荒野を行く

 ローラが光の玉に触れた直後、光の玉は消滅しアレフガルドから光が消えた。
 私が洞窟内に入った頃には天高く太陽が昇っていたというのに、まるで天から漆黒の緞帳が一気に落ちて来たかの様に青空や太陽が掻き消え漆黒の空が覆ったという。イトニーが慌てて戻って来て私の襟首掴んで外に引きずりだしたかと思えば、彼女の言葉の通り空は漆黒だった。日蝕かと思ったが、どこにも日の輪を見る事も出来ない。
 遥か彼方に見えたリムルダールの明かりが灯されているのが見え、確かに今しがたの事だったのだと理解出来た。
 まさか光の玉が消えるとは思わなかった。それは私の素直な感想だった。
 私は翼の上がる限り高みに昇り、アレフガルドを見下ろす。アレフガルドの上空は晴れ渡っていて、雲一つなかったが大気の流れは淀んでいると言って良い程停滞している。太陽が消えてから空気は徐々に冷え始め、今は深夜のように薄ら寒い空気が鱗を撫でて通る。地平線は暗い闇が溜まっていて、空なのか海なのかも分からない。日の昇る様子も沈む様子も、糸一本分も滲む様子が無かった。
 光の玉が効力を失いかけていたという可能性はあまり考えていない。魔法具とは基本的に寿命を迎える頃には様々な劣化現象が見えて来るが、その兆しは無かった。
 偽物…だと仮定してもアレフガルドの昼が消えてしまったのだから、限りなく本物に近い偽物だったのだろう。もしくは本物を何処かへ持って行く必要性が生じ、光の玉に代わる物を作ったに違いない。勇者ロトの時代は特に魔法技術が抜きん出ており、名前は残っていないが賢者に値する存在がいただろうから不可能ではないはずだ。
 光の玉を作れる可能性がある。今回の消失を受けて、私が魔導師と得た一つの推論だ。しかし、その可能性を模索している間に、アレフガルドは厳し過ぎ春を迎える事の無い永遠の冬を迎える事だろう。日が昇らぬ事による作物の不作も目に見え、植物も徐々に枯れて行くだろう。魔物だけではなく、人も多く死に絶える。
 大魔王ゾーマの時代を記憶する者もそう証言した。当時は長い長い極寒の夜が続き、人間が滅びかけていたのもその極寒の気候の為だったという。魔物は寒さに順応し生き延びて来たが、光が戻り順応した種族が変化に対応出来ず死に絶えたと語った。どちらにしろ、良い結果は目の前に無い。
 私の本当の姿で飛ぶという事は目立ち過ぎたが、この暗闇の中では私の巨大な姿を見つける事も出来ないだろう。
 アレフガルドはインク瓶に落としたかの様に滑る闇に沈んでいる。色彩の無い荒野のように広がるアレフガルドの空を、私はラダトームへ向かって飛んだ。

 □ ■ □ ■

 ラダトームの守備は相変わらず笊だった。と言うのは簡単だが、今回の私は人間の姿に変化して正門から堂々と入るという方法を選んだ。その方法が出来るのも、ローラを捜索に来た男がローラを無事に送り届けて『ローラ姫が救出された』という事実があったからだ。あの男が独力で救出したも同じだったが、彼ならローラを保護していたと理解して口裏を合わせてくれる事だろう。
 私が正門の横にある勝手口のような場所の前に立っている兵士に近づくと、兵士は人間の姿をしているからか特に緊張もなく私を見た。
 人間の姿の私は、長身でややがっしりした体格の男である。黒髪は視界に髪がちらつくのが苦手なので短くしてあり、服装は所謂魔導師風に整えてある。杖は魔物の時でも持っている木製の杖なのだが、身長が高いせいもあって短く感じる。気が緩んで変化が解けるといけないので、ターバンを巻いたりローブは長めにしたり気は遣っている。唯一調整出来なかったのは、瞳の色。金色の瞳だけは、どうにも変化しなかったが些細な事だろう。
 私は挨拶すると、兵士は無言で私を見て来た。ローラが帰還して喜ばしい筈なのに、彼は何故か不機嫌な様子だった。
「私はローラ姫救出に協力した者だ。姫に付き添って来た女性に会いたいのだが…」
「あの男の協力者…?」
 そう告げると増々兵士は目を険しくした。殺気すら立ち上っているらしく、私も思わず杖を構えようと指先に力が入ってしまう。
 言葉の様子から彼の不機嫌さの原因は、私ではなく捜索に来たあの男に向けられている様だった。彼とあの男に何があったか知らないが、あの男は門番をしている彼に相当に嫌われているようだった。その為もあってか、男は怒りを堪え事務的な話を切り出した。
「姫は陛下と話をされている。姫に付き添っている旅の女性も共にいるが、陛下との話に割り入る程の急用で無ければお取引願いたい」
 私は顎を擦って兵士の言葉を反芻した。
 まだイトニーにはローラの護衛を任務として命じており、彼女は例えローラが危害が及ばぬと分かっていてもその傍を離れる事が無いだろう。問題はイトニーに伝言というか任務の変更を告げに来た訳だが、国王は人間にとっての最高権力者でその前に一応無名の旅人である私が割り入る事は失礼になる。この城内は特に階級に対して厳格な掟が敷かれ遂行される雰囲気である為、余程の事が無い限り場の雰囲気を壊さぬよう兵士達は全力を尽くす事だろう。
 ローラと国王の話が終わらなければイトニーに接触も出来ないという事だ。
 それは少しばかり困る。私はもう一つの心当たりを訊ねた。
「では、捜索に関わった男は何処に居る?」
 兵士は私の問いにあからさまに嫌そうな顔をした。
「あの傭兵は本当に無礼者だな」
 言いたい事はなんとなく理解出来た。
 あの男は魔物でも力量が上だった私に慎重に接して来た事から、己の力を信じて生きている所があるようだ。故に王国に対して忠誠心というものは保護されるのを願い下げしているので当然なく、国王との関係も金以上のものを願ったりしない。国王から名誉を授けられる事は兵士としては最高の栄誉だが、腹の足しにもならんのなら金をくれと彼なら言うだろう。名誉や栄光による繋がりは彼の中では決して重要なものではないのだ。
 つまり、あの男は言いたい事を言っているのだろう。
 その発言は、この城内という名の世界の法則では非常に無礼で失礼な訳だ。一歩外を出れば誰も気にしない事なのだが、王宮の法律に縛られた兵士達は敵意むき出して彼を認識しているのだろう。相容れないのだろうが、そこは理性で抑えられなかったのだろうか。いい気味だとでも内心思っているのだろう。良い性格をしている。
「彼には会えるのか?」
 兵士は非常に嫌そうな顔をしながらも、案内をする意思を滲ませて扉を開けた。兵士の後ろを付いて行き、重厚な城内を過ぎて兵士達の練習場を目指して行くのか装飾は実直なものになって行く。耳を澄ませると馬の鳴き声が聞こえる辺り厩も近いのだろう。しかし、程なくして剣戟と罵声が耳を付く様になる。罵声の一つ、一際大きく声を張り上げる声は聞き覚えのある男の声だ。
 少し開けた場所は試合場になっているのだろう。剥き出しになった煉瓦の内側には小さい窓があったが、外が暗い為に光源はランプの明かりで暖色系に照り出される。その暖かい光を黒山の人だかりと言いたい程に黒々と多くの兵士達の影が遮っていた。彼等は真ん中に空間を作り、一つの試合を見守っていた。
「くっ……!」
 苦し気に中年に足を掛ける年代の男が剣を構え直し息を整える。鎧は上質な鋼と装飾を僅かに施したもので豪華でも華美でもないが、兵士の鎧と比べれば格段に質の良い一品だろう。恐らく、兵士長か近衛兵で位の高い人物に違いない。
 そんな兵士長らしき男を前に剣を弄んで悠然と立っているのは、ローラを探しに来たあの男だった。旅人が好むような丈夫な衣類は着ているが、鎧はまとっていない。それでも、彼は傭兵が常備するのだろう大荷物をベルト等に固定させて、鎧を着ている男と対当に渡り合っていたようだ。
「いい加減降参でもしておけ。俺はあんたの豪華な鎧に傷つけて、賠償金とか吹っかけられるのはごめんなんだよ」
 そして、鼻で笑う。
「俺は王様のお言葉も要らないし、姫様の感謝の言葉も既に聞いたから改まってもらう必要なんて無いの。兵士長さん。俺はさっき言ったじゃないか。王様とは契約を結んだ関係で、契約を果たしたから報奨金貰えればそれで良いんだって」
 やっぱり。私は思わず片手で顔を覆ってしまった。
「こ…国王陛下を侮辱するつもりか…!!」
 兵士長が怒りを露にして言い放てば、周囲も同調して殺気立つ。国王は彼等の主であり、普通の一般人とはまた異なる権力者で王である。王から声を掛けられる事も姫の感謝の言葉も拒否するばかりが、金をもらうだけの存在と言い切っては流石に怒りを感じない訳が無い。王が否定されるという事は、王の家臣も否定する事になるからだ。
 若い兵士の見習いらしい少年が飛び出して切り掛かったが、痛烈な反撃で壁に吹き飛ばされる。未熟な者に容赦無い攻撃に兵士長が切り掛かったが、こちらも容赦無い反撃に床に叩き臥せられた。私もあの男の実力を見るのは初めてだったが、なかなかの強者である。単独で戦う事に慣れていて、兵士達以上に実践慣れしていた。私も腕に自信はある方なのだが、彼と渡り合って勝てるのか自信が無いと感じる程だ。
 しかし、このままでは良く無い。
 単独で戦う事に慣れているなら当然乱戦にも強いだろう。一人を多数で囲い込んで攻撃する事を苦手とする兵士が、あの男に勝てるとは思わない。となれば、最終的に彼はこの場の全員を倒す事になるだろう。ヘタをすれば犯罪者だ。
 私は彼の真横に歩み寄って肩を叩いた。
「いい加減にしたらどうだ?」
 彼は私を見上げて少し考えるような間を置いて、疑問を浮かべていた顔に僅かに驚きの色を滲ませた。その隙を逃さず、さっさと彼の腕を掴んで兵士を退けて練習場を後にする。兵士達の静止の声を聞く内に、私達は小走りになって正門を目指し乱暴に兵士達を退けて表に飛び出した。星が見え始めた夜空の下をいつの間にか全速力で駆けて、ラダトームの城下町でも貧民街らしき場所の路肩に腰を下ろすと、共に大きな溜息を付いた。
「全員ぶっ転がしてやろうと思ったんだが、残念だな」
「悪い状態を理解しておきながら、良く言うな」
 私が睨み返すと、彼はあまり反省していない様子で謝った。
「まさか助け舟を出してくれるとは思わなかった。あの場所でそんな期待なんて、持つべきじゃないからな」
 本人がまさかと言う通り、私にとっても彼を助けた事は予想外だった。人間に敵意や憎しみを持っている訳ではないが、助ける程の好感を持っているかと問われると答えに窮するのである。しかも、未だに私は彼の名前すら知らない。なのに私は彼を助け、今こうして並んで座っている訳だ。
 不思議な男である。私は彼の顔を見ると、その瞳は今の空の様に漆黒である。彼は目の前に広がる影に埋もれた貧民街を微動だにせず眺めているようだった。闇も見える視力を持つ私には、彼の目の前の光景はかなり殺風景だった。瓦礫が積み重なり、露出した地面からは青々と雑草が茂っている。少し離れた木々は風に木の葉が擦れる音を響かせているが、それが無性に虚しさを掻き立てた。人間が見ても闇にしか見えないだろう世界だったが、見えても希望が感じられはしないだろう。
 目の前の光景から彼に視線を戻すと、相手はいつの間にか私の顔をまじまじと見ていた。
「竜王さんだよな?」
「よく気が付いたな」
 私が目を見張って答えると『目立つから一発で分かる』と良く分からない事を言う。彼は荷物から水筒とカップを取り出すと、一つ寄越して水を注いだ。
「イトニーに会いに来たんだろうが、イトニーには会えない状況だから俺が代わりに状況説明をしておこう」
 仰々しく言うと、彼は早速経緯を話し出した。
 私がローラをラダトームへ送るよう命じて慌てて去って行った後、ローラは帰る事をそれはもう嫌がったそうだ。それもそうだろう。私やイトニーが何度も説得しても決して帰ろうとしなかったのだから、その拒否振りは目に浮かぶようである。
 どうにかラダトームに帰還した後は、ローラは頭から足先まで猫を被って国王や臣下に生還と無事を公言したという。健気に苦しみ抜いた王女様を演じながら見事な手腕で混乱を払拭し、闇に落ちた現在の状況把握と対策に乗り出すべくと国の方向性を示したとか。ただし、この男にとってはローラの猫被りの見事さに胃が凭れる思いだったそうだ。あの我が儘っぷりを知る人間には、少し辛いかもしれんと密かに同情した。
 イトニーはやはり私からの命令があってローラの傍を離れる事は出来ないとの事で、一段落付いたら私の元に戻って再度命令を窺いに行くと言っていたそうだ。
「…ローラはどうして帰る事に納得してくれたのだ?」
 その問いに男は大袈裟なまでに嫌な顔をしてみせた。先程の説明もあって、相当手を焼いたのだろうとは理解出来た。それでも、ローラが納得しこのように事態が丸く納まって行くのが、私には魔法の様に思えてならなかったのだ。
 彼は嫌そうな顔色を変える事無く、不機嫌そうに説明した。
「竜王さんが人間の混乱を沈められるのがローラだけだから帰れと言ったのだろうと説明して…、当然納得なんかしてくれなくて。……そうだ、お前が猫被ってるのなんか演技だって分かる。本当のお前を知ってる奴が目の前に居るじゃないか…とかいって泣かせて帰らせた」
 私は一つ間を置いて、男の顔を注意深く覗き込んで問うた。
「お主…相当恥ずかしい台詞を言っていると思わぬか?」
「言葉に恥も感動もある訳ねぇだろ」
 鼻で一つ笑うと、彼は頬杖を付いて空を見上げた。家の屋根の隙間から半月に近い形の月が姿を覗かせて、薄明るく唯一の光を地上に投げかけていた。
「傭兵稼業に戻ろうにも、この空じゃあ難しそうだなぁ」
 私は思わず男を不思議そうな顔で見てしまった。
 彼は傭兵だ。契約者と契約と給金を得て仕事を遂行する人間で、その任務は護衛など危険なものが多い。これから昼が無く夜に灯る僅かな明かりで仕事をするのであれば、危険増すばかりだし、今回を機に仕事が減る事だとて想像に容易い。我々も人間も生きて行くのに精一杯になるから、贅沢など言っている暇はきっと与えられない。
 彼は今回ローラ姫捜索を依頼され救出した。それは彼自身が得た紛れも無い事実で功績だ。イトニーに殺されなかったのだって数奇な巡り合わせと偶然であっただろうが、運も実力のうちであるのが私の考えである。今回の功績は評価され、彼は爵位だとて望めば得られるし姫との婚約だとて話題に上るだろう。ローラも個人的に喜びそうだ。だが、彼はその道を選ばなかった。兵士達の敵意を買って出て、その道と永遠に決別したと言っても良いだろう。
 これから苦しい時代を迎えるかもしれないのに、彼は苦しい時代から逃れる方法を何故選ばなかったのだろう?
「ガライのロトの伝説でも、闇に閉ざされた時代はクソ寒かったって話だからな」
 彼はぽつりと独り言の様に呟いた。
 そう言えば勇者ロトの伝説が人間達に伝わっている主な方法は、かのガライの町の創立者である吟遊詩人ガライの功績だった。ロトの時代で闇の時代は終わり光が訪れたのだから、その前後の様子をガライは歌や詩という形でも記録として残している。人々も闇に閉ざされどうなってしまうかを朧げにも認識しているのだろう。
 光の玉を作るにも、太陽を取り戻す手段を探すにも、やはり勇者ロトという存在は避けて通れないらしい。
 徐に立ち上がった私の背に、男は気怠そうな様子で話しかけた。
「宛てがあるのか?」
 そう言われると、答えに窮する。私は思わず唸ってしまった。
「ここから北西にはロトの墓があるという伝説を聞いたのだが…」
「勇者ロトの墓なんて聞いた事ないな」
「ガライになら何か手掛かりが…」
「光の玉に絡むようなでかい情報を、聞き逃す程無駄好き国王の耳は吹き抜けちゃいないと思うぞ」
 人間の情報にこれほど疎い事を憎らしく思った事は無い。
 思わず立ち尽くす私の横に、男が立ち上がって並ぶと慰めのつもりなのかぽんぽんと肩を叩いた。余程私が情けない顔をしていたのか、今度は同情を滲ませて言った。
「掴める物は藁でも掴んだ方が良いって考えは正しいと思うぞ? まぁ、古今東西の勇者という存在は、諦めず目的に向かって足掻いて這ってでも目指したと聞くからな」
「冗談はやめてもらおう」
 こんな魔物が勇者だなんて、全く馬鹿馬鹿しい。
 ある意味怒りで後押しされたのか一歩踏み出した所を、男は引き止める様に私の背中に言い放った。
「おっと、ちょっと待て」
 ローラも彼も私のペースを崩すような性格らしく、私は気持ちが傾いているのを感じていた。全く何なんだろうと、とても嫌々ながら振り返っていた。振り返って顔を見る前に、男は次の言葉を告げていた。
「何かの縁だし、協力してやるよ」
 彼の顔を見たと同時に理解した言葉の内容に、私はあからさまに『はぁ?』と口を付いてしまった。溜息と疑問が綯い交ぜになった息を払う様に、私の顔に掌が突きつけられる。
「契約金は、ラダトーム銀行の俺の口座に1億な」
「そんな金はない。お主の冗談に付き合ってる暇もない」
 手を払おうとして未だに私の手には彼のコップを持ったままだったので、彼の掌には彼から借りたコップを乗せる。少し憮然とした表情になった彼は、そのままコップを鞄の中にしまいながら続けた。
「金は不本意ながら冗談として、協力するのは冗談で言ったつもりではなかったんだがな」
 紐が絡んでいるのか、コップを片付けるのに苦戦している姿を見ながら私は訊ねた。
「魔物に協力するというのか? お主、正気か?」
 仕方が無いから紐にコップを括り付けると、男は顔を上げて私を不思議そうに見た。『そうだ、こいつ魔物だった』そう言いたげな顔だ。彼はイトニーとも共に旅をしていたからか、魔物であろうと人間であろうと一度築いた関係を印象や種族で簡単に違えたりしない人物なのだろう。私としても協力はありがたい。だが、人間が力になれるのかどうかは、私にも全く予測が出来なかった。
「俺も外の世界が見たいんだよ」
 彼は気恥ずかしそうにボソリと言った。
 そういえば、彼が世界の事実を知った時の顔は驚きに満ちていた。その驚きは私も良く理解出来る。やはり種族は違えど未知なるものへの好奇心は共通だし、これからの困難に対応しなければならない事はかわらないのだ。魔物ばかりが苦労して、人間は我関せずでは私も少しばかり腹立たしいしな。
 私は手を差し出して彼に言った。
「分かった。お主の申し出、承る」
「そうか。宜しく頼む」
 そうして男が私の手を取ろうとする直前、私は恐らく一番重要な事を思い出して訊ねた。
「そういえば、お主の名前は何と申すのだ?」
 男は手を完全に止めて固まった。心配になって顔を覗き込むと、男は笑って彼自信の名前を言いながら私の掌を叩いた。
 月明かりだけが地上に降り注ぐ世界で、景気のいい音がぱっと広がった。