いつか花になる日まで

 たんぽぽわたのように軽い扉が勢い良く開け放たれた。
 中でのんびりと宿帳を繰っていたオヤジさんが驚いた顔でオイラを見て、隣で手紙の整理をしていた郵便配達員が数枚手紙を宙に舞わす。オイラはそんな二人の反応を他所に、奥を目指して歩み寄った。
 プクリポって種族って基本的にぷらいばしーってのに無頓着だから、宿屋と言っても個室とかは基本的に無い。エントランスから間仕切り無しで客間が見えちゃうんだなぁ、これが。
「また君か…」
 客室の椅子に座って寛いでいたプクリポは、うんざりしたようにオイラを見た。黒い艶やかな毛に白い肌、纏っているコートも黒尽くめだ。ベレー帽の膨らみからだけじゃ、どんな耳かは分からない。視線はメギストリス領の悪の権化サイレスのように鋭く、口髭まで蓄えてる超強面。短剣、片手剣が2本、大剣が一本って戦士が持つには多過ぎる武器もすごい。普通でも笑ってる顔に見えるプクリポにしては、珍し過ぎる眉間に皺の寄ったおっちゃんだ。
「オイラは諦めないって言ってるじゃん」
 オイラはパステルカラーのテーブルにお腹から上をごろりと乗っけて、足をぶらぶら。スライムもにっこりする笑顔の横で、ぐっと拳を握る。
「なにせ18歳の誕生日に、王様直々に魔王退治をお願いされちゃうルアム様だもん。すっごい強い戦士様の力が借りたいじゃん! ねぇねぇプーポのおっちゃん、酒場に登録されてないの? この勇者ルアム様がご指名しちゃうぞー!」
「耳先から尻尾まで嘘だらけではないか」
 プーポのおっちゃんが鞘に納めた剣で、オイラの額を突く。次の瞬間跳ね上げられて、オイラはベッドの上をボールのように跳ね回らなくちゃいけなかった。痛くないけど、お約束。オイラはさも痛そうに、おでこを押さえて喚いてみせる。
「いてーよ、おっちゃん! もっと優しくしてよー!」
「恐れを知らぬ事は良い事だが、無謀では猫耳でも殺されてしまうぞ」
 プーポのおっちゃんが立ち上がり、オイラをじっと見てくる。プクリポは可愛い毛玉感覚のオーガでさえ、ぶるっちまう気迫がある。
「確かに私は汚れ谷の大蛇討伐に挑もうとしておる。だが、君のような未熟者が行って何が出来よう? 意思の力だけでは強敵に勝る事は出来ない」
 うぐぐぐぐ。難しい言葉でオイラ頭いっぱいいっぱいだ。
 おっちゃん真面目過ぎて冗談に笑ってくれねーんだ。
 オイラの芸人魂がおっちゃんを笑わせようと燃えるんだけど、演芸大会とは事情が違うからおっちゃん頑ななんだよなー。確かに笑いごときに命を張るなって、戦士が言うのは説得力がある。だけど、笑い一つに命を賭けるのがルアムってプクリポなんだ。退けないぞ。
 ベッドから降りたと同時に、宿屋の扉が再度勢いよく開いた。郵便物が宙を舞う。
「ルアムさん、もう止めようよ!」
 泣き虫プディンは、もう既に涙声だ。黄色い毛の先が茶色い耳を震わせて、涙を溜めた瞳でプディンはオイラを睨んで来た。
「ボク…ボクはもう嫌なんだ。父さんも母さんも大蛇に殺されてしまったけど、ルアムさんまで死んじゃったらもっと嫌だ! だから、お願い! 汚れ谷の大蛇を倒しに行くのなんて止めてよ!」
 大きな目がうるうるして、プディンが瞬きしたらあっという間にコップ一杯分は溜まっちゃいそう。
 オイラがプーポのおっちゃんに頭下げて汚れ谷の大蛇討伐に参加したいのは、実はプディンの為なんだ。プディンの両親はそれはもう有名な芸人だったんだ。芸人と言っても漫才とか演芸とかって感じじゃなくって、あのオルフェアのサーカス団で花形スターを長年勤めた人達だった。飛べばキメラ、踊ればタップペンギン、駆ける早さはメタルスライムと三拍子揃った実力者だったんだ。プクレット村でも魔物や盗賊が出たら返り討ちにしちゃう程だった。
 そんなプディンのご両親が、汚れ谷の大蛇に殺されてしまったのはつい最近の事だ。
 プディンは塞ぎ込んで、毎日毎日泣いて暮らしてる。オイラも他の村のプクリポ達だって見てらんないよ。最高の持ちネタを披露しても、オルフェア名物アクロバットケーキを買って来ても、カッコイイダンスを見せてもプディンはちっとも笑いやしない。
 でも、オイラは分かってる。
「これが、プディンが笑顔になってくれる唯一の方法なんだ」
「そんな事無いよ! ボクはこれ以上大蛇に殺される人が増えたら、悲しいだけだよ!」
 オイラは首を横に振る。
「大蛇は確かにおっかないから、誰も近づかないよ。でも、大蛇が何時かプクレット村に来て、村人をぺろんと飲み込みに来るかもしれない。オイラはプディンの両親の仇を討ちたい訳じゃないんだ。プディンの辛さが少しでも笑顔になるように、村の人達の不安が無くなるように、皆が笑顔になるように頑張るのが演芸チャンピオンの役目なんだと思うんだ」
 プディンの目からぼろぼろ涙が流れ出した。あぁ、その水溜まりの部分にコップが置きたい。どれくらい溜まるんだろう…うずうず。
「最近、各地の魔瘴が強くなり、魔物の凶暴化による被害が多くなっている。あながち、有り得ん話ではないな」
 重たい足音を響かせて、プーポのおっちゃんはプディンの前に歩み寄りそっと頭を撫でた。
「心配は要らない。私が大蛇を退治し、この地の住人の不安や嘆きを拭い去ってみせよう」
 どばぁ。
 プディンの目から滝のような涙が溢れた。その有様は見慣れた村人はともかく、プーポのおっちゃんには相当衝撃だったみたい。ぎょっと驚いて身体を強張らせたと思うと、おろおろと撫でた手を引いて宙を泳ぐ。最後には助けを求めるようにオイラに振り返った。
 戦士様よぉ。相手はスライムも倒せないちびっこだぞ。
「どどどどうしたのだ、この子は…!」
 オイラはさぁと首を傾げるしかない。最近は箸が転がっただけで泣くんだから、理由なんてオイラも知らん。
「ごめんなさい、戦士様。戦士様の手が…お父さんみたいに大きくて……声もとっても…とっても優しくて…ぐすっ」
 うわわああああぁああああん!!!
 噴水だな、こりゃ。
 最早、手の施しようも無い状況のプディンを前に、半ば諦めムードのオイラと慌てふためくプーポのおっちゃんが居るばかり。
 この大音量の泣き声にあやしたり慰めたりする程に、プクリポには根気と忍耐のスキルはない。泣き声もいつもの事かと放置する村人と同じく、オイラも椅子に呑気に腰掛けてピーチオレを啜りだす。目から鯨の潮吹き宜しく泣きじゃくるプディンに、おろおろするプーポのおっちゃんを心の底から気の毒に思うのだった。

 ■ □ ■ □

 プクランド大陸はだいたい何処でも、ピクニック日和だ。オーグリード大陸よりも暖かくて、ウェナ諸島よりも爽やかで、エルトナ大陸よりも見晴らしが良くて、ドワチャッカ大陸よりも歩き易い。草原はふかふかの背の低い草で覆われていて、花が場所が空いてれば花を咲かせている。木々が木陰を作っていると思えば、その影には果物だったり木の実満載の籠があって誰かがお弁当をひろげているもんだ。
 オイラとプディン、そしてプーポのおっちゃんはのんびりと北を目指して歩いていた。幼いプディンの歩調に合わせても、半日程度で到着だ。
 一人も二人も一緒だ! 全員守り切るからついて来なさい!
 そうぶち切れたと言っていいおっちゃんの鶴の一声で、オイラ達は汚れ谷の大蛇討伐に出掛けるのだった。汚れ谷は数年前までは清らかな水を満々とたたえた湖だったんだけど、魔瘴の霧が沸き出して瞬く間に枯れて草木が生えぬ谷になってしまった。今じゃ危険の代名詞だ。
「ルアムさん、大丈夫かなぁ?」
「大丈夫だよ。おっちゃんが守ってくれるし、オイラもいるだろう?」
 出発してもう両手の指の数が足りない程に質問された内容に、オイラは芸なく同じ答えを返すばかりだ。おっちゃんに振っても『それはお前が答えとけ』と言わんばかりの無視っぷりで、スライムやピッキーを睨んでは追い立てている。時々、こんな子守り紛いの事をせねばならんとは…と愚痴が零れてる。
 ひんやりとした北風が流れて来た。鼻先を突く異臭は、何処を歩いても花とおひさまの香りのプクランドでは考えられない嫌な臭いだ。吸い込むだけで喉がひりひりするような、嫌な空気が感じられた。見遣れば立て札が道を塞ぐように立っている。
「到着のようだな」
 焚火でもくもくと湧く煙のように黒く、かといって煙いというよりも身体がだるくなる感じ。ゴツゴツした岩肌は黒ずんでいて、湖だった頃に水没したのか枯れ折れた大木の幹がゴロゴロと転がっている。谷に入って直ぐ目の前に、割と新しい柵が奥に行くのを遮るように立っていた。
 『目の前にあるのが大蛇の巣。立ち入るべからず』
 立て札にはそう書かれていたが、板が煤塗れみたいで読み難い。
「この奥が目標か…」
 おっちゃんが奥を見遣り、ぐるりと周囲を見回した。大蛇の巣は湖の中央の最も深い部分だった場所にある。枯れた湖は擂り鉢状の谷になっていて、遠回りをすれば巣に入れるはずだ。おっちゃんの事だ、きっと村長のじっちゃんあたりに聞いて知ってるだろう。
「ここに到着するまでに時間を使ってしまったし、迂回しては日が暮れてしまうな。夜にこの谷に長居はできん」
 おっちゃんは小声で呟きながら考え事をしていたみたいだけど、意を決して大剣を引き抜いた。プーポのおっちゃんの倍はある、小さいプクリポの家なら屋根に届く長い両刃の剣だ。
 オイラ達の後ろまで下がると、大剣を上段に構えて走り出す! 柵にぶち当たる程の勢いとスピードが乗った瞬間、おっちゃんは剣を地面に突き立てて棒高跳びの要領で空を舞った!
「うわ!」
 こればっかりはプディンもオイラも驚きだ!
 おっちゃんはプクリポならではの軽い身体で空中三回転を決め、すたんと柵の向こう側に着地した。正直言ってプディンの両親の身軽さを知っていても、あんな重い剣を持ってバランス崩さず飛ぶなんて凄い事だ。オイラとプディンが夢中で拍手するのを、少し照れながら諌める。
「ここは魔物の巣窟だ。音を立ててはいかん」
 そしておっちゃんは剣を柵の隙間に差し込んで、オイラ達側に剣の刃の腹を見せる。その刃の幅はオイラが乗っても余裕がありそうなくらいだ。
「よし、行けそうだな。ルアム君、プディン君を抱えてこの刃の上に乗りなさい」
「え?」
 オイラが目を点にプディンが頭の上にハテナマークを浮かべているのに、気が付かずおっちゃんは続ける。
「私が乗った二人を跳ね上げて、柵を越えさせる。君達二人くらい乗せても、剣は折れんから心配要らない」
「いやいやいや、冗談じゃない! あぶねーじゃん!」
 オイラが首と腕をブンブン横に振るもんだから、今度はプーポのおっちゃんが首を傾げた。
「大蛇に挑むのに恐れぬくせに、幼子抱えて飛び上がる程度で恐れるのかね? オーガを背負って飛ぶ訳じゃないんだ。死になどしない」
 おっちゃん、真面目だと思ったけど結構大雑把というか大胆だな。オイラの怖じ気を感じたのか、おっちゃんはにやりと笑う。
「プクレット村の演芸大会殿堂入りの猛者も、大した事無いな。レンダーシアどころか、メギストリスにも行けぬぞ」
「おっちゃん、ずるいーっ! オイラは男だ! やってやらぁ!」
 がばっとプディンを抱え上げる。『え!え!ルアムさん!プーポさん!』そんな悲痛な声なんて、オイラもおっちゃんも無視だ! 無視! 両刃の剣って言ったって、丈夫な板と変わんねぇ!ちょっと立ち難いだけだ!
 のしのし乗ったオイラ達を確認し、おっちゃんは力を込める。ぐっと重さを感じた時には、大きく跳ね上げられる!風が上から下に豪雨の中に立たされているみたいに、オイラ達を容赦なく叩いた。
 おっちゃんがどんどん小さく
 なんだか、湖の全体が見えて………
 って、上げ過ぎだろ! おっちゃん、上げ過ぎちゃったどーしよーって顔してただろ絶対!
「うわあああああ!どーっすんだぁああああ!!」
 絶体絶命大ピンチじゃね!? 悲鳴を上げている間に、身体が地面に吸い寄せられる。着地点は地面じゃない。大蛇の巣のある、元々は湖に顔を出していた島の側面。つまり崖が迫って来る!
 プディンが必死にしがみついて来るのを感じて、オイラはどうしようどうしようで頭が一杯だ。このままじゃ、プディン諸共崖にぶつかってぺっしゃんこだ!
『危ない!』
 男の子の声が響くと同時に、オイラの身体に力がみなぎった。まるでピオリムを掛けてもらったような、バイキルトを唱えて貰ったような力がみなぎる感じ。いや、誰かがオイラの手足を引っ張っているようなそんな感じだ。
 オイラの混乱した頭ん中とは裏腹に、足が崖の側面を捕らえて全身が軋む。でも、力を流しているのか身体は崖に押しつぶされるんじゃなくて、地面に向かって落下して行く。その間にも突き出した岩に次々と足掛けて、オイラはおっちゃんよりも華麗な空中回転を決めながら遂に地面に降り立った。芸人らしく、着地のポーズは忘れない。
 プーポのおっちゃんが拍手をしながら歩み寄って来た。
「凄いじゃないか。素晴らしい身のこなしだったぞ」
 降りたプディンがへたり込みながらも、尊敬の眼差しでオイラを見る。そんな二人にへらりと笑顔を見せながら、オイラはさっきの不思議が何だったのか困惑していた。だって、オイラあんなに運動神経よくないんだもん。
 そうして到着した大蛇の巣は大きな空洞だ。さらに奥に続く穴が開いているみたいだけど、暗いだけじゃなくて魔瘴が沸き出しているみたいで進む事は出来ないみたいだ。おっちゃんはしげしげと魔瘴の湧く様を見ていたが、暫くして一つ頷いてオイラ達の所に戻って来た。
「では、汚れ谷の大蛇を呼び出すとするかね」
「そんな事、出来やしないって」
 大蛇は誰かが近づけば必ず出て来る訳じゃない。この前は運悪くプディンの両親が殺されてしまったが、それ以外はあまり巣の外に出て来る事は無い。忘れた時とかにひょっこり顔を出すんだ。迷惑な話だよな。大蛇と言葉が通じるとはとても思えないし、こうやって家に上がり込んでもいらっしゃいませ一つ言えないんじゃ、呼び鈴鳴らしても来てくんねーんじゃないの?
 オイラの否定の中身を理解してか、プーポのおっちゃんが懐から水晶の玉のようなものを取り出した。水晶の中には明るい色で輝く魔法の力がくるくると回っている。覗き込んだプディンが、きれいだなぁってうっとりだ。
「これは、賢者エイドスの魔法が施された宝石だ」
「エイドス!?」
 オイラもプディンも驚いて仰け反る。
 だってそうだろう。プクレット村からは遠くない湿原に居を据えている賢者エイドスは、村のプクリポ達にとっては魔王と同等だ。付き人にティルツキンという小太りのおっちゃんが居て、その人間は愛想笑いだけど常識人だ。だが、賢者エイドスは違う。ティルツキンのおっちゃんの忘れ物を届けに家に行っただけで、『お前らは図体が小さいからって、隙間とあらば入り込む!ねずみと同じじゃ!』と超怒るんだ! 訊ねたプクリポが食われちゃうって、あながち嘘じゃない。
 オイラ達が震え上がるのを見て、プーポのおっちゃんが呆れたように言った。
「確かに邪な思いを抱く者はその鋭い眼光に射抜かれて身震いするようなお人だが、正義を成そうとする者に協力を惜しまぬ方でもある。君達はきっとショートケーキの苺を撮み食いしたり、ドーナツの砂糖を一舐めでもしたんだろう。…とにかく、エイドス殿に大蛇を結果的に呼び出す事が出来る呪文を拝借したのだ。私は忙しいからな」
 プーポのおっさんは宝石を見せながら続ける。
「この宝石の中に宿った魔法を発動させれば、間もなく大蛇が現れる事になるだろう。逃げるなら今だぞ?」
「逃げるかよ!」
 オイラは短剣を抜いて言い放った。プディンの笑顔を取り戻す為に、頑張るって決めたんだからな。
 おっちゃんはプディンに視線を向ける。
「プディン君。大蛇は恐ろしい存在だが、君は恐怖に打ち勝ちここに居る。君のご両親が勇気の限り戦い敗れてしまった相手を、心に刻み付けなさい。そして、いつか君が勝てぬ程の強敵に遇ったとしても、守るべきものの為に立ち向かう勇気を親から受け継いでいる事を忘れてはならない」
「…はい!」
 プディンの返事に、プーポのおっさんは苦笑してプディンの頭を優しく撫でる。
「息子も君くらいに強い心を持っていればよかったのに…」
 その声はオイラも気のせいかって程に小さかったけど、おっちゃんの寂しそうな目で空耳じゃないて分かった。
 プーポのおっちゃんが宝石を掲げて魔法を発動した後は、怒濤と言うべき展開だった。例を挙げれば、コンテストの幕を引かれたと思ったら、幕を引いたプクリポがすっ転んで幕を留めていた棒が舞台に落下して舞台崩壊客席が埃でまっしろ、オイラの頭もまっしろけっけ。そんな感じ。
 とてつもない大きさの魔法陣が黄緑色に光ったと思えば、それらは魔瘴を退け清浄な空気に浄化して行った。清らかな空気に地面の灰色の土から双葉でも出て来るんじゃないかって期待が沸き上がる程だったが、希望の代わりに出て来たのは汚れ谷の大蛇だ。プクリポなんて5匹くらい丸まる飲み込めそうなざっくり開いた口、光る目と滑る鱗の輝きの不気味さったら総毛立つ勢いだ。
 大蛇は魔法陣に苦しみながらも、地面に黒い塊を吐き出した。唾かよ!きたねーな!って思ったけど、それは魔瘴の塊。魔瘴の塊はうごうご蠢いて、長い舌をだらし無く出した小さい悪魔の姿になる。
「やみわらしか…。ふん、準備運動にもならんな」
 おっちゃんが鼻で笑うと、宝石をプディンに投げ渡す。
 宝石が宙を舞っている間に、おっちゃんは大剣を引き抜いて大きく振り回した! 大剣の生み出す剣圧に次々と引き千切られ、魔瘴の霧になって次々と吹き払われて行く。大剣を背に収めると、次は両手に剣を持って大声で言い放った。
「では、参るぞ!」
 プクリポは小さくて他の種族からは弱い印象を持たれる。魔力は高いって評判だけど、武力においてはオーガになんて全然勝てない。オイラもそう思っていた。
 プーポのおっちゃんはまるで風に舞う木の葉のように軽やかに大蛇に迫ると、両手の剣で浅い傷を付けながら、軽い身体を上へ上へと持ち上げて行く。つむじ風のように首を擡げた大蛇の眼前に迫った時には、大蛇の身体は無数の傷だらけで血飛沫が宙を漂う程だ。おっちゃんは、両手の剣を空に放り上げると、大剣を担いで大蛇の眉間を叩き切った!
 衝撃に空気が震え、大蛇の悲鳴が轟いた。
「メギストリス流剣術は、まだまだこれからだぞ!」
 おっちゃんは手元に再び落ちて来た剣二本を握り直すと、今度は吹き下ろす突風のように大蛇を切り込む! 傷に傷を重ね、紫の毒々しい血が吹き出す深い傷に変えて行く。大蛇が痛みに暴れるのを、雲や綿毛のようにやんわりと避けては大小様々な傷を刻み重ねる。
 噛み付こうと迫った時、おっちゃんは紙一重で避けていつの間にか抜いていた短剣で大蛇の片目を切り裂いた!
「うへぇ」
 おいらはついに声を上げた。例えプディンの両親を殺し笑顔を奪った相手でも、目を切り裂かれて血の涙を流すのを痛々しく感じちゃう。
 耳すら千切れ飛びそうな悲鳴を、オイラとプディンは耳を押さえて耐え凌ぐ。すると、目の前でのたうつ大蛇が次々と魔瘴の塊を吐き出した!プーポのおっちゃんも直ぐさま大剣を振り回して魔瘴の塊を消して行くが、数がとんでもない。魔瘴の塊、塊がやみわらしって魔物になったもの、やっつけられて霧になったもの、あれこれそれとまぜこぜで視界が見えなくなる程だ。
「プディン!」
 おっちゃんの声が響いた。
「もう一度宝石を使いなさい!」
「え? え?」
 困惑する声を上げるプディンの姿も、オイラからは見難いものになっていた。それよりも、周囲におっちゃんが倒し損ねた魔物達が迫っている気配がする。数が凄い。昔、沢山のスライムにのしかかられて圧死しかけた事があるが、その数と同じかそれ以上だ。
 まずい。
 オイラは短剣を握りながら、冷や汗が吹き出した。おっちゃん程に武術に優れてないし、芸が面白いだけのオイラだ。こんな沢山の魔物を一度に倒せる事なんて、出来やしない。どうしよう。
 そのどうしようは、オイラにとっては致命的な時間だった。逃げる選択も戦う選択も放棄した、最悪の時間の使い方だったろう。
 やみわらし達が耳障りな声を上げて襲いかかって来る。前からも横からも、一体二体よりもたくさん、それも一斉に。背後にいるプディンの為に避ける事なんて出来ない。魔瘴の黒い霧を引き裂いて、いくつもの爪が振り上げられた刃のように光った。
 その時、オイラは聞いた。
『危ない!』
 先程、オイラを窮地から救ってくれた男の子の声を…。
 だけど、さっきみたいな都合の良い力なんてありはしない。オイラはやみわらしの爪にギタギタにされて、棺桶にいれられちゃうんだ。あぁルアム、死んでしまうとは情けない! オイラは身を硬くして丸くして、最後の瞬間が来るのを今か今かと待っていた。
『ちょっと、ちょっと。そんな力んでたら動くものも動かないよ』
 男の子の呆れた声がオイラに降り掛かって来る。放っておいてくれ、オイラはこれからやみわらし達に殺されちゃうんだから……って。
 待てど暮らせどオイラの肉を切り裂いて刺さる爪も無し。あれほど充満していて息苦しかった魔瘴の気も、清々しい森林の中に入ったかのように吹き払われている。プーポのおっちゃんと大蛇が戦う音も、耳にこびり付くやみわらし達の奇声も、プディンの困惑を通り越して混乱した声も、綺麗さっぱり聞こえない。耳に痛い程の沈黙の中で聞こえるのは、先程の男の子の声だけだ。
 オイラが怖々と目を開ける。目の前には今にも、オイラを切り裂こうと迫るやみわらし達の爪があった。
「ひっ!」
 腰を抜かして座り込むと、誰かがオイラを覗き込んだ。
『間一髪。ぎりぎりセーフだったね。大丈夫?』
 見上げると人間の男の子と目が合った。どうやらオイラの真後ろに立って、おいらの事を覗き込むように見下ろしているようだ。やや紫掛かった青の瞳とふさふさの毛髪。人好きしそうなふっくらほっぺに、世話焼きが好きそうな笑みが浮かんでいる。
 よーく見ると、その姿は透けて…。
「お!オバケ!」
『うわっ!酷い!確かに僕はふわふわして透けてて、なんだか誰にも見えないし声も聞いてもらえなくて、良い事って言ったらお腹が空かない事くらいだけどオバケは酷いよ!』
「あくりょうたいさん なむあみだぶつ あーめん そーめん ひげそーりー!」
『折角助けてあげたのに、ちょっと酷過ぎだと思うよ!』
 ブルブル震えて祈りを捧げるオイラに、しっかり者って感じのお叱りが容赦なく降り注ぐ。オイラがちっとも怯えから立ち直らないので、男の子は腕を組んで溜息を吐いた。
『でも、まぁ、仕様がないか。君はあと数分で僕のお仲間になっちゃうんだろうからね』
「なんだよ!まるでオイラが、直ぐ死んじゃうような言い方じゃないか」
 オイラの声に男の子は背後を親指で示す。やみわらし達の爪が流れない煙の奥で、ぎらぎらと輝いている。
『君の運動神経じゃ、こいつ等相手に勝てるとは思えないよ。爪で切り裂かれたり刺されたりして死んじゃって、後ろのその子も死んじゃうんだ。可哀想に。真っ先に逃げてればちょっとは違ったかも知れないのに…』
「じゃあ、どうしろってんだよ! お前、死神か何かか? オイラが死ぬっていうなら、さっさと殺しちまえば良いじゃないか!」
 死神のフレーズに、男の子の顔が強張った。何か触れちゃいけない事のように思えたけど、オイラの頭もアチアチよ。プディンを守れないって悔しさで、泣きそうだってーの!
「オイラは面白い事を言うしか能がないプクリポなんだ! おっちゃんみたいに強くもない! 奇跡の力なんて持ってない! そんなオイラにお前みたいな奴が、ぐちゃぐちゃクレーム入れるんじゃねーよ! オイラができるのは、皆を笑顔にする程度の事なんだ!」
 息が苦しい。オイラは肩で息をしながら、男の子を睨んだ。男の子はうーんと唸ると、唇を尖らせながら言った。
『君さ、さっき僕が崖から降りるの手伝ったの、覚えてる?』
 オイラが良く分かってないのも、そっちのけ。男の子はやみわらし達を、ちらりと見遣って続けた。
『さっきの要領で、君の身体を僕に貸してくれたらどうにかしてあげられるよ。僕は運動神経には自信があるし、君の身体は軽いし的が小さいからね。武器は君なら爪みたいなのが良いんだけど、短剣でどうにかしてみせる。とにかく後ろの奴らをどうにかして、小さい後ろの子を守ってみせるよ』
 男の子がオイラの顔を覗き込んだ。
『どうする?』
「どうするもなにもねぇ!」
 オイラは男の子を見つめ返す。
「これ以上、プディンを泣かせる訳にはいかねーだろ!」
男の子は表情を引き締めて『任せて』と一言言った。その任せてって響きが消えない内に、オイラの身体に力がみなぎる。崖にぶちあたりそうになったあの時と同じだって思った瞬間に、何もかもが押し寄せていた。
 魔瘴の霧、やみわらし達の爪、周囲の轟音、プディンの悲鳴。その何もかもから逃げるように、身体が引き下がる。目の前を爪がいくつも振り落とされ、ほっぺや鼻先に嫌な風がそよいだ。
「うわっ!」
 オイラは右手に短剣を握ると、左手にプディンの服の首根っこを掴んだ。そのまま、爪を振り下ろして前屈みになるやみわらし達を踏みつけて飛び越える。そのまま背後を取ったと思えば、後ろから蹴り付けたり切り掛かったりやりたい放題だ。なにせオイラを攻撃しようとわらわら集まって来ちゃったもんだから、連中と来たら振り返るに振り返れねーでやんの。隣とおでこ打つけたり、舌同士が擦れ合ってげーげーしてるあいだに、短剣でばっさばっさよ。
 それでも男の子に油断は無い。
「ちょっと力は弱くても良いか…」
 プディンを抱え直すと、姿勢を低くしてちょっとした強風程度のバギを放つ。敵を切り裂く程の旋風にはならないけど、重くて溜まる霧を払うには十二分だった。オイラを中心に一重二重と回った風に絡めとられた霧が、拡散して上空に巻き上げられる。晴れた視界には片手の数程度のやみわらしと、大蛇と切り結ぶおっちゃんの姿があった。
 おっちゃんが驚いたようにオイラを見る。まさか呪文が使えるとは思わなかったのかも知れない。
 その驚きはおっちゃんにとって致命的だった。大蛇が尾を叩き付け、避ける事が出来ても大蛇の血に滑っておっちゃんは転んでしまう。男の子も焦ったのがオイラにも感じられた。おっちゃんを助けようと駆けるオイラに、やみわらし達が群がる。
「邪魔だ!」
 男の子は短剣を内側に握って殴り飛ばそうとした。きっと短剣の刃が引っかかったりして、動きが止められてしまうのを恐れたんだろう。
 だが、使っているのはオイラの身体だ。オイラが見た人間の身体だったら、身体が重いしやみわらしを吹き飛ばす事がきっと出来たはずだ。でもプクリポの身体は綿のように軽くて、やみわらしを吹き飛ばす事が出来ない。敵の動きすら鈍らす事が出来ず、男の子の無駄になった行動は大きな隙になってしまう。
「うっ…」
 男の子が凄い早さで考えを巡らせているのが、オイラには分かった。プーポのおっちゃんを助ける為に、大蛇の口に短剣を投げ入れてみようか。やみわらし達は回避でどうにかあしらえるだろうか。あぁ、小さくても軽くても片手が塞がっているのは辛い。考えてる暇だって惜しい。どれもこれも抱えて、守って、皆が生き残れる選択肢がなかなか浮かんで来ない。
 プーポのおっちゃんは体勢を立て直せていなかった。大蛇がおっちゃんを立ち上がらせまいと、武器を構える時間を与えまいと間髪入れない猛攻を繰り広げている。おっちゃんは避けるので精一杯って感じだ。
 どうしよう。どうしたら…。
 その時、空が明るくなった。
 オイラ達が来た時も魔瘴の霧で夜のように暗かった汚れ谷の底に、金色の光が差し込んだんだ。光は賢者エイドスの魔法のように、邪悪なものを退ける強い力を帯びていた。大蛇は苦しくのたうち回って巣の奥へ続く穴の中に尾を巻いて逃げ、やみわらし達は霧に戻る事すら許されないように消え散った。
「綺麗…」
 プディンの言葉はおいらやおっちゃんの言葉を代弁した。すっごく。すっごく綺麗だったんだ。
 暮れて藍色を深めた空を、金色の光が流星のように空を幾重にも走って行く。そして音も無くさぁっと波のように光が広がって、雲を虹色に変えて空を青空にしてみせた。谷に差し込んだ光は、谷底の灰色の石達を黄金色に変えた。オイラ達は金色の光に包まれたようで、大事な人と一緒に居るような安堵の気持ちが込み上がって来る。
 オイラ達は無言で金色の光を見上げていた。光が消えるまでの間、魔物も植物も風も何一つ音を立てなかった。
「全員無事でなによりだ」
 おっちゃんが剣を納めてオイラ達に歩み寄った。その顔には悔しさが滲んでいる。
「この状態では討伐遂行は難しいな。今回は天から、我々に死すべき時ではないと幸運をもたらしてくれたのだろう。奇跡も幸運も頼るべきではない以上、決着は次の機会となるな」
 男の子の気配はもうオイラの中にはなかった。目を凝らすとおっちゃんの後ろにうすぼんやりと人間の男の子の姿が見えて、しげしげとおっちゃんの武器をみているようだ。『うっわ。すっごい』とかそんな独り言が聞こえて来るが、おっちゃんやプディンには聞こえないし見えないみたいだ。
「君の両親の仇を討てなくて、すまなかったな」
 おっちゃんはプディンに小さく頭を下げた。プディンは小さく首を横に振った。
「ううん。ルアムさんやプーポさんが無事で、本当に良かった」
 プディンはにっこりとオイラとおっちゃんを見上げた。あぁ、オイラや村の人達が大好きな、プディンの笑顔だ。
「ボクはもう泣かないよ。ボクは大蛇に勇敢に立ち向かったお父さんとお母さんの子供なんだから、胸を張って生きていかなくちゃ!」
 その言葉にプーポのおっちゃんは眩しそうにプディンを見ていた。でも、オイラにはプディンを通して誰かを見ているようだった。期待とか希望とかプディンに向けたものでも、誰かを思わずにはいられないって感じ。
 プディンの頭をごしごし撫でながら、オイラはなぁおっちゃんって感じで声を掛けた。
「プーポのおっちゃんの子供って、プディンに似てるの?」
「何だ、いきなり」
 おっちゃんは動揺してたじろいだ。上手くはぐらかせないかと思案する目が右左、口髭がもごもご動いている。オイラ達に見つめられて、嘘が下手で真面目でどっか不器用なおっちゃんは諦めたように溜息を吐いた。
「一人息子がいるのだよ。同じ屋根の下で暮らしているというのに、もう何年も部屋に閉じ篭ったきりで顔も見せん。母親が死んで、私がキツい言葉を言ってしまったのが耐えられなかったのだろう」
 それは後悔で沈んで掬い上げる事も出来ない程の、重たい告白だった。絞り出すような声が、プーポのおっちゃんの涙の代わりに思える。俯いて強く握り込んだおっちゃんの手を、プディンがそっと包み込んだ。
「プーポさん、凄く心配してるんだね。でも、大丈夫だよ。プーポさんの子供なんだもん」
 オイラもプディンとは反対側の手を握る。マシュマロのように柔らかいプクリポの手とは程遠い、まるでオーガのようなゴツゴツした手だ。
 汚れ谷の大蛇みたいなおっかない魔物を、討伐する事を仕事としてるんだ。何時死ぬか分からないおっちゃんが、一人残してしまう子供の事を心配しちゃうのはしょうがないかもな。オイラは勇気づけるように力を込めてみた。
「おっちゃん、なんだかんだで優しいからなぁ。心配してる事、心配させちゃってる事、お互い思い過ぎちゃって素直になれないんじゃねーのかな?」
 それにさ
 オイラはおっちゃんとプディンを交互に見て笑った。
「プクランドに芽吹いた花は必ず咲くよ」
 それはプクランドでは古くから言われている言葉だ。誕生の祝いの言葉、結婚で送り出す言葉、葬儀の時に亡き者が残す言葉、どんな場面でも使われる。努力しても報われない時は激励に。悲しくてどうしようもない時は慰めに。未来を願う時は祈りに。花の民プクリポを象徴する言葉だった。
 花の民に蕾のまま枯れる奴はいない。大輪に咲いて笑顔が満ちて、みんな幸せになる。
 意味なんて誰も言わないけど、その言葉の意味をプクリポはみんな知っている。
「あぁ、その通りだな」
 おっちゃんはプディンが包んでいる手を離して、そっと目頭を押さえた。
 その時、男の子がプディンの後ろに回り込んで肩に手を置いた。ゆっくりと大蛇が消えた穴の手前を指差してみせる。
 プディンの瞳が潤んで、村から見える海のように輝いた。満ちて溢れると思ったそこから、雫は一滴も流れなかった。ただ、涙をこらえようと引き結んだ口元を、すっごく頑張って笑顔にしようと持ち上げている。
 きっと、プディンの両親が居るんだろう。オバケの力でオバケが見えるんだ。オイラはそう納得した。
「お父さん!お母さん!ボク、行ってくる!」
 魔瘴が晴れて満天の星空で明るい谷に、プディンの声は反響し空にまで届いた。