真っ赤な海で溺れているみたいだ

 朝方の爆発が遠い昔に思える。
 いつも駆け込んだ森の心地よさが、夢のような幻に思える。
 今までの日常から懸け離れた周りの景色が、今まで見た事の無い場所って不安がそうさせるんだろう。松明が照らす鍾乳洞は乳白色の輝きに火花を纏って、ちらちらと緋色の花を咲かせている。湿って星のように瞬く壁面には、何時の時代なのだろう壁画が描かれている。
 荒々しい荒波のような岩肌を見渡す崖に、雄々しく立つ角の生えた逞しい男女。豊潤な緑の森に抱かれるように佇む、背に羽のある尖った耳の知的な夫婦。宝石箱をひっくり返したような美しい海の中で泳ぐ恋人達。無数の人工的な存在が築く大陸を臨む兄妹。無数の花々が咲く中に、楽しそうに舞う愛らしい子供達。
「テンレス兄さん。シンイさん。こっちにも何か書いてあるよ」
 片手に剣を提げ警戒しながら進んでいた弟は、松明を掲げて俺と友人に声を掛けた。
 水面に映る松明の炎は、弟のルアムを明るく照らし壁面の竜を生き生きと浮き彫りにした。星々と月が描かれた空を滑空する竜の壁画は、こんな場所や状況じゃなかったらじっくり見ていたい程に立派だ。
 友人は先程見た太陽の中で武器を掲げ進む人々の絵を思い出しながら、竜の絵を見上げていた。空を舞う鳥をイメージした帽子の下で、癖っ毛がぴょこぴょこと自由気侭に跳ね回る。知的な瞳を瞬かせ呟いた。
「僕は見た事は無いのですが、エテーネ村の外には彼等のような種族が生活を営んでいるのだそうです。5つの大陸には5つの種族の国がそれぞれに栄華を誇っているそうです。大陸を超えて大地の箱船が駆け、多くの人々が行き交っているのだとか…」
「へー、それも爺さんから聞いたのか?」
 俺が相槌を打つと、シンイは急いで口を閉ざした。
 俺は知ってるんだ。シンイの爺さん…アバ様の旦那さんが世界中を旅しているのに、シンイは憧れてる。でも旅立っちまうとアバ様は独りになっちゃうし、あんな元気でも高齢だから心配なんだ。ただでさえ気難しいばーちゃんだから、シンイの優しさったら俺は尊敬しちゃうよ。俺だったら絶対逃げ出してるね。
「シンイはさ、憧れてるんなら旅に出ちゃえば良いんだよ。村でアバ様の世話して一生過ごしたら後悔しちまうぜ」
 お気楽でふわふわした言葉は、残念ながら雲みたいに漂わずに鋭く洞窟内に響いてしまった。ルアムがまあるい顔を風船みたいに膨らませて、足早に駆け寄って来る。
「兄さん! 無責任な事言っちゃ駄目だよ!」
 弟の叩き付けるような声に、俺は『あーあ、やっちまった』と内心溜息だ。俺だってシンイがどんなに憧れていようと、祖母であるアバ様の元に居る理由なんて分かってる。俺がどんなに旅に出たいって切望したって、弟のルアムを一人にする事なんて絶対しないのと同じなんだ。
 俺はへらりと笑ってみせる。だって、他にどんな顔すりゃ良いんだよ。俺は無責任な事を言ったかも知れないけど、嘘とか偽りとか何一つ言っちゃいないんだからな。
「分かってるよ、ルアム。そんなにカリカリ怒るなって」
 膨らんだほっぺを指先で押して引っ込めると、ルアムはシンイに向き直ってがばりと頭を下げた。
「ごめんなさい。シンイさん」
「大丈夫ですよ、ルアム君。僕はテンレスさんとは長い付き合いですから、悪気が無いって分かってます。さぁ、顔を上げてください」
「本当にすみません」
 シンイがルアムの頭をどうにか上げさせようと奮闘するのを横目に見ながら、俺は周囲を見回した。エテーネ村から北の山にある洞窟は、上から大小様々な滝が流れ落ちているのだろう。洞窟の岩肌に無数の楽器を同時に鳴らすように、様々な音が反響しては外に出ようと彷徨っている。
 音に紛れて魔物達の気配がするが、ひんやりとした空気は気持ちを落ち着かせるのだろう。外に比べれば数は少なく、不用意に近づかなければ襲っても来ない。目を凝らせば魔物の影はあるものの、俺達の様子を伺っているだけみたいだ。
 俺は2人に振り返る。まだまだシンイは頑張ってる。
「さぁ、早くテンスの花を探しに行こうぜ。アバ様が待ちくたびれちまうよ」
「テンレス兄さん!」
 顔を跳ね上げて非難めいた声を上げたルアムの後ろで、シンイが柔らかに弟の肩を押した。
「そうです。時間がないのです。急ぎましょう」
 松明の炎を掲げて歩き出した俺とシンイの後を、ルアムも渋々付いて来る。俺が錬金術で失敗したり、近所の女の子に引っ叩かれ、おじさんおばさんに怒鳴り込まれる度にルアムはいつも代わりに謝ってくれていた。しっかり者の良い弟だ。
 でも、もう少し時と場所を考えないとな。ここは危ない場所だし、花を一刻も早く摘んで戻って来いって言われてるからな。そう言う事を言うと、やっぱり弟は怒るのだった。しっかり者だが、おこりんぼなのが玉に傷だと思うんだな。
 それでも、今日は一際虫の居所が悪い。俺は苦い思いを噛み締めた。
 今日の錬金術の失敗は、今年で最悪の失敗だったからな。俺の代わりに謝りに行ったルアムが、まだまだ怒っているのも仕方が無いんだろう。
 アバ様が三度の飯と同等に好きな『ハツラツ豆』を、全部駄目にしちゃったんだ。今年は不作で十分な量が穫れなかったから、俺が錬金術で沢山増やしてやろうと思ったんだよな。さらに道具屋の古びた棚の奥にあった、手書きの古ぼけたレシピ帳が俺に自信をくれた。最後の頁に記されていたのが、ハツラツ豆だったんだ。癖が強くて読めないって誰もが言うけど、俺の字にそっくりで読み易いくらいだった。
 絶対、成功すると思ったんだ。
 でも駄目だった。村中に響き渡る失敗の時の爆発音で、きっとハツラツ豆を駄目にしちまったって村中の人間が知っちまった事だろう。アバ様はカンカンだ。ルアムが俺の代わりにガミガミ叱られたんだろうなぁ。悪い事をしちまった。
 そんな事を考えていると、空気に焦げ臭い匂いが漂ってきた。随分と高く登って来て地上が近いから空気は暖かいのだろうが、それでも蒸し暑いと感じる程の熱気だ。誰からとも無く歩調が早まり、いつしか駆け出していた。全員、考えてる事はきっと同じだ。
 洞窟の硬質な石に足音が響き渡って、水面が揺れる。松明の光で巨大化した影が、急ぐ俺達を見下ろしながら緩慢な動きで付いて来た。
「おばあ様の話ではこの扉の奥です」
 息を切らして言うシンイの言葉は、最早どうでも良かった。焦げ臭い匂いはさらに強烈になっているし、金属で出来た扉からはじわりじわりと熱気が漏れて顔に触る。この扉の向こうで、火事が起きている。
 いや、違う。
 俺は腰から魔力が宿るローリエの枝を引き抜いて握った。
「誰かが、テンスの花を燃やしてるのか?」
 だとしたら、誰がそんな事をするんだ? 花なんか燃やして、得する事でもあるのかよ?
「急いで中を確かめましょう」
 シンイも何時でも呪文を唱えられるよう身構え、ルアムも護身用の剣を引き抜いた。眼鏡の奥の瞳が油断無く扉を見遣り、慎重に扉の戸に触れる。
 そっと開いた扉の隙間から、毒消し茶を嗜む夫婦の家みたいな匂いが迸る。酷くてマジで吐きそうだ。俺もルアムもシンイもうっと匂いに負けそうになるが、逃げようなんて思わない。
 シンイが扉を開け放てば、そこには炎で赤く染まった空間が広がっていた。地面は洞窟とは異なってふかふかした土で覆われていたが、その上に真っ黒い炭化した何かが無造作に転がるばかりだ。ぽっかりと空の見える穴から差し込む陽光すら遮る炎の渦の中に、手足が棒のように細長い老人が上機嫌に踊っている。マントが炎の延長線上みたいに、老人の身振りに従って動いて行く。
「おやおや、子供達。ご苦労さんだったねぇ。でもテンスの花は、全て私の炎で燃えてしまったよ」
 炎で黒く塗りつぶされ輪郭しか分からない老人が、にたりと笑う。甘ったるい声色に悪意が混ざった言葉に、俺は言い様も無い位不快感を感じた。
「テンレスさん!」
 シンイが俺を見て声を張り上げる。俺に言いたい事はそれだけで十分だ。幼馴染みって位に長い付き合いだからな。
 目の前の老人から沸き上がる魔力は、全て空間を焼き尽くす炎に変換されている。痩身が纏う深紅のマントには炎の魔力が籠っているようだし、剣を持つルアムが接近するのも危険だ。俺がこの炎をどうにしかいなといけないんだ。この炎の精霊で踊り狂ってる空間に、氷の精霊を招く事も難しい。
 それでも、俺達で一番可能性のあるのは俺なんだ。
 そして、この目の前の老人を退けなければ、俺達は殺されてしまう。テンスの花を悪意を持って燃やした奴の目的は、絶対に俺達とは相容れない。アバ様の視たエテーネの民が皆殺しされてしまう予言を、具現化しちゃいけないんだ!
 俺は赤々と照らされた空間を睨みつけて、シンイとルアムに告げた。
「時間を稼いでくれ。絶対、ひっくり返してやる」
 二人が頷くのを俺は頼もしく見ていた。
 俺はそのまま地面にローリエの枝を突き立て、魔力を高める。枝を中心に地面に根深く根を張っていた植物の魔力が、ふわりふわりと蛍のように舞い上がる。熱気に逃げ惑う薄黄緑色の光は、それでも俺の周囲の魔力に呼応して炎に立ち向かわんとそこにある。まるで燃やされた事に怒っているようだ。俺は炎の精霊達がこちらに来ない事を感じながら、遠く、滝や水場に在る水の精霊に呼びかける。そして魔力で冷気を生み出す為に集中する。
 弦が弾かれるように、空気が震えた。
 敵が俺のしようとしている事に、気が付いたようだ。
 狂ったように熱気を放つ炎の精霊達が、一斉にこちらを向いた気がする。老人がメラか何かの炎の力をこちらに向けようとするのを、ルアムが遮ったのを感じた。
「いくぞ…!」
 俺が力を解き放つ。
 ローリエの枝が輝いたと思うと、天井に向かって一気に光が放たれる。それは猛烈な冷気を伴って巨大な氷柱となり、どんどん葉を茂らして行く。氷の枝は尚太く、氷の葉は結晶となって次々と茂っては散って舞う。大地からは次々と氷の花を咲かせていた。蕾が綻んで小振りの百合のような花弁を広げ、炎の精霊達が退散して行くのを感じる。
「ヒャダルコ!」
 吹雪のように敵に向かう氷の力。
 氷の飛礫の中を矢のように駆け抜けたルアムの剣が、敵の胸元を貫いた! バツグンの反射神経で、ルアムは老人の胸を蹴り突けて刃を抜きつつバク転して距離をとる。俺の真横まで大きく下がると、白い息を吐きながら油断無く敵の動きを観察している。
 胸から剣を引き抜かれ蹴り付けられた老人は、軽い音を立てて地面に倒れた。まるで致命傷を受けた事を疑うように、膝を付いて緩慢に立ち上がろうとする。傷口があるべき場所からは鮮血は吹き出す事は無く、黒い煙みたいなのが押さえた手の隙間から吹き出していた。口から漏れる苦痛の声ですら、黒い息を伴って空気に融ける。
 この老人は人間じゃない。俺もシンイもルアムも一目瞭然だ。
「このペドラーが人間の子供風情に破れるとは…」
 喘ぐ声を紡ぐ老人は、憎々し気に俺達を見た。その瞳に宿る憎悪は、エテーネ村の外で見かける魔物の誰よりも強い。ルアムが怯えて俺の後ろに下がった。
 だが、ペドラーと名乗った老人は次の瞬間身体を震わせた。痙攣かと思ったが、どうやら笑っているようだ。
「だが…もう、テンスの花は…ない。お前達、エテーネの民は、私の主………様に滅ぼされ…るのだ」
 どんな魔物の雄叫びよりも耳に障る高笑いを響かせ、ペドラーの玉に棒でも挿したような身体が真後ろに倒れた。地面に倒れ込んだと思った瞬間、彼の身体は黒い霧になって音もなく消滅した。
 耳を塞いでも奥に木霊していた奴の高笑いが消え失せると、俺はようやく手を離した。まだ俺の唱えたヒャダルコの冷気が漂い氷の木が茂る空間には、とりあえず敵らしい気配は感じられない。あれほど噎せ返る程だった焦げ臭さも、冷気は地面に押さえつけて澄んだ空気に塗り替えていた。
「ルアム君。大丈夫ですか?」
 背後でシンイの声が聞こえて、俺も直ぐさま振り返る。
「大丈夫です。少し火傷しちゃっただけです」
 俺に放たれたメラを弾いた時に負ったんだろう。左腕に火傷が広がっている。俺はルアムの腕を取ると、左腕にホイミの呪文を施し始めた。淡い光が淡雪のように弟の腕に落ちて、散って行く。
「兄さん。大丈夫だって。早く花を探そう」
「呪文を施したら、少し休んでろ。大丈夫。敵はいないから探すだけさ」
 回復呪文は傷を追った本人から体力や治癒の力を無理矢理引き出して回復させる。回復呪文を施されたら強烈な疲労感に襲われるのを、ルアムは嫌がっているんだろう。ルアムの言葉を明るく遮ると、大分傷も良くなって来たようだ。それでも火傷の跡が結構生々しく残っている。どうにか綺麗に治してやろうと集中しても、爛れたように見える染みを消す事は出来なかった。
「兄さん。大丈夫。ほら、シンイさんが花を探し始めてるから」
 ルアムの小さい手が俺の手に触れた。熱気に炙られて冷気に散々刺されて痛む手を、弟の柔らかい手がじんわりと優しく包み込む。ルアムの言葉に顔を上げれば、空間の隅でシンイの白い羽の生えた帽子がひょこひょこ動いている。
 やはり染みは取れない。残念だ。
 俺は立ち上がると弟の頭を押して無理矢理座らせた。わっとルアムの不満そうな声を上げながら、ぺたりと地面に座りこむ。
「ちゃんと休んでるんだぞ。ルアム」
「兄さんじゃないんだから、ちゃんと待ってるよ」
 弟の不貞腐れた声に笑いながら、俺はテンスの花が咲いていただろう場所に膝を付いた。地面は炭化した何かが冷やされ、ざらざらとした物になって地面に降り積もっていた。払っても出て来るのは地面ばかりで、根っこが指に引っかかるばかりだ。
 俺とシンイが広々とした空間を隅々まで探しても、花の色すら見つからない。
 シンイが汗に張り付いた癖っ毛を払いながら、俺を見遣った。
「見つかりましたか?」
 俺は無言で首を振る。時間が経って探すのを手伝い始めたルアムも、首を振った。
 俺達の反応を見て、シンイは眼鏡の奥で悔しそうに目を細めた。
「先程のペドラーという者に燃やし尽くされてしまったんでしょうか…」
「まぁ、そうだとしても探そうぜ。アバ様は一刻も早くって言ってたけどさ、まだエテーネ村は平和なままなんだしさ」
 俺の明るい声が夜気を運び込んだ風に乗ってふわりと広がった。
 空間の上にぽっかりと開いた穴からは、日が暮れて星々が輝きだしている。僅かな光は洞窟の暗がりでは日差しみたいに明るくて、光の筋にはキラキラと空気に混じった埃とかが光っている。さぁっと風が流れ込んで、キラキラは地面に流れる。きれいだなぁ。
 くしゅん。
 ルアムのくしゃみが響いた。エテーネ村の気候は暖かいくらいだが、北の山は寒いくらいだ。それで夜の空気が澄んでいるもんだから、外套くらい持って来るんだったぜ。裁縫上手なシンイが、申し訳なさそうな顔をする。安眠枕を作っている場合じゃなかったって、俺もルアムにも読めちゃう顔だ。
「一本も残ってないのかなぁ…」
 丁度穴は空間の真ん中で、少し小高くなっていた。きっとそこにいっぱい咲いていたんだろう。ルアムが寒そうに腕を擦って空を見上げた。
 その時、俺は見たんだ。穴からゆったりと落ちて行く光の粒が、ゆっくりと吹き上がるのを。ルアムの足下にぽっと火が灯り、時間を巻き戻すように緋色が純白に変わって行く。融けていた形が花弁の形に整えられ、炎の中から茎が葉が現れて行く。焦げ臭い香りが鼻を突いた次の瞬間には、甘い優しい香りが取って代わった。瞬き一つの間に炎は消えて、ルアムの足下に一本の純白の百合みたいな花が現れる。
「うわ!」
 俺の驚いた声に、ルアムが驚いて、さらにシンイも驚いた。三人が次々に驚いたもんだから、花が現れたって事までほっぽり出してしまう。
「兄さん、いきなり驚かさないでよ!」
「だって花が生えてきたんだ! 驚くだろ、ふつう!」
「テンレスさんの声で驚いたんだか、花がいきなり現れて驚いたんだか、もう分かりませんよ!」
 三者三様に喚くと、俺達は生えて来た花を見遣る。
 星々の明かりに輝く、美しい花だ。あまり魔力は感じないけど、近所のおばさんが趣味で育てている花よりも神秘的に見える。おばさんの花は暖かい愛されてる感じだけど、この花は凛としていかにもエテーネの民の希望だって感じがする。風に揺れる様が『なによあんたたち、用事があるならさっさとなさい!』ってちょっと高飛車な感じだ。
 俺は吹き出す。なーんか気が抜けちまったよ。
「兄さんったら、緊張感なさすぎ」
「わりー、わりー」
 ルアムが睨むのを俺は手をひらひら振って謝った。
 シンイが花を摘もうと片膝を付いた時、遠くで大きな音が響いた。音は長く余韻を残し、穴からぱらぱらと砂が降って来る。
「まさか…」
 呟いたシンイの不安。俺達も同じ不安を抱いた。
 俺達は出来る限り急いだ。それでも朝方出発して昼過ぎに到着するような北の山の洞窟だ。走り続けて洞窟を出る頃には、体力が一番あるルアムでさえ息切れていた。魔物達を避けて、休まず歩き抜くのが精一杯早く着く方法だったんだ。
 南の空が赤い。
 時折、爆発音と赤い空間に白い光がぱっと閃く。
 南にはエテーネ村が、俺達の故郷があるんだ。
 どんなに気持ちが急いても、身体は疲れ果てて気持ちよりも早く進んでくれない。エテーネ村の北東にある、俺が熱りを冷ます為にいる森ですら、まだ見えない。見えるのは広々とした草原と、赤い南の空と、真上から背後に広がる星空だった。時折南から響く爆発音が無ければ、周囲から虫の鳴き声や草が風に撫でられてさらさらと響く音が押し寄せて来る。まるで、お前達が見ているのは幻だ、さぁ、疲れたろう休んで行きなさいと囁くように甘い。現実逃避だと仲間の喘ぐような息遣いと、爆発音が嘲笑う。
 俺達は疲れ果ててた。北の山だけでもピクニックには遠過ぎるってのに、そこで黒い霧で出来た老人と命懸けの戦いをして、冷えた空気に晒されながら花を何時間も探したんだ。強力な魔法を唱えた俺も、回復呪文を受けたルアムもかなり疲れていた。テンスの花を抱えるシンイは花を駄目にしないように、慎重に駆けている。絶対に疲れるよ。
 だが、見慣れた森が見えて来る。
 地面に刻まれた人の歩く道の石の形、傍らに生える草の中に紛れた薬草、風雨に晒されて文字がぼやけた立て札。夕焼けよりも赤く色褪せない赤い空が、俺達の頭の上を覆っている。追い風として背中を押し続けてくれた北風は冷たかったが、爆風に煽られて頬に吹きかかる南風は暑過ぎて焦げ臭かった。テンスの花を燃やし尽くしたあの空間よりも、もっと酷い、様々な物が焼かれて吐き気すら伴う臭いだった。
 あぁ、やはりエテーネ村が燃えているのか?
 でも、この目で見るまでは信じられない。
 俺はこの二つの言葉を交互に思い浮かべていた。二人だってきっとそうだ。アバ様の予言なんて当たるもんかって気持ちと、巫女であるアバ様が告げた言葉は当たるって現実がせめぎあっているのと同じだ。
 エテーネ村を囲む森までやってきた。この道の奥を進めば、森は拓けてエテーネ村が姿を現す。カメ様を奉った大きな祭壇、水車が回る清らかな川、奥まった巫女の住む屋敷、カメ様が眠る丘。何事も無い。何も変わらないはずだ。
 ルアムがラストスパートとばかりに駆け出した。そして見えない壁にでもぶち当たったかのように足を止める。
「あぁ…」
 それは俺の声だったのか、ルアムかシンイの声だったのか、最早関係ない。漏れた声がやっぱりでもそんなでも、現実は容赦なく俺達の目の前に突きつけられた。
 足下に倒れているのは門番とは名ばかりでも、この村で一番の剣の使い手のおっさんだった。いつも手製の水筒に奥さんの入れてくれた紅茶を飲んでは、来ないはずの魔物が来るぞと脅かしていたのにいざとなったら動きもしない。両目をかっと開いて、口も何かを叫ぼうとしたまま空ばかり見ている。背丈も半分になっちまってるみたいだ。俺達が帰って来たのに、どうして黙ってんだよ…。
 熱風が横様に吹き上げる。
 火花が異国の桜の花弁のように村を舞っていた。火は大きく膨れ上がって、その重たい腰を木造の家々に掛けては押しつぶしている。にたりと笑うように、火は俺達を見下ろしている。ぽつぽつと見えて動かないものを、熱は嬲るように踏みつけて歩いていた。動く影は明らかに人間じゃなかった。
 アバ様が予言した時が訪れてしまったんだ。
 シンイが覚悟を決めたのが、俺には分かった。俺は思わずシンイの肩を掴んだ。
 だってそうだろう。目の前は魔物が輪になって踊って、火がラインダンスで隅から隅まで練り歩いてる真っ最中だ。希望は踏み殺された。奇跡を全く寄せ付けやしない。俺達を取り囲んだ何もかもが、生命を奪う為に動いている。ここで、シンイと離れる事は別れと一緒だった。
 もう、二度と会えない。
 シンイは俺とルアムを振り返る。胸に一輪、輝くテンスの花を大事そうに抱いて彼は言う。
「僕は、おばあ様の所に行きます」
 それはさようならと同じ意味だった。
 俺は何も言えない。ただ、シンイの姿を刻み付けようと見つめるばかりだ。このおばあちゃんっ子は、祖母との約束を果たすつもりなんだ。俺の目の前でシンイの口元がにっこりと持ち上がる。
「また、あとで」
 俺は溜息を吐く所か一緒に笑っちまった。ずっと昔から昨日も今日も明日も、同じ言葉を交わして行くはずだった。最後の言葉なのに妙に明るくて、俺も手を挙げてシンイの手と打ち合わせた。
「あぁ、またな」
 俺の言葉を満足そうに聞いて、シンイはルアムの頭を撫でた。
「ルアム君も、またね」
「シンイさん…」
 しんみりと涙声のルアムの柔らかい髪を撫で回し、シンイは顔を上げた。そこにはこれから襲い来る運命に絶対屈しない、そんな決意が秘められていた。シンイは村へ駆出した。シンイが羽織った深紅のマントを瞬く間に炎が飲み込み、魔法の光が彼の影を消した。
 すると熱気に熱すぎる空気に、すうっと冷気が差し込んだ。そのあまりの冷たさは身体を貫いて凍える程だった。何事かと見上げれば、上空には一人の男が立っている。
「エテーネの民は1人残らず死なねばならない」
 男の声は冷たい蛇になって心臓を掴むかの如く、地面に落ちて拡散するように這って行く。足に巻き付いた言霊を蹴り上げると、黒い霧になってぱっと消える。ルアムも気味悪がって剣の柄に手を掛けていた。
 男は長身に本で読んだような貴族が着るような上等な衣装を着て、身長の倍はある大鎌を自らの身体の延長の様に従えている。整った横顔とオールバックの髪は炎で照りだされ、尖った耳の耳朶に揺れるピアスが黄金色に輝いた。異質な巨大な獣の角がこめかみから生えているというのに、それすらも威厳を醸す一つの材料に過ぎない。
 男が俺達を見下ろした。
「死すべき者よ。我が名を聞き与る事を光栄に思うが良い」
 ゾッとする程に優しく、言葉が紡がれる。
「我は冥王ネルゲルである」
 言葉の優しさと等しく、その顔に浮かぶ安らかな顔は笑みにすら見えた。圧倒的な強さを持つ者が持つ、勝者の余裕。端麗な彫刻が醸し出す、不変の安寧。
 ネルゲルと名乗った者は、まるで姫君や女王の前に頭を垂れる真摯のように優雅な動作で鎌を振り上げる。鳥が空中を滑空するような空気を切り裂く音が響く。緩慢に見えた動きでも、刃の軌跡が残滓となってネルゲルの周囲を鈍い光で包んでいた。
 肌が粟立つ。
 ネルゲルの一振りは空を覆っていた分厚い雲を払拭し、満天の星空と満月を露にした。まるで日陰から日向に放り出されたようで、俺は思わず手を翳して目を細める。雲が照り返していた葡萄酒の色が、深い紺と無数の光に取って代わった事はこんな事態じゃなきゃ感動ものだったろう。だが、変化は終わらない。深い紺に更に黒い、漆黒と言える亀裂が生じている。ネルゲルの鎌の軌跡の延長に、星をも呑み込み月を切り取る闇がある。
 俺にルアムが縋り付いて来たのが分かった。
 傷口から溢れる血の様に濃く、泉から湧き出る水のように止め処も無く、闇が亀裂を破って空に広がりだした。巨大な両手の平が大地を包み込むようで、炎は黒い霧に呑まれて次々と褪せて行く。霧は蛇や狼などの獣の形を成して縦横無尽に駆出し、人の姿になって扉をこじ開け建物を破壊する。
 なんなんだ。本当になんなんだよ。
 俺は混乱する頭の中で、ルアムだけは守らないとって思いだけが星のように輝いていた。服を掴むまだ小さい手の感触を、俺は守んなきゃなんねぇ。ルアムが生まれて割と直ぐに親父や母ちゃん旅に出た。村人が支えてくれたけど、俺とたった二人の家族として生きて来たんだ。馬鹿でドジな俺よりもしっかり者で器量が良くて、楽天的な俺よりおこりんぼなのが玉に傷な可愛い弟だ。
「大丈夫だ」
 俺はそう呟いて、口元を持ち上げてみせた。敵から視線を外す余裕は俺にはもう無かったけど、精一杯弟を勇気づけてやりたかった。
 ここから絶対逃がしてやらなくちゃ。
 俺にとって、ルアムは俺の生きてる証でもある。ルアムが居たから、今の俺が居るんだ。
 霧は俺達を囲い込んでいた。霧の壁からちょっかいを出すように、巨人の手やら獣の爪が飛んで来る。俺は魔法で応戦した。触ったら絶対ヤバそうなんだもんな。目紛しかった攻防で、俺は魔法の使い過ぎてくらくらしていた。それでも、ルアムを守りたい一心、火事場の馬鹿力ってやつで持ちこたえられていた。逃げられない不安は、諦めたら殺されるって現実を言い聞かせて何度も押しのけた。
 不意に霧が開けた。
 不審に思った俺だったが、魔力に敏感になっていた感覚が直ぐさま状況を知らせてくれた。俺はルアムの服を力一杯掴むと、出来る限り遠くに投げ飛ばした。見遣れば少し離れたルアムが、砂埃に塗れて驚いた顔で俺を見ている。
「兄さん!」
 地面が赤くなりだした。熱がちりちりと空気を熱し、俺の服に火を付けようと機会を窺っている。
 だが、あの距離なら大丈夫だ。
 火の精霊達の力が強くなっているのを感じていた。上空に圧縮された炎に変換された魔力、恐らくメラゾーマとかそんな呪文だろう。そんな上級呪文を食らって生きてられる人間なんてそう居ない。俺は死ぬだろう。
 でもルアムは逃げられるかも知れない。霧がメラゾーマから逃れる為に一時的でも晴れたし、ネルゲルって野郎も連発出来る訳が無い。俺は心底ホッとした。生きられるかも知れない可能性が生まれた事を、俺は今までの一生で一番嬉しく感じていた。
 身体が熱に炙られて、ちりちりと音を立てるのを耳が聞いている。視界いっぱいに赤い光が差し込んで、丸い顔の愛しい弟の顔も霞んで来た。圧縮された魔力が、熱よりも先に俺を薙ぎ倒そうと迫っているのを感じていた。
「テンレス兄さん!」
 そんな悲しい声を出すなよ、ルアム。
 俺は嬉しい。命懸けでも、お前の兄貴らしい事が出来て。なにより、お前を守れて…。
「死なないで…!」
 その瞬間、今感じていた何もかもが途切れた。
 俺を殺そうと迫る熱も、狂ったような轟音も、包み込む焦げ臭い臭いも何もがもが…だ。視界がやけに白く霞んでいると思って手元を見れば、日に焼けた肌の色は霞んでもぼやけてもいないで鮮明に見える。ルアムが俺に向かって叫びながら手を伸ばして、動かない。背後で薙ぎ倒されそうな程に煽られていた木々は、大きく撓ったまま止まっている。火球は俺の頭上で近づき過ぎた太陽宜しく静止したままだ。
 音も熱も何一つない。俺だけが世界から切り離されたようだった。
 どうなってるんだ? …いや、今はそんな事はどうでも良い。
 俺はルアムに駆け寄ろうとした。この不思議現象の隙に、ルアムを担いで逃げちまえ!
 だが、見えない壁に鼻を思いっきりぶつける。熱くも冷たくもない、魔力かと言われるとそうじゃない変な壁が俺を取り囲んでいる。何だ? 何が俺とルアムの間を遮ってるんだ! 思いっきり拳を叩き付けても、その障壁はびくともしない。
 『ルアムはカメ様の申し子なんだよ』
 俺は息を呑んだ。炎の中から咲いたテンスの花が、脳裏をよぎる。
 どうして、どうして今なんだよ!
「ルアム!」
 俺は叫んだ!今まで出した事が無い位、喉が裂けちまう程に大声でルアムに叫んだ。届けって、精一杯願う。
 世界が更に白く輝いて見えなくなる。俺と世界を隔てる壁が、もの凄い力で動いているのを感じていた。魔法じゃない、呪文でもない、働いているのはそう…時間だ。エテーネの民が持つとされる、時間を越える力。その力を持つ者に寄り添い眠る、亀の姿の守護者。
 時間に抗う事は出来ない。淡々と告げるように光は強まり俺を飲み込んで行く。
「頼む…。生きてくれ…」
 俺は目を閉じて、雫が頬を伝うのを感じていた。
 ルアムの顔が見えなくなった。それが、何よりも辛い。