何かから逃げようとすると かえってそれに近づいてしまうものだよ - 後編 -

 裏路地にまで豪雨の音が響き渡る。光の河に落ちる雨水は滝のようだ。
 外でばさばさと重い布を叩く音が響くと、入り口の戸が開いた。頭の上から尻尾までずぶ濡れのプクリポは、挨拶よりも先に盛大なくしゃみをした。俺は笑って今ではプクランド屈指の剣士様を出迎えた。
「威勢のいいくしゃみだな。噂されてるのか?」
「俺が何体サンダーフロッグをぶっ転がすか…って噂だろうな。うぅ、雨は苦手だ…」
 プーポは戸の外にベレー帽とコートを吊るすと、そそくさと家の奥に向かってしまった。
 十年以上も出入りを繰り返す俺の家は、プーポにとって勝手知ったる我が家同然だ。必ず家に帰るのは親父さんと約束したとかでベッドがないだけで、それ以外は何でも用意してある。討伐隊の仕事で汚れまくったら無言で風呂は使うし、着替えもちゃんと用意してある。天気が良い時は俺やアルウェの分の衣類と一緒に洗濯しやがるもんだから、プーポ専用の箪笥がある事にも文句も言えん。剣を磨くついでに俺の包丁も研いでくれるのだが、いきなり切れ味が鋭くなって指を落としかける事はしょっちゅうだ。
 俺はストーブの上に乗った薬缶の湯を、プーポのカップに注いで温めだした。風邪ひかれたら困るし、温かい飲み物でも出してやるか。
 レモネードの準備をしていると、部屋の戸が開いて妹のアルウェが顔を出した。アルウェは床に落ちた水滴を見て首を傾げる。
「おにいちゃん。プーポが帰って来たの?」
「あぁ、風呂入って着替えてるんじゃねぇのか? アルウェもレモネード飲むか?」
 うん! アルウェは満面の笑みで頷くと、戸棚にあるお菓子箱をちゃっかり取り出してみせる。中身は今日焼いたクッキーやら、隣のおばさんが挿し入れてくれたシナモンロールやら色々だ。
 レモネードが出来上がって、テーブルの上をお菓子が賑わいを見せる頃にプーポが戻って来た。やっぱり風呂に入ったらしくて、ふかふかの黒い毛にほんのり赤い頬。コートを軽く羽織って短剣だけ腰に下げている。
「今年は思った以上に人数が集まらなくて、警護が大変なんだ。もしかしたら、町の人にも頼むかも知れない」
「毎年討伐隊にお願いしちまってるんだ。俺達の町は俺達で守らねぇとな。何時でも言ってくれよ」
「そう言ってくれると助かる」
 プーポはそう真面目に返すと、レモネードを口に含んでプクリポらしい顔つきに表情を崩した。プーポは口では滅多に美味いと言わねぇが、本当に美味しかったり寛いでいると生真面目な顔を崩すんだ。俺もアルウェもそんなプーポの表情を、黙って眺めているのが結構好きだったりする。
 今、プーポは一週間泊まり込みでオルフェアに滞在している。
 オルフェアの秋の終わり頃に来る雨期は、サンダーフロッグがとんでもなく凶暴化するんだ。サンダーフロッグは水辺から離れる事もないのだが、秋の雨期の時だけは例外だ。増水して行動範囲が増えると、サンダーフロッグは冬眠の準備の為に腹一杯食事をする。旅人だってお構い無しに齧りに来るし、町に入られてとんでもない被害が出た事もあったそうだ。オルフェアはこの時期だけ特別に討伐隊に依頼して、町の警護を増強してもらっているんだ。
 アルウェはむしゃむしゃシナモンロールを頬張りながら、プーポに訊ねた。
「ねぇ、プーポ。後、何日お泊まり出来るの?」
「親父との約束で、明日には一度帰んなきゃならないんだ。エルトナ部隊から派遣された天地雷鳴士の隊員の話じゃあ、まだ雨期は2・3日は続くらしい。明日の朝一で一度戻って、雨期がもう少し落ち着くまで外泊するって頼むつもりだ」
 そこでプーポが自分の頬を指差してジェスチャーする。
 真面目な視線を追って見遣れば、アルウェの顔はシナモンでベタベタだ。アルウェは笑って、ぺろりと口の周りのシナモンを舐めた。
 他愛のない雑談の隙間に、容赦無い雨音が滑り込み続けていやがる。プーポは討伐隊の指揮官みたいな役割を任されているらしくて、寛いでいても耳を峙て異変が無いかと意識を研ぎ澄ましているのが分かった。
 だが、何故かアルウェも心無しかそわそわしている。それは俺がアルウェの兄だから分かる程度だ。
 もしかしたら、この雨期の時期に誰かしら死んでしまうのかもしれないな。俺はレモネードを啜りながら思った。アルウェは滅多な事では予知した未来を告げる事は無いが、隠しきれず態度に出る事がたまにある。それは近所の誰かの死だったり、痛ましい事故の前だったりした。
 するとプーポが立ち上がり、剣をベルトに固定し大剣を背負い始めた。ベレー帽を被っている間に俺達もこちらに駆けて来る足音が、雨音を押しのけて来るのが分かった。足音は慌てた様子で家の前で止まると、扉が乱暴なくらいの力で叩かれた。
「プーポさん! 大変です!」
 血相を変えた声色に、プーポも急いで戸を開けた。
滴る雫が瞬く間に水溜まりをつくるその上に、プクリポの戦士が慌てた様子で立っている。
「西側の川が氾濫して、溢れた水が町の近くまで迫っています。東側の泉も水位が上がっていて、オルフェアの町の井戸の水位まで影響が出ています。このままじゃ、オルフェアも浸水してサンダーフロッグ達が入り込んで来るかもしれません!」
 言い放たれた言葉の余りの衝撃に、俺もアルウェも言葉を失う。
 しかしプーポだけは冷静で、諭すような穏やかさで戦士に指示を出した。
「お前はそのまま、オルフェアの町長殿に協力を要請しに行ってくれ。住民達を一時的にオルフェアから避難させる手筈を、既に相談してある。町長が避難を実行する判断を決断したら、お前が町の人達を警護する者達をまとめるんだ。…あまり時間がない。すまないが頑張ってくれ」
 ぽんと肩を叩かれ、戦士は一つ敬礼すると再び駆出した。
 プーポは一瞬だけ戦士の背中を見送って、防水加工を施した外套を纏って俺達に苦笑してみせた。
「状況は芳しくないなが、心配しないでくれ。大丈夫、町の人達の命は絶対に保証するから…」
 じゃあ、いってくる。そう外に駆出そうとしたプーポの外套をアルウェが掴んだ。
 プーポは不思議そうに足を止めて、外套の裾を掴むアルウェを覗き込む。
「どうかしたか?」
「気をつけてね、プーポ…」
 プーポは首を傾げたが、状況が状況だからかあまり深くは考えなかったようだ。プーポは頷いてアルウェの裾を離させ駆出して行った。剣をがちゃがちゃと騒がしく音を立てて走る後ろ姿は、もう振り返る素振りも無い。外套のフードを目深に被って雨の中に飛び込むと、瞬く間に雨に呑まれて消えた。
 そんなプーポを心配そうに見送るアルウェの肩に、俺はそっと手を置いた。
「プーポは大丈夫だよ。あんなに強いんだから…」
 アルウェは答えなかった。俺はアルウェがプーポの未来を視て、それが良くない未来なんだと察した。
 そしてプーポを見送って間もなく、オルフェアの住民達に避難勧告が出た。
 サンダーフロッグは食い物になる物を狙うだけで、家の家具とかを齧ったりはしない。放電で火事になるかも知れないが雨が降り続けていれば、燃え広がる心配は無い。討伐隊が残ってくれれば、火事場泥棒の心配もねぇしな。今年の雨期は一際凄かったのもあって、住人達の殆どが勧告に応じる事になった。
 俺とアルウェも雨合羽着込んで、近所のおじさんおばさん子供に交じってオルフェアを出発した。街道は大地の箱船の高架橋の下を潜るが、今回は街道を通らず光の河に沿って歩きミュミエルの森の近くにある小高い丘を目指す事になっている。雨は滝のように降り注ぎ、光の河のまばゆい光すらぼんやりとしていた。高架橋の向こうからは轟々と激しい川の流れる音が響いている。
 不安げなアルウェの手を握り、俺達は黙々と進んだ。アルウェの足取りは重く、俺とアルウェはいつの間にか最後尾を歩いている。俺は毎日ケーキ作りで腕力がある方だから、殿を務めるのは好都合だった。前を歩く一団からじわじわと離れていたが、目的地も分かっていたし俺は急ぐつもりも無かった。
 真っ黒い雲が空を覆い尽くし雨が絶え間なく降り注ぐ中で、俺は別の音を聞いた。
 何だ?
 俺が足を止めて周囲を見遣ると、音が大きくなってくる。地面が氷砂糖でも転がすようながらがらとした音と振動で震え、雨の中に微かに見える木々の影が傾く。石が跳ね上げられた飛沫の中に見えたと思うと、真っ黒い土石流が俺とアルウェの前を横切った!
 俺が慌ててアルウェの手を引いて逃げ出すと、俺達が立っていた場所に大きな岩が落下した。
「大丈夫か!」
 音がようやく止んだ頃合いに、土石流の向こう側から討伐隊の戦士の声が聞こえて来た。俺も雨音に負けない声で叫び返す。
「大丈夫です!」
「雨で地盤が緩んでいるんだろう! 君達が崩れ易いこの土砂を超えて、こちらに向かって来るのは危険だ! 申し訳ないが、君達だけで大地の箱船の高架橋を伝って向かって来てくれ! 今は豪雨の影響で箱船は来ないから、轢かれる心配は無い!」
「分かりました!」
 戦士は気をつけろよ!と俺達に言い、町の住人達を引き連れて行ったようだ。土砂崩れの向こうに居た気配が、徐々に離れて行く。
 雨だけが俺達を追いつめるように降り注いでいやがった。俺はアルウェの手を握り、顔がよく見えるように近づけた。アルウェを勇気づけるだけじゃなく、俺自身を励ます為に笑ってみせる。
「さぁ、皆に追いつこうぜ」
 俺はアルウェの手を引いて歩き出したが、アルウェの足取りも繋いだ手も重い。
 俺はプーポの身にどんな災難が降り掛かる未来があるのか、聞いてみたくなっちまう。だが、聞いた所でアルウェの予知は外れない。俺は来るべき未来に怯えず、家族同然のプーポが守れるよう頑張るしかねぇんだ。
 オルフェア周辺は俺達の遊び場。大地の箱船の高架橋に登れる場所をいくつも知っていたし、この視界の悪過ぎる雨の中でも何処に居るかちゃんと分かっていた。少し引き返せば高架橋に登れるし、この抜かるんだ地面を歩くよりも早く皆に追いつけるだろう。高架橋に上がり線路を駆け抜けていると、増水した川がカプチーノみたいに平原を満たしていた。雨で燻る視界に時折閃光が走る。サンダーフロッグの放電の光が、何度も何度も光っては消えた。
「ナブ兄さん、アルウェ! どうしたんだ、こんな所で!」
 俺達が駆け抜ける高架橋の下から、突如声が響いた。見下ろすとプーポがそこにいて、俺達を驚いた様子で見上げている。
 プーポは大剣を足掛かりに高架橋の上に飛び上がると、大剣の鞘に繋いでいたベルトで釣り上げて背に背負う。外套の意味も無いずぶ濡れ具合だが、大きい怪我や疲れを感じさせないプーポがそこにいた。
 手の平越しにアルウェが安堵したのを感じながら、俺はプーポの問いに答えた。
「土砂崩れで道が通れなくなっちまってな。高架橋を通って迂回してるんだ。お前こそどうしたんだ?」
「増水した影響でオルフェアに戻れなくなってしまってな。高架橋が使えると思ってこっちに来たんだ。あっちこっちサンダーフロッグがいっぱいで、身体がびりびりするよ」
 そう言ってプーポが自身の両手を近づけると、ばちっと音を立てて静電気が走った。いてて、プーポが呻く。
 全く、普段は生真面目なくせに変な所で緊張感の無い奴だなぁ。俺がへらりと笑っていると、手をぎゅっと握られた。
「おにいちゃん! プーポ!」
 ただでさえ豪雨で聞き取り難いアルウェの叫びは、轟音で掻き消された。足下が突如揺れ、レールの上に雷が落ちる。電気を帯びたレールが雨の中ぼんやりと光の道を作り出した。剣を抜き放ったプーポが下を見遣り、怒気を滲ませて舌打ちした。
「俺の後を追って来たのか…!」
 高架橋の下にはサンダーフロッグが集まっていた。見えるだけでも5匹はいる。
 どいつもこいつも間抜け面なのは変わらないが、ほっぺの紅い模様がグルグルと渦巻いて見え、背中に生えた翼っぽい部分がばちばちと雷を帯びている。プーポが俺達を逃がそうと、両手に剣を握りしめサンダーフロッグの中に突っ込んで行った!
 俺はプーポが戦っている所を初めて見た。屈強なオーガの戦士が構えるような大剣を自分の腕の延長みたいに扱い、どんな難しい道具も軽々と扱うドワーフのように要所要所で武器を選択して戦う。ウェディが噴水の中で踊る際に上がる美しい飛沫のように、プーポの剣はサンダーフロッグを切り裂き血飛沫を飛ばす。空を飛ぶ事が出来そうなエルフのように軽やかに駆け回り、こんな時だけプーポの顔は何時にも増してプクリポらしく輝いていやがる。
 流石、プクランド最強と謳われた剣士様だぜ。俺はアルウェの手を握って駆出した。
「逃げるぞ、アルウェ!」
「でも、プーポが…!」
 アルウェが走るのを拒む。可愛い妹でもこればかりは怒ろうと振り返った時、俺は見ちまったんだ。
 熟練の旅人でも遠巻きに避けるサンダーフロッグ相手に、プーポは一歩も引かなかった。圧倒的に不利なのに、俺達のせいで逃げる事も出来ない。サンダーフロッグの尾がプーポの足に当たってバランスを崩すと、他の一匹が腕に噛み付きやがった。畳み込むようにサンダーフロッグの放電をまともに受け、身体の中に溜まっていた電気と相まってプーポは堪えきれずに倒れ込んだ。
 雨の中でも見える。プーポが死を覚悟して、最後の一瞬を使って俺達を見たのを。そして、その瞳が見開かれたのを…。
 俺は間近に迫る雷気に、総毛立った。真後ろに魔物が居る気配に、高架橋を揺るがす振動よりも早く気が付いた。妹の悲鳴が危険を知らせるように上がる。
 それでも、遅過ぎた。
 俺が振り返った時には、サンダーフロッグは大きな口を開けて口の中に蓄えた太陽さながらの輝きを俺達に見せていやがる。こんな至近距離でサンダーブレスを食らっちまったら、俺もアルウェも助からねぇ。突き飛ばして逃がしてやる時間もなかった。僅かな望みを賭けて、俺はアルウェを強く抱きしめた。
 頭上を何かが飛び越えた。雨を遮り、サンダーフロッグの放った雷を抱き込んで、高架橋が崩れるんじゃないかって一撃が目の前に落ちた。
 あまりの轟音に無音だった世界に、アルウェが啜り泣く声が聞こえだした。俺はどうやら死んじゃいねぇみてぇだ。
 再び顔に降り掛かって来た雨を受けながら、俺は恐る恐る顔を上げた。
 目の前には自分自身が溜め込むには過ぎた雷で、真っ黒に焦げて死んだサンダーフロッグが居る。さっきまでプーポに群がっていた奴らは、尻尾を巻いて逃げちまったようだ。だが、俺が最後にプーポを見た場所には、プーポが居た痕跡一つ残っちゃいねぇ。
 俺はいやな予感がして、目の前で息絶えているサンダーフロッグに視線を戻した。ぶすぶすと雨すら退けて燻る塊の向こうに、さっきまで無かった黒い小さな塊が見える。凄く見覚えがある。頭の形も耳の形も、その体つきは外套が覆っていても見分けがつく程見慣れていた。まだぱちぱちと電気で薄らと光る剣は、プーポが愛用している物だ。
「…プーポ?」
 戦いの場なら寝てたら駄目だろ。
 俺はアルウェの手を引いて、プーポの傍らに歩み寄った。
「ごめん…ごめんね…プーポ…」
 高架橋にうつぶせに倒れたプーポは、アルウェに縋り付かれても ぴくりとも動かなかった。俺が見たサンダーフロッグ同様に、肉が焼け血が焦げる臭いを放ちながらプーポはうっすらと笑っているように見えた。


 プーポを抱え住人達の所へ合流した時、住人達からは悲痛な声が上がった。誰も彼もがプーポの顔を覗き込んでは大丈夫なのかと未だ出ない答えを求め、おばさんや小さい子供は涙ぐむ者までいた。今までも何度もオルフェア周辺の魔物を討伐したり、住人の手伝いを拒まなかったプーポがここまで愛されていたんだと俺は思った。
 俺が抱きかかえたプーポを覗き込み、神父様は小さく首を振った。
「口惜しいですが私の力では彼を助ける事はできません。私のルーラストーンを貸しますので、メギストリスへ向かいなさい」
 俺が咄嗟に唱えたホイミも命を取り留めるには至らない、重傷だったんだ。ルーラストーンでメギストリスへ向かい、討伐隊の僧侶の元に駆け込んでもお手上げの状態。プーポを城のベッドの上に寝かせられるまで、俺は一年でも経過したんじゃないかってくらい長く感じた。
 城に仕える医術士が面会を許してくれて部屋に入ると、プーポは相変わらずベッドで眠っていた。毛は焦げ付いたままだったが、煤だらけの頬は拭われ、焦げ臭さは薬草独特の臭いが消し去ってくれていた。息は弱く、していないようにすら見える。
 死んでいるようにすら見えるプーポを、アルウェは蒼白な顔で見つめていた。手を握り、プーポが生きている未来をどうにか見ようとしているのかもしれない。俺もアルウェが『大丈夫だよ、お兄ちゃん。プーポは助かるよ』と、早く言って欲しかった。
「お兄ちゃん、あたしって酷いね」
 何が酷いのかは分かっていた。だから、俺はこう答えるしかなかった。
「プーポはお前を酷いとも思わねぇよ。討伐隊でも一際手強い魔物討伐をやってる奴なんだ。お前の予知があろうがなかろうが、プーポは自業自得だって笑うに違いねぇよ」
 俺の言葉に、アルウェは詰めていた息をゆっくりと吐き出すように表情を和らげた。
 アルウェは未来が見えるから、出来事に対して淡泊な所が少なからずあった。近所に居たアルウェに懐いていた犬が死んでも、アルウェが取り乱すってことは無かった。だからこそ、今回の家族同然のプーポが死にかけている様子に、今までには見た事の無いアルウェの動揺が感じられた。
 ちょっとだけ、分かっちまった。
 プーポがアルウェの特別なんだな…って。
 廊下が騒がしくなり、扉が勢いよく開け放たれた。俺達は部屋に駆け込んだ男性を見て驚いた。
「プーポの親父さん…?」
 いつもはこざっぱりとした洒落た服を着こなす初老のプクリポは、この時は豪奢な服を僅かに乱して王冠を被って走り込んで来た。茶目っ気たっぷりにプーポの怒りをはぐらかす余裕は、今は何処にも無い。プーポの親父さんは今にも息が止まってしまいそうな程真剣に、プーポの顔を覗き込んで辛そうに顔を歪めた。
 親父さんは昏々と眠り続けるプーポをずっと見つめていたが、落ち着いて来たのか小さく息を吐いて俺達に微笑んだ。
「ナブレット君、アルウェちゃん、ありがとう。息子を助けてくれたんだってね」
 そう言って親父さんは、乾かず湿った服を着替えるように勧めたり、何か食べるよう勧めてくれたが俺達はその申し出を全て断った。
 オルフェアの皆はまだ雨の中で不安な時間を過ごしているだろうし、なにより、俺達を救ってくれたプーポが死にそうなんだ。何かしようって気には到底なれなかった。
 親父さんは俺を少し離れたテーブルに着かせると、オルフェアの雨期の事や住民達の事を訊ねて来た。俺の言葉に真剣に耳を傾ける親父さんだったが、息子であるプーポがどうして死にかけているかについては一切触れなかった。
「親父さんって…王様だったんですか?」
 だいたい全部を話し終えて静かになった部屋に、俺の質問が響いた。
 親父さんは頭に載った王冠にぺたぺた触れて、ぺろんと舌を出した。
「プーポッパンが死にそうって聞いて、公務放ったらかして飛んで来ちゃった。君達、兄妹には絶対に王族である事は秘密だって約束してたのに、ワシったらうっかりさんね」
 プーポッパン。メギストリス王国の王子の名前だ。
 昔は乱暴者で城に居着かない評判が頗る悪い王子だったが、最近は王様と仲直りして公務にも出始めたと聞いている。今思えば城に滅多に居ないのは討伐隊で大陸中を駆け回っているからだろうし、乱暴者なのも不器用で素直じゃないから思われて当然だろう。口を開けば怒鳴り声か不機嫌だし、真面目さは楽天的な性格のプクリポと相性がよくない。
 俺はアルウェの背で丁度見えないプーポを見遣った。
「怒らないであげてね、ナブレット君」
 内心を見透かすように、親父さんは言った。
「プーポッパンは、いつもそうなんじゃよ。大切な存在の為なら、自分を簡単に賭けちゃうのよね。今じゃ、あの子の大切な物はいっぱいじゃ。ワシったら毎日ハラハラドキドキで、大好きなケーキも味が分からんもんね」
 親父さんは明るいプクリポらしい笑顔で言った。
「さぁ、息子の特別さん達。馬鹿息子は私達が悲しむって事までは考えてないから、少し休みなさいな」


 プーポことプーポッパン王子が目覚めるまで2日。目覚めても身体がだるくて起きられない日がさらに2日。親父さんに散々なまでに言い負かされて、ぐったりと疲れ果てて丸一日寝込む羽目になる。
 目覚めたプーポがアルウェと無言で笑みを交わす様子なんて、にやにやしまくりの親父さんの横で俺がスカーフ引き千切っちまう程だった。
 その間、親父さんこと国王は俺達を客人として迎えてくれた。アルウェはメギストリスの華々しいファッションを満喫し、俺は一流のコックの技術を心行くまで学んだりした。夜になったらプーポの部屋に入り浸って、カードゲームをしたり他の大陸の話をさせたりした。
 ようやく身体が起こせる程度に回復したプーポは、深紅のコートを着込んで手紙を検分している。討伐隊員に転送してもらっている、書類や依頼書の数々がテーブルの上に山を築く。プーポは頭から煙を出しながら、5日分以上は溜まっているだろう夥しい手紙に目を通していた。
 その内一枚を手に取って、プーポは隣で紅茶を啜っていた俺に差し出した。
「討伐隊から報告書が上がって来た。オルフェアは大丈夫だってさ。……っていうか、俺が王子だって隠してたのが馬鹿馬鹿しいよ」
 まぁ、目の前でエルトナの上質な絹で作ったドレスを着て、くるくる回ってるアルウェを見れば王子だって真実なんかどうだっていいもんな。全く、我が妹ながらお姫様みたいに可愛いぜ。
「似合うー? アルウェちゃん、可愛い?」
 アルウェの問いにうんうんと頷く俺の隣で、プーポは顔を赤くして『…ったくあの馬鹿親父。アルウェに似合うってデザインしたドレス、本気で作って着せるんじゃねーよ』と文句を言うのだった。…ちょっとまて、なんか聞き捨てならない表現があった気がするんだが…。
 住人も全員無事だという部分を確認して、手紙をプーポに返す。プーポは眉根を寄せてシワを刻むと、重い溜息を吐いた。
「ついに親父に討伐参加を禁止されてしまうんだろうなぁ。まだプクランド大陸の魔物が活発だってのに、俺じゃないと倒せない強い魔物の討伐依頼だって途絶えやしないってのにどうするんだよ。あの馬鹿親父出し抜こうとして、上手く行った試しがないしなぁ」
 あの撮み食いの天才のアルウェが、厨房の出来立てメギス鶏の唐揚げを撮み食いする時に隣にひょっこり現れて『いいなぁ、ワシも一緒に摘んじゃおっかな!』と共謀する切れ者だ。あんな親父さんを出し抜くなんて、どんな天才が出来るんだか…。相手が悪過ぎて同情すらしてしまう。
 その時、部屋を軽くノックする音が響いた。プーポが『どうぞ』と応えると、可愛らしい同年代の侍女が扉を開けた。
「王子。陛下がお呼びになっています。ご友人の方々も、ご一緒に来てくださいとの事です」
「わかった、直ぐ行く」
 俺が一生掛けても稼げないような豪華なドレスを着替えさせ、俺とアルウェはプーポに伴われて謁見の間にやって来た。玉座に王様が居ないと思ったら、後ろからこっそりと忍び寄ってプーポに抱きつく!
「プーポッパン! 元気になったみたいじゃね! あーー! よかった!」
「こんの、馬鹿親父! 謁見の間に居る時くらい大人しくしてろよ! 離せって!」
 ぎゅううう。そんな勢いで抱きつかれて、プーポはかんかんになって親父さんを怒鳴りつける。俺達の家で見慣れた光景だが、この親子いつもこんな調子なのか…。
 プーポに投げ飛ばされる直前で、パッと手を離した親父さんはにっこりと俺達を見た。
「あのね、プーポッパン。ワシ、王の儀式を行う事に決めたんじゃ」
 空気が凍った。
 プーポも俺も謁見の間に居た誰もが、その言葉に凍り付いた。アルウェだけが良く分かっていないようで、きょろきょろと俺達を見ている。
 王の儀式。メギストリス王家に伝わる、王族がその命を捧げる事で大陸のあらゆる厄災を退ける秘術だ。初代メギストリス国王を始め、歴代の王族の殆どが命を捧げ今のプクランド大陸の平和が保たれている。逆に親父さんみたいに長く王位に就いている王は珍しいだろう。
「ふざけるな!」
 親父さんが口を開き続けようとした言葉を、プーポは大声で遮った。
「確かにプクランド大陸の魔物は活発化してる! 討伐隊でも回りきらない事は認めるさ! だが、この魔物達の勢いがずっと続くとは誰も思ってない! 俺が絶対に魔物達が落ち着くまで頑張るから、親父は笑って玉座に座っててくればいいんだ!」
 大声で叫んでプーポは苦しそうに胸を押さえた。まだ、肺が焼けて息が続かないんだ。
 アルウェがそっと寄り添って心配そうにプーポを見遣るが、親父さんとプーポは視線を外さなかった。
「今回は油断ではなかろう?」
 親父さんが静かに告げた声に、俺達は身を強張らせた。
 プーポは俺達を守る為に無茶をしたんだ。俺達を助ける為なら命を引き換えにしても良いと、プーポは思っただろう。たぶん、俺達じゃなくても誰かの命の為なら、自分の命を賭ける事を躊躇わないだろう。今までも何度も賭けて、そのプクランド大陸屈指の実力で乗り切ってきたんだ。
 親父さんは毎日、プーポを送り出していたんだろう。帰って来ないかも知れない息子の身を、どれだけ心配していたかなんて俺達だってわからねぇ。今回プーポが死にかけた事は、親父さんが想像しては退けていた不安が起きちまったって事なんだ。どうにかしたいって、プーポ以上に思ってるはずだ。
 プーポは親父さんの為にって言うけど、親父さんはそれ以上にプーポを守りてぇって思ってるんだ。
 親父さんはプーポの頭をそっと撫でた。
「ワシは剣も扱えんし、魔法の腕もからっきしじゃ。プーポッパン、お前が強くなってワシを支えねばならんと必死だったのを、ワシは誰よりも良く理解しとる。本当は王子であるお前に、多くの事を教えねばならなかったろう。だが、お前は独学で王になる為に必要な事を全て学んだよ。他人を守る為の力、国と民を愛する心、民から愛され信頼される誇らしさ…。お前はワシには過ぎた出来のいい息子じゃ。今は分からんでも、王になり子を持てばワシの選択の意味がわかるじゃろう」
 身を翻そうとしたプーポの両腕を、親父さんはキツく掴んだ。
「逃げるでない!」
 俺もアルウェもプーポですら、目を真ん丸くさせる鋭い言葉だった。プーポの親父さんは何時もニコニコ飄々としていていて、怒ることなんか全くなかったからだ。どんな悪戯もにっこり笑顔で許してくれた、優しい親父さんなんだ。
 真剣な表情の親父さんは、プーポとそっくりだった。
「プーポッパン、お前に唯一足りないのは覚悟じゃよ。だから、ワシが親として最後にお前に教える事であり、与える事でもある」
 親父さんは王冠を外すと、プーポの頭の上に載せた。
「ワシが儀式を行ったら、王に即位しなさい」
 震える程握りしめていた拳からふっと力が抜けた。その瞬間、プーポの瞳から一筋の涙が流れた。ガキの頃からの付き合いだった俺達でも初めて見る、プーポの涙だった。
 親父さんが抱きしめるのを、プーポは拒まなかった。

 ■ □ ■ □

 王がキラキラ大風車で儀式を行い、間もなくプーポッパン王子がメギストリスの王として即位した。
 その際に、王子は自身がプーポと名乗っていた事を明かした。プーポ個人に対しての討伐依頼や、行事の準備や、祭の誘いには応えられませんよって説明のつもりだったんだろう。
 だが、流石プクリポネットワーク。新しい王の正体が知れ渡った今、若いプクリポ女子は甘い夢に浸っている真っ最中だ。
 プーポはプクランド中に活躍の場を広げていた。どんな小さな村にも討伐隊として赴いたし、祭に誘う手紙が届けばプーポは必ず訪ねた。言葉を変えれば、プクランドの民全員がプーポとは何かしらの接点を持っていたのである。
 もしかしたら、王妃にしたいって迎えに来てくれるかも…!
 オルフェアのおばちゃんは賑やかしい坊やが来なくて寂しいねぇと呟くが、その娘は頬を染め上げてぼぉっと空想の空に意識を投げ上げているのである。
 アルウェはプーポの花嫁は俺達が知らない可愛い女の子だと予知で知ったそうで、白馬の王子様の夢とは無縁に過ごしていた。プーポの花嫁の話題では寂しそうな様子を隠せないアルウェが、俺の心を騒がせた。プーポが好きだけど結婚出来ないから寂しいのか?とは、流石に恐くて聞けやしない。
 だがプーポがアルウェを嫁にしたいと言いださないようで、俺はちょっと安心だ。プーポだと、流石に許しちまいそうでさ…。
 新しい王が即位して半年が経とうとしていた。
 あの日から俺達の元にプーポが帰る事は無かった。討伐隊の隊員も王の儀式が行われて魔物討伐の依頼は大分少なくなったが、やっぱりプーポさんがいないと寂しいですねと笑っている。王として頑張っているのだろうが、家族同然だった俺達の心はドーナツみたいに穴が開いちまって寂しいどころじゃねぇ。それでも何時までもくよくよしてらんねぇ。プーポが居ない生活も大分慣れてきちまったしな。
 そんなある日、銀の丘に遊びに行ってきてから、アルウェは立派なノートを楽しそうに眺めていた。
「アルウェ、そのノートどうしたんだ?」
「フォステイルにもらったの!」
 フォステイルって…あのフォステイルか? 首を傾げる俺に、アルウェは興奮が抑えられない様子で続けた。
「このノートさんにお願いすると、何でも願いが叶うんだって! あたし、本当かどうか試してるの!」
 へぇー。俺がノートを覗き込むと、ノートって言うには立派過ぎる装丁の本だ。花の咲き誇る庭園が見えたと思うと、石畳が続く緑豊かな街道に風景が変わる。表紙をペラリと捲ってみると、確かに真っ白の頁でノートだった。しかし、触れるとノートには魔力が籠められているのが分かった。
 ぺらぺらと捲ると、アルウェの願いが書かれた頁に辿り着いた。可愛らしいアルウェの文字で『メギストリスの王妃様になりたい』って書いてある………ってまさか!
 すると、がしゃがしゃと聞き慣れた音が耳に触れた。軽快な足音が真っ直ぐこちらを目指してくる。
 俺は、はっと顔を上げた。
 アルウェも嬉しそうに扉を見つめた。
 俺達の視線の先で、扉がゆっくりと開いた。扉からひょこりと顔を見せたのは、黒い毛並みの剣士様だ。家に上がろうとしたプーポに、俺の正拳突きが会心の一撃を決めた! プーポは驚きに受け身を取り損ねて、派手な音を立てて路地裏のど真中まで吹き飛んだ。
「いきなり殴る事は無いだろう! というか、割と本気で殴っただろ! 無茶苦茶痛いんだけど!」
「お前なんかに、俺の大事な妹をやるもんか!」
 俺の剣幕に、プーポは目を真ん丸くした。
「いや、確かに最近縁談ばっかりで疲れ果ててるし、なんだかアルウェの事で頭いっぱいになって居ても立っても居られなくて城を抜け出して来ちゃって凄い困ってるんだけど…。いや、確かにアルウェと結婚したいなぁって…あぁ、俺何言ってるんだ! アルウェの気持ちも考えないで、無理矢理妃に迎える訳ないだろ!」
 頭を掻きむしってプーポは石畳の上に踞った。本当に参ってる感が凄い。
「元気そうだね! プーポ!」
 アルウェがプーポの隣にちょこんとしゃがみ込むと、プーポも元気というかなんというか…と苦笑した。そしてアルウェに向き合ってプーポにしては小声で喋りだした。
「その…俺、王になってさ、周りが妃を迎えろって本当に煩いんだ。貴族の娘は綺麗だが合わないしさ、平民出身だと城の者が苛めるかもって思うと俺が好きって思う人を迎えるのも躊躇っちゃうし…。だから…その…よく考えて決めて欲しいんだ。明日、城の者に迎えにこさせるから…。違う、順序が逆だ」
 プーポは頭を振って、アルウェをじっと見た。そしてアルウェの手を取って、決心したようにはっきりと言い放った。
「アルウェ。俺と結婚してくれないか?」
「うん!いいよ!」
 アルウェもプーポも、心の底から嬉しそうに見つめ合う。
 あぁ、俺って馬鹿だなぁ。可愛い妹と手の掛かる弟同然の友人の結婚を、素直に喜んでやれないなんて…。プーポが戻って来た嬉しさと、アルウェが嫁に行っちまう悔しさと、俺の馬鹿さ加減に呆れながら、俺は見つめ合う二人から背を向けた。
 家の中に残されたノートがきらりと光って、ぱらぱらと頁が捲られる。書き込まれたアルウェの願いが、役目を終えたように光の粒になって融けた。