きっと死んだって理解できない - 後編 -

「ほれほれ! 足を止めておると、踏み潰されるぞい!」
 石と岩が入り乱れる道無き道を前を、走るドワーフは軽快に走っていく。おかしいぞ。だって、ドワーフってそんなに早く走れる種族じゃなかったはずだ。でも他の種族よりも大きい足は、起伏の激しい整備されていない道には打って付けなんだろう。
 背に背負った荷物に括り付けた鍋とお玉がうち合わさり、まるで魔物を呼び込むような轟音を響かせる。
 僕の後ろをぜぇぜぇ言いながら走るのは、エンジュさん。振り返ると、色の白い顔は夕焼けの山々のように真っ赤だ。
「た、戦って、倒した、ほうが、ら、楽じゃ、ありませんの!」
「駄目じゃ。駄目じゃ。何の為に危険を侵して、侵入しておると思っておるのじゃ! ほらほら! 走らんかい!」
 そう振り返ったエンジュさんの知人、ドワーフのガノさんはフサフサの眉毛の下から冷静な眼差しを向ける。僕もつられて、思わず後ろを見てしまった! 僕の喉元に悲鳴がせり上がり、堪えられずに口から叫び声が迸る!
 そこには、とても恐ろしいドラゴンが僕らを追いかけているのだ! 大きく開いた口にずらりと並んだ歯は、オーガでさえひと飲みしてしまいそうな巨大さだ。厚ぼったい瞼が覆いかぶさる瞳は、今は鋭く怒ったように僕らを睨んでいる。そのドラゴンはヘルジュラシックという二足歩行で走る大型種で、その太い太ももを振り上げ振り下ろした足先が岩を粉砕する。美しい弧を描いて後ろへ流れていく角、走るたびに波のように光を伝える鱗。こんな時でなければ綺麗だろうけど、今はそれどころじゃない!
 僕はセレドの町の教会の神父の息子。平凡な子供フィーロであるはずだったのに、どうしてこんなことになってるんだろう!
 ぬらりと光る舌が、ふと質感を変えた。
「火炎ブレスが来るぞい! 嬢ちゃん、絡め取るんじゃ!」
「もう! 最悪! ですわ!」
 エンジュさんが杖を振り上げるのと、ドラゴンが燃え盛る火炎を吐き出したのは同時だった。火炎は襲いかかる獣のように僕らに迫ったが、エンジュさんが杖を振るうと絡め取られるように勢いが止まる。エンジュさんは頭上で渦を巻く火炎を、投げ返した!
 ドラゴンが足を止め雄叫びが響き渡ったけど、火の向こうの影はびくともした様子がない。
 ガノさんが角を曲がり、足を止めた。ぽいぽいと何か石みたいなものを投げると、曲がって来た僕を岩陰に押し込む。
「急いで隠れるんじゃ!」
 エンジュさんも岩陰に押し込むと、直ぐさま僕らを追って来たドラゴンが目の前を通過する。すごい速度で駆けることに特化したドラゴンは、曲がった先で獲物を見失ったとしても直ぐには止まれないのだろう。ドラゴンは先ほど投げ入れた石を踏み抜いた!
 瞬間! 凄まじい音が洞窟いっぱいに響き渡る!
 爆弾石! 本で読んだことがある。爆弾岩の欠片とも言われている、衝撃を与えると大爆発を起こす石だ。ドラゴンの巨体が舞い上がり、僕らの更に進もうとした先に轟音を響かせて落下した。もうもうと上がる土煙の奥に、たくさんの巨大な影が首を擡げる。
 すらりとした筋肉質のドラゴンだ。鍛え抜かれた立ち姿は強靭な戦士のようで、まるで人間のように二足歩行で立ち上がる。尻尾は分かれていて鞭のように地面を叩く。その数は1体2体どころじゃない。エンジュさんが『キングリザードがこんなに…』と掠れた声で呟いていた。キングリザード達が総毛立つような恐ろしい雄叫びをあげると、一斉にヘルジュラシックに襲い掛かった。
「それ、今のうちじゃ。レムオル粉を振りまいて、キングリザードの巣を抜けるぞい」
 僕は懐からリズが調合してくれたレムオル粉の瓶を取り出した。ぎゅっと瓶を握り、リズや町の皆、神様に短い祈りを捧げる。瓶の蓋を開け、さっと頭上に振りまくとガノさんもエンジュさんも見えなくなる。僕の腕を大きくて太い手が取り、もう片手はほっそりとした手が握ってきた。
「互いの姿は見えぬ。万が一逸れたら、あの大騒動の向こう側を目指すんじゃ。行くぞ!」
 僕らを追いかけていたあの恐ろしいドラゴンが、今やもっと強いドラゴンに袋叩きにあっている。そのあまりにも恐ろしい光景を横目に見ながら、僕らは洞窟の更に奥へ駆け足で向かった。
 レムオル粉の効果が薄れ互いの姿がうっすらと見えるようになるまで小走りで進むと、僕らはようやく足を止めた。地下の洞窟を抜け、見たことのない高山植物が岩場の隙間という隙間から顔を覗かせている。強く冷たい風がはるか上空から吹き降りてきて、僕らの火照った体を拭うように過ぎ去っていく。見上げて、僕は感嘆の声をあげた。
 まるで天を支える柱のように伸びる岩肌と、それらを橋のように繋げ天空へ伸びていく植物。葉を茂らせ赤や菫色の鮮やかな花を咲かせる植物は、まるでセレドを翻る布のようだ。遠くに時には翼の生み出す風を感じるほどに近く、飛竜達が舞っている。そこはレンダーシア最高峰の名峰、ドラクロン山。レンダーシアの全ての竜の故郷であるとも言われるほどの、多くの竜が住まう楽園だ。
 見入るように見上げる僕に、ガノさんは朗らかに言った。
「さぁ、休憩できる場所を探すとしよう。目的地まで、まだまだあるからのぉ!」

 風がどんなに強く吹こうと、山がどんなに高くても、満天の星空は今日は見えないらしい。早く流れる雲の隙間に詰め込まれるだけ詰め込まれた星はみえるものの、雲は切れることなく空の大半を白く覆っていた。竜の鳴き声が響くものの、旅慣れた二人と一緒だからか恐ろしさは感じなかった。
 ガノさんが小さめの竜を狩って焼いた肉に、山の植物を使ったスープを作ってくれた。山の植物は香りが強く、肉の生臭さをすっと消してくれる。水辺に群生していた植物は、タマネギやじゃがいもに似ていてとても食べやすかった。エンジュさんは魔物のお肉はちょっと…と逃腰だったが、まだ往路なのだから食料は節約すべきというガノさんの言葉に渋々食事をしていた。もともと食の細い人だ。僕よりも食べる量は少なかったし、食べた後は直ぐ横になって休んでしまった。
 山に湧く清流はそのまま口にしても大丈夫なほど綺麗で、僕はコップに掬った水を飲みながら空を見上げていた。
「フィーロ少年、疲れはいないかね?」
「はい。大丈夫です」
 隣に腰を下ろしたガノさんは、それは何よりと笑った。
「セレドからアラハギーロ経由でドラクロン山に登るなんぞ、ベテランの冒険者でもなかなかせん強行軍じゃ。仲間内でも最も体力的に恵まれていないエンジュの嬢ちゃんがこれを計画するんじゃから、よっぽどの用事であるとは理解しているが先に潰れてしまわんかのぉ」
 そう見遣った先には、すぅすぅと寝息を立てるエンジュさんがいる。白い脹脛にはリホイミの魔法陣が書き込まれ、パンパンになった足を癒しているようだ。
「僕たちの仲間のために、お力を貸していただきありがとうございます」
 深々と下げた頭の向こうで、ガノさんは頭を上げなさいと笑った。
「あぁ、嬢ちゃんの手紙で把握はしておる。石化や凍結の呪いは解除もその後の経過も容易く楽観的に見れるが、病気となると話は違う。しかも石化は、キアリクのように治療系呪文も確立していないから厄介じゃ。子供達では対処できなかろう」
 それは一週間ほど前のこと。セレドの町の子供達をまとめているリズが、僕とエンジュさんとルミラさんを呼んでこう言った。『セリクは体が石化してしまう病気に罹っている』と。エンジュさんは直ぐに『セリクが教えてくれましたの?』と尋ねましたが、リズは言葉を濁すだけでそれ以上のことを語ろうとはしなかった。
 リズが何かを頑なに隠しているのは分かったけど、しつこく聞いても答えない。それよりも先に、エンジュさんがセリクの病気を突き止める方が早かった。
「魔物の毒の中には、生命の細胞を変質させるものが多くての。血液がゼリー状に変質し瞬く間に命を奪うもの、たんぱく質が崩壊し骨以外が溶け去ってしまうもの、肉体の酸素供給を不全にし壊死させるものと多種多様。その中に、体の組織が石化する、もしくは石化に似た筋組織の過剰な緊張状態に陥らせ死に至るものがあるのじゃよ。どれもこれも、魔術的なものとは異なり薬学や自然治癒に依存する分野であったなら、治療はとても難しい」
 セリクの病気は一刻を争う。体の全てが石化してしまえば、死に至るとエンジュさんは言った。
 でもセリクは見たところ、どこも石になっている所がない。エンジュさんが言うには内臓から石化して表層に現れる場合もあるというけれど、体の中が石になってたら普通は辛いと思うんだ。それもない。健康な僕らと同じ、普通に生活している。
 それよりも、セリクは死ぬような病気に罹っているはずなのに、全然死ぬのが怖くないように見える。セリク自身が自分の病気が死ぬような病気だって知らないんだろうか?
「呪いの分野の石化じゃたら『ストロスの杖』や『天使の涙』を探すところなんじゃが、病気の石化を治す薬の原料となるのはアルゴンハートただ一つ。じゃがアルゴンハートを生成するアルゴンの名を冠した竜族は、とうに絶滅しておったのじゃよ。今回のグランゼドーラ侵入ルートの開拓で、偶然見つけたのは神の導きじゃろうて」
 少しだけ年上のセリクは幼さの残る顔立ちに、目尻の上がった凛々しい目元をしていた。肩口で切りそろえられた薄茶色の髪は風になびくほどしなやかで、夢の中で生きているようにどこか儚げだった。町に来る時携えてきたトゥーラという伝統楽器を奏でる指先は、まるで羽ばたく鳥の翼のようだ。その指先は爪の先まで手入れされた、陶器のような美しさ。
 毎日毎日トゥーラを楽しげに爪弾いて暮らしているセリクは、御伽噺の登場人物のようだった。現実味がなくて、とても魅力的なんだと思う。
セリクを見る女の子達の目は、熱に浮かされているようだった。リズの顔も…
「アルゴンの名を冠する竜は、胸元の皮と筋組織の間に体液を硬化させた結晶を作り出すと言われてての。巨大な『グレート』の呼称に値する竜は、胸板の形そのままのハート形の結晶になるそうじゃぞ。とある王族は婚約指輪の宝石に仕立てるほどに、その色は深く紅く美しく乱獲され絶滅に至ったのじゃろう。じゃがその結晶から生成した薬は、特定部位の硬化を解く効果があるとされておる。体全体の石化または硬化は胸元に集約され完治はするが、副作用として無害な石の胸当てが胸の皮一枚下にできるそうじゃ。まぁ、男子たるもの、胸板が固いくらいは問題なかろう」
 セリクの治療薬の原料調達のため、エンジュさんが『回復呪文の使い手』として僕に同行して欲しいと行ってきた。確かにガノさんは回復呪文は得意じゃないというし、エンジュさんはそもそも使えない。町の者で回復呪文が使えるのは、確かに僕だけだ。
 こんな危険で命がけの旅になるなんて僕ですら知らなかったけど、『セリクを助けるために行ってきて』って、リズのやつ簡単に良く言うよ。セリクが助かっても、僕のこの大変さはきっと誰にもわからないんだろう。セリクが助かって、皆良かったって喜んで、リズはきっと…
「『本当に助かって良かった。セリクが死んでしまったら、私、きっと後を追って死んでしまうと思うわ』と涙を浮かべ喜び、『私、セリクのことが大好きなんだわ。結婚を前提にお付き合いしましょう!』と、子供達の前でキ…」
「なにを勝手なお話をでっち上げてるんですか!」
 僕がとっさにフサフサのヒゲの上から、両手でガノさんの口を塞ぐ。でも口髭でうまく塞げなかったらしく、きょとんとした顔から、飄々と言葉が紡がれる。
「え? そりゃあ、少年がそんなことになっちゃいそうで、そんなことになったら寂しいなぁどうしようって顔をしておったからな。ちょっと作話をしてみただけじゃわい。出来はまぁまぁじゃったろ?」
 僕はかーっと顔が熱くなるのが嫌でもわかった。
「リズは…リゼロッタはそんなことしないです!」
 ガノさんがにまーっと笑ったのが見えて、僕は言葉にならない感情に心を掻き毟られるまま外套に包まった。
 リズは新しい仲間のセリクが心配なんだ。セリクが死ぬことは僕を含め、町の誰もが望んでいない。病気なら助けてあげたい。エンジュさんがその思いで危険を承知で動いてくれているんだ。皆、セリクのためなんだ。
 でも。トゥーラを弾くセリクを見つめる、リズの横顔を思い出す。
 初めて見る幼馴染の表情。僕はその横顔を頭を振って追い払った。
 今は、薬の原料となるアルゴンハートを手に入れなくちゃいけない。持って帰れないということは、僕とエンジュさんとガノさん、そしてセリクの死を意味しているのだ。生きて、持って帰らなくてはいけない。
 そう考えているうちに、僕の意識は眠りの中に沈んで行ったようだった。

 ■ □ ■ □

 ドラクロン山岳地域を超え麓に広がるロヴォス高地へ降り立った。ここはグランゼドーラ王国の領土で、山を降っている最中にも遠くにグランゼドーラ王城のシンボルである三対の塔が見えるほどだった。
 岩陰から覗くと、山道らしい人の手が加わった整備された道が見下ろせる。
「ここから先はグランゼドーラ王国の兵士も巡回ルートにしておるらしい。魔物だけでなく、兵士にも注意していくぞい」
 エンジュさんが深々と頷いたのにつられ、僕も頷いた。そして首を傾げる。
 グランゼドーラ王国は勇者アルヴァンの伝説にも登場する、勇者の国だ。伝説というだけでなく、本当に勇者様が生まれる国だ。今のグランゼドーラ王国には王子様とお姫様の兄妹がいて、王子様の方が勇者様だと巡礼にきている人々は噂する。まだ世界は闇の脅威に曝されてはいないが、早く勇者様が覚醒なされると良いなと口々に言った。
 人々を守る勇者様の国の兵士だ。これから戦うアルゴンの名を冠する竜は恐ろしいのなら、彼らと協力した方がいい。
「あの…」
 僕の声に二人は歩き出そうとした足を止めて振り返った。じっと見つめてくるので、なんだか恥ずかしい。
「勇者様の国の兵士様に協力していただくことは、できないのですか?」
 ガノさんはエンジュさんを見た。エンジュさんは、その視線を受けながら居心地悪そうに肩を竦める。膝を折り僕と目線を合わせたエンジュさんは、重要なことを話すようにゆっくりと、秘密を明かすように声を潜めて話し出した。
「子供達を不安にさせないよう時が来るまで黙っていることですので、貴方にも子供達へ明かすことは無用に願いたいことではありますの。理解しまして?」
 頷く。それを見て、エンジュさんが語り出したことは驚くべきことだった。
 レンダーシアは突如、迷いの霧という紫の霧に覆われ閉ざされてしまったこと。迷いの霧を突破する術を見出した、5大陸の王達は精鋭を集め調査団を派遣した。それが、エンジュさん達。
 調査団が見たのは混乱を極めるレンダーシアにありながら、他国へ手を差し伸べず門を閉ざす勇者の国の姿だった。セレドの町だけじゃない、他の町も王国も困り果て助けを求めているのに応じない。他国に兵士を派遣するあたり、勇者の国が自国のことで手一杯という言い訳はできない。5大陸の王の連名で綴られた親書も退けられ、如何なる理由も受け付けない。調査団はグランゼドーラの内情が明らかになるまでは、不用意に接触しないことを決めたそうだ。
「本来ならダーマが無人化しやセレドの大人達が消えてしまった事案に、率先と関わるべきなのです。ですが結果は貴方の知る通り。それは王国としての責務を、放棄していると言って良いのです。グランゼドーラは私達の想像以上の何かがあると考えていますの」
「国が滅んでおるならまだ分かるが、どうやらグランゼドーラには王族も民も健在らしい。魔物の被害は相応に多いらしくての、勇者姫と崇められとる娘さんが領内を飛び回って討伐しておるそうじゃ。鉢合わせて、不法侵入!ばっさり!とはなりたくないから、コソコソ隠れておるのじゃよ」
 陽気に切り捨てるような動作をしてみせたガノさんだったが、その目は笑っていない。
 僕は驚きのあまり目眩がした。いつか助けてくれるだろう大人。その大人の中で一番イメージできたグランゼドーラ王国が、手を差し伸べてくれないかもしれないという事実に僕は言葉を失った。
 視線を彷徨わせ、狼狽える僕の両肩にエンジュさんは手を置いた。
「フィーロ。貴方は賢い子だから、この事実がどれほど恐ろしいかきっと分かってしまったでしょう。ですが、恐れるのは私達が無事にセレドの町に戻れたらにしましょう。帰るまでが冒険ですからね!」
 にっこりと笑ったエンジュさんにつられ、僕も笑った。特に回復呪文の使い手である僕が、このパーティの生命線なのだ。自分を鼓舞するために笑うと、少しだけ恐れが薄らいでいった。
「さぁ、先を急ぐぞい。目的地はもうすぐじゃ」
 ガノさんの先導で進み始めた道は、セレドの町の入り口の大通りよりも広く家がすっぽり入るほどに高い。地面の岩盤は滑りやすく、魔物達が歩かない隅は苔や茸が生している。ドラクロン山岳地帯の麓へ流れ込む大量の地下水が、この洞窟のあちこちで巨大な滝となって縦に貫いていた。轟々と響く滝の音に交じり、魔物達の咆哮が響いた。
 ガノさんが足を止め、背後に続く僕らにも止まるよう指示する。岩陰から覗くと、そこは滝を臨む拓けた空間で、その空間の一角に真紅の竜が3匹ほど集まって眠っている。彼らはお腹がずんぐりと大きいため、顔が小さく見えたがヒレのような大きな器官が顔の両側から外に大きく広がっていて気にならない。その巨体さから翼はないが、足は太く尾はとても長い。
「大物を狙って返り討ちにされるのは嫌じゃから、しとうないのじゃが小物がアルゴンハートを生成しとらんかったら骨折り損じゃ。よって、一番大きいグレートクラスの奴を仕留めるぞい」
 ガノさんがハンマーを取り出し、エンジュさんが荷袋を解き出す。
「作戦はエンジュの嬢ちゃんが用意してくれた痺れ薬で竜達を麻痺させる。麻痺している間に我輩がハンマーで竜の胸を打ち、胸の皮下組織に生成されたアルゴンハートの原石を粉々にする。そして、胸の皮を切って破片を失敬する。分かったかね?」
 ほれ、とガノさんは短剣を渡してきた。引き抜き握ってみるとずっしりと重く、よく磨かれた刃に僕の顔が映った。
「アルゴンリザード達は絶滅危惧種で、現在唯一の石化治療薬を生成できる存在。命を奪わず、アルゴンハートを手に入れます。拳一つ分あれば予備まで作れますので、量はそう多くなくて結構ですわ」
 瓶から薬品を染み込ませた布とゴーグルをテキパキと僕達に配りながら、エンジュさんは言う。
「痺れ薬は煙幕状に広がるように調合しましたの。布で口元を覆って、目元はゴーグルで守ってくださいまし。それでも痺れが出てしまったら、この気付け草から調合した薬を飲んでくださいませ」
 赤茶けた粉を包んだ紙を3つ手のひらに落とし込み、エンジュさんは林檎くらいのサイズの球をガノさんに手渡した。ひょろりと伸びた太めの紐にエンジュさんが火をつけると、ガノさんは球を竜のそばに投げ入れた! 起きてしまうか心配したけど、竜達は眠ったままだ。
「煙を吸い込み効果が出るまで、少し時間がかかりますの。私の合図で行動されてくださいませ」
 竜のそばに投げ入れられた球は地面の黒と同化して見えなかったが、エンジュさんが紐に灯した火がチラチラと光っている。その光が消えてしばらくすると、シューっと何かが吹き出すような音と共に煙が溢れ出した。黄色っぽい煙はあっという間に濃度を増していき、竜達の姿が見えなくなるほどだ。もくもくと膨らんだ煙は僕達の潜む岩陰まで広がり、竜達がいるところは煙の山が出来上がっていた。その山も、もう大きくはならないだろうと思う頃合いになって、エンジュさんが『いきましょう』と囁いた。
 ガノさんが岩陰を飛び出すと、今までの重たそうな足取りが嘘のように早い。躊躇なく煙の中に飛び込んでいった!
「ガノさんに続きますわよ!」
 エンジュさんも両手杖を背に背負い、手に短剣を持って駆け出した。僕も彼女を追い越し、煙の中に飛び込む。
 煙の中は先が見通せず、僕も指先が辛うじて見える程度だ。そんな中を進むと、足先に竜が触れた。驚いて飲み込めなかったぶんの悲鳴が漏れてしまったけれど、竜は身じろぎ一つしない。
 襲ってこないのがわかって、ほっと胸をなでおろした時だった。
 鉱石がぶつかり合う音が響いた瞬間、眼前から鼓膜が裂けるほどの巨大な咆哮が響き渡った。その声は煙を吹きはらい、体にまとわりつく煙を暴れて引き剥がす。胸元が大きく陥没したアルゴングレードの振りかぶった尾を、ガノさんはハンマーで向かいうち受け止める。
「転ばすぞい!」
 そう言ったガノさんは鞭を巧みに振ってアルゴングレードの片足に巻きつけると、いつのまにか持ち手をハンマーに結わえて目配せした。ガノさんが力一杯ハンマーを振り抜くと、遠心力にぴぃんと張った鞭の力がアルゴングレードの足元を襲う! 麻痺して力が入らないからか、アルゴングレートは見事に転倒した!
「流石に大きい個体は、効きが悪うございますわね! フィーロ、急ぎますわよ!」
 なんて思い切りが良い人なんだろう。エンジュさんはアルゴングレートの陥没した胸元に飛びつくと、勢い良く短剣を突き立てた! 固いものに阻まれたが差し込まれた先を、エンジュさんは力一杯手前に引こうとする。竜の皮は固いのだろう。僕はエンジュさんの手の上から握り、力を合わせて短剣を手前に引く。
 腕一本差し込めるような傷を胸元につけると、僕はその傷に指を入れてみた。指の横から、ぽろぽろと赤い粉が落ちて行く。
 これがアルゴンハート! セリクの病気を治す薬の原料!
 僕は両手で切り傷を開き、手を差し入れる。手にゴツゴツとした石の感触があり、その中から砕けて手に持てそうなものを探る。指先に意識を集中し、僕の手がやや大きめの石を掴んだ時だった。
 竜が突如暴れ出した! 僕とエンジュさんの体は掴まり所のない竜の体から弾かれるように飛ばされ、地面に叩きつけられた。それでも、手に石の感触がある。薄く目を開くと、手には真紅の宝石が握られている。その奥から、地面を掻くように赤い何かがあっという間に迫ってきた。 体が宙に舞う。尾に跳ね飛ばされたのだと気がついた時、僕を見上げるエンジュさんと目があった。
「フィーロ!」
 体が落ちて行く。迫り上がった崖に、竜もエンジュさんの鮮やかな黄緑色の髪も呑まれてしまう。顔に滝の冷たい水が容赦無く打ち付け、次の瞬間その冷たさが体全全身を包み込んだ。
 煙を吸い込まないように口元を覆っていた布が張り付き、思わず空気を求めて開けた口の中に布が入り込んでくる! 僕は慌ててもがこうとするけれど、手の届くところ何もかもが冷たい水の中。何もつかめず、何にも触れられない空間で、僕は半狂乱になりながらもがいた。
 エンジュさん! ガノさん! 助けて!
 目を開いても何も見えない。洞窟の底の水は暗く、光苔らしい輝きが星のように漂うばかり。水の流れに体はもみくちゃにされ、もう、どこが上なのか下なのかもわからない。流されているのはわかったけれど、それでも水面から手が出ることも、川底や何かに触れることもない。魚は避けて過ぎ去り、泡は強風に吹き飛ばされる木の葉のように流れて行く。
 もう駄目だ。ごめん、リズ。 でも、きっとエンジュさんやガノさんが、アルゴンハートを持って帰ってくれるはずだ…。
 僕は最後になるだろう意識を保つ瞬間を使って、セレドの町の仲間達の、そしてリズの幸せを神に祈ろうと思った。伸ばした手を胸元に引き寄せ、手を祈りの仕草に組もうと思った時だった。伸ばされた手を、誰かが掴んだ!
 掴んだ手は力強く僕を引き上げてくれた。水から引き上げられ体から大量の水が固い岩盤の上に落ちて行く。僕は両手を地面につき、口元の布をむしり取り、思いっきり大きく息を吸った。肺がはち切れそうなくらい息を吸い、吐くことも忘れてしまって咳き込んだ。
 咳が落ち着いて、僕は顔を上げ助けてくれた誰かを見上げた。
 それは黒い外套に黒いフードを目深に被った人だった。外套は体をすっぽり覆っていて、フードが落とす影が顔の輪郭すらも融かしている。洞窟の暗闇から浮かび上がっている肩は広く、僕はこの人は男性だろうとおぼろげに思った。
 黒い人は身を翻し、奥へ歩き出そうとしていた。僕は慌てた。だって、まだ、お礼も言えていない。
 僕はここが魔物の出る洞窟だというのに、声を張り上げた。
「あの…! 助けてくださって、ありがとうございます!」
 黒い人は足を止め振り返った。外套からグローブを嵌めた右手が出て来ると、その手は僕の手元を指差した。指の指し示す方へ視線を落とせば、しっかりと握りしめたアルゴンハートがある。真紅の宝石が水に濡れ、キラリと美しく輝いていた。
「手放さなかったお前の勇気に敬意を評した。早く、持って帰ってやるがいい」
 癖のない流暢なレンダーシアの言葉は、美しい男性の声で紡がれる。褒めてもらった言葉は、まるで王様に表彰してもらっているような誇らしさを与えてくれるような声だった。
 前を向く一瞬、闇の中から澄んだ青い光が見えた。黒い人はコツコツと足音を響かせ、洞窟の闇に消えていった。
 僕は助かった事で気が抜けてしまったんだろう。へたりと、その場に腰を下ろした。
 助かって良かった。これでセリクが助かる。リズの、友達のところに帰れる。そんな安堵感がじわりじわりと胸の中に広がって行く。口元が歪み、達成感が心を満たして突き上げる。大声で歓喜の声を叫びたかったけど、魔物ばかりの空間じゃ危ない。僕は大きく口を上げ、手を振り上げた。勢いよく声なき声で息を吐き出し、喜びの感情を噛み締めた。
 エンジュさんとガノさんと合流して、セレドの町へ帰ろう!