パンがなければお菓子を食べればいいじゃない - 後編 -

 夕刻を控えた頃、子供達は列をなして旅立っていきました。
 自宅にあったのだろう様々な形のランタンは暖かい光をこぼし、遠足気分に高揚した子供達の笑顔を柔らかく灯しています。子供達は一番のお気に入りの服を着て、祭りの主役のように誇らしい笑顔でセレドの町の門を潜っていきました。光の列は北を目指していました。
「リズを止めたいんです」
 ダーマ神殿の山道から、彼らの旅路を見守っていた私達にフィーロさんは言いました。
 ただ一人セレドに残った子供。彼は自分で彫ったのでしょう木彫りのロザリオを、指が白くなるまでに握りしめて訴えたのです。私は彼らが洗濯をしているところを見たことはありませんでしたが、教会のシンボルを施したローブは汚れひとつありません。
「お願いします」
 下げられた勢いで落ちた帽子を、ルミラさんが拾い上げました。ルミラさんは下げられた頭の先、黄緑色の後頭部を見つめて『どうする?』と問いました。
「嫌に決まっていますわ」
 ぷいっとマスカットリップとピュアスノーリリーで染め上げられた呪い師の服を翻し、赤いフレームを白い指が押し上げる。鋭い瞳が矢のようにフィーロさんを射抜いたのです。
「子供達がリンジャの塔でどんな儀式をするのか、大変興味深いですわ。それを止めるだなんて、とんでもない!」
 確かに、どんな儀式かとても興味あります。古代リンジャハルの形式美はとても素晴らしく、芸術品一つとっても巨大な魔法陣の一つのパーツにすぎない程の精密さと華やかさを持っています。その塔の最上階で何らかの儀式をするだなんて、あぁ、今から考えても胸がときめきます! 魔法の光と儀式の饗宴! スケッチブック何冊あっても足りないかもです!
 そんな私の頭をラチックさんが突きます。もう! 期待に胸を膨らますくらい無料です!
 私とエンジュさんの反応に、ミシュアさんは開いた口がふさがらず。ラチックさんとルミラさんは呆れ顔です。
 協力してくれると確信していたフィーロさんの絶望した顔は、まさに絵に描いた如くです。そんなフィーロさんを見て、ルミラさんがため息をひとつ。
「フィーロ、君は大人へのモノの頼み方がなっていない」
「もしかして、金銭ですか? 壊れてしまった教会を探せば、少しお金に変えられる物はあるかもしれませんが…」
 フィーロさんの戸惑いに、ルミラさんは首を横に振った。そして、彼の耳に耳打つ。たわわに実った果実のような豊満な胸が眼前に迫って、少年が顔が茹で上がる思いなのは当人気がついておりません。
 一通り耳打ちを受けた彼は、再度エンジュさんに向かい合った。
「リズが子供達と共に儀式で強力な魔人を召喚します。もし、召喚された魔人が子供達に危害を加えたら、とても僕では皆を守れそうにありません。どうか、子供達を守る為に皆さんのお力を借してください!」
「それは危険ですわね! 仕方がありませんわ、魔人は私が丁重にお持て成しして差し上げましてよ!」
 ころっと変わったエンジュさんの態度に、目が真ん丸のフィーロさん。少年の肩にルミラさんが手を置いた。
「大人とは、こういうものだ」

 セレドの入り口に聖水と精霊の粉、魔法が持続するように魔法の小瓶を特別に調合したインクで入り口にトヘロスの魔法陣を描きます。私達が留守番をしているなら魔物は居着きませんが、誰もいない町は絶好の魔物達のお家になってしまいますからね。
 それぞれの民家の玄関の横に備え付けられた、清められた糸で紡がれた退魔の魔法陣を巧みに施した布を玄関に掛けます。人一人おらず沈黙に支配された町を風が通り抜け、主人達の帰還を待つように布がはためいていました。夜を徹して準備した為に疲労していましたが、セレドット山脈を染め上げる曙色の美しさが疲れを溶かしていくようでした。フィーロさんはその景色を目に焼き付けるように眺め、私達に振り返りました。
「行きましょう」
 光の河の源流の一つであるダーマ神殿が構える山を右手に見ながら、セレドット山脈を輪のように繋げる山道を行きます。セレドット山脈はとても高い山が水面に落ちた水滴のように広がっていくように隆起しており、山道の勾配はあまりなく平原を行くが如く穏やかです。空に近くキツイ日差しは薄雲が遮り、足早な歩調に熱された体を冷たい山風が撫でていく。時折開けた視界の先に、山脈が抱く巨大な湖が光を受けてキラキラと輝いています。
 あぁ、水彩画が楽しそうな被写体なのに、仕方がないのです。子供達の命が掛かっているのです。
 ムッチーノがいるからか魔物の心配は無いようでしたが、子供達の足並みはとてもゆっくりでした。ただし、野営はあまり必要無いらしく、野営の場所や食事の支度に時間を割く必要が無い為か、行程的には子供にしては順調すぎるという感じです。普通は疲れてぐずる子供もいるでしょうに、子供達の行進は止まることはありませんでした。
 山脈を抜けると、むっと包み込んでくるのは潮風です。レンダーシアの内側の巨大な内海が瞬く間に迫ってきます。
「あれが、リンジャの塔です」
 フィーロさんの指差す先には、5つの副塔を従えた巨大な塔の影が木々の上に聳えています。
 リンジャハル海岸。古く古く、誰も知らない古からそこにあり続けた巨大な遺跡。今の魔法学でも解明できないほどの魔法技術により栄華を極めただろう痕跡を色濃く残しながら、どのように繁栄しどのように滅んでしまったのか何一つ文献や伝承にも残っていない謎多き地域です。海岸沿線に広がる高度な土木技術を基礎に建てられた建物の名残りですが、海面に水没した部分を含めればグランゼドーラよりも広大な都市であったとも言われています。
「リズが目指しているのは、あの塔の最上階です」
 行こう。ルミラさんが先陣を切り、皆がぞろぞろと続きます。
 巨大な塔はもう子供達を飲み込んだのでしょう。塔は巨大な魔獣の口のように、私達を待ち構えていました。
 塔の中は想像以上に魔物達の巣窟と成り果てていました。それはそうで、リンジャハル海岸の調査は考古学学会で関心は持たれていますが、ほとんど人の出入りの無い地域なのです。レンダーシアを一周する街道に隣接もしない為に、魔物の討伐依頼も無い。レンダーシアの真ん中にある島々や、内海を使った貿易にはこれ以上無い好条件でしたが、それ以上の障害となったのは暮らしている魔物達の数なのでしょう。
 そんな魔物達を、ぶんまわしでルミラさんが倒し、なぎはらいでラチックさんが退ける。まるで群雲のように通路の中で襲い来る魔物達を、二人は息のあった連携で突き崩していきます。その勢いは破竹の如し。留まることを知りません。
「ラチック、君は一流の戦士だな!」
「ルミラ 強い 俺 負けない」
 二人はにんまりと笑みを交わし、嬉々と輝く表情を魔物達に向けて飛び込んでいきます。
 はらはらと戦況を見守るフィーロさんの横で、エンジュさんが壁一面の古文書を片っ端から開いています。
「あぁ、何てことでしょう! 海の潮風でだいぶ傷んでしまっていますわ! レンダーシアの古代文字であることも解読の妨げですけど、この保存状態、最悪ですわ! まぁ! この本、紙がくっついてしまって開きませんことよ!」
 競い合うように進む戦士達に取り残されないよう、私は魔法使いさんを引っ張るのがお仕事です。
「本当にこの塔では高度な魔法技術があったのでしょうね。残されている文献の殆どが、召喚術に関することですわ」
 そう歩きながら開いているのは、複雑な魔法陣を記した頁です。その本を覗き込んだフィーロさんが頷きました。
「全ての始まりは古い召喚術の古文書と、リズが嵌めている魔法の指輪を見つけた事でした」
 フィーロさんは声変わりする前の、やや高い声で経緯を振り返り語りました。
 古文書と魔法の指輪を見つけた子供達が、大人達に内緒で召喚術を使おうと思った事。取り壊す予定だった高台の教会で集まっては、注意しにくる大人達を落とし穴にはめたりして笑った日々。子供達の秘密基地で有り合わせの道具で行われた召喚の儀式。
 儀式は成功したかはわからない。
 大きな揺れが起き、気がついたら大人達は一人もいなくなっていた。子供達が絶望に泣き出し始めた頃、魔方陣の上に魔人ムッチーノが現れていた事に気がつくのです。ムッチーノは召喚術を行ったのがリゼロッタと知ると、女王と呼んで忠誠を誓った事。
「本を焼いてしまえばよかった。たとえ、皆に恨まれる事になったとしても…」
 悔しげに拳を握ったフィーロさんに、エンジュさんは事も無げに言いました。
「ダーマは創世記には信仰されている古い神の一柱です。リンジャハルの都市がいつ滅んでしまったにせよ、その頃にはダーマ神殿も存在していた事でしょう。当時ここにあった本が、セレドにあった事はなんら不思議ではありませんわ」
 それに。エンジュさんは唇の端を持ち上げた。
「未知の領域に触れる快感、大人達に秘密を持つ禁忌を侵す熱狂、子供達はさぞや心を躍らせた事でしょうね。誰が止められた事でしょう」
 言いながら手にとって開いた本に、エンジュさんは声を荒げました。
「まぁ、この本。ザラキの気配を感じられるほどの怨念、死の文字で埋め尽くされていますわ! 憎い相手に掛ける呪いを研究していたノートなんですのね。 ぽいですわ! ぽい! なんて忌まわしい!」
 エンジュさんは、本を投げ捨てました!
 内海の中央にある大きい島影が見えるほどに、塔を登って参りました。ついに5つの副塔の屋根も見下ろす頃、私達は最上階に到着する事ができました。大きな扉をラチックさんとルミラさんがそれぞれに押し開けると、驚くべき光景が目に飛び込んできました。
 それは美しいステンドグラスによって万華鏡の内側に入り込んだような美しい空間。大理石の柱の奥に沈み込んだ闇は暗く最上階の広さは断言できませんが見える範囲だけでも相当な広さです。闇から浮かび上がるステンドグラスのテーマは、おそらく神話の時代のもの。創世の女神、7つの種族、9つの神話、それらが魔法陣の構造を含んで作られています。祭壇は淡い炎の光に金色に輝き、美しい若木に光る蝶が舞ったまま琥珀の中に封じられているのです。
 祭壇の手前の棚には、ドラゴン雄々しい形の角や様々な捧げ物が既に供えられていました。
 レンダーシアの様々な芸術でも目にした事がない形式美。魔力の流れを計算に入れた芸術を超越した装置。すごい。こんな素晴らしい芸術を、人の手が生み出すだなんて…!
 声を失っている私の横で上がったエンジュさんの感嘆の声に、数人の子供達が振り返りました。
 子供達が描いたのでしょう魔法陣は、後は術者の宣言があれば発動するところまで完成されていました。子供達は魔法陣を囲むように立ち、魔法陣の中心で私達から背を向けている白装束に桃色の外套の少女を見守っています。
「リズ!」
 フィーロさんが駆け出しました。
「リズ、こんな事はやめるんだ!」
 フィーロさんの行く手を遮るように、子供達でも年長の男女が立ちはだかります。彼らは敵意に燃える瞳で、フィーロさんを見るのです。
「邪魔をするな、腰抜けのフィーロ! 女王様はムッチーノが教えてくれた願いを叶える伝説の魔人を呼び出して、セレドの町を子供達がずっと楽しく暮らせる楽園に変えてくださるんだ!」
「そんなくだらない事をする為に…!」
 フィーロさんを男の子が突き飛ばす。
「女王様は俺達の事を考えてくださってるんだ! お前の言う大人達が押し付けてきた、勉強とかお祈りとか歯磨きとかの方がずっとずっとくだらないぞ!」
 突き飛ばされたフィーロさんが上半身を起こし、再度リゼロッタさんに訴えようとした時でした。
「本当に、貴方達の事を考えているの?」
 ミシュアさんの凜とした声が、空間を打ちました。子供達はお話を読んでくれる優しいお姉さんであるミシュアさんの声が、冷たく張り詰め、悪い事をした時に優しくも厳しく諭す大人のような声色であることに驚いて見たのです。
「ねぇ、皆は何を望んでいるの? 毎日、楽しく遊んでいるじゃない。毎日、美味しいお菓子ばかり食べているじゃない。勉強もお祈りも歯磨きも、大人の文句も、嫌な事は何一つないじゃない。これ以上、何を望むの?」
 誰も発言しない沈黙の中、ミシュアさんは言葉を紡ぎます。
「私の絵本の読み聞かせをせがむ子、エンジュさんがご飯を作る姿を見てお母さんのご飯が食べたいと思う子。ねぇ、本当は皆、お父さんとお母さんに会いたいんじゃないの? 大人達に戻ってきてほしいって思ってるんじゃないの?」
 すすり泣く声が小さく響き始めた。胸が痛くなる切ない旋律。
「大人は戻ってこないわ」
 旋律を遮り、冷たい言葉が子供達を打ち据えます。茶色い腰まである長い髪を翻し、桃色のリボンと外套、白いドレスをふわりと広がらせリゼロッタさんは私達に振り返ったのです。冷たい瞳は現実を見据え、悟りきった程に静かに光を湛えています。
「何時間、何日、何ヶ月、待ったと思ってるの? 何回泣き疲れた夜を過ごして、現実を突きつけられる朝を迎えて、自分を誤魔化して嘘をつく昼を、明日も明後日もこれからもずっとと不安に苛まれる夕暮れを、私達が何回やってきたと思ってるの? 子供はバカじゃないのよ。わかってるのよ。大人達が戻ってこない事を皆知ってるのよ」
 すすり泣いている子供は、もう耐えられないと大口を開け大泣きだした。お父さん、お母さん。パパ、ママ。両親を呼ぶ声が空間に反響し寄せては返し、終わる事のない音楽のように演奏される。そう。終わりそうもない。だって、大人達は帰ってこないんですから。
 リゼロッタさんは輝き始めた魔法陣の上で、言葉を紡いだ。
「悲しみを塗りつぶすには、より強い楽しさが必要なの。そう、時間を忘れる程に強いものが」
 ムッチーノ。そう声を掛けると、羊と人間が混ざった魔人は慇懃に畏まった。
「我が女王様の御心は、我が望み…」
 ムッチーノは角笛を取り出すと、琥珀の祭壇に向かう。高らかに鳴った角笛の不思議な振動が琥珀を揺らし、蝶を一匹捉えた琥珀が雫のように落ちていく。光る美しい文様の翅、今にも羽ばたきそうな美しい揚羽蝶を閉じ込めた琥珀はリゼロッタさんの手のひらにゆっくりと収まった。
「来れ! リンジャハルにて呼び出され、セレドの地に名のみ残されし魔人よ! 我がリゼロッタの呼び声に応え、我が願いを叶えよ!」
 床に描かれた魔法陣が輝き、儀式の間を竜巻のように魔力が渦を巻く。リゼロッタさんが発動させた召喚術を支援しようと、リンジャの塔の全ての機能が目覚めたのを感じたのです。5つの柱の5色の魔力が風となって舞い、柱一つ一つが計算された建築が魔力を増幅させてここに集中させる。
 ぴしりと、リゼロッタさんの手に持った琥珀にヒビが入る。
「リズ! 止めるんだ! リズー!」
 フィーロさんの叫びが掻き消えるほどの暴風は、子供達をもなぎ倒すのです。床に転がった子供達も風圧に柱の奥の闇に、次から次へと飲まれていく。私達もルミラさんやラチックさんが抱きとめてくれていなければ、儀式の間の壁に叩きつけられていたことでしょう。
 風が一点に集い、ふと霧散した。
『我が名はエンジャーラ…』
 誰もがハッと顔を上げたのです。そこには高い天井にも届かんほどの、巨大な巨大な魔人の姿があったのです。濃密な魔力の雲に身を委ねた体躯の良い男性は、口髭を指先で整え、体を飾る貴金属を星のように輝かせる。魔人はリゼロッタさんを見下ろし、朗々と響き渡る声で言ったのです。
『我を呼び出せし者よ。契約に従い、汝の願いを一つ、叶えてやろう』
 魔人を見上げ何かを言おうとしたリゼロッタさんに、エンジュさんが声を張り上げました。
「願いを言ってはいけませんわ、リゼロッタ! 捧げものと貴方の手の琥珀は、召喚に対する対価でしかない。何を対価に要求されるかも知らずに、願いを言うことで契約を交わしてはいけませんことよ!」
 世界の半分を貰うと誘いに乗り、闇の世界に突き落とされた勇者。恋心を抱いた少女を殺した隣国を滅ぼす為に、魔王と契約し魔物になってしまった王子様。神話の時代のお伽噺には、悪魔との契約で想像だにしない結末を迎える話は沢山あるのです。
 しかしエンジャーラは優しさの溢れる声で、その体躯を丸めてリゼロッタさんに話しかけるのです。
『召喚の際に『我が願いを叶えよ』と汝は言った。召喚に応じた段階で、我には汝の願いを叶える義務が生まれ新たな対価を求める事は出来ぬ』
 さぁ。エンジャーラが手を差し伸べる。
『我を呼び出せし者よ。願いを言うが良い』
「お願い…」
 フィーロさんの悲痛な声の先で、リゼロッタさんは顔を上げたのです。魔人を見上げ、震える体が声を紡ぐ。
「パパとママを…セレドの大人達を返して!」
 驚きのあまり息を忘れました。
 やっぱりリゼロッタさんも親が恋しかったんですね。失った日常、庇護してくれる存在、どんなに煩わしく思っても血の繋がった親から旅立つには幼すぎるのです。確かにリゼロッタさんは皆のことを考えてくれていた。強い魔人の願いを叶える力があれば、この絶望的な状況を覆せるかもしれないのです。
 魔人は微笑んだ。
『いやぁよ!』 
 魔人の声に呆然となった私達を後目に、愉快そうに笑い転げます。
『このエンジャーラ様が、お前のような生意気なクソガキの願いなぁんて叶えるわけないじゃぁん!』
「な! どういうこと! ムッチーノ!?」
 驚きと怒りに顔を険しくし、リゼロッタさんがムッチーノに振り返り詰問します。人と羊の魔人は慇懃に畏まりました。
「女王様の願いは我が願い。そう、我がご主人様の復活を果たしていただき、心から感謝申し上げます」
 そう言いながら蹄を鳴らしエンジャーラに並んだムッチーノは、角笛をぷーっと吹き鳴らしました。
「ご主人様の為でなかったら、お前みたいな高飛車な小娘の命令なんて誰が聞くもんか!」
『むふふ。よくやったわねぇ。ムッチーノ』
「騙したのね!」
 水掛け論です。そんなことよりも大きな危険が迫っていてこちらが圧倒的不利であることに、私達は気を引き締めなければいけませんでした。魔人が敵であり、ムッチーノはエンジャーラの配下であり実は敵である事実。こちらはこの広間に散り散りになった子供達を守りながら、打倒できなかったとしても撤退しなくてはなりません。
 私は体の影でリレミトの魔法陣を描く為に、筆とインクに手を伸ばしました。
『それにしても、ちょぉど良かったぁ!』
 上機嫌でエンジャーラは私達に向かって一方的に話しかける。
『復活したら、私の為のお城を作ろうとぉ思っていたのよぉ! ガキ共、光栄に思いなさぁい! お前達は私の僕として永遠にかしづくことができるのだからねぇ!』
「そんなの、嫌に決まってるでしょ!」
 リゼロッタさんの声を聞きながら、私はさっとフィーロさんの周りを一周する。彼を囲んで発動するのはマホカンタの魔方陣。鏡のような美しい反射をして輝く文字が、彼を足元から照らします。
 変化は悲鳴と共に現れました。儀式の間のあちこちから、甲高い悲鳴や泣き声が響き始めたのです。リゼロッタさんもエンジャーラが乗っている不気味な雲に足元から覆われ、全身が包み込まれていく!「リズ!」そう叫んだフィーロさんに彼女が顔を向けた時、泣きそうな救いを求める顔が瞬く間に雲に飲まれていきました。
 悲鳴が一つ一つ消えていく。不気味なほどの沈黙が、儀式の間に満ちていました。
『むっふっふふぅ。子供は素直でたぁいへん宜しいですねぇ』
 私達が周囲を巡らし警戒していると、ステンドグラスの光が届かない闇から足音が聞こえてきました。こつ、こつ、と大理石の床を蹴り、ゆっくりと向かってきます。闇から浮び出てきた者は、数え切れないほどのムッチーノでした。
 リゼロッタさんを覆っていた霧が霧散すれば、そこにもムッチーノ!
 おそらくもなにも、エンジャーラが魔法で子供達をムッチーノの姿に変えて操っているようです! ムッチーノになってしまった子供達の様子を満足そうに見たエンジャーラが、くつくつと笑います。
『でぇもぉ、小賢しい大人はいらないわぁ! 殺してしまいなさぁい!』
 子供達だったものが、一斉に私達に襲い掛かってきた!
「ピペ! 俺の武器 ありったけ ヘナトス!」
 ラチックさんの言葉に、私は魔法の札の束を鞄から取り出して慌てて捲ります。
 ありました! 攻撃力を下げる効果をもたらす、ヘナトスの魔法陣を描いた札です。攻撃力の高い魔物は体格も大きい者が多いので、隙あらば貼り付けて味方を助けようと思って描いたものです。
 裏に水と反応して粘着する糊が塗られていて、私は札の裏をぺろりと舐めてラチックさんの鬼の金棒に貼り付けます。全部で5枚。ラチックさんが本気で殴ってきても、きっとバケットでぱこんって叩かれるくらいにしか感じない事でしょう。
 迫り来るムッチーノ達に全力のなぎ払いをすると、ムッチーノ達は吹き飛ばされていきます。攻撃力が低いのでダメージはありませんが、物理的な力を失う訳ではありません。ラチックさんが鬼の金棒を振り抜けば、ムッチーノ達はよく跳ねる鞠のように吹っ飛び転がされていきます。
「なるほど! この方法なら子供達を傷つけたりしないな!」
 ルミラさんが大剣の背で押しのけながら、感心の笑みを浮かべます。あぁ、かっこいい! 戦の女神さまに愛されるお顔! スケッチブックに書く暇がないだなんて、なんて神様は意地悪なのでしょう!
「俺 皆 守る。エンジャーラ 攻撃 任す」
「おまかせあれですわ!」
 とん、とエンジュさんが魔導師の杖で地面を突けば、暴走魔法陣と魔力覚醒の光が迸る。ニヤリと笑った笑みは、立ち上る熱気にぐにゃりと歪みます。瞬く間に練りあがった魔力が、ぼっと音を立て大岩をも飲み込むような特大のメラゾーマになりました!
「さぁ! 私のメラゾーマ! とくと味わってくださいませ!」
 ムッチーノ達を飛び越えて迫るメラゾーマですが、エンジャーラの前に光り輝く鏡面が滑り込みます! 私は慌ててミシュアさんとフィーロさんを引っ張って駆け出しました!
「全員! 散れ!」
 エンジャーラの前に展開したのは魔法を反射するマホカンタ!
 エンジュさんも描いた魔法陣を捨てて駆け、彼女が立っていた場所は轟音を立てて反射したメラゾーマが着弾しました!床を舐める炎は、燃える物がないなら魔力が尽きれば燃え尽きてしまう事でしょう。炎の光により濃くなった闇の中から、ムッチーノ達が迫ってきます。
 ミシュアが護身用の剣を鞘ごと抜き、華麗な突きでムッチーノ達を退けます。涙を浮かべるフィーロさんを背後に庇い、盾で押しのけ凌ぎます。エンジュさんも威力を抑えたイオの爆風で、ムッチーノ達を退けるので精一杯で攻撃をする暇がなさそうです。ラチックさんはエンジャーラに攻撃したいルミラさんの援護で、こちらに向かうのを躊躇っています。
 後手に回った私達を嘲笑うかのように、高らかに角笛の音が響き渡りました! ムッチーノ達の角笛の大合唱は、ステンドグラスをビリビリと震わすほどに高らかに響いたのです。
『むっふっふふぅ。いい音色ですよ、可愛い僕達』
 エンジャーラが増大した魔力で輝き、その輝きが天井へふわっと広がっていく。光は甲高い音を立て、柵に柱に、壁に窓に、床に屋根になり、巨大な巨大な氷の建物が出来上がる。魔力の覚醒を促す調べで極限まで高められた魔力が生み出すマヒャドの力! この空間全体を押しつぶす力が解き放たれたら、誰一人助からない!
 私は大急ぎで地面に魔法陣を描く。
 たとえどんなに力持ちのルミラさんやラチックさんでも、こんな大きな質量のマヒャドを凌ぐ事は出来ないでしょう。エンジュさんのメラゾーマやイオナズンがどんなに強力でも、相殺するには準備も集中もできやしません。私やミシュアさんは真っ先に潰れてしまう!
 このマヒャドが発動したら、私達は敗北する!
 魔法のインクを浸した筆を二刀流しても、書くべきところがまっさらの大理石です。破滅の音は甲高く大きく響き始め、頭上の城は輝き冷気を雲のようにまとう。こんな時でなければ、神話にある天空を漂う城と見惚れられた事でしょう。
 相手のマヒャドが完成する方が、私の魔法陣が描き終わるよりも早い…! 手が、足りない!
 もう、なりふり構っている場合じゃないです! 私はリュックをずらし、ズボンを軽く動かします。もともと、丸い尻尾が生えているプクリポの服ですから、中にしまいこんで隠してある尻尾は服に開けられた穴を通ってしゅるりと出てきました。尻尾の先にインクをつけ、三刀流で魔法陣を書き込みます。
 このペースなら、間に合うかも!
 私が地面に必死で魔法陣を書いているのを察して、ミシュアさんとフィーロさんが守ってくれます。ミシュアさんが剣で、フィーロさんも盾を借りて迫り来るムッチーノに体当たりをして退けてくれます。
『さぁ、私の理想の城の礎になぁりなさぁい!』
 エンジャーラの高笑いと、ムッチーノ達の角笛の音と、放たれるマヒャドの音が響き渡る…!
 一際高い音を響かせ、城が不気味な振動を始めました。腹の底から揺さぶられる低音を響かせ、冷気を割り、城が落下してくるのです。
 誰かが悲鳴を上げた。
 誰かが雄叫びを上げた。
 敵の笑い声が、角笛の音が響き渡る。
 そんな中、私の描いた魔法陣が完成しました! 私は魔法陣に血を一滴垂らし願う。
 来てください。来てください! 私達を助けるために! 炎を纏う精霊獣、デアゴ!
 魔法陣から炎が舞い上がり、巨大な体が這い出してくる。その鮮やかな緑の鱗は炎に怪しく濡れるように輝き、頭部に生えた一本角は雄々しく、巨体を支える足は大木のように大きい。巨大な口から炎の吐息をゆっくりと吐き、その炎は全身を衣のように彩る。知的な瞳が為すべき事を促すように静かに見つめてくるので、私はさっと上を指差した。
 落下する氷の天井を見つめたデアゴは、大きく地面を掻く。大理石がぼっと燃え上り、深紅が輝く冷気を瞬く間に赤金に染め上げる! その巨体からは想像もできぬ程に軽々と飛び上がると、炎の弾となり城に体当たりする!
 あまりの熱に蒸発して生まれる水蒸気と、城から吹き荒れる冷気がぶつかり強い雨となって大理石を叩く。雨が加わり襲い来る冷気に炎が圧される中、熱気が真横から吹き荒れる!
「僭越ながら援護いたしましてよ!」
 エンジュさんのメラゾーマがデアゴ目かげて放たれる。炎の精霊の加護を受けたメラゾーマを吸い、デアゴが身にまとっている炎が膨れ上がった。
 ぴしり。
 小さな音が響いた次の瞬間、巨大な城が木っ端微塵に砕けたのです。
『な…』
 エンジャーラは城が砕けた驚きと、目の前にルミラさんが迫っていた事実に声を漏らした。ラチックさんが手を組み、跳ね上げたオーガのしなやかな体は誰もが想像だにしない高さにまで持ち上がったのです。
「貴様の敗因は大人は子供を守る者だということを、知らなかった事だ」
 大きく振り被り叩きつけられた一撃は、会心必中!
「子供達の気持ちを愚弄した事、冥府で悔いろ!」
 エンジャーラの悲鳴に雲と彼の体が霧散すると、ぽんと軽い音を立てて子供達が元に戻ったのです。泣き叫ぶ子供達をミシュアさんがあやしている間に、デアゴは消えていていました。ムッチーノの姿は、もうどこにもありませんでした。

 □ ■ □ ■

 無心に祈りを捧げる子供達で静まり返っていたダーマ神殿の礼拝堂に、高らかに夕刻を告げる鐘の音が響き渡ります。
 高く低く、遠くへ遠くへと波のようにセレドット山脈地帯に届く音色を聴いて懐かしいと思う者も多いかもしれません。大人達がいなくなって暫く絶えていた音は、ルミラさんが復活させてくださいました。ルミラさん曰く、鐘楼から見る夕焼けが大変美しいとの事でした。
 鐘の音の隙間を、軽快な足音が駆けてきます。
 次の瞬間、やや乱暴に開け放たれる扉。なだれ込むように差す夕焼けの光を、仁王立の姿勢で切り取りながらエンジュさんが高らかに言いました。
「さぁ、皆さん! 晩御飯の支度を致します事よ! 怪我人病人見張り役以外のおサボりは、デザート抜きの刑に処しますわ! さぁさぁ、栄養が偏っては成長に差し支えますのよ! 参りましてよ!」
 子供達がエンジュさんの言葉に笑顔で応じて駆け出しました。途中でルミラさんも加わり、子供達は大人を囲んでセレドの町へ向かい出す。夕焼けの光、子供達の希望の笑顔、子供達を支えようとする大人達の善意、素敵な構図で私のスケッチブックが煙を上げます。
 その後ろ姿を見ているのは私達だけではありません。
「昔迎えに来てくれた親達はもういないけれど、今はエンジュさんやルミラさんがいる」
 フィーロさんの横でリゼロッタさんも、ちょっと不貞腐れたような表情をしてみせます。
「お二人の仲間にも協力してもらって、子供達でも町として運営できるよう勉強させてくださるみたいです」
 子供達に囲まれ先を行く二人は、ダーマやセレドの大人達がいなくなった調査の為にまだセレドに残ります。澄み切った青空と美しい花畑そして舞う蝶の美しい絵を描き上げた私は、旅立たねばなりませんでした。次の宿場町で絵を引き渡す予定なのです。
 ここに暮らす大人達がいない以上、子供達だけで生きていくしかない。大人の力がどうしても必要な時に借りれるよう、大人達が定期的に訪れてくれるように考えたのはエンジュさんでした。それでもエンジュさんはフィーロに算術を教えて、バザーの料金システムなどを教えてくれている。ルミラさんは仲間達に手紙を出し、宿屋のコンシェルジュの仕事や郵便の預かりを教えてくれるよう手配してくれている。
「最終的には子供達だけで町が運営できるよう、頑張りますわ」
 頑張ってね。頑張れ。頑張って下さい。
 異口同音の励ましの言葉を受けて、フィーロさんとリゼロッタさんは力強く頷きました。その表情は夕暮れの光を浴びてなお、明日への希望を約束してくれるような頼もしい微笑みでした。いつか、セレドの町がかつての賑わいを取り戻す日がくると思わされます。
大人達を失った子供達は前を向いて歩き出したのです。