道の正しさなんて誰も教えてくれない - 前編 -

 アラハギーロ地方は砂漠ばくばく。一つ岩山を超えた向こうも見渡す限りの砂漠で、誰もが『あぁ、砂漠ばっかりで何にもないなぁ』と思うくらいなーんもない。ひたすらに昼は暑くて自前の毛皮がびっしょりになるし、夜は寒くて汗が冷えて凍えちゃいそうだぜー。冥府でもここまで酷くなかったぞー。
 滅多に人の出入りのないアラハギーロ王国から東の砂漠を、皆並んで進む。危険な流砂を避け、強い日差しに焼かれ夜の冷気に凍え、時に魔物と戦いながらも、皆は黙々と進んだ。死者の葬列のように静かな彼らに、自然は砂嵐や足場の悪い砂地でおもてなし。全然嬉しかねーよ。皆、文句言おうぜ。
 こんな大変な日々が何日続いたか、もう分からなくなってきたある日、先頭がようやく止まった。
 東の砂漠の果ての一角。そこは想像もできない昔に砂漠に飲まれてしまったのだろう、集落らしき場所だった。砂を払うと家の基礎らしい石が積み重なったものが現れる。その集落の中心に聳える枯れ木の下に、井戸らしい物があった。何人かで梯子を下ろし、身軽で元気そうな奴が井戸の中に体を滑り込ます。調査の結果を聞いた誰かが、しゃがれた声で言った。
「中は想像以上に快適じゃ。休憩は中で行うとしよう」
 一人一人、目配せをしながら順番を譲り合い、ゆっくり井戸の中に消えていく。井戸は崩れかかっていて、地下洞窟が広がっている。『地下水脈が枯れた跡だろう』と誰かが言った声が、奥の暗闇に飲み込まれていった。
「あぁ! 干し魚になるかと思った! ゴブル砂漠を渡るのは自殺行為ってよく言われてるけど、アラハギーロの砂漠も追記すべきだと僕は思うなぁー!」
 フードを脱ぎ水を煽ったイサークの兄ちゃんが元気そうに言った。ウェディ族は海と共に生きる種族であるからか、砂漠超えは苦手ともっぱらの噂だ。噂は本当を通り越して、マジで大丈夫かって心配になった兄ちゃんにオイラは明るく言った。
「イサークの兄ちゃんが元気になってよかったー! 砂漠歩いてる時は、腐った死体って感じだったもん。でも、腐ってるは失礼だな。香ばしい焼き魚の匂いがしてたもん。香ばしい死体。ぷくくっ!」
「ルアっちー。ちょっと失礼じゃないー?」
 兄ちゃん、わざとらしいふくれっ面。もう、本調子って感じだな! オイラは嬉しくなってにっこり!
 ここが休憩場所になるってことで、一緒に砂漠を越えてきた仲間達が、それぞれに防砂用の外套やフードを外し始めた。次々に現れたのは魔物達!
 オイラは又聞きしただけなんだけど、アラハギーロ王国は人間と魔物が入れ替わっちゃった事件が起きてたらしい。モシャスみたいな簡単な魔法の類ではなく、本質そのものを歪める禁術らしくって、人間と魔物をそれぞれ元の姿に戻す手立ては見つかっていないらしい。
 つまり、この魔物達は、もともとアラハギーロの人間達なんだ。
 それぞれに疲れはあるものの、元気そうだ。わかめ王様になってしまった人は、完全に乾燥してしまったらしくリリパットが水をかけて戻してる。『水!アラハギーロのオアシスの水!生き返るわい!』そう乾燥わかめが言ってて、オイラ思わず大爆笑だ!
 まだまだご飯ができるまでに時間が掛かるし、水でも探しに行ってこよう!
 オイラ、氷結魔法が使えるんだけど、砂漠地帯でヒャドの呪文って全然使えないんだー。その空間の水分を凍らせて放つ魔法だから、カラッカラでアチアチの砂漠にゃ凍らすものがない。それに砂漠は炎や大地の精霊の力が強いから、水の精霊の助力も得られないんだって。うーん。まぁ、バカなオイラも魔法が使えないって分かりゃあ、使わないさ!
 とにかく、砂漠の旅では水は大事! 洞窟の中なら地上に比べれば水もありそうな気がするし!
 オイラは耳を澄まし、匂いに集中して先を歩く。オイラの水探しに、仲間のセラフィの姉ちゃんとカレヴァンの兄貴も一緒に来てくれた。
 オイラが無遠慮に狭い通路に飛び込んで、ジェイドフレアとばったりして甲高い悲鳴を互いにあげて逃げたりするもんだからカレヴァンの兄貴がぴったりオイラの後ろに付いてくるんだ。カレヴァンの兄貴は白い毛皮に黒斑のキラーパンサー。がおがおされたら、オイラちびっちゃうかも。
 それなりに奥に進んで来たけど、枯れた地下水脈が洞窟になった空間は、水の代わりに砂ばっかり。滝のように砂が流れ、水面のように砂が一面に広がって、水のみの字も見つからねーや。
「ねぇ、ルアム君は止めようと思わなかったの?」
 くるりと振り返ると、セラフィの姉ちゃんが不安げな顔でオイラを見ていた。
「ガノさんの計画。怖いと思わないの?」
 あぁ。オイラは何のことだか、ようやく分かった。
 オイラと相棒がメルサンディの事件を解決し、グランゼドーラの玄関口とも言える三門という場所に戻って来た。そこで調査団長であるライヴァスの兄ちゃんから声が掛かったんだ。アラハギーロの調査をしているガノのじっちゃんから、応援要請の依頼が来ているんだって。
 暇だから来てみたら、ビックリするような計画を聞かしてくれたんだ。
 今、オイラ達が立っているレンダーシアとは別に、もう一つレンダーシアがあるんじゃないかって話。でもそれは、オイラも薄々は感じてた。二つのメルサンディを渡り歩いたんだからな。ラスカ達のいる世界には、アイリの姉ちゃんはいなかった。逆にアイリの姉ちゃんの世界に、ラスカ達はいない。いや、『小さな英雄ザンクローネ』の世界には、ラスカやミシュアがいた。でもそれって物語じゃん。変だよね。相棒ともどうしてなんだろうって、夜が更けるまで話したことがあった。
 そんな謎を解明するために、ガノのじっちゃんが一つの計画を立てたんだ。
 アラハギーロの元人間である魔物達は、元々いたアラハギーロから魔物に姿を変えられて、今居るアラハギーロに連れてこられたんだって。そんな元人間達の記憶を頼りに、来た道を遡り元々いたアラハギーロを目指すんだって。なぁるほどー! 流石、じっちゃん、あったま良いなぁー!
 でも、なぁんも問題が無い訳じゃない。
 二つのアラハギーロは地続きじゃない。旅の扉だったり、転移魔法だったり、何らかの方法が必ずあるんじゃないか。その方法が必ず使える保証もないし、その方法が絶対に安全でもないってこと。使えないならそれまで。でも、使えて、使ったとして失敗したら、運が悪ければ死ぬし、運が良くても次元の狭間を永遠に彷徨うことになるんだって。
 オイラはその方法が成功したか失敗したかを見届けるために、同行する。
 成功すればいいけど、失敗したら、その失敗するまでの経緯を事細かに報告して今後に生かさなきゃいけないんだって。
「ま、怖いっちゃー怖いかなー?」
 セラフィの姉ちゃんが怖いのはわかる。オイラも怖くないなんて、絶対に言えない。
 だって、使えたら、失敗するか成功するか、確率は半分なんだもん。半分のうち片方は死んじゃうかもしれないんだ。笑えねーよ。
「でもさ、観客がいるステージを前に、滑るかもしれねーって足竦んで立てねー芸人なんて、辞めちまえーって怒られたって文句言えねーよ。まずは行けるか行けねーか、分かってから怖がったって遅くねーんじゃねー?」
 ガノのじっちゃんは、今回の作戦が急ぎすぎてるって分かってる。そう、本人も認めている。
 本当なら、こんな大所帯でいけるか分からない旅の扉みたいなのに飛び込むことはしない。経験豊富で慎重なガノのじっちゃんだ。じっちゃんと道案内の元人間の魔物を数人が飛び込み、イサークの兄ちゃんを見届け役にしただろう。それで成功なら残りの元人間達を連れて行く。そう考えたはずだって、相棒は言う。
 でも、この元人間の魔物達は、アラハギーロから脱走したことになっていてグランゼドーラの兵士に追われている。兵士達は追跡は執拗で、元人間達が捕まって殺されちゃう可能性が高くなっているんだって。
 時間がない。だから、ガノのじっちゃんは急いでいるんだ。
 セラフィの姉ちゃんが、ぎゅっと手を握りしめた。優しい性格なんだ。誰も死んでほしくない、そんな願いが震える手から感じられる。
「さっきの話の続きだけどさー、滑るかもしれないってステージに立たなかったら、一生後悔するかもしれねーんだよ。後悔するんだったらさ、いっそ滑るつもりでステージに立っちゃえばいーんだよ。それでさ、会場の誰もが白けたって、誰か1人でもふき出させれば芸人として大成功なのさ。誰も笑わせられなくたって、次のステージも誰も笑わないかどうかなんてわかんねーんだもん」
 にっとオイラは歯を見せて笑った。
「後悔しないよう生きていかねーと、人生、笑えねーぞ」
 オイラの言葉に、セラフィの姉ちゃんは意を決したようにカレヴァンの兄貴を見た。
 真っ白いキラーパンサーはセラフィの姉ちゃんと同じ緑の輝石で出来たブレスレットをして、二人は特別な繋がりがあるんだろうって思う。二人の視線が交わると、とても優しくて大切にしてるって感じがすっごくするんだ。
「ねぇ、カレヴァンさん」
 がう。そうキラーパンサーの鳴き声が帰ってくる。
「カレヴァンさんは、故郷に帰りたい?」
 聞く必要なんか、きっとない。
 だって、相棒でさえ故郷に帰りたいって言うんだ。皆が冥王に殺されてしまって、誰一人待ってなんかないだろう真っ黒焦げの故郷。そこを一目でもいいから見たいって言うんだ。見たら、きっと胸が潰れちゃうんじゃないかって、オイラは心配でハラハラだ。相棒が故郷に帰る日は、オイラ、絶対に相棒の横に居てやらねーとな!
 おしゃべり好きなわかめ王様が言うには、カレヴァンの兄貴は故郷に奥さんと子供がいるらしい。そんなんだったら、魔物の姿でも一目見たいって思うんだ。無事に生きて幸せかどうか確かめたくて仕方がねーと思うんだ。
 兄貴は短い声で鳴き、頷いた。その返事にセラフィの姉ちゃんがショックに思うことはない。きっと確認みたいなものだったんだろう、『そうだよね』と小さく笑って頷いた。
「私も、カレヴァンさんが無事に帰れるよう、いっぱい協力しなきゃ!」
 にっと、オイラも笑った。まだ何も分かっちゃいないのに、湿っぽいんじゃしょーがねーよ。
 ふと、暗闇に光が灯る。暗闇に青い光が浮かんで、その青い光を三匹の魔物が取り囲んでいる。魔物達は人間の姿に似た怪人系って種族で、動きやすそうな作業着じみた服とスコップみたいな形の杖を振り回している。
 青い作業着の魔物が、他の二匹を杖で指差し『仕事に穴を開けるつもりか。サボるんじゃない!』と雷を落とす。そんなの相手に緑色の作業着の魔物が、ダラけきった姿勢で横になって腹を掻きながら『のんびりやろうぜ。納期は決まってないんだからさー』と流す。赤い作業機の魔物も座って『旅の扉は逃げないんだしぃ、ガッつくなんてダサいわよぉ』と緑色を援護した。
 結局赤いのが頑張って、青い光を埋めようと頑張ってる。
 瞬きをすると兄貴と姉ちゃんが居たから、今のはきっと相棒が見ている世界だったんだ。相棒は一人で奥に行っちゃって心配したけど、どうやら目的地を見つけたみたい。相棒が戻ったら、じっちゃんに報告だ…!

 夕飯を食べながら相棒が報告するのはいいんだけど、オイラってばゆっくりご飯味わいたいんだよなー。食べ終わってから報告じゃダメなのかなー。ダメなんですねー。
 オイラ達が戻って来た時には、イサークの兄ちゃんお手製の晩御飯が完成していた。首尾はどうじゃったと聞かれれば、相棒の見て来たことを報告しないとダメじゃん? 皆、早く知りたいから、ご飯食べながらになっちゃう訳。相棒はオイラの体しか使えないから、口を使うなら、オイラのご飯はお休みなの。しょんぼりだぜー。
「なるほど、奇妙な三人組と旅の扉のような存在か…」
 ガノのじっちゃんが真っ白いヒゲを摩りながら呟いた。じっちゃんがしゃべっている間は、オイラはもぐもぐタイムだ。急いで食べないと、食べるタイミング逃しちゃうぞ! 相棒とイサークの兄ちゃんが『喉詰まらせるよ』と口を揃えるけど、構ってらんねーぞ! 腹が減っては笑いの一つも取れねーっつーの!
「おそらく、我輩達が目指している旅の扉であろう。ルアム君が聞いた会話が本当なら、相手側にとっては無用として閉じられることが決まっておるのじゃろう。ある意味、計画を急がせるあまり元人間達全員を連れて来たのは正解じゃったの」
 あー。スープのコンソメ味が沁みるなー。
「魔物達が旅の扉を閉じるということは、このアラハギーロの騒動の一件も魔物達が関わっていると見て良さそうじゃな」
『グランゼドーラの兵士達も追いかけて来ているようだし、アタシ達が旅の扉を潜るのを阻止したいってようにしか見えないよ。むしろ、今まで元人間達を執拗に追いかけていたのも、この旅の扉の存在を知る者を抹殺したかったからと考えて良いんじゃないかね?』
 わかめの王様と、イサークの兄ちゃんの被っているブレラのおばちゃんがロが口を挟む。ブレラのおばちゃんの言葉にじっちゃんも頷いた。こんな人が入り込まなそうな砂漠だけの奥地に、兵士が追いかけてくるなんて普通に考えて変だ。そう勘ぐるのもしょーがねーよなー。
「どうじゃね。ワカメ殿。グランゼドーラの動きをどう思う?」
「わしはムーニスじゃ。グランゼドーラの王、アリオス殿は聡明で正義感溢れる王じゃ。子供も二人おって、特に兄のトーマ王子は勇者の呼び声高き強さと行動力を持ち合わせておる。即座にトーマ王子は、アリオス殿に事態の解決を命じるよう懇願するじゃろうて。だからこそ、混迷を極めるレンダーシアを放置し、自国の扉を閉めることは到底考えられぬ」
 わかめの王様は威厳ある声で言う。見た目がわかめなのが、超残念。
「おそらく、グランゼドーラにはアリオス殿を筆頭とした王家は、誰一人おるまい。今まではグランゼドーラ王家が、皆殺しにされた可能性を考えておった。しかしレンダーシアが二つあるという仮説が正しければ、偽りのグランゼドーラにアリオス殿達がいないことは当然といえよう」
 わかめの王様の言葉に、元人間の魔物達も頷いた。元人間の魔物達はアラハギーロの兵士をやってたらしいから、オイラ達よりもわかめの王様の言葉が実感できるんだろう。
「グランゼドーラは味方ではない…か。まぁ、良い。些細なことじゃ」
 ガノのじっちゃんが立ち上がり、皆を見渡した。
「このまま真っ直ぐその旅の扉へ向かおう。もたもたしておると、追っ手に逃げ道を塞がれてしまいかねんからな」
 グランゼドーラからの追っ手達は、人間の兵士でありながらそれはそれは恐ろしい連中なのだそうだ。アラハギーロのベルムドって男から逃げて来れた元人間達の何人かが、その兵士達に殺されてしまったそうだがその殺し方がすごく残酷なんだって。元人間の魔物が『どちらが魔物か分からない』って、震え上がって口を閉ざしたくらいだ。
 皆が荷物をまとめ、相棒が示した目的地まであと少しって所まで来た時だった。
 オイラは背筋がゾクゾクするのを感じた。ぶるりと震え上がって、毛皮という毛皮がぼわって膨らんだ。急いであたりを見回すと、薄暗い洞窟の暗さが増している。いや、ランプに照らされて黄金に光っている砂も、鈍く粘土のような重苦しい色だ。
「ルアっち、気が付いたんだね。やっぱり、魂の状態のルアム君と一緒だから敏感なんだね」
 イサークの兄ちゃんが周囲を警戒するように見回す。その口調はいつもの軽さも明るさもない。
「急いで、ルアム君を中に入れるんだ」
 言われるまでもない。相棒は慌ててオイラの中に入ってくる。
 ガノのじっちゃんが白い髭と眉毛に埋もれた顔を上げた。何があったと聞きたげに動いた口ひげだったけれども、次の瞬間には場の異変は誰もが分かるほどに変わった。驚き見渡す者達は、その場の空気がどす黒く変わったのを見た。まるで瘴気の濃い場所に踏み込んだようだが、瘴気に触れるような息苦しさはない。それよりも、体の芯の熱をも奪うような冷え切った空気と、いやーな予感がするばかりだ。
 …ル……ド…
 体の奥が冷えるような、地獄の底から響いてくるような恐ろしい声だ。声には生き物が発するとはとても思えない強力な呪詛がこもっていて、耳にするだけで吐き気がする程に体に影響を及ぼしてくる。
 どこ……る…
 イサークの兄ちゃんは急いで荷を解き、聖水を取り出した。聖水を振りまき、氷の呪文を唱えると美しく輝く氷が線を描いてオイラ達の前を横切る。湧き出した瘴気は光り輝く線の上を超えることはできず、壁に当たったかのように止まっている。わずかに息苦しさが和らいだ気がしたが、イサーク兄ちゃんの強張った顔は全然和らがない。
「イサーク、何が起きておるんじゃ?」
「…誰がこんな恐ろしいことを考え付くんだ? とりあえず結界を張ったけど、どれほど効果があるかは僕にも分からない」
 ずしん。ずしん。とても重量のある魔物が歩くような衝撃が地面を揺らし、ざざざと砂が動いて行く。誰もがこれから現れるだろう何かに恐れおののいて、ジリジリと洞窟の奥へ下がって行く。
 ずしんずしん。ざざざ。足音と砂が動く音は、イサーク兄ちゃんが引いた氷の線の前で止まった。
 ベルムドォ…!
 黒い霞の中から真紅の光が二つ灯る。それは、黒いバッファロン。オーガを凌駕するほどの筋肉質の巨体に、黒い毛皮を背に背負う、牛の角のような角を頭から生やした魔物だ。口はオイラみたいなプクリポは一飲みってほどに大きく裂け、だらだらとヨダレが地面に向かって糸を引いている。瞳は赤く輝き、吐息は瘴気、向けられているのは清々しいほどの殺意だ。
 それは巨体を震わせ、二本の角と両腕を天井に突き刺すように高々と上げて咆吼した。がぁんがぁんと、イサークの兄ちゃんが張った結界を超えられず見えない壁を叩いている。
「ゴリウス兵士長…!?」
 リリパットの姿の元人間の兄ちゃんが叫んだ。その言葉にわかめ王様も、他の元人間達も驚き黒いバッファロンを見上げる。
「誰?」
 相棒が隣に陣取っていたリリパットの兄ちゃんに尋ねる。リリパットの兄ちゃんは、魔物の顔色だったとしても青ざめて驚いているって分かる表情のまま言った。
「我々、アラハギーロの兵士達を束ねるお方です。あの方は、ベルムドに一番最初に殺されてしまったはず…!」
 ひっ! ってことは、あの黒いバッファロンお化けなの? お化けってレベルじゃないくらいヤバそうだけど…! 今にも噛り付いて来そうな黒いバッファロンだったけど、イサークの兄ちゃんの結界を破れないと思ったのか大人しくなったようだ。そんな黒い瘴気の塊から、ヒョッヒョと笑い声みたいなものが聞こえて来た。
「おやおや、勘のいい僧侶が居たんですね。ふむ。即席にしては悪くない結界です」
 ヒョッヒョッヒョ。笑い声にしては変過ぎだよなーと思ったら、本当に笑い声だったみたい。その声の主はひょこっと結界をまたぎ、オイラ達の前に姿を表した。腰がピンと伸びたお爺さん。目つきは鋭くて、片眼鏡がキラーンって光ってて、頭のてっぺんもキラーンって光ってる。左右に残った白髪を角みたいにまとめて、魔法使い風の服装と両手杖がなんだかお高めって感じで、全体的に偉そうだ。
 ヒョッヒョ爺さんはオイラ達に向き直り、場違いなほどにご丁寧に挨拶をしてくれた。
「これはこれは、アラハギーロから逃げ出した魔物の皆様、ごきげんよう。私はグランゼドーラのアンルシア姫に使える魔道士、キルギルと申します。以後、お見知り置きを…」
「アンルシア姫じゃと…? あの心優しい娘が、我々を殺そうとするものか…!」
 わかめ王様の叫びに、ひょっひょ爺さんはヒョッヒョッヒョっと耳に残る笑い声を上げた。
「いえいえ、我らがアンルシア姫はこのレンダーシアの平和のために、昼夜を問わず活動しておいでです。特に、アラハギーロから脱走したという魔物達は、住民達に危害を及ぼすかも知れぬと我々に打倒を命じ派遣した次第です。自国ならず、他国の民の安全に心を砕く姫の優しさに、このキルギルは心打たれ何としても成功しようと心に誓ったものです」
「嘘じゃ! あのアンルシアちゃんが…そんなことを命じるはずが…」
「ヒョッヒョッヒョ! 貴方はなぁにを言ってらっしゃるんでしょうね。どこからどうみても、貴方はわかめ王子。魔物ですよ? 貴方も、貴方も、貴方も、みぃんな魔物の姿ではありませんか! 人間に害を成す魔物を討伐せよ! 我らが姫が民を思い発された言葉を、侮辱する者は許しませんよ!」
 流石のわかめ王様もぐぬぬって黙るしかない、痛烈なマシンガントークだぜ。
 でも、オイラはそんなのに飲み込まれたりなんかしねーぞ!
「オイ、ヒョッヒョ! じゃあ、どうしてお前は黒いバッファロンなんか連れてるんだよ!」
 うん。我ながら鋭いツッコミだぜ! 皆がハッとしてヒョッヒョ爺さんを見る。
「頭がでかい割に脳みその容量の少ないプクリポですねぇ。私はキルギルと名乗ったばかりでしょう?」
 ヒョッヒョ爺さんは興奮して少しズレた片眼鏡を直し、結界に阻まれて進めない黒いバッファロンを見上げた。
「私は魔道士。魔法の倫理を追求し、魔法の可能性を研究しております。このゴリウス君は私が作った作品。どうです? ベルムドを憎み復讐に執着するあまり怨霊になったゴリウス君ですが、私の研究の力でこんなにも力強く復活したのです。この成果を我が主に献上する為に、貴方がたには尊い犠牲になっていただく所存です」
 それは自分の玩具を自慢げに話す子供みたいな口ぶりだ。結局、ヒョッヒョ爺さんは何もしないのかとか、死んだ奴をこき使って悪い奴だとか、オイラ達をやっつけるとか返り討ちにしてやるとか、いろんな思いが混ざり合ってムカムカしてくるぞ!
 ぱちぱちぱち。拍手が響いた。
「いやぁー、ご高説ありがとうございますー!」
 イサークの兄ちゃんがにっこり笑顔で拍手をしている。あ、頭でも打っちゃったのか? 心配する皆の前で、兄ちゃんは笑みを深めた。
「お陰様でゴリウスさんが怨霊で正解だって確認できたので、下準備は無駄になりませんでしたー!」
 ぱん! 兄ちゃんの手から一際大きい音が響いた瞬間、黒いバッファロンが氷柱の中に閉じ込められちゃった!
 ひょ! そんな顔で呆然とするヒョッヒョ爺さんを後目に、ガノのじっちゃんが奥へ駆け出した。
「今のうちに、旅の扉に飛び込むぞい!」
 イサークの兄ちゃんやセラフィの姉ちゃんや、カレヴァンの兄貴、わかめ王様が続く。オイラも見届け役として続かなきゃ! そう思って急ブレーキ。元人間の魔物達がその場で動かねーんだもん。
「どーしたんだ!? 急いで行かねーと、置いてけぼりにされちゃうぞー?」
 魔物の背中は誰一人振り返らない。唯一振り返ったのは、リリパットの兄ちゃんだ。彼は決意を固めたように、オイラ達を見た。
「私達は残ります。兵士長を残しては行けない」
 リリパットの兄ちゃんはぺこりと頭を下げた。きっとオイラの後ろにいるわかめ王様に頭を下げたんだろう。
「ムーニス陛下。どうか、残されたアラハギーロの民を、私達の家族を守ってください」
 わかめ王様は無言で下げられた頭を見ていたけれど、絞り出すような声で「死ぬでないぞ」と言った。リリパットの兄ちゃんは頭をあげ小さく微笑んだ。他の元人間の魔物達も振り返り、わかめ王様に見事な敬礼をした。もう、これが最後のお別れになる覚悟が、伸びた背筋や指先からヒシヒシと感じる。
「行くぞ! ルアム!」
 ガノのじっちゃんの声に弾かれるように、オイラは駆け出した。オイラは見届け役。この後もここに残るんだ。元人間の魔物達が今は戻れなくても、次、戻れるようにオイラが頑張らねーとな!
 追いついた時には、ガノのじっちゃんとカレヴァンの兄貴が素早く魔物の三人組を押し退けた所だった。一人はガノのじっちゃんのハンマーで吹っ飛ばされたのか壁にめり込んでるし、一人はカレヴァンの兄貴に押さえつけられて動けない状態だ。…ってあと一匹は?
『兄さん、旅の扉の裏側…!』
 オイラはバギの力をまとって飛び上がると、一気に天井近くまで浮かぶ。相棒の手が添えられるのを感じると、弓矢が瞬く間にピタリと旅の扉のような青い光の裏側にいる最後の一匹に合わさる。仲間がやられて怒り心頭って感じの奴に、相棒のサンダーボルトが命中した!
 ガノのじっちゃんが旅の扉を入念に調べる。いくつもの魔法陣が青い光を取り囲み、オイラには全くわからない図形が次々に現れては消えていく。ガノのじっちゃんの指先は、ベテランの指揮者のように淀みなく素早く宙を舞って魔法陣を操作する。すごく長い気がしたが、オイラが着地して新しい矢を番えて歩み寄った時には全てがふっと消えた。
「よし。流れ込む魔力に乱れは無いようじゃし、動作は他の旅の扉と変わらぬ。恐らく…大丈夫じゃろう」
 じっちゃんが振り返り、全員を見遣った。
「行くぞ」
 皆が頷き、最初にガノのじっちゃんが飛び込んだ。よく見る旅の扉に飛び込んだ時のように、青い光はドワーフの体を飲み込み強く輝いて元のように小さい淡い光の玉に戻った。わかめ王様が、イサークの兄ちゃんが続く。その様子を、オイラは食い入るように見ていた。特に変な様子もないし、淡々と旅の扉で移動していくように見えた。
 カレヴァンの兄貴が促すように、セラフィの姉ちゃんの背に頭を押し付ける。
「カレヴァンさん。私、ルアムさんにアラハギーロの皆を宜しくってお願いするから、先に行って」
 がう。そう一鳴きして、カレヴァンの兄貴が旅の扉に向かう。旅の扉が開かれる瞬間、セラフィの姉ちゃんが兄貴に小さい鞄を投げ渡した。兄貴が驚いた様子で振り返る。光に包まれて霞んでいく兄貴に、セラフィの姉ちゃんの声が響いた。
「さようなら! カレヴァンさん!」
 声が聞こえたかどうかはわからない。もう、姉ちゃんが言い切る前には光は兄貴を飲み込んで、兄貴を連れ去ってしまっていた。
 姉ちゃんは肩を震わせ泣いていた。ぽつぽつと砂に降り注ぐ雫は、青い光に照らされて空色に輝いている。
「兄貴は、姉ちゃんに笑って生きて欲しいんだ。後悔するんなら、行きなよ」
 姉ちゃんはぐいっと目元を拭ったんだろう。そして旅の扉に背を向けて、足早に歩き出した。青い光は姉ちゃんの顔に影を落としていて、どんな表情かは見えなかった。
「仲間を置いて行ったら、絶対に後悔するから」
 固い決意がある声だった。姉ちゃんの言う仲間が『元人間の魔物達』なのか『元々魔物で人間になってしまった者達』なのか、それとも両方のことなのかはオイラにはわからなかった。でも、きっと、姉ちゃんはカレヴァンの兄貴の分までここで頑張るって気持ちで残ったんだろう。
 オイラは『そっか』と答えて、旅の扉を見るために一度だけ振り返った。
 神様、皆にご加護を。