ったローラを俺が連れて帰るか、俺を丸め込むなり金を握らすかして『姫は死んでいた』と報告させるかという選択肢だ。これはローラの利用価値の問題になるので俺も深くは察せないが、少なくとも今現在では俺が連れ戻す事をあちら側に承諾させる事は難しいだろう。監視付きなら外にも自由に出られるのだから、ローラの利用価値があるのかも少し疑問だが…。ローラの利用価値が無くなり次第、俺とラダトームに帰らせるという可能性はある。その選択をとらされる可能性は多いにある。俺もローラと同じく魔物に捕われる事になるのは困るな。
 とにかく勇者ロトの時代に人間と戦争を繰り広げた大魔王ゾーマの時代以降の魔物の統治者は、人間とは距離を置いた穏健的な考えの者ばかりに違いない。その竜王が人間の支配を望むような性格かどうかは知らないが、部下のイトニーの性格とローラの待遇から考えてそんなに暴力的な奴ではないだろう。
 イトニーが足を止めた。その先には朽ちていない木製の扉がある。そのサイズは当然ながら人間サイズである。
「丸一日、ずっと変化してるのも大変だな」
「慣れるとそうでもないですよ」
 俺の何気ない呟きに気軽に答えると、イトニーは扉を開けた。
 中は住みやすそうな普通な家で、洞窟の中の家とは思えないものだった。窓が無い事を除けばキッチンも風呂もありそうで、一般的な家にある家具も奇麗に掃除されていて埃も積もってないし、調度品は高くもなく見窄らしくもなくちょっとした細やかさが伝わる、そんな家だ。それでもローラに与えた家として急拵えに用意した新しさはなく、昔から誰かが使っているだろう落ち着いた生活の匂いがあった。
 入ってすぐの大きな部屋に、これまた大きいテーブルがある。その上にあのローラお気に入りのスライムが乗っていやがる。気に入らないので一発弾くと、へらへらを笑いながらテーブルところころと転がって、花の生けられた花瓶に引っかかって止まる。
「牢屋のような所だと思いましたか?」
 図星な所を突かれて思わず口ごもったが、俺は部屋を一回り見て肝心の人間がいない事に気が付いた。
「ローラは?」
 あら、本当。イトニーはおっとりとした様子で奥の部屋を覗き込むと血相変えて飛び込んだ。
「私が戻られるまで、パウンドケーキを焼かないでくださいと、申したじゃありませんか!」
 次の瞬間、奥から焦げ臭い臭いと共に煙がもうもうと立ち上った。普通の焦げ臭い香りじゃないのは気のせいであって欲しい。
 それから間を置かずに煙の中からあのお転婆ローラを引きずりだした。マイラで別れた頃と大して変わらない旅人の服だが、ちゃんとエプロンと鍋つかみを装備して、豊かな金髪を結って、料理していた真っ最中な格好だ。煙を思いっきり吸い込んだのか、少し煤に汚れた体を二つ折りにして盛大に咳き込んでいる。
「ごほごほ……ごめ…。できるかなぁ……ごほ…思って」
「そして見事に真っ黒こげですね」
 咳き込以外に追い打ちを掛けられしょんぼりと肩を落としたローラに、イトニーは背中を励ますように擦ってやる。
 やがて呼吸も落ち着いたローラは顔を上げて俺を見た。エメラルドの瞳を真ん丸にして凍り付き、顔がやや青ざめて体が突き立てられた棒切れのように動く気配がない。いつもの覇気も茶目っ気もなく、息すらも止めてただ呆然と俺を見つめた。
「アレフ……」
 ようやく呼びかけられたが、俺は言うべき言葉も見つからない。
 ローラの父親であるラルス国王から依頼を受けた傭兵として話すべきか、それともラダトームから護衛して数カ月共に旅をした友人として話すべきか、それすらも曖昧だ。ローラの出方で俺がどう出るかも決まるのだ。迂闊に先に声をかけてはローラが話し難いだろうしな。
 ローラは俺から視線を外してイトニーを見上げた。
「イトニー……喋っちゃった?」
「すみません。本当の姿を見られてしまいましたので…」
 ローラは『そっかぁ』と思った以上に明るい声で呟くと、俺の前に歩み寄って俺を見上げた。
「アレフ…信じられないかもしれないけど…あたしがラルス16世の娘、ローラ姫なんだ」
「本当に信じらんな」
 やっぱりアレフは意地悪だぁ…と頬を膨らませるローラは、自分を姫と名乗っても共に旅をした我が儘なローラそのままだ。訳が分からん。一体どこで優しく淑やかな天使のようで以下略なんて評判が着いたのだろう? 姫だからというお世辞にしては演技には見えぬ讃え振りであったし、人の口には戸は立てられぬものだから我が儘な態度が一片でもあれば誰かから噂でも聞く事も出来たはずだ。かといって記憶喪失とかの変化も、生活の変化から弾けたような無理した態度も見られなかった。
 俺の知るローラがローラそのものであるのは間違いないようだ。
 それはともかく
 俺は竜王に攫われた姫君に、意外に早く出会う事が出来た。
 というか、とっくに会っていた。