死ぬ瞬間の苦しみと生き続ける苦しみと - 後編 -

 ミシュアさんは護身用のレイピアを握りしめ、盾を構えながら周囲を注意深く見ている。そこは煉瓦が敷き詰められた通路で、等間隔にランプの明かりが灯っている。ちらちらと黄金色の砂を反射させながら、奥に潜む闇をあんぐりと開けた獣の口みたいに暗く得体の知れないものにしている。
 旅人のブーツの底が砂を擦る音を響かせながら、ミシュアさんは私に言う。
「セラフィは物知りなのね。こんな入り口があるなんて、知らなかったわ」
 えへへ。ものしり。私はにこりと微笑みながら先を行く。
 この通路はアラハギーロの東の砂漠から、人々が住まう場所に出ることなく闘技場の真下に直接通じている。今は魔物使いが心通わせた魔物が出入りするアラハギーロって言われるけど、捕らえた魔物を戦わせる催しが始まりだったんだって。その頃の名残、人々の不安を取り除く一つの方法として、この魔物専用の通路が残っている。…って、誰かが言っていたんだけど、誰だっけ? とても大切な人だったんだけどなぁ。
「見張り のした 大丈夫か?」
「帰りまで寝ててくれないと困るけど、たぶん大丈夫!」
 魔物闘技場の真下に出られたからって、分厚い鉄格子で隔離されている区域だ。泥棒が入ったって、なぁんもできないだろう。でも、王国の施設だからか、通路の入り口には見張りの兵士がいた。
 ラチックさんに気絶してもらって、魔物の住処である砂漠地帯に近いからピペさんが聖水で結界を描いてくれている。そんな手厚い待遇の兵士さんを思い出しているのか、強面のラチックさんはサングラスをぎらりを光らせて見下ろしてくる。
「タイミング よくない グランゼドーラの兵士 ちょうど 来てる 援軍に 来られたら 手こずる」
 もー、心配性だなぁ、ラチックさんは。私が口を開き掛ける前に、ミシュアさんが言う。赤いエプロンドレスがふわりと広がって、小麦色の髪が組んだ手の上にしなやかに掛かる。
「むしろベルムドさんがグランゼドーラの兵士の応待に、出向かなくちゃいけないでしょ? こちらのことに目が向けられない今が、きっとチャンスなのよ」
 そうそう。そう言いたげにミシュアさんの肩にしがみ付いている、ピペさんが頷いた。昨日から散々話し合ってることなのに、ラチックさんったら忘れんぼ! ラチックさんは滴る汗をバンダナで拭って、スキンヘッドの頭に巻きつけると視線を闇に向けた。
「声 聞こえる」
 ピペさんもミシュアさんの肩にぎゅっとしがみつく。ラチックさんは鬼の金棒を担いで一度だけ後ろを振り返り、ミシュアさんはごくりと唾を飲み込んだようだった。そんな皆と視線を合わせ、私は小さく頷いた。
 たくさんの魔物達の声がひしめき合う闇は、魔物達を閉じ込める広大な牢屋だった。通路と牢獄を仕切る鉄格子が黒々と焚き火の火に照らし出されていたが、その奥に閉じ込められている魔物は一匹もいなかった。アラハギーロの宿屋で一番大きな部屋くらいのサイズの牢屋は、柔らかい布団や枕や水飲み用の瓶が置かれているだけだ。
 魔物達は牢屋から出ていた。
 牢屋の真ん中の通路には焚き火が焚かれていて、そこには美味しそうな匂いを漂わす料理が掛かっている。魔物達は焚き火を囲み、料理を口にしながら、談話したり、歌を歌ったりしているのだ。まるで、人間のように振る舞う魔物達の姿に呆然とする私達に、リュートを爪弾く影が振り返った。
「やぁ。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだよー。帰りなー」
 そう間延びした声は、あの白いキラーパンサーを連れていた、ウェディというレンダーシアの外の大陸の種族だってすぐわかった。目が光に慣れてくると、夜のような深い藍色の長い髪や、垂れ気味な瞳を細めて優しげに微笑む顔が浮かんでくる。
 ラチックさんが驚いて、構えた武器の先を泳がせながら呟く。
「魔物 出てる 危なく ないのか?」
「あぁ、大丈夫だよー。理性が保てている子は出してあげてるんだー。無理な子は…中にいるけど」
 そう、確かイサークさんっていう人は視線を奥へ向ける。唯一鍵が閉まっている牢屋には、低いうなり声をあげる魔物達の姿が見えた。敵意にギラギラと光る瞳、剥き出しの牙から涎が糸を引いて石畳に落ちて行く。中には私達を威嚇するように吠えて、があんと鉄格子に体当たりした子もいる。
 イサークさんの横に置かれた帽子が、ぱかりと開いた。
『あんた達、ベルムドの許可があって来た連中じゃないね。しかも、うち一人はベルムドが魔物にとどめを刺すのを嫌うセラフィときたもんだ。まさかとは思うけど、魔物達を逃しにきたんじゃないだろうね?』
 帽子の声は不思議な声。頭に意味だけが響いてきて、声自体はあんまりはっきり聞こえない。よくわからなくて不思議すぎて、頭が帽子の声を宿の前の噂好きのおばさんの声にしてくれた。
 私が力強く頷いた。
「そうだよ! だって、魔物達が可哀想じゃない!」
「それはどうだろう」
 魔物達が静まりかえる中、そうイサークさんが低い声で呟いた。イサークさんはちらりと視線を向けると、白いキラーパンサーが小さく首を縦に振った。砂漠の夜気のような冷たく暗い不安が、静寂から染み出して胸の中に流れ込んでくる。
「僕の名前はイサーク。君達は僕の話を聞いた上で、逃がすかどうか決めるべきだね」
 彼は深々とトンブレロソンブレロをかぶり、物悲しい音色を紡ぎながら訥々と語り始めた。今までのアラハギーロが終わり、今のアラハギーロが始まった物語を…。
 今までのアラハギーロが終わった日に、見張りは黄金の砂漠を埋め尽くす程の魔物の大群を見たという。でも戦いがどうなったかは誰にもわからない。調査団がここに到着した時には、『戦争』と呼ばれた魔物達とアラハギーロの戦いは終わっていた。
 分かったことは、ただ一つ。魔物と人間が入れ替わってしまったということだけ。
「魔物と人間が入れ替わる?」
 ミシュアさんが首をかしげた。その場の誰もがピンと来なかったみたい。
 人間と魔物って違いすぎる。姿形は当然だし、生きている場所も常識も違う。もしも、モシャスで化けたとしても、自分が魔物か人間かを違えたりなんてしないはずだ。人間は魔物に化けても人間だし、魔物は人間に化けても魔物に変わりはない。
 私達と同じ感想を、イサークさんも持ったことがあるんだろう。でも、彼はしっかりと首を横に振る。
「魂は宿っている肉体の形に、徐々に形作られて行く。赤子の時は光る玉みたいなものだけれど、己を知り、年齢を重ねると魂は生きている己の姿になっていくんだ。逆に魂が思い描く姿に、体は形作られて行く。力強くありたいと願って筋トレしたら、ムキムキになるみたいにね。魂と肉体は密接な関係があるんだ。でも、魂が変容して姿が変わること、姿が変わって魂が壊れることが…稀にある」
 ピペさんがピンときたみたいで、紙に鉛筆を走らす。ホイミスライムと人間の間に矢印が書き込まれた絵を覗き込んだイサークさんが頷いた。
「人に憧れ人と旅したホイミスライムがいた。己の憎しみに魔物になった少女がいた。幼馴染の死を契機に悪魔に魂を売った王子がいた。人と暮らし続けたがために誰よりも人らしくなった機械がいた。伝説に伝わるそれは、本当の物語だ」
 イサークさんはとても悲しそうな声で、周囲の魔物達を見回して言う。
「ここにいる魔物達は、元は人間なんだ」
 魔物達はそうだと言わんばかりに悲嘆にくれた声をあげた。人の言葉ではない魔物達の悲しげな声が、剥き出しの石畳や石壁に反射して、光が届かない闇に吸い込まれて消えて行く。
「彼らは人の記憶を留めたまま、魔物の姿に無理やり変えられてしまった。魔物の姿と人間の魂という合致しない有様が、彼らを苦しめている。人としての理性が魔物の野生に食い尽くされる恐怖を抱え、彼らはここに留まっているんだ」
「どういうこと? 魔物達は自分からここにいるの? 殺されるかもしれないのに?」
 ミシュアさんの疑問を、イサークさんが肯定する。
『勿論、ベルムドに殺されるのを恐れて逃げ出した奴もいたよ。でも理性を失って魔物になってしまい、中途半端に人間の記憶があって人間に対して非常に狡猾な魔物として被害を出し討伐されちまったのさ。討伐されずに連れ戻された者のほとんどは、あぁなったよ』
 あぁなった。そう帽子が促すように身を捩った先には、鉄格子越しの爛々と光る瞳達。
 でも、おかしい。あの白いキラーパンサーのチョメは、イサークさんが連れてきたはずだ。ジャイラ密林で見つけたって言ってた。
「でも、全部じゃないんでしょ?」
 まぁね。私の言葉に、イサークさんは苦笑いを浮かべた。
「並大抵の精神力じゃ、自然の中で理性を保ち続けることは難しいよ。でも当然、例外はいる。でも所詮例外で、殆どが例外になることは出来ない。ここは人工物の中であり、彼らを人として扱う僕がいる。人として己を認識できているから、かろうじて理性が保てているんだ。出て行けば、どうなるかは神のみぞ知る…というところだよ」
 イサークさんは力強い瞳で、私を見た。
「それでも、君は連れて行くかい?」
「連れて行く」
 私がはっきりと宣言すると、イサークさんが目を見開いた。
「確かに外に連れて行ったら、魔物達には恐ろしい現実があるのかもしれない。でも、『絶対』じゃない。ここに居て、ベルムドさんに殺される方が『絶対』なんだよ。私は生きて欲しい。どんな未来かは、生きてみないとわからないもの…!」
 私はこちらを見る魔物達に言い放つ。
「そして、それを決めるのは私でもイサークさんでもない。貴方達よ…!」
 ある者は仰け反って雄叫びのような声をあげ、ある者は黙って俯いて考え込んでいる。互いの体を突き、お前はどうするのかと確かめるように顔を覗き込む。行くべきか残るべきか、迷い戸惑う気持ちが伝わってくる。そりゃあそうだ。生きるか死ぬか、今決めろって言われて簡単に決められないよ。
 魔物達の声が静まってきた時、冷たい低い声が響いた。
「で、逃げる者は誰だ?」
 振り返ると、そこには鎧を着込んだ兵士達が立っていた。誰もが剣を抜きはなち、盾を構えてそこにいる。兵士達の先頭に立っていたフルアーマーの男の瞳が、赤く光ったように見えた。底冷えするような不気味な静寂が、とても恐ろしいことが起きると私に告げる。
 兵士は笑った。頭をまるまる覆う兜の中で声が反響するのか、妙にぐぐもっている。
「丁度良かった。ベルムドが未だに魔物達を処分できずに手間取っているようで、我々グランゼドーラも同盟国ゆえに協力できることはないかと思っていたのだ。逃げる者は人民に危害を加える前に殺害したと、正当な理由ができる」
 だが。兵士はすらりと剣を抜き放って突きつける。
「このグランゼドーラの兵長バスラー、不穏の兆しを見逃すことはせぬ…!」
 その言葉が放たれた瞬間、空間の空気が一瞬にして冷え切り巨大なとげウニが降り注いだ! 魔法の輝きを見れば、イサークさんが高らかにマヒャドの呪文を歌い上げていて、今も巨大なマンタが兵士達の上に落下する。私の視線に気がついた彼は、力強い笑みを浮かべて軽くウインクを投げた。
 私は小さく頷いて、奥へ向かって駆け出した!
「逃げよう!」
 魔物達が閉じ込められている地下から地上に出る方法は二つ。一つは私達が入ってきた、魔物搬送通路である地下道を通ってくる道。もう一つが闘技場に上がるエレベータに乗って地上に出て、アラハギーロの街中を突っ切って逃げる方法だ。グランゼドーラの兵士達が地下道への道を塞いでいる今、逃げ道はたった一つしかない!
 白いキラーパンサーが颯爽と駆けて行く。行き慣れた場所のように、その白い影は真っ直ぐに目的地であるエレベーターに向かっていた。
 魔物達が全員入ってきたのを確認してレバーに手を掛けたら、ラチックさんが私を突き飛ばした! ちょめの毛皮に埋まる形になった私が顔を上げた時には、まるでギロチンみたいに鉄格子が落ちて、頭上の鎖がぎしぎしと軋む音が響く。魔物闘技場に魔物達を送り出すエレベーターは外からレバーを引かなければ動かない。誰かが残って動かさなくちゃいけなかったし、その役目は私の筈だったのに…!
 振り返った時には床が動き出し、いつも見上げるラチックさんを見下ろす形になる。さらにピペちゃんや、ミシュアさんも鉄格子の向こうにいる。彼女らはテキパキと、山賊ウルフの着ぐるみやナスビーラの着ぐるみを着だしたのだ。もしかして、最初から囮をするつもりだったの!?
 私が床にへばり付いて言い募ろうとしたけど、ミシュアさんは白い歯を見せて笑った。
「大丈夫よ! 外で落ち合いましょう!」
 床が迫り上がり、地下階が見えなくなると真っ暗になる。ごうんごうんと唸る装置と、鎖の軋む音が私達の周りで不安を急き立てる。誰も何も言わず闇の中で天井を見上げていると、ふと、線のように光が差し込んだ。徐々に太くなり暑い日差しになって私達を容赦なく炙り、暗闇に慣れていた視界を眩ませる。乾いた砂漠の空気がエレベーターに残っていた黴臭さを払うと、がらがらと鉄格子が上がった。歓声が響き渡り、満員御礼のモンスター闘技場がそこにあった!
 ベルムド! ベルムド! ベルムド!
 コールが響き渡る中で、舞台の真ん中に巨大な魔物の姿がある。それは見たこともない魔物だった。身長が高く魔物が立ち上がるだけで私達の足元まで影を投げかけてくるだけじゃなくて、広げた翼は薄暗い空を覆い隠すほどに大きい。筋肉隆々の体は硬質的な光沢で、爪はナイフにように鋭く尖り、額の角も耳まで裂けた口にずらりと並んだ牙も攻撃的なのを隠しもしない。そして深紅に光る瞳が、にたりと笑う。そう、私達を殺そうとするのが楽しみだって笑うんだ。
「に、逃げなきゃ!」
 そう周囲を見回しても、観客席まで高い壁がそそり立ち観客が埋め尽くしている。ぱたぱたと浮かび上がったドラキーに、観客は棒を突きつけ叩き落とそうとした。これじゃあ、上がれたとしても観客に攻撃されちゃう!
 どうして、みんな、誰かが苦しむことがそんなに楽しいの?
 命が死ぬのを見るのが、そんなに面白いものなの?
 おかしいよ。…そんなのおかしいよ!
 ものすごい大きなものが突っ込んでくる衝撃に、地面が揺れて立っていられない。派手に尻餅をついて痛い体を支えて見回すと、一緒に逃げてきた魔物達をあの巨大でおっかない魔物が踏みつけていた。その巨大な足に踏み潰された魔物が、うっすらと見た先にはうつ伏せに倒れるリリパットの姿がある。それを見て、魔物はふぅと息を吐いて瞳から光が失われる。
「!」
 大きな歓声が響きわたったのを、遠くに聞いた。
 私は強い感情が電撃のように走り抜けるのを感じた。死んだ。死んでしまった。まだ、ザオが間に合う。そうだ、回復しなきゃ。助けを求めてる。早く。早く行かなきゃ!
 もつれる足にぐらつく地面。ほんの少し離れたところに向かうのに、両手足を地面に擦って這いずるように進む。歓声が頭の上から降ってきて、喜びの声が雹のように頭に当たる。
 視界が滲んだ。涙が出る。
 皆が誰かが傷つくことに喜んでいるのが辛い。あんなに苦しんで、死んで行くのを見るのが楽しいだなんて変だ。昔はそんな事なかった。誰かが傷つけば、皆『助けてあげて』と呼びにきてくれていたじゃない。
 どうしてすぐに行けないんだろう。どんなデコボコした道も、私は全く苦に感じなかった。まるで空中を滑るように、怪我をした相手の横にたどり着けたっていうのに、どうして進めないんだろう。
 大きな魔物は一緒に逃げてきた魔物達を次々と攻撃している。その四肢が地面を蹴れば、地面はヒビ入って大砲の玉のように巨体が宙を舞った。瞬きした時には着地して、鋭い牙や爪が魔物独特の匂いを持った血しぶきを砂塵の上に撒いた。歓声が弾ける。
 もうわからない。分かるのは、リリパットにもう少しでたどり着く所だって事…。
 ボロボロのフードの下にある、緑の瞼は薄く開かれ光のない瞳がガラス玉のように嵌っている。息はない。私は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「待って。待ってて。今、迎えに行くからね」
 ザオを唱える。
 歓声はまるで暴風の砂嵐のように響き渡っていた。轟々と響き渡り、争う声が、傷つく悲鳴が、時々つん裂くように耳に届く。
『駄目です! 彼らを盾にすることはできない!』
『駄目だ! こいつらを盾にしなければ、民を守ることはできない!』
 視界の悪い砂嵐の中で、争う男の人達の声がはっきりと聞こえた。二人共武具を身につけているんだろう。砂塵に浮かんだ影はゴツゴツとしていて、武器らしい長い何かの影も見えた。彼らは向かい合い、まるで殺し合っているかのような剣幕でがなり立てている。
『彼らも命です! 人と形が違うからと軽んじられるものではない!』
 片方が腹を抱えて笑ったんだろう。砂塵の奥の人影が一人、屈んで体を震わせているようだ。
『平等とでも言いたいのか! 魔物と人間が! 笑わせるなベルムド! 魔物の命など砂漠の砂と同じ! アラハギーロを守る為の盾となる価値があるだけ、光栄と思え!』
 ベルムド? 影の片方がベルムドさんなの?
 だとしたら、どうして? 人と魔物が平等だと言っている人が、どうして娯楽の末に魔物を殺すの?
 微動だにしなかった人影の後ろに、さらに大きな人影が立った。誰だろう? 近づこうとした私の手を、誰かが掴んだ。フードを被った弓兵の男の人が私を見下ろしている。その黒い瞳に映ったのは、青と黄色のホイミスライム。弓兵の人が握った私の手は、黄色い触手だった。そうだ、私はホイミスライムだったんだ…!
 『魔物と人間が入れ替わってしまった』イサークさんの言葉が蘇る。人間が魔物になった時、魔物も人間になってしまったんだ。このアラハギーロの民は、皆、元々魔物だったんだ…!
 びっくりした拍子に意識が引き戻される。目の前のリリパットは、虫の息だけど息を吹き返したらしい。
 キラーパンサーのチョメが巨大な魔物から逃げ回っている。どんなに俊敏なキラーパンサーでも、息が上がり足が縺れてきていて気力で逃げ回っているのが目に見えて分かる。ついに、爪がわき腹に軽くかすり、血しぶきが純白の毛皮を汚した。
 ベルムド! ベルムド! ベルムド!
 歓声が響き渡る陽炎の中で、誰も動こうとしない。逃げようとして観客に地面に叩きつけられた飛べる魔物達も、巨大な魔物の圧倒的な力の前に瀕死の魔物達も、ずっと逃げ回っていたチョメでさえ。
 もう、誰も逃げない。逃げられない。巨大な魔物は悠然とチョメの前に進み出ていた。
 ベルムド! ベルムド! ベルムド!
 私は駆けた。逃げられないならば、もう賭けしかない。
 巨大な魔物がチョメの前で足を止めた。チョメは上半身を起こしたけど、足を痛めたのか動けずにいる。
 私は走る。昔は空を漂うだけでそんなに早く進めなかったけれど、今は立派な二本の足がある。それを使えば、私は大好きな人と同じくらいの速さで進むことができる。流石にキラーパンサーみたいな速度は出ないけれど、それでも昔の私よりもずっとずっと早く進めるはずだ。
 巨大な魔物が爪を振り上げる。ぎらりとキツイ日差しの中で、抜き身の剣のように光った白い爪には一緒に逃げた魔物達の血がこびりついている。その白に私が走る姿が映り込む。
 靴底がざざっと地面の上を滑った。目の前に白い爪の尖った先がある。私は間に合ったんだ!
「やめて!」
 力一杯両手を広げて、私はチョメの前に立ちはだかった!
「もうやめて!」
 この時、私は初めて巨大な魔物の姿をしっかりと見た。魔物達の血と砂塵に薄汚れた体毛は捩くれて手入れがされていないとわかったし、体毛に覆われていない顔は骸骨の上に皮膚が乗ったように痩せこけていた。眼窩のくぼみの奥に赤い双眸が光っていたが、巨大な影の中で蝋燭の灯火よりも頼りない光でしかない。目の前でピタリと止まった爪は、かすかに震えていた。
『退け』
 あまりに恐ろしい声で、体が思わず震えた。でも、逃げるだなんて選択肢なんかない。どこにも、逃げ場なんかないんだ!
「退かない! 命を救えず死んで行くのを見て生きて行くのなら、死んだ方がいい!」
『死んだ方がいい?』
 巨大な魔物は戸惑うような声を漏らし、私の前に迫った爪で背後のチョメを示したようだ。
『その魔物達は死んで当然の存在』
「死んでいい命なんかない!」
 目から涙を零しながら言い放った反論に、巨大な魔物は言葉を詰まらせた。
「私は…私は皆を癒す為に生まれてきたの! 傷ついたら、ホイミ。瀕死だったら、ザオ。癒しの雨を降らせて、ホッとした笑顔を見るのが何よりも好きなの! それなのに今は、私の存在が取り上げられて…死んだ方がマシってくらい苦しんでる!」
『そんなはずは……』
「貴方が彼らを殺すなら、私を最初に殺してよ! 私をこれ以上苦しめないで!」
 巨大な魔物が後ずさった。
 ふわりと冷たい空気が、停滞した空間に流れ込んだ次の瞬間。強力な魔力を伴った光が迫る。そう、私に向かって…
 私の背から白い影が飛び出そうとして、黒い手がそれを押しのけた。
 目一杯に迫った光は、黒に遮られ
 すごく。すごく嫌な音が目の前に響いた。
 地面に崩れ落ち、どぉんと音を立てて倒れたのは巨大な魔物だった。そんな魔物を見下ろすように、銀色の鎧を着込んだ兵士が進み出た。彼は確か、闘技場の地下で出会ったグランゼドーラのバスラーって名前の兵士だったはず…。私がぼんやりする頭で見つめていると、バスラーは倒れた魔物を見下ろして吐き捨てる。
「我らが勇者姫でも苦戦を強いられそうな、恐ろしい魔物を討伐することができて良かった。逃げる魔物の姿もないことだし、この国から魔物の脅威が取り除かれたことを同盟国として嬉しく思う。後はこの国の兵士でも対処できるだろう」
 そう背を向けた時、フルアーマーの隙間に口元が見えた。その口元が笑っているような気がした。
 兵士達が悠然と去って行くのを、観客達も呆然と見送るしかなかった。一体どうなっているんだろうと戸惑う人々が舞台に視線を戻すと、誰もが驚いた声をあげた。
 アラハギーロの王、ベルムドさんが血溜まりの上に立っている。ベルムドさんが押さえている手元からはどくどくと絶え間なく血が流れて、血溜まりに真紅の王冠を作る。
「ベルムドさん!」
 私が思わずホイミを掛ける。でも、おかしい。血が止まらない。
 ベルムドさんは苦しむ様子もなく、いつもの厳しい表情で傷口を見て呟いた。
「私は…間違っていた…のだな…」
 私はふと体から銀色の糸が出ているのに気がついた。その糸が、目の前のベルムドさんに繋がっている。
「HPリンクという技だ。自分の生命力を、生徒達と分かち合うことができる。だが、私の場合は一方的に魔物達に生命力を譲渡する使い方をしているのだ。慣れぬ人の営みで、生命力が弱まることがあるからな。だから、いくら私に回復呪文を施しても、力はこの糸を伝って傷ついた生徒達に流れ込む事だろう」
 声の主を見上げれば、そこにはベルムドさんしかいない。ベルムドさんは気恥ずかしそうに口元を持ち上げてみせた。その暖かい眼差しを、私は覚えている。大好きな人が尊敬してお兄さんのように慕っていた人の眼差しそのものだ。
 私は涙が溢れそうになった。
 私を庇おうとして飛び出したチョメを押しのけ、バスラーの攻撃を受けたのは間違い無くベルムドさんだ。あの巨大な魔物は弱っていた。間近でみるベルムドさんも、肌から血の気が失せ鼻が痩せて見えた。そして、今も絶え間なく流れ出る血に、死んでしまうと分かるんだ。
 助けたい。でも、力が銀の糸に向かって流れ出てしまう。
 その流れを、どうにかしないと…!
 『ベルムドさんがあんな大怪我を!』『どうして回復呪文を施してやらないんだ!』『誰か!ベルムドさんを助けてやってよ!』『この銀の糸はなんだろう?』『あったかい力が流れてくるね』人々の声が聞こえる。
「ベルムドさん! 皆、貴方が助かって欲しいって願ってる! だから、死のうとしないで!」
 私は力一杯力を振り絞ってベホマラーを掛ける。空から雨粒のように回復の光が虹を描いて降り注ぎ、人々に染み込んで行く。人々から溢れた治癒の力が、銀の糸を遡って行く。人々のベルムドさんを心配する気持ちが、銀の糸を遡る力を後押しする。まるで光の波がベルムドさんに向かって寄せるような光景だった。
 けれど、その銀の糸がぷつりぷつりと切れて行く。
「私の愛する生徒達よ」
 ベルムドさんが眩しそうに目を細めて言った。彼が広げた手から引き千切った銀の糸が、風にキラキラと舞い上がって溶けて行く。
「君たちに出会えた事が、私の人生の幸せだ」
 ありがとう。その言葉が吐息になって、ベルムドさんは血溜まりの中に倒れ二度と立ち上がることはなかった。