きっと死んだって理解できない - 前編 -

 セレドの町は喪に服し、死者の住まいのよう。
 元々、ダーマ神殿の宿場町として栄えているセレドの町には、ダーマ神殿で修行する神官、巡礼や参拝の旅人、レンダーシアの重要な中継地の一つの為ごく普通の旅人で賑わってる。セレドット山岳地帯に溢れる美しい光の河を跨ぐように作られたセレドの町は、本来なら風になびく極彩色の護符が橋や頭上に縄で張り巡らされ来訪者を迎える町なの。
 今や、極彩色の護符は白と黒の鎮魂の護符に取って代わられ、住人達の服は黒ばかり。私も黒い服ね。
 あんなに明るかった酒場の女将さんも、悲しみにくれる住人を励ます神父様も、見る顔誰もが暗く沈んでいる。ダーマ神殿へ登る山道への入り口にある墓地から降ってきた夫婦は、互いに支え合い嗚咽を漏らしながら家路につく。みんなひどい顔だ。もちろん、私も。
 町の人と顔を合わすと、誰もが辛そうに顔を歪めるの。理由はわかってる。失ったものを思い出してしまうんだわ。
 私じゃ、かわりになんかなれない。だから何も悪くないけど小さく頭を下げて、そっと視界の外へ出て行ってしまう。
「子供達は無念を抱え、神の御許へ行くとができないのです。神の元へ道を作るための儀式をし、魂を導かねばなりません…!」
 井戸のある広場では旅の祈祷師が、町の人々に熱心に話しかけている。事情を知らぬ旅人は、祈祷師の言葉に胡散臭そうに口元を歪め立ち去るだろう。だけど何人か知った顔が足を止めて耳を傾けてる。
 私は人目を避けるように入り組んだ市街地の階段を登る。長い髪をかき乱す山風からの強風に足を止めると、誰かが前を横切った。軽快な足音がいくつも。耳に触れるの風の音を押しのけ、甲高い子供達の声が聞こえる。
 ハッと顔を上げると、そこには懐かしい小さい人影がいる。セレドの町では有り触れた、護符を模した模様で染め抜かれた布の服。袖を通す腕は細くあどけない顔の奥に、街路樹の幹が透けて見える。
『あはは! 捕まってたまるかー!』
 目の前に立ち止まった人影は、膝に手をついてはぁはぁと荒い息を繰り返す。こちらも笑う子供と大して年齢の変わらない。思わず足元へ視線を落とすと、サンダルの靴底に影はなく日向がじりじりと石畳を焼いていて眩しいくらいだった。
『くっそー! まてー!』
 走り出した二つの影は、日向の中で溶けてしまった。笑い声だけが余韻として残り、それも風が吹き払う。
 待ってと声を掛けたことは数知れない。でも、彼らは一度も足を止めることはなかった。
 だって、目の前に現れた幻の子供達は、セレドの町の子供達は、私を残して全員死んでしまったのだから…。
 そう、セレドの町はあの日を境に死んでしまった。
 リゼロッタ姉さんが崩れ掛けた今は使われてない教会の廃屋で、面白いことをやろうと言い出した。面白いこととは『なんでも叶えてくれる魔神の召喚術』。姉さんは旅の魔法使いから褒められるほどに、魔力の強い子供だった。廃屋の奥に眠っていた魔道書をいくつか試したら、実際に出来てしまうのだから才能もあったんだろう。
 姉さんは町の子供達のリーダー的存在だった。思い切りがよく、自信に満ち、面倒見もよかった。私もリゼロッタ姉さんの後ろをついて歩く、気の弱い女の子でしかない。双子の姉で近しい存在のはずなのに、彼女は眩しく正しく、私にとって憧れる人だった。
 だった。過去形でしか語れない自分が、とても悔しい。
『ルコリア、本当に来れないの?』
 扉から少し顔を出し、下の階にいる両親を気にしているんだろう。姉さんはちらちらと下を伺いながら、私にそういった。
 行けそうにないよ。姉さん、ごめんなさい。
 私はそう答えた気がする。世界が氷の閉ざされたように冷え切り、いくら布団を掛け、母さんが湯たんぽを用意してくれても温まる気配がしない。ゾクゾクと這い上がる悪寒は、本当に熱のせいだったのかしら?
『延期して大人達に見つかったら、折角の計画が台無しになっちゃう。貴女だけ見れないけど、悪く思わないでね』
 そう言い残して扉の前に姉さんの姿はなくなり、暗い廊下に名残惜しげに振られた手が見えた。それが私が姉さんを見た最後だった。
 ダーマの山が崩れたのかと思うほどの轟音に飛び起きた時には、もう何もかもが遅すぎた。老朽化が進み立ち入りが禁止されていた建物が崩れ去った。子供達がその建物に集まっていたと大人達が察するのに、時間はいらなかった。子供達の親は泣き叫び、両手の爪を剥がし血まみれの手になっても瓦礫を取り除くことをやめなかった。建物が崩壊して昼夜を問わず撤去作業しても、子供達を見つけ出すのに何日も要した。子供達は教会跡地の奥まった部屋に、固まるようにして死んでいた。
 そう、死んでいたのだ。
 あの時『私も見たい。どうか、今日はやらないで』と、どうして言えなかったのだろう。
 フィーロのように『建物が崩れそうだから、危ないよ』という言葉に、どうして頷かなかったのだろう。
 みんな、みんな、死んでしまった。瓦礫の中で死んでいた友達の姿、遺された家族の苦しむ姿、たった一人生き残ってしまった子供へ向ける視線、いつまでも救われない日々。気まぐれに現れる幻は、罵りも慰めもせず笑い声を残して遺された人々の前に現れる。私も一緒に死んでしまえたら、どれだけ楽だったろうと思う。
「ただいま…」
 家に戻った私を出迎えてくれる母さんはいなかったから、きっと姉さんの墓参りに出かけているんだろう。父さんはこの町の町長としての仕事が忙しくて、この時間に家にいることは少ない。特に今月の新月は昇天の梯を子供達が昇れるよう、ダーマ神殿で大きな集会を開く予定だと聞いている。
 誰もいない家を進み、部屋に戻ろうとした時だった。
『全く、どの子もやんちゃ盛りの生意気さんで、いけませんわ!』
 甲高い女性の声が家の中に響いた。
 振り返るとそこにはレンダーシアの外の大陸に暮らす、エルフという種族の女性が立っていた。柔らかな緑色に染め抜いた魔道士風の服装に、賢そうな眼鏡の奥に鋭く尖った瞳がある。唇がへの字に曲がり、床板を踏み抜くように荒々し行進をして進む。かなり怒っているのだろう。色白い肌が桜の花びらを通り越して、赤く染まった紅葉のようだ。
 彼女の後から入ってきたのも、やはり外の大陸で暮らすオーガという種族の女性だ。こちらは美しい白金色の長髪を無造作に流し、黒鉄の鎧を着込み私の背丈よりも大きい大剣を背負っている。彼女は一抱えもある荷物をテーブルの上に置くと、苦笑いした。
『ピペが描いてくれた絵が完成したんだ。子供達だって気になるだろう?』
『それでルミラさんごと押し倒されて壊されてしまったら、元も子もありませんわ! 芸術品の扱いは丁寧に! ですのよ!』
『子供達が何人来ようが、自分は押し倒されやしないさ』
 互いに笑い出す彼女達の足元に視線を落とす。薄暗い家の中では影は見えなかったが、やっぱり彼女達も若干透けている。それに、目の前にいる私に彼女達は気がつく様子がない。
 なんで彼女達は私の家にいるのだろう?
 疑問を浮かべる私の目の前で、エルフの女性は荷物を解き始めた。丁寧に梱包されたそれは魔術のかかった紙に包まれていて、エルフの女性は逐一感心しながら解いていく。そして最後の紙が取り払われた時、私は息が止まった。
 それはあの日に死んでしまった子供達が笑顔で並んでいる、一枚の絵画だった。目の前の女性二人も子供達の後ろで笑っている。とても美しい油絵で、誰もが生き生きと描かれ幸せそうに笑っている。もう二度と見ることのできないと思っていた、大切な大切な友達の笑顔。
 その絵を見ているだけで、私は思わず涙が零れ落た。
『流石、ピペだ。とても素晴らしい…写真では表すことのできない温かみがある』
『えぇ。子供達がピペさんに依頼したらしいですわ。…私達もずっとこの地に留まれないのだし、子供達には良い記念ですわ』
 うっすらと微笑んだエルフの女性は、ぱんと手を胸の前で叩いた。
『さて、リゼロッタがレムオル粉を完成させたか見に行きましょう! レムール貝さえあればそう難しい調合ではありませんが、これから子供達だけで暮らせるよう、魔物から身を隠す手段は大事ですからね』
 リゼロッタ。彼女の言葉に心臓が跳ね上がる。
『自分も男達の剣の指導に向かうとしよう』
『絵は夕食後にお披露目致しましょう。お野菜を子供達が残さず召し上がったらの、お話ですけれど!』
 彼女達は笑いながら絵画の梱包を元に戻すと、連れ立って家を出て行った。
 彼女達を見送った私は、テーブルの上に再び視線を戻した。絵はまだテーブルの上にある。私はじりじりと躙り寄り、梱包の一部を摘んだ。はっきりと、紙を持つ感触がある。
「え?」
 やや透けて見えた絵画が、影を落とし色を濃くする。私は両手で絵画の包みを解くと、絵の中のリゼロッタ姉さんやフィーロが優しく微笑む姿が見えた。デコボコした油絵の盛られた感触を指先に感じる。キャンパスの布と木と、油絵の具の匂いが部屋いっぱいに広がった。
 絵が、実態化したんだ。

 突如、町長の家に現れた子供達の絵の事件は瞬く間にセレドの町を駆け巡った。
 特に子供達の後ろにいる、エルフとオーガの女性達は一体何者なのかが一番の話題となった。町に一度でも訪れた事があるのか住人全員に確認し、子供達を狙う犯罪者の可能性を考えお尋ね者リストを総ざらいし、ダーマ神殿で鑑定が行われた。私も絵の第一発見者という事で、ずっと事情を聞かれていた。
 でも、本当のことは告げられなかった。家の中にエルフとオーガの女性達が入り込んできて、絵を置いて行ったなんて誰が信じてくれるだろう?
 私は結局、気がついたら家に絵が置いてあったと言っていた。
 大人達から解放され、部屋に戻れたのは翌日のことだ。私はベッドに倒れこむように横になった。体は疲れているはずなのに、目を閉じて力を抜けば眠ってしまえるはずなのに、私は眠れずにいた。眠ってしまったら、大切なことまで忘れてしまいそうだ。私のついた嘘が、真実を忘れさせて乗っ取ってしまうような恐怖があった。
 なんで本当のことを言わなかったのだろう。信じてくれなくたって、言えばよかったのに…。後悔が胸に渦巻いても、もう取り戻せない。
 私はそっと手を横に伸ばした。
 以前だったらリゼロッタ姉さんが、その手を握ってくれて私の不安をずっと聞いてくれていた。母さんが暖かいホットミルクを持ってきてくれて、父さんがいつまで起きてるんだと叱りに来るまで他愛もない話をするだけで気持ちが軽くなった。時々喧嘩をすることがあって、ごめんなさいが言えなかった時、姉さんの日記帳にごめんなさいって書き込んだっけ…。
 姉さんの日記帳。
 起き上がってテーブルを見れば、ありありと思い描ける。夜のこの時間、姉さんは毎日欠かさず日記帳をつけていた。椅子に座り、私から背を向けて日記を書き綴る。その背をじっと見ていると、姉さんは振り返り『明日も良いことがあると良いわね』と笑った。
 エルフの女性は、姉さんが生きているような口ぶりだった。なら、姉さんは日記を続けているはずだ。
 なんて馬鹿なことを考えているんだろう。死んだ人が、日記を綴るなんてありえないじゃない。私は、心の中で嘲り笑う。
 でも私は起き上がってあの日から全く手を付けていない、姉さんの本棚に向かった。日記帳に手を伸ばす私の指先が震えているのがわかる。馬鹿なことでいいじゃない。後悔するよりもマシよ。ただ、確かめるだけじゃない。
 私は姉さんの日記帳を手に取り、開いた。
 一番後ろの頁はもちろん真っ白だった。私は後ろから前へ向かって頁を繰り、一番最後の日記が書かれた頁にたどり着いた。
 ー ー ー ー ー
 エンジュさんとルミラさんが、ピペさんにお願いした皆の絵をなくしてしまったんですって。あの大人達には考えられない失態ね。
 全く、家に置いて戻ったら無くなってたなんて、一番小さい子供だってしない言い訳よ。頑張って探してくださいと命令したら、エンジュさんは顔を真っ赤にして承諾したの。ちょっとイジメすぎちゃったかもしれないわ。
 でも、レムオル粉の調合は上手く行ったみたい。エンジュさんは筋がいいと褒めてくれたわ。
 明日、エンジュさんとルミラさんが、夜風に流れる謎の音楽の原因を探りに行くらしいから完成品を使ってこっそり後を付けてみようかしら。
 ー ー ー ー ー
 この日記は、あの日の前のことじゃない。私は食い入るように一緒に母さんから字の書き方を学んで、印刷された文字のように綺麗な姉さんの文字を追う。
 『ピペ』あの絵の作者の名前だろうというのは、彼女達の言葉と一致する。
 絵がなくなってしまった。薄ぼんやりとしていた幻みたいな絵が、私が触れて実態化したことと関係があるはずだ。
 そして、エルフの女性が『レムオル粉』の話題をあげていた。きっと日記にある『エンジュさん』というのがエルフの女性で、たぶん『ルミラさん』がオーガの女性のことだろう。
 私は眠気も忘れて日記をあの日まで遡った。あの日から今日まで離れ離れになった姉さんとの距離を詰めるかのように、読みふけった。私はなんて馬鹿なんだろう。こんな近くに、姉さんとの繋がりが未だにあったっていうのに…!
 大人達が突然消えて行ってしまったこと。ムッチーノという魔物と願いを叶える魔神のこと。子供達の町のこと。エンジュさんとルミラさんがやってきたこと。ピペさん、ラチックさん、ミシュアさんという旅人のこと。姉さんが皆の為にどんなに不安な思いをして生きていたのか、そして魔神との騒動を機に素直になれたかという心の移り変わりが手に取るようにわかった。
 私は涙ぐみながら読み続けた。姉さんが、皆が生きていることが嬉しくて堪らなかった。
 気がつくと日記帳を開いたまま、少し眠ってしまったみたい。再び後ろに頁をめくれば、日記帳は昨日の日付が新たに書き込まれていた。
 ー ー ー ー ー
 レムオル粉で姿を消して後を付けたら、エンジュさんとルミラさんにこっぴどく怒られてしまったわ。ついでに、フィーロにも。でも、謎の音楽の正体はトゥーラという楽器の演奏だったの。魔物達もうっとりと聞き入る素敵な演奏だったわ。
 そんな演奏をするのは、セリクという少し年上の少年なの。
 グランゼドーラからセレドに来るまでの間に、ご両親とはぐれてしまったんですって。しばらく、セレドの町に滞在することになったわ。セリクに内緒で皆で歓迎会の準備をして、びっくりさせましょう。
 でも変なの。施療院が落ち着くんですって。暗くて怖くて病人が来るところだから、誰も近づかないのに…。
 ー ー ー ー ー
 新しい言葉が出てきた。『セリク』と『施療院』。私は昼ご飯を食べて、家を出た。母さんは『昨日は大変で疲れてたんでしょうから、もっと休んで良いのよ』と言ってくれたけど、大丈夫とそっけなく返して玄関を出た。
 空は抜けるような美しい青空だったけれど、風に翻る布は黒く人々の心は暗いままだ。でも私の気持ちは昨日の私とは違う。姉さんや友達が皆死んでしまった事実は絶対に覆せなくても、何かが変わる気がしてならない。その何かが知りたくて、私は施療院へ足を向けた。
 セレドの町はダーマ神殿の真下から湧き上がる光の河の下流に作られている。光の河には人の命や病気を癒す力があると昔から信じられていて、施療院もセレドの町が興された時と同じくらいの歴史ある建物だ。今でもレンダーシアの各地や外の大陸から、藁にも縋る思いの患者さん達がやって来る。
 施療院は多くの人で賑わっている。どこが病気なのか分からない元気そうな人、腰が痛いと寝転がる人、重い病気を患っている人は個室が用意されているという。今までセレドに長く暮らしているけれど、施療院に来ることは殆ど無い。薄暗い院内は、異世界のようで、できればすぐさま引き返したくなる。でも私は勇気を振り絞って、おっかなびっくり玄関からすぐの所にある受付に向かった。
「あら、ルコリアちゃん。怪我でもしたの?」
 そう声をかけてくれたのは薬師の優しげな女性だ。顔は見覚えはあるけれど、名前までは思い出せない。清潔そうな白を基調としたローブを着込み、薬の匂いが染み付いている。私は女性に微笑んで小さく首を振った。
「違うんです。私、セリクという男の子を探しているんです」
 女性は目を丸くして、どうしましょうと先生らしい男性に振り返った。先生らしい男性は難しい顔で、私をみた。
「面会か…。今は病状も安定しているし、家族が良いとおっしゃるなら通してあげて良いでしょう」
「わかりました。じゃあ、ルコリアちゃん、一緒に行きましょう」
 セリクがいる。姉さんの世界と私の世界に存在する人。私は驚きながらも、気を引き締めた。
 薬師の女性の後をついていく。暗い階段を登るとぎしぎしと音が響いて、階段の板が抜けてしまわないか恐ろしく思う。
 恐怖で体がぎこちなく動く中、私は考えを巡らせる。先生の言葉が正しいなら、セリクという少年は重い病気を患っているらしい。一体、どんな病気なのかしら…?
「あの、セリクという男の子はどんな病気に罹っているんですか?」
 私の言葉に足を止めた女性は、一瞬戸惑った後に体をかがめ耳打ちするような小声で言った。
「そうね。セリクさんに会って驚いたら、ご家族も傷つくでしょうし先に教えておくわね。セリクさんはとても重い病を抱えているの。治療のとても難しい、体が石化していく病気なの。もう、両手足は石化しているわ」
 そして施療院の一番奥まった部屋に辿り着き、扉を女性がノックしようとした時だった。扉が開け放たれ、血相を変えた男性が飛び出した!
「大変だ! 息子がとても苦しそうなんだ! 先生を…先生を呼んでください!」
 薬師の女性は大急ぎで引き返し、私は開け放たれた部屋の隙間からセリクという少年をみた。ベッドの上に横たわる少年が苦しげにベッド上で暴れまわっている。石化した手で胸を強く押さえたと思えば、ばたばたと暴れまわり獣のような声を上げる。母親らしき女性が石化した腕が砕けないように、『お願い、やめて!』と叫んで覆い被さり少年を押さえつける。石化した手が母親を殴打し、白い額に血が流れるのを見た。
 間も無く先ほどの先生が到着し、扉は目の前で固く閉ざされた。
 一人廊下に取り残された私は、この施療院は常に死の気配が漂っているのだと知った。今は子供達が死んで町中が悲しみにくれているけれど、この町はずっと死と隣り合わせの場所にあったんだ。

 家に戻った時は夕暮れ時だった。父さんは遅くなるとのことで母さんと二人で夕ご飯を食べた後、私は二階の部屋に戻ろうと階段を登った。
『全く、ここの子供達は栄養バランスの知識が欠如していますわ! 成長する今が一番大事な時ですのに…!』
 あのエルフの女性の声だ。たしか、姉さんの日記ではエンジュという名前だったはず。
 そっと父さんと母さんの部屋を覗き込むと、先日見たエルフとオーガの女性達が向かい合って話していた。ルミラという名前のオーガの女性が、やんわりとエンジュに話しかける。
『ムッチーノがいた時は三食ケーキとお菓子だったんだ。だいぶ改善したのではないか?』
『それでもおかしいですわ! 私達がこの町に来て早数ヶ月、フィーロくらいの年齢の少年なら、春雨の筍、鯉が滝登り昇竜となる程に身長が伸びるものですのよ! スクスク伸びていただかないと、私が不味いご飯を食べさせていると思われて親御様方に顔向けもできませんわ!』
『う…うーん。そうかもしれん』
 ルミラさんが勢いに負けて項垂れるように同意した。
『フィーロだけでなく、もっと幼い子供は毎日見ていて違いが分からないだけで成長は確実にするはず。ですが、先日のピペさんの絵を見て確信しましたの。あの子達、この数ヶ月間全く成長していませんわ!』
『いや、男子諸君は頑張っているぞ。基礎体力も付いたし、剣の腕は確実に上がったはずだ』
『そっちの成長ではありませんわ! 肉体的な成長です!』
 エンジュさんは乱暴な勢いで腰を下ろす。そして神妙な顔でテーブルの上に組んだ手を見つめた。
『それに、連れて来たセリクという少年。あの子は変ですわ。あんなに元気そうなのに生命が燃え尽き肉体が炭化するような、私が診て来た重病の患者さんに似た匂いがしますの。何か病気はお持ち? と聞いたら、はぐらかしたのも何かあると見ましたわ』
『だが、セリクは言わないのだ。何の病気か、分からないのでは手の打ちようがない』
 そうなんですけど…。エンジュさんが口元に手をやり考え込んだ。
『まるで、彼らの時間が止まっているかのようだな』
 エンジュさんがふと顔を上げ、私もルミラさんを見た。エンジュさんは『そうですわね』と囁いた。
『元々、ケーキとお菓子、ジュースの三食で歯磨きもしない子供達が、虫歯だらけでないことがおかしいですわ。私たちが来る前、彼らは入浴ができ体や衣類の清潔を保てたのかしら? 怪我が治る、それも怪我という変化から時が止まったある時間に巻き戻る行為であったとしたら…』
 エンジュさんはそこで首を振った。
『でも、記憶は更新されている。この説は無理がありますわ』
 二人の姿がぼんやりと霞んで行き、瞬き一つした間に消えてしまった。見慣れた両親の寝室に入り込んでぐるりと見渡せば、姉さんと入り込んだ以前の時から本の位置一つ変わっていない。彼女達がここで生活している様子一つ見えなかった。
 彼女達がこの世界に干渉することはできない。
 何度すれ違っても気がつくことができない死んでしまった友達のように、彼女達にも何も伝えることはできないのだろうか? そもそも、彼女達が次にいつ現れるかは分からない。子供達の幻もどこに現れるのかわからないのだ。
 セリクの病気は命に関わる程重いんだろう。体が石化する病気なんて聞いたことがない。施療院の一番奥の部屋は、子供達の間では『入ったら死んでしまう部屋』として肝試しの伝統的な曰く付きの場所だった。今だったら不謹慎だってわかる。曰く付きどころじゃない、『入ったら死んでしまう部屋』は『助かる見込みの少ない人が入る部屋』なのだろう。他所で手の施しようのない人がたどり着く、施療院で一番重症の患者が入る部屋。あの扉越しに聞いた悲痛な声に、体の芯が冷える。
 セリクは治るのだろうか…?
 エンジュさんはセリクの病気がわかったら、治してくれるんだろうか?
 それを、伝える手段は今の所…ない。
 私は自分だけになった部屋に戻り、扉をそっと閉めた。姉さんがそろそろ日記を書く時刻だ。もう少ししたら、日記帳に姉さんの字が増えているに違いない。今日はセリクの歓迎パーティの話かしら…。
 私はそこで、ハッと気がついた。
 日記帳は毎日姉さんが書き込んだことが追加されている。逆に私が書き込んだ内容も、姉さんの手にした日記帳に追加されるんじゃない?
 私は本棚に駆け寄り、勢い良く姉さんの本棚から日記帳を抜き出した。何冊か隣り合った本が落下したけど気にしない。私は齧り付くように頁を捲り、最後に姉さんの書いた日記の頁を開いた。ペン先にインクをつけ、震える手で姉さんの綺麗な字の下にペン先を向ける。
 もし…。もし、これが上手く行ったら。
 姉さんは今自分がどうなってしまっているか、きっと分からないはずだ。死んで、墓に埋められ、この世界のどこを探してももういないなんて、姉さんを始め全ての子供達が気がついていない。
 私は、姉さんに姉さんの死を伝えなくてはならなくなるだろう…。
 嘘つき呼ばわりされるかもしれない。もう日記は書かなくなるかもしれない。死んで断たれた絆が、もう一度断たれる苦しみが私を襲うかもしれない。もう一度繋がれる喜びより、不安と恐れの方が強かった。
 でも。
 今、立ち止まっている方が死ぬほどに苦しい。
 私はもう片方の手で震える手を押さえ、強く握りしめたペン先を紙に押し付けた…!