道の正しさなんて誰も教えてくれない - 後編 -

 満天の星空に明るい月が掛かる。オアシスの水面はそれらを写し込む巨大な鏡で、アラハギーロの民の憩いの場であるはずだった。冷え切った砂漠の上を駆ける風はひんやりと肌を撫でていくが、日中の猛暑を考えれば誰もが喜ぶべき冷たさだった。
 だが、夜空の下には誰もいない。
 誰も出てこれないのだ。王宮とその下に作られた城下町の扉はどれも硬く閉じられ、その奥で人々が息を殺している。
 虫達の声が途絶えると、耳に飛び込んでくるのは遠い砂漠の上を唸るように吹く風の音ばかり。いや、遠くから何かが聞こえてくる。最初は風の音かと思ったものは、徐々に低い声なき声で言葉を紡ぐ。
 べ…ム…
 それは死者の声だ。生きとし生ける者が空気で喉を震わし響かせる音とは、明確に異なる音域。それは脳髄に直接響き、心臓にその冷たい言葉を直に突き立てるが如く生物の内側に無遠慮に入り込む。
 ど…に…いる…
 待ち構えていた者達が各々に武器を構え、周囲を警戒する。僧侶達がスティックを振り回し、様々な呪詛を遮る守りを周囲に施し始めた。誰かが虚空を睨みつけ、私もつられて視線を向けた。
 明るい月に雲がかかった。いや、雲じゃない。黒い霞みがかった何かが、月の前に立っている。
 ベルムドォ…!
 黒い霞の中から真紅の光が不吉な星のように瞬いた。アラハギーロの民を恐怖のどん底に落とした恐ろしい声が、家々の窓を震わせ扉を叩く。両手を地面に叩きつけ両足は地面を砕き、獣のようにそれは駆け出した。足音はしない。ただ狂ったように『ベルムド』『どこだ』を繰り返し、城下町に駆け込む。
 『ベルムド』『どこだ』を繰り返し駆ける体は、丈夫な煉瓦造りの壁をすり抜けてしまう。アラハギーロの至る所で、断末魔の叫びのような被害者の声と、無事だった者の泣き叫ぶ声が響き渡っている。
 だが、この獣が訪れることは、アラハギーロの民の苦しみの始まりでしかない。
 そう。これで、終わらないのだ。

 アラハギーロの平和を脅かす黒い魔物。その魔物は種族でいうならば、バッファロンという魔物だ。筋肉隆々の逞しい体躯が駆け、その鋭い角で突き上げられれば竜だとて一溜まりもない凶暴な魔物だ。
 アラハギーロを黒いバッファロンが襲うようになって、当然住人達が黙っている訳がなかった。勇敢な戦士が戦いを挑み、魔法使いが魔法で迎え撃った。しかしどんな戦士の一撃も黒い体は素通りし、そこにいないかのように如何なる魔法も効きはしない。建物の壁をすり抜け、触れた者は喉が裂けるほどの恐ろしい悲鳴を上げた後に重い病に伏せてしまう。
 だれも死なずに済んだのも、ヒョッヒョマンがバッファロンが怨霊だと言ったからだ。
 ルアム君の仲間の冒険者達は、その言葉を聞いた途端に的確な治療を施した。
 どんな回復魔法も治療魔法も病気は治せなかったけれど、お祓いや呪いを浄化する食材を食べさせると苦しさが柔ぐ。アラハギーロの住人達に広がる病が、怨霊が振りまく呪いに近いものだと分かったからだ。聖水で体を拭き、浄化の力がある薬草を食材に使って食べさせ、死の一歩手前の者には治療を施すことで、病で死ぬ人は増えなくなったんだ。
 ベテランの冒険者達は、もう次の襲撃の時には怨霊を実体化させ討ち取ろうと計画を立てている。傷ついた人を癒し、悲しみに暮れる人を励まし、怯える子の前で芸をして笑顔にさせる。その頼もしさに、アラハギーロの民は誰もが感謝してる。
 でも…
「セラフィの姉ちゃん、浮かねー顔だな。あのおっかねーバッファロンがやっつけられたら、みんなハッピーになって大団円だっちゅーのにさー」
 そう、私の横に腰掛けて足をぶらぶらさせるのは、ルアム君だ。レンダーシアでは珍しいプクリポって種族は、見た目も可愛らしい猫のようなウサギのような、熊のぬいぐるみのような姿だ。でも、腰にはなんでも切り裂くような鋭い爪を、背には遠くから射抜く弓矢を背負った一流の冒険者だ。
「黒いバッファロンは元々人間なんだ。ベルムドさんに殺されてしまった、可哀想な人なんだ」
 私はモンスター闘技場の地下に潜んでいる元人間の魔物達を思った。彼らは『兵士長を置いて行く事はできない』そう言って、本当の彼らの故郷へ向かうことを辞めてここに戻って来た。
「悪霊を倒す方法はある。でも、あんなに強い憎しみを抱えている原因も知らないで殺すのって、酷いんじゃないかって思うんだ。だから、あのバッファロンは何者で、どうしてベルムドさんを憎んでいるのか知りたいんだ」
「知って、どうするんです?」
 そう問い返したのは、ルアム君の隣に腰掛けたフードを被った小柄な影だった。プクリポよりは大きいが、ドワーフよりも小柄。彼は元人間だけど、今はリリパットだ。でもルアム君の仲間達が多く出入りするようになったアラハギーロでは、人間じゃないサイズであっても目立たなくなっていた。
 タジウスと名乗った彼は、壁の上やオアシス周囲に待機する討伐隊を見ていた。ルアム君の仲間達は、今回のアラハギーロの黒いバッファロンを討伐するために、大規模な討伐隊を編成した。彼らは己の獲物を確認し、互いの力が円滑に働くよう作戦を立てて黒いバッファロンを待ち構えている。
「知って、刃がブレたら、死ぬのは貴方かも知れないんですよ?」
 今度こそ、仕留める。
 討伐隊達の気迫は、そう、物語っている。
「これから黒いバッファロンを殺そうとしている彼らは、自らが生きるために敢えて知ろうとしない。貴方も、知らずにおいたほうが良いでしょう」
「嫌だ」
 私はきっぱりと言った。
「私はホイミスライムだった頃から何も変わらない。誰にも死んでほしくないし、傷ついてほしくない。でもあのバッファロンは死んでいて、死んでいるのにあんなに苦しんでる。苦しみを取り除く方法が殺すだけしかないなんて、納得したくないんだ」
 私の言葉が空間に溶けて消えていってしばらく、誰も口を開こうとはしなかった。重い沈黙が支配して、私も聞いちゃいけないことなんだろうかって思い始めた頃、タジウスさんが頷いた。
「わかりました。私もここで死ぬかもしれない。誰かに知って貰いたいのかもしれません」
 タジウスさんは硬い口調で、黒いバッファロンのことを語り出した。
 黒いバッファロンは、魔物になる前はゴリウスという名のアラハギーロ王国の兵士長でした。厳しくも王国の民のことを第一に考える、優秀なお人でありました。
 戦争が始まる前は、ベルムド殿とゴリウス兵士長の関係は険悪ではありません。魔物使いが連れて歩く魔物に恐怖を抱く住人の気持ちを代弁するゴリウス兵士長の言葉を、ベルムド殿は理解していました。逆に魔物使いが住人達に配慮していることを察して、強い規制を魔物使い側に強いなかったのもゴリウス兵士長なのです。
 そんな彼らの関係が崩れたのは、この一連の騒動の発端。アラハギーロを襲った魔族達との戦争でした。
 魔族は見渡す限りの砂丘が黒く埋め尽くされるほどの魔物の軍勢を率い、アラハギーロ王国を襲ったのです。それは、あまりにも絶望的な戦場でした。北方のグランゼドーラ王国にも魔族の手が伸びていると報告があり、援護は望めません。逃げられる女子供をダーマ側に避難させる手筈になっていましたが、我々がその逃げる時間を稼げるほどに防戦できるとは到底思えなかったのです。我々兵士一同、この地が死に場所だと覚悟を決めました。
 そんな中でゴリウス兵士長は、魔物使いが連れている魔物達を盾にする作戦を立てたのです。
 実際、その作戦で我々が生き延びられるとは、誰一人思えませんでした。ただ、ゴリウス兵士長は魔物達を盾にし、兵士達全員を地獄に道連れにしても、一秒でもアラハギーロの民が逃げる時間を稼ぎたかったのでしょう。
 しかし、ベルムド殿はその作戦に猛烈に反対したのです。
「ゴリウス兵士長は自分にも他人にも、とても厳しいお人でした。あまりの厳しさに、優しさを感じることは滅多にもありません。故に、ベルムド殿はその時、魔物と我々人間の兵士が同等に扱われていた事を知るよりも前に、怒りを感じてしまったのでしょう」
 タジウスさんが一つ咳払いをして再び言葉を紡ぎ始めた。
 我々が次に気がついた時には、戦争は終わっていました。結果は、我々の全滅と言って良いでしょう。戦争に参加した兵士達は魔物の姿となり、ベルムド殿と魔物使いが連れていた魔物達が人の姿になっていたのです。兵士達は捕らえられ、目隠しされて昼も夜も関係なく歩かされ、今のアラハギーロのモンスター闘技場の地下の牢屋に囚われました。
 一番最初に牢を出されたのは、ゴリウス兵士長でした。
 そう、ゴリウス兵士長こそがアラハギーロのモンスター闘技場で行われた、死闘の末に処刑される最初の被害者だったのです。兵士長は多くの民が自分の傷つく姿に熱狂する様を見せつけられ、圧倒的な力でベルムド殿にねじ伏せられ、地べたに這い蹲る姿を自らの子に見られてしまったのです。屈辱の限りを尽くされて殺されてしまった。厳しく、プライドも高かった兵士長が憎悪を募らせ悪霊になったとしても不思議ではありません。
「兵士長はたとえ魔物であってもアラハギーロの民を傷つけるなど、決してするような人ではありません。もはや、兵士長の姿を借りた悪霊であります。これ以上の醜態を、兵士長こそが望んだりしないことでしょう」
 タジウスさんは目元を拭い、夕暮れに赤く色づくオアシスを見つめた。
「私がゴリウス兵士長の怨念を討ち取らねばならない。たとえ、命を失うことになったとしても…」
 その言葉に滲んだ決意は、とても固く感じた。
 ルアム君は黙って聞いていたけれど、ふと立ち上がってじっと空を見る。空は夕暮れの橙から夜の紫苑へ移り変わろうとしていた。空気はまだ温んでいるが、それも太陽がストンと岩山の向こうへ消えてしまえば冷えて行くだろう。討伐隊の人達が松明に火を灯し始め、松脂の独特な香りが鼻先を掠めて行く。
 夜が来る。黒いバッファロン、ゴリウスさんは最近は毎晩のように来る。来たら、戦わなきゃいけないだろう。それで倒されてしまっても、私はそれを止めることはできない。
 日中は今の陰鬱さを吹き飛ばすような賑わいを見せていた市場が、火を消したような静けさに包まれていた。店主は口数すくなげに店を畳み、帰り道を行く住民達の暗い顔には恐怖が隠しきれずにいる。オアシス周囲を賑わす酒場や飲食店は、椅子やテーブル、酒瓶や樽の類を倉庫に片付けている。危険な魔物が出る場所で、店なんか営業できないんだろう。
 日が落ちて、夜がやってきた。薄曇りの空に星はなく、松明の光で仄かに赤く染まっている。
 虫も民も息を潜め、討伐隊が息を詰めて外を見つめる。そんな中、北の塔から鏑矢が放たれた! 甲高い音を立てて、矢が赤い雲に吸い込まれて行く。きたぞー! 黒いバッファロンだー! そんな声が津波のように押し寄せて来る。
「ごめんな。タジウスの兄ちゃん」
 ルアム君が爪を腕に固定しながら囁いた言葉に、タジウスさんは頭振った。
「いや、詫びるのは我々の方だ。貴君らの力を借りねば、兵士長を止める事ができない非力を悔やむばかりだよ」
「気にしなくていーよ。これは、オイラ達が選んだ事だから」
 ルアム君は明るい声で言った。そして赤い毛皮を膨らまし、弓を空に放つ。弓を扱う者達の放つ聖星の守り弓の輝きが、輝く星屑の雨となって討伐隊の人々に降り注ぐ。僧侶の人達がスティックを片手に、人々に災いを退ける呪いをして歩く。星の守りと災避けの呪いは重複して掛けられるから、黒いバッファロン対策として全員に行き渡るように施された。
 バイキルトが、スクルトが、ピオリムが、高らかに唱えられ緊張が高まっていく。
 ……だ。ベ…ムド…。どこ…いる。
 声は徐々にはっきりと聞こえ、大きくなってきた。そしてついにモンスター闘技場の屋根に、巨大な影が現れた。
 出てこい!ベルムド!貴様を殺さねば、この怒り、恨み、憎しみに狂ってしまいそうだ!
 その声は咆哮となってアラハギーロを震撼させた。
 誰かが『撃ち方始め!』と言った気がした。薄曇りの夜空を赤く染めるほどに、赤々とした鳥達が無数に舞い始めた。雷の力を蓄えた矢が無数に放たれ、オアシスの水に反射した光と相まって黒いバッファロンの姿を浮き彫りにする。私はその光景を思わず綺麗だと思ってしまった。
 黒いバッファロンは炎も雷も悠然と退けていたが、執拗な攻撃を煩く感じたのか、それとも本来の目的であるベルムドさんを探すためなのか中庭に降りて来る。橋の前に陣取る私達は、その巨体が舞い降りた衝撃を体で感じた。
「今だ! 呪文を放てー!」
 誰かの合図に合わせ、隣に居たルアム君やオアシスの周りに待機していた魔法使い達が高らかにヒャダルコを唱えた! 空気が輝いたと思った瞬間、オアシスの水から無数の氷柱が生まれる。その柱は屋根を瞬く間に生み出し、次の瞬間崩れ落ちる。黒いバッファロンは崩落した氷の屋根の下敷きとなり、氷の瓦礫が次々と生まれて黒いバッファロンを完全に閉じ込めた!
 息を飲んで見守る事暫く、バッファロンの動きが止まったのを見て歓声が上がった!
「やった! 僧侶達が寝ずにオアシスの水を祝福した甲斐があったな!」
「これで、悪霊の動きは封じられた! 後はじっくり浄化して、昇天の梯を昇らせてやれば良い!」
 え?
 私は目の前で起きていることが、信じられなかった。
 殺すしかないと思っていた。殺すことがどんなに嫌なことでも、黒いバッファロンを殺さなければアラハギーロの仲間達が苦しむ。何方かに傾けなくてはならない天秤、両方取ることができない選択肢。私は、きっとバッファロンを殺すことを選ばなくてはならないと分かっていた。
 なのに、ルアム君の仲間達はその力で、私には不可能なことをやってのけた。
 すごい…!
 私の視界が揺らぎそうになった時、耳の奥にこびり付いていた耳障りな笑い声が突如響き始めた。
「ヒョッヒョッヒョ! なかなか、やるじゃないですか!」
 この声はヒョッヒョマン! 声の方に振り向けば、黒いバッファロンを閉じ込めた氷の傍にヒョッヒョマンが立っていた。氷に手を触れながら、モノクルに指をかけ矯めつ眇めつ眺めている。ほうほう、これは霊体を具現化する魔法媒体がどこかにあるんですね。ほぅ! この橋の上の煉瓦に仕込んでいるのがそうですか! オアシスの水を祝福し、聖水化させるのはなかなかのアイデア。ふむふむ。
 そんなの待ってあげるほど、お人好しじゃない。城壁に待機していた弓使い達が一気に、射かける!
「おやおや。私の思考を遮るとは、無粋の極みですよ」
 杖の先端が怪しく光ったと思った瞬間、オアシスから次々と氷のドラキー達が飛び出して矢の前に躍り出る! ドラキー達が砕けた氷を浴びながら、ヒョッヒョッヒョ! と高笑いだ。なんか、命を粗末にして笑ってる気がして凄く嫌!
 ルアム君が一拍タイミングをずらして放ったサンダーボルトが、ドラキー達の合間を縫ってヒョッヒョマンに迫る! 当たる! そう思った瞬間、矢が弾かれた。ヒョッヒョマンの傍に鞭を構えた、グランゼドーラの兵士が立っていたのだ。ベルムドさんを殺したバスラーって奴と同じくらい、この男も嫌な感じがする。
「キルギル様。実験はここまでです。後はこのゲゾラにお任せ下さい」
「まぁまぁ、ゲゾラ君。お待ちなさい。ゴリウス君は、もう少し出来る子なんですよ」
 ほぉら。そうねっとりとした声と、促すような手に誰もが氷に閉じ込められたバッファロンを見る。ひゅうっと風が通り抜ける音すら聞こえるほどの沈黙の中、囁くような声が聞こえる。お腹の底から冷えるような、呪詛の篭った声。ベルムド、どこだって。嘘。だって、バッファロンは指一本動けないじゃない…!
 バッファロンが一歩進み出る。氷なんか存在しないんじゃないかってくらい、スムーズに動き出す。一歩。二歩。動き出すけれど、誰もそれを止めることはできなかった。だって、矢を射かけても、炎の魔法を唱えても、氷に阻まれてしまうって誰もが分かるんだもの。
「氷から出てきた所を一斉に仕掛ける! 魔法使いはイオナズンの詠唱準備! 近くの者は急いで離れろ!」
 指揮官だろう男の人の声に、ルアム君の耳がピンと立った。私の手を取って後ろに駆け出そうとする。
「姉ちゃん! タジウスの兄ちゃん! 行こう! 魔法使い達は最高火力に練り上げたイオナズンを放つはず! オイラ達も巻き込まれちゃう!」
 ルアム君の言葉に嘘偽りはなかった。魔法を使える者達の魔力が膨れ上がり、まるで篝火のように光りだした。空気がチリチリと痛みを感じるほどに熱を帯び始め、空気が集約されていく。ヒョッヒョマンもゲゾラって名前の鞭の兵士は慌てた様子もなくそこに佇んでいるけれど、最前線で向かい討とうとした戦士達が慌てて下がって来る。
 逃げる戦士達をかき分け、前に進み出る影がある。小柄なその影は、灼熱する空気の中で手を広げてバッファロンの前に立った。
「誰だ! 命令だ! 下がれ! イオナズンに巻き込まれるぞ!」
 熱された空気が小柄な影の衣を焦がす。フードを取り見上げたその顔は、リリパット!
「父さん、僕です。タジウスです」
 ついに氷から抜け出したバッファロンが、天を仰ぎ咆吼した。臓腑を揺さぶるような恐ろしい雄叫びなのに、タジウスさんはそのまま立ち続けた。バッファロンは月を掴むように両手を挙げ、タジウスさん目掛けて振り下ろそうとしている…!
「イオナズン、中断! 東側、メラミでバッファロンの姿勢を崩せ!」
 命令が変更され、真横から火の玉がバッファロン目掛けて放たれた! 解放されるべく溜まっていたイオナズンの力にも引火して、バッファロンに着弾した火の玉は大きく爆発した。それでも黒いバッファロンは微動だにしない。怒りを塗り固めたような赤い瞳は、タジウスさんに向けられたままだ。
 タジウスさんは静かに、心を込めてバッファロンに訴えかける。
「貴方なら魔物の姿であったとしても、この国を守ったはずだ。例え、人々に石を投げられ、追いかけまわされようと、誇りを掛けて守った国と同じ風景を守っていきたいと、僕達を率いていたはずだ。そうでしょう?」
 バッファロンの手が止まる。
「貴方なら、こう言うはずだ。我々はアラハギーロの誇り高き兵士。姿形など、何ら問題ない…と」
 呻き声が聞こえ出した。ほこ…り…誇り…アラ…ギーロの…士…。黒いバッファロンから、初めて『ベルムド』『どこだ』以外の言葉が紡がれた気がする。闇の中手探りで進んでいる魂を、誰もがじっと見守っていた。
『そう…私は…ゴリウス…誇り…高き……兵士…長…』
 バッファロンの手は、ゆっくりとタジウスさんの肩に触れた。
『タジウ…ス…』
「父さん…!」
 タジウスさんがゴリウスさんの手を取った後ろ姿を見て、思わず視界が歪んだ。ベルムドさんに殺された恨みで狂い、我が子まで殺そうとしたゴリウスさんが正気に戻ったんだ…! 家族の愛が、憎悪をかき消した! やっぱり、愛の力は凄いんだ!
 誰もが胸を打つ感動に目元を潤ませていた。
「ヒョーーッヒョッヒョヒョ! ワシったら、こういう展開に弱いのよねー!」
 ヒョッヒョマンは両目から滝のように涙を流し、傍にいたゲゾラのマントの裾で盛大に鼻をかんだ。兜でゲゾラの表情は良く見えないけど、ちょっと仰け反ってて嫌そうな雰囲気醸してる。ヒョッヒョマンはハンカチを取り出して、目元をグイグイと拭った。
「ヒョッヒョ…。親子の情が憎悪を掻き消すとは、このキルギル、感動を禁じ得ぬ…」
「キルギル様。何を仰っているんですか? 実験は明らかに失敗です。撤退しましょう」
 なんだか、とてもマトモなこと言ってる。ゲゾラって兵士の言葉に、この場の誰もが心の中で深く頷いたことだろう。
 そんなゲゾラの言葉に、ヒョッヒョマンは高らかに鼻をひとかみしてハンカチを捨てた。
「全く、これだから素人はいけません。情程度で固定した憎悪が消失するなんて、実戦では目も当てられぬエラーです。それをこの実験の段階で認識できたということは大きな収穫です。やはり、このゴリウス君は大魔王様に献上するに値する優れた研究であると確信しました…!」
 だ、大魔王様…? 大魔王って勇者と戦う、魔物達の王様って奴?
 私がホイミスライムだった時の記憶を思い返しても、大魔王なんて存在はお伽話みたいなものだ。皆、のんびり暮らしてて、人間をやっつけようとかって言う奴なんか見たことがない。でも、私も若い方。もしかしたら、知らない所で大魔王がいて人間を滅ぼそうって思ってるのかもしれない。
 私が首を傾げる目の前で、ヒョッヒョマンはモノクルを掛け直した。こほんと咳払いして、慇懃に頭を下げる。
「ここには優秀な冒険者、そして素晴らしい研究材料が揃っている。私の傑作の一つと言えるゴリウス君の真価を、一つ君らに見せて差し上げましょう。君達がどう対応するか、ぜひサンプルとして提供できるよう頑張ってくれたまえ…!」
 そう杖を構えると、杖から邪悪な力が迸った。紫色に光る魔法陣がゴリウスさんの足元に浮かび上がり、ゴリウスさんはとっさにタジウスさんを突き飛ばした! 魔法陣から濃い魔障が湧き上がり、瞬く間にゴリウスさんを飲み込んでしまった!
「父さん!」
 駆け寄ろうとするタジウスさんを、私は必死で止めた。すごく、すごく、嫌な感じがするの…!
 魔障の中で紫の双眸が瞬いた。黒いバッファロンはもう、バッファロンという形を留めていなかった。魔障の塊。いや、冥界の風が魔障の塊の中から噴き出している…!
「ヒョッヒョッヒョ! 驚きましたか? ゴリウス君の魂を冥界に繋がる旅の扉に変えたのですよ! これほどの憎悪に塗れた魂なら、この国全土の魂を冥界に引き摺り込むことでしょう!」
 そしてヒョッヒョマンはにやりと私達を見た。
「さぁ、君達がどうするのか、よぉく観察させていただきます」
 ヒョッヒョッヒョ。そう余韻を残して、ヒョッヒョマンとゲゾラが魔障の竜巻の向こうに霞んで見えなくなる。追いかけて止めたい所だけど、それどころじゃない。魔障と冥界の風は、最初は旋風だったのにどんどん強くなる。瞬く間にバギからバギマに膨らんでいる感じだ。
 上空を飛んでいた鳥が、魔障の風に触れた瞬間に事切れた。そう、魔障の黒い風が鳥の魂を絡め取り、肉体から引き剥がしたんだ! この風に触れた瞬間に訪れる死を、誰もが一瞬で理解した。
「撤退だ! 早く逃げろ!」
 誰かがそう言って駆け出した。住民達でも特に戦えない人や子供はアラハギーロの外に出て待機させていたから、誰もが一目散に外を目指し始めた。風は壁をすり抜け、魔障を振りまき、逃げ出す者を嘲笑うかのように強くなる一方だ。逃げる人々に揉みくちゃにされて、ルアム君とも逸れてしまった。
 ゴリウスさんがこんな最悪な結果になってしまうなんて…。これじゃあ、討伐隊の皆に黒いバファロンとして殺された方がましだったかもしれない。魂は最早、冥界からの死の風にズタズタにされているだろう。水面の底に沈むこともできず、塵のように消滅してしまうに違いない。
 胸が張り裂けてしまいそうだった。でも、私は無力で、何もできない。このまま、ゴリウスさんの魂が消滅するのを待つしか、きっとできないんだ。そう思って、本当に何気なく、私は振り返った。
 風の隙間に、小さい人影を見た。風の中心を目指そうと、逃げる人々とは逆に進む影。もしかして、あれは…
「タジウスさん!」
 タジウスさんは私を見つけると駆け寄り、力強く私の腕を掴んで早口で言った。
「セラフィさん。今すぐ、天使の守りを私に施して欲しい」
 その一言で、私は分かった。タジウスさんは、ゴリウスさんを止めることを諦めていないんだ。
 天使の守りは、死ぬことを無かったことにできる魔法って言っていいと思う。魂を無理やり肉体に繋ぎ止め、肉体と魂が引き剥がされる即死の状態であっても冥界に魂が行かないようにできる。これは大きくて、肉体の損傷次第ではすぐにホイミが唱えられて、生存率が上がるんだ。
 風に当たって魂が冥界に持ってかれそうになっても、天使の守りを施しておけば、肉体に魂を固定させているから踏みとどまることができる。この魔障を含んだ冥界の風を突破するには、この天使の守りの力が必要なんだ。
 私は頷いた。両手を組み祈ると、清らかな光がタジウスさんを包んだ。タジウスさんは天使の守りを授かったことを確認し、深々と頭を下げた。
「セラフィさん、貴女の優しさに心から感謝します。お達者で…!」
 身を翻そうとするタジウスさんの服を、私は咄嗟に掴んだ。
「私、ゴリウスさんを見殺しにしようとしていた。もう、何も出来ないんだって思ってた」
「どう見ても、何か出来る状況ではありません。お逃げなさい。貴方には関係のないことだ」
 私はタジウスさんの瞳を覗き込んで言った。
「私はホイミスライムだった頃から何も変わらない。誰にも死んでほしくないし、傷ついてほしくない。苦しむ姿なんて見ていられない。だから、諦めない貴方の助けになりたい。貴方を助けることで、ゴリウスさんもアラハギーロの皆も救われて欲しいの…!」
 タジウスさんは息を飲み、そして小さく頷いた。そのまま服を持っていてくださいと囁いて、私達は魔障の風の吹く方向に向かって歩き出した。
 それは、心臓が鷲掴みにされているような、言いようもない恐怖との戦いだった。天使の守りが薄氷のように感じて、何時、風に魂が掴まれ冥界に持ち去られてしまうか気が気では無かった。足元には逃げる際に転がった椅子が砕け、討伐隊の面々が取り落としただろう武器が散乱していた。芝生だったそこは踏みしめると乾いた土のように崩れ去り、オアシスには仰向けになった魚が沢山浮かんでいる。
 風の中心に着いた時、私達は絶望のあまり舌が乾ききっていた。風は倒れ込んでしまうような横殴りで、魔障は私自身の手すら見えなくなる程に濃い。そして、ゴリウスさんの魂が感じられなかった。魔障の竜巻は轟々と音を響かせ、どんな声も届きそうに思えなかった。
 もう、引き返すまで守りは保たない。重ね掛けされていた星弓の守りは、効力を失いつつあった。
 何が出来るのか。それすらも見つからないまま呆気にとられる私の視界に、ほんのりと柔らかい光が写り込んだ。それは風の中を歩いて来る、イエティみたいな体格のいい男の人だ。彼は私を見ると、愛嬌のある笑顔を浮かべた。ひょろりと身の軽そうな青年が、魔法が得意そうな壮年の男性が、風の切れ間にぽつぽつと見え始めた。
『兵士長、ベルムドは分からんかったみたいだが、俺達は分かってる。あの場で、魔物諸共玉砕してアラハギーロの民を守ろうって魂胆、兵士長らしかったぜ! 口が足らねぇのは、本当に死んでも治らなかったみたいだがな!』
 がはは! そう笑い飛ばした男の声が風の合間から聞こえてきた。
『俺は今も兵士長を尊敬しています。貴方は俺達に厳しかったけど、それ以上に自分に厳しい人だった。だから、俺は貴方が誰より強いのを知ってます。怨念に屈するような弱い人ではないのを、知っています…!』
『王は貴方の死を誰よりも悼んでおいででした。冷酷な判断でも国を守るためだと察し、貴方こそ真のアラハギーロの守護者であったと評しておられた』
 声が細波のように語りかける。その声は人が喉を震わし発する音ではなく、魂が発する声なき声。風の中でも明瞭に響き、冥府の中にまで届く唯一の音域。
『この戦争に悪者はおりますまい。誰もが最善と選んだものが、結果最悪であっただけなのです。さぁ、兵士長殿。今から選べる選択を少しでも最善のものと致しましょう』
 そして、私は気がついた。この人達はアラハギーロの元兵士、つまり魔物の姿になってしまった人間達なんだ。彼らは、ゴリウスさんを止める為に魔障の風に飛び込み命を落としてしまったんだ…!
 掴んでいた指先の感覚が、するりと失せた。私は慌てて掴もうと手を伸ばしたが、何もつかめない。そしてふわりと目の前に淡く輝く青年が立ち上がった。リリパットにザオを施した時に見かけた弓兵の男の人。彼は両手を広げ、風の中心に語りかけた。
『父さん。もう、終わりにしましょう』
 タジウスさんは弓を取り出し、天に向かって引きしぼる。放たれた輝く矢は、高く高く舞い上がり、鳥の姿になって天を穿つ。鳥は雲を切り裂いて夜空まで届き、そのまま竜巻の中心に飛び込んでいった!
 瞬間。竜巻が四散した!
 聞いたことがある。優秀な弓使いはたった一撃で戦局を変える。怒りに突進する者を踏みとどまらせ、自棄を起こす者を我に返させる、ロストスナイプという粛怒の一撃を放つことができると…。
 竜巻が晴れ、星空の輝きがオアシスを照らした。その中に一人の男性が立っていた。彼は眉間に深くシワを刻み、不機嫌そうに口元を曲げた厳しい顔つきの男性だった。彼は周囲に集まってきた男達を見て、響き渡る声で叱責した。
『死なずにすむことを選ばず、自ら死を選ぶ…どいつもこいつも、甘い腑抜け揃いよ! 鬼のような上司など、優しくもない父など捨て置けば良かったのだ。貴様らは目先のことに囚われ、短絡的な思考しかできない愚か者どもだ…!』
 ひ! 酷い! 皆、命を捨てて貴方を救おうとしたのに…!
 でも、兵士達は叱責を嬉しげに聞いていた。『元気なことだ』とか、『これでこそ、兵士長』なんて言う人までいる。
『そこの娘。カレヴァンが連れていた、ホイミスライムだな?』
 ずばりと言い当てられて吃驚! 私は驚きすぎて頷くことしかできない。ゴリウスさんは私の驚きなんか知らない様子で、天を仰いだ。タジウスさんが雲を射抜いた為に、空は珍しく雲ひとつない星空だった。
『今宵は美しい星空だ。この愚か者共が昇天の梯を昇れるよう、祈ってやってくれ』
 うーん。言い方はキツイけど、部下思いなんだよね? それに、人間の姿だって言うのに、ホイミスライムって普通見分けだって付かないだろうに、私を『カレヴァンさんのホイミスライム』って言い当てちゃうんだ。他の人が思った以上に、皆を見ているんだろう。だから、慕われているんだろう。
 私は頷いて、心を込めて歌を歌った。歌声は輝く星屑になり、風に乗って天へ吸い込まれていく。兵士達は私に口々にお礼を言って、どことなく魔物っぽい仕草で手を振りながら風に乗って星空を目指し始めた。腕を組んで明後日の方向を向いている兵士長さんを、タジウスさんが引っ張って連れていく。
 最後にタジウスさんが私を振り返った。満面の笑みで、『ありがとう』と、彼は言った。

 砂塵と共に 舞い上がる
 死した魂 見送れば
 星々と共に見守らん

 星が降る夜 舞い降りて
 同じ時 生きるなら
 再び共に歩みゆかん

 あぁ 金の皿が受け止めし 数多の星よ
 廻り巡りて 全てを幸いに変えん

 アラハギーロで死者を送り出す、昔から歌い継がれた音楽だ。私を含めた魔物達は、昇天の梯を登った先を信じている。星降りの夜に転生して、死んだ先の世界を歩むことができる。そこには、死に別れたマスターとの再会があるのだ、と。
 人間達はわからない。彼らは梯を登った先、どうなるかを知らないのだ。
 酷くて、誰も救われない戦いだった。
 彼らが梯を登った先で、幸せになれるよう、私は心から祈った。