空白の進路調査書 - 後編 -

 アラハギーロのムーニス国王帰還の知らせは、瞬く間にグランゼドーラを巡って行くだろう。
 飛び立った伝書鳩は流れ星のようにレンダーシアの各所に向かって飛び立って行った。調理場は宴の準備に大わらわ。大門から王宮へ徒歩で戻って行ったワカメ王様をもみくちゃにした住人達も、もう帰って来ないと諦め掛けていた王の帰還に砂漠中に響き渡るほどの歓声をあげた。そんな興奮はその日の暮れには夜風と共に冷え始め、とある疑問が頭を擡げ始めた。
 王とカレヴァンという魔物使いの若者が帰ってきた。他の行方不明になった兵士達は…? と。
「本当に真実を告げるつもりなのじゃろうか…」
 ガノさんは神妙な面持ちで、オアシスの上に掛かる橋から王宮と城下町を見ていた。そろそろ床に就く頃合いに更けてきたというのに、酒場には多くの人々がいて酒を交わし、井戸端には女性達が集まって話し込んでいる。王の帰還当日とあって、旅人達もアラハギーロを包み込む不安と興奮に目が冴えてしまっているらしい。
『嘘を言っても仕方がないだろう。でも、受け取り方次第で、この国の在り方が崩れるかもしれないね』
 そう。今回の騒動の発端は確かに魔族が仕掛けた戦争だろう。
 でも、多くの兵士達が帰ってこれなかった原因の殆どが、人間を裏切ってしまったベルムドさんにあるのだ。魔物使いと人間の確執。アラハギーロの住人が魔物使いや魔物に不信感を抱いてしまったら、この国の在り方は大きく変わるだろう。モンスター闘技場は閉鎖され、モンスターバトルロードは開催されなくなる。人々の魔物への理解は遠のき、人々は無知が故に魔物を恐れて行くようになるだろう。
 そうならないようにしたいとは思っている。けど、それは僕達にはどうにもできないことだった。これは、アラハギーロの問題なんだ。
「では、よろしくお願いします」
 そう声が聞こえた先は、固く閉ざされたモンスター闘技場の扉の前だった。見遣れば、薄く開いた扉を挟んで二人の人影がなにやらやり取りをしている。頭を下げたのは、外側にいた影だった。
 扉を閉めてこちらに向かってきたのは人間の男性だ。彼は砂塵避けの外套ですっぽりと体を覆い、帽子に挿した煉獄鳥の尾羽を揺らしながら歩いてくる。城下町や王宮に向かうのなら、オアシスの橋を渡るのは当然だ。道を開けるために端に寄った僕達に、男性は小さく会釈し前を通り過ぎていった。
『恐ろしい男だねぇ』
「生きながらに煉獄鳥の尾羽を持って歩けるとは、只者ではあるまいて…」
 魔鳥族の尾羽はその美しさから観賞用に珍重されるが、その取り扱いは非常に難しいとされる。中でも終世の羽根と呼ばれる尾羽は、その鳥が生まれて死ぬまでの間一度も抜けず、高い魔力を蓄た生きた魔法具と称されるほどだ。火喰い鳥なら常に炎に燃え、ホークブリザードなら冷気であらゆるものを凍らせ、煉獄鳥は呪いを振りまく。数多の美姫が、英雄が、その美しい尾羽で身を飾ろうとして、己の体に一生消えぬ傷を付けるというのは物語の定番の演出になる程だ。
 僕は目を眇めて冥界の世界に視点を寄せると、確かに煉獄鳥の尾羽には持ち主だろう鳥の魂が宿っていた。翼を広げれば馬と馬車を連ねた長さに匹敵しそうな、煉獄鳥にしては巨大な分類に属する魂だ。男性の肩に乗って毛繕いしていたが、僕が見ていると気が付いて、フッと息を吹きかけて来た。頬が火で炙られたように感じて、思わずよろける。
「イサーク青年。どうしたんだね?」
「大丈夫。ジロジロ見て失礼だって、お叱りを受けたところ」
 僕らは男が階段を登り、王宮に入っていくまでを見届けた。柔和な笑みを浮かべている男がこちらを向き、ふっと笑みを深くしたのを僕らは見た。

 □ ■ □ ■

『イサーク。いつまで寝ているんだね』
 わかっているよ、レディ。
 でも、窓や扉を開けてしまえば、はっきり聞こえてしまう。それが嫌だから枕に顔を押し付ける。
 早朝から兵士の身内達が、王城の入り口で陳情しているのだろう。『夫は…』『息子は…』『父は…』『孫は…』悲壮な声が朝の静寂から這い出して、亡霊のように歩き回る。
 旅の扉を渡ってこれなかった彼らの身内が、帰ってくることは難しいだろう。先日、クドゥスの泉で遭遇した三人組は、旅の扉を埋めたと言った。実際に王国の兵士が確認しに行った所、旅の扉があった場所は何もなくなっていたそうだ。二つのアラハギーロの道を繋ぐ手段で見つかっている道は、閉ざされてしまった。それ以外にあるだろう道は、雲を掴むように曖昧だ。
 陳情の声はますます悲しみを深めるだろう。人が起きるかどうかも分からない希望に縋って生きるのは、とても苦しいことだ。ワカメ王様が帰ってきて希望を見出しても、戻ってこない日々がその希望を絶望に変えていく。想像するだけで胸が焼ける思いだ。
 ふと。竪琴の音色が空気に満ち始める。楽曲は『神に祈りを』。地に膝を折って留まる祈りが、天に吸い上げられていくような繊細で透明な音が奏でられる。演奏の技術は高く、特に階段を駆け上がるように上がっていく音の細やかさは、指の腹で撫でるような曖昧さがなく弦一つ一つを爪で引っ掛けクリアに奏でている。
 僕は起き上がり手早く身支度を済ますと、レディを引っ掛け扉を開けた。
 竪琴の音色はシャボン玉のように儚げで、自分の心臓音ですら断ち切ってしまう細い蜘蛛の糸のようにそこにある。僕は耳を澄まし、音色に集中して雑音の中から竪琴の音色を拾おうとした。部屋を出て足早に進もうとした僕に、兵士がガチャガチャと鎧の音を響かせて近寄ってきた。
「イサーク殿。ムーニス陛下がお呼びです。謁見の間までお越しください」
 一瞬、断ろうと思ったけれど、音色はもはや人々の生活の音の海の中に飲まれて見つけ出すことはできなかった。糸を引き千切り逃げた大物とは二度と巡り会えないのが釣りの定め。僕は音を諦めて謁見の間へ向かった。
「お待ちしておりました、イサーク殿」
 迎えてくれた兵士が扉を開けると、そこには既に各国の要人が集まっていた。円形のテーブルの中央にはアラハギーロの宝石と称えられるシャインメロンがたわわに実ったプランターが、花と共に飾られていて甘い匂いを振りまいている。見渡せばガノさんも既に席に着いていて、手招きに誘われて席に着く。
 全ての席が埋まると、ワカメ王様は各々の顔を見ながら話し始めた。
「遠路遥々ようこそ。ワシの帰還を祝福する為に集われたこと、心から感謝申し上げる。じゃが、皆の者は、ただ、ワシの帰還を喜ぶ為に参られた訳ではあるまい。その為に、この席を用意した」
 集った者達は表情を引き締めた。
 もう一つのレンダーシアもまた混乱の只中。どの国も何が起きているのか、何が起きようとしているのか、わからぬままに今に至っている。そんな中で、行方不明になっていたアラハギーロの王が帰ってきた。何が起きたのか知りたいと思うのは当然。ガノさんが『ワカメ殿が玉座に座っているだけで、世界中の情報が駆け寄ってくる勢いじゃろうて…!』と言った通りになったわけだ。
 ガノさんが僕の腕を突いて、にやりと悪そうな笑みを浮かべて囁いた。
「絶好の機会じゃ。この機を利用し、レンダーシアの要人達とパイプを繋いでしまおうではないか」
 グランゼドーラからやってきた恰幅の良い中年の男性が立ち上がった。帽子を外しつるりとしたハゲ頭を撫でると、慇懃に頭を下げた。
「ムーニス陛下。本来ならば貴方様の帰還は、王族に連なる者や賢者が参るほどに喜ばしいことです。しかし、我が国はトーマ王子が戦死し、アンルシア姫が依然行方不明のまま。アリオス王は毅然とした態度で執務に臨まれておられますが、ユリア妃は心労に倒れておいでです。僭越ながら大臣を務めるこのコルシュが、代理として王の書状を読み上げさせていただきます」
 コルシュ大臣はそう言って書状を読み上げる。まずは帰還を喜ぶ言葉が連ねられた。ワカメ王様が行方不明になり、勇者の国であるグランゼドーラが手を差し伸べることすらできなかった悔しさと謝罪。そして、各国の更なる協力と、この混乱を共に乗り越えていこうという声掛けで締めくくられた。
 書状をコルシュ大臣から受け取ったムーニス王は、深々と頷いた。
「我が子が親よりも早く死ぬ苦しみは、筆舌に尽くし難い。アリオス殿の言葉、このムーニスしかと受け止めた。コルシュ殿、アラハギーロは全面的にこの混乱を乗り越える為の協力を惜しまぬ。後に認めた書状と共に、このムーニスの決意と感謝…そして哀悼の意をしっかりと伝えて欲しい」
「勿論です、陛下」
 そう固い握手を交わし、離れたのを見計らって声が掛けられた。ダーマ神殿からやってきた、次期大神官候補という二人の神官のうち、ジュアロという饒舌な方が口を開いのだ。
「ムーニス陛下。貴方様は今までどこにおられたのですか? なぜ、無事に戻ることができたのですか?」
 今、レンダーシアの誰もが抱いている疑問。この場に集まった全員の視線を受け止め、ワカメ王様は口を開いた。
「ワシはこのアラハギーロと似て非なる場所にて囚われ、殺されようとしていたのじゃ。それを、彼らに救われたのじゃ」
 ワカメ王様が示したのは、当然、僕達。ガノさんに突かれ、僕は立ち上がって彼らの視線に込められた疑問に答えた。
「僕達はレンダーシアの外、五大陸の精鋭で結成された調査団の一員です」
「五大陸…? 君らは、レンダーシアの外から来たというのかね?」
 僕とガノさんは深々と頷き、ここにくる経緯を語った。
 ある時を境に、レンダーシアは『迷いの霧』という濃い瘴気の霧に覆われてしまったこと。不思議な力でかき消され、ルーラストーンやバシルーラでの通行は不可能。『迷いの霧』の中は五大陸と交易のあった大型船はおろか、グランドタイタス程の超大型船でさえ突破できぬ大時化となり、五大陸とレンダーシアを行き交うことが不可能になったこと。
「レンダーシアの外も、そんなことになっていたのか…」
 ダーマ神官のうち、ゾデラという寡黙な方が渋い声で呟いた。
 僕らがアラハギーロに滞在してすぐに、レンダーシアと外の行き来については調べ尽くした。やはり、レンダーシアから五大陸に向かうためのルーラストーンが起動しない。船舶で外を目指したが、外海の時化は酷く引き返すばかり。世界最大にして唯一の豪華客船であるグランドタイタス号もなく、船で外界に出ることは不可能となっていた。
 内も外も符合した内容に腑に落ちた表情を見せたのを確認し、僕らは言葉を続けた。
 しかし、『迷いの霧』が薄まり、賢者ホーローの製作した『魔法の羅針盤』の力でレンダーシアに来ることができるようになる。五大陸の六王は『迷いの霧』に閉ざされたレンダーシアの内部を明らかにするため、各種族の精鋭を乗せた調査団を送り込んだこと。
 訪れたレンダーシアを捜索する過程で、多くの不思議な出来事に遭遇したこと。同じ村なのに、住んでいる人が全く異なる地。死した子供達が暮らす地と、生きている大人達が暮らす地が重なった刹那の時間。人と魔物が入れ替わり、似て非なる王国へ連れてこられた者達。調査団はそれらを検証し一つの仮説を立てた。レンダーシアは二つ存在するのではないかと…。
「我輩達はムーニス陛下とカレヴァン殿の記憶を頼りに、戦争で敗北してから連れてこられた道のりを遡った。そしてたどり着いたのが、このアラハギーロであったのじゃ」
 あまりにも突飛な話だからか、誰もが喉がつっかえたように沈黙した。最初に口を開いたのは、動揺で体が震えているジュアロさんだった。
「出来過ぎた話じゃないか? 魔物が化けている可能性だってあるんだ。信用するのは早すぎる」
「貴殿は、我輩達が魔物だと申されるのか?」
 ガノさんの声が怒りに震えている。僕らがここまでやって来る道のりが、どれだけ長かったことが。それが、ジュアロというこの男の一言で泡となってしまいかねない。僕だって思わず腰が浮く。
「我輩達は五大陸六王の連名の書状を携帯しておる。王に見込まれ、命を顧みず迷いの霧に飛び込んだ者達を魔物と疑うとは、これがレンダーシアの人間の礼儀であるのかね?」
「偽造しようと思えば、如何様にでもできる。今まで行き来できなかった海を渡り、もう一つのレンダーシアからやってきたなんて、どうして信じられる? 子供向けの童話でも、ここまで突飛でご都合主義な話はないぞ」
 確かに…。ムーニス陛下は騙されておいでなのではないか? そんな声が細波のように広がり始めた。その疑惑を叩き潰すように、ガノさんはテーブルに乱暴に手をついた。バンと大きな音が謁見の間に響き渡り、滅多にないガノさんの激高が轟いた。
「ムーニス殿は信じ、我らは信じられぬと申すか! それは女神ルティアナから生まれし種族神そのものを、侮辱する行為と同じことじゃぞ!」
「ここまで露骨に激高するとは、ますます怪しいではないか!」
 まずい。ドワーフはどの種族よりも種族としての自尊心が強い。ドワーフだからと信用されず、魔物と疑われるなんて到底我慢できないだろう。ただでさえ女神ルティアナ様の子供達は平等であれと、神話で語られている。人間だから、ドワーフだから、ウェディだからと、無意味な差別は許されないはずなのだ。
「ガノさん、落ち着いて…」
 僕が思わず引いた袖を、ガノさんは乱暴に払った。
「我らが種族神ワギを侮辱されて、落ち着くもあるかね! 本来ならこの場にてレンダーシアの謎を解き明かすための、協力を求めるつもりであったが、もうどうでも良いわい! 我々は勝手にやらせてもらう! 成果があったなら、貴殿らにも知らせてやるから安心するがいい!」
「ガノさん!」
 席を立とうとしたガノさんの前に、まるで軽業師のような軽快な動きでゾデラという神官が現れた。まるで親しい知人に挨拶するようにガノさんの肩に触れると、ガノさんはピクリとも動けなくなる。ゾデラさんは『失礼』と深々と頭を下げた。
「ガノ殿。貴方がこの部屋を出ていくだろう僅かな時間を、私にお預けください」
 ゾデラさんは片手を肩に置いたまま身を捻り、ジュアロさんを睨め付けた。
「ジュアロ。少し悪ふざけが過ぎる。種族神を侮辱されここまでの怒りを見せる者が、魔物であるとどうして言えよう」
 そして…とゾデラさんは重みのある声で続けた。
「話から推測するに、死したセレドの子供達に付き添っているオーガとエルフの娘は彼らの仲間であろう。彼女らのお陰でセレドの民の心の平安は保たれた。愛する子供達を失い絶望する親の心を、救うことすらできなかった無力な我々が疑える立場か?」
 ぐっと押し黙ったジュアロさんから視線を外し、ゾデラさんは深々と僕らに頭を下げた。
「同僚の無礼を許して欲しい。レンダーシアは混乱と絶望の只中であり、貴方がたを魔物と疑いたくなるほどに民の心は荒んでいる。貴方がたが我々に手を差し伸べようと現れたことは、ダーマ神の導きであろう。心より感謝すると共に、ダーマ神殿が協力できるよう大神官様に取計らおう。お力をお貸し願いたい」
 ワカメ王様はガノさんがふて腐っているものの座り直したのを確認して、声を抑えて話しかけた。
「これはまだ公にするべきことではないが、是非に耳に入れてもらいたい。ワシらが連れて行かれたもう一つのレンダーシア。そこにあるグランゼドーラに、どうやらアンルシア姫がいるようなのじゃ」
 コルシュ大臣が喉が張り裂けそうな大声を出そうと大きく息を吸ったが、それを声として出す前に、ワカメ王様が口を塞いだ。可哀想に。コルシュ大臣は真っ赤な茹蛸になってしまった。
「グランゼドーラへ続く門は締め切られており、実際に目にした訳ではない。だが、グランゼドーラから派遣された者が、『アンルシア姫に仕えている』と言っていた。これが何を意味するかはまだ分からぬが、希望を捨ててはならぬ」
 そして。ワカメ王様は僕らを示して言葉を続ける。
「賢者ルシェンダ殿に、彼らを引き合わせて欲しい。彼らの存在と情報は、この先に進むための大きな力になるはずじゃ」
 のぉ。ワカメ王様がぱちりとウインク。
 一番重要な情報を後出しするなんて、ワカメ王様も人が悪いなぁ。で、コルシュ大臣の顔色悪いから、手を離した方がいいと思うなー。

 その日の夕刻。アラハギーロの民は、再び開かれたモンスター闘技場の扉を潜りスタジアムの席に座っていた。誰もが戦争が起きてから開かれなかった扉が開き、自分達が幾度も熱狂を体験した席に腰を下ろせた喜びに浮き足立っている。モンスター闘技場で繰り広げられる、モンスターバトルロードが国民の娯楽であることが貴賓席から少し離れた場所に座っている僕らにもひしひしと伝わってくる。
 篝火が焚かれ、日中の暑さを閉じ込めた空間に、ワカメ王様が立った。彼は人々の歓声を一身に受けていたが、制するように手を挙げ一人一人の顔を覗き込むような真剣な顔に歓声は徐々に静まって行く。そして篝火の爆ぜる音が響くほどの静寂に満ちてから、一つ咳払いをして語り出した。
「皆の者には、まず、悲しい知らせを伝えるとしよう」
 ピラミッドに攻め入った魔族と、絶望的な戦い。魔物達と共に玉砕を覚悟した兵士達。心の闇、人への疑惑を突かれ魔族に利用されてしまった、闘技場管理人であるベルムド。入れ替わる魔物と人、そして、連れ去られたもう一つのアラハギーロ。
 ワカメ王様はベルムドさんは魔族に利用されたことを際立たせ、魔物に変えた兵士達を積極的に殺したことは告げなかった。魔族に怨霊に変えさせられた兵士長ゴリウスを救うため、多くの兵士達が残ったこと。そこまで語って、ワカメ王様は唇を引き結び人々を見上げた。
「ワシとカレヴァンが通って来た道は閉ざされ、残った兵士達が戻ることはとても難しいじゃろう。この戦争で死した多くの兵と、その家族にたいして謝罪してもし尽くせぬ。無能な王と罵られ退位を迫られても、決して断ることはせんじゃろう」
 人々は誰もが沈痛な面持ちだった。兵士の身内なのか、嗚咽している人も何人もいた。このスタジアムに集まった人は、近くも遠くも親族や知り合いが死んでしまったり二度と戻らないことを知って言葉を失っていた。
 夜が明けるかもしれないと感じる長い時間、罵声は一度も上がらなかった。ただ、只管に悲しい沈黙が、心に突き刺さるようだった。誰かが罵ってくれた方が、ワカメ王様も楽だったに違いない。光の届かぬ海底の底に、彼が一人立たされているように僕は見えた。
 ワカメ王様は訴えるように声をあげた。
「じゃが、ワシは送り出される時、彼らに言われたのじゃ。アラハギーロを、家族を、頼む…と。ワシはこの先の生涯全てを、アラハギーロに捧げるつもりじゃ。アラハギーロの民よ、今一度、ワシを信じてこの混乱の時期を共に乗り越えてはくれまいか?」
 それは泡のように小さい拍手だった。徐々に拍手は大きくなり、間も無く天地を泡立てるうねりに変わる。
 歓声の中ワカメ王様の横にカレヴァンさんが歩み出る。モンスター闘技場の新たな管理人の紹介は、最後まで人々の耳に届かなかった。あーあ。カレヴァンさんの『魔物と人との絆を新たにし、このアラハギーロを盛り立てる力になることを誓います!』って言葉、完全に呑まれてる。
 そして、ワカメ王様が白い封筒から手紙を出し、驚いた様子を見せた。
 そのタイミングを待ってましたかと言いたげに、篝火が次々と消えていき、上空を七色の光を放つムーンフェイスがゆっくりと降りてくる。耳に触れるのは竪琴の音色。紡がれる音は心臓の鼓動のようで、人々は何事かと周囲を見渡した。七色の球がふわりと吐いた雲が、観客席に流れて行くと赤々とした炎が映り込む。その炎はフレイムドックが縦横無尽に観客席を飛び越えたために生まれた炎だ。その炎の中を、プクリポのような毛玉の影が楽しげに踊り転がる影を刻む。
「今宵、アラハギーロが生まれ変わらんとする日を、皆さんと共に祝えて恐悦至極!」
 急降下したケツァルコアトルスから飛び降りたのは、あの煉獄鳥の尾羽をつけた男だった。彼は毛皮を裏打ちした防寒用の外套を羽織り、緑を基調とした衣を大きく振って、大げさにして慇懃な身振りで尾羽のついた帽子を外して挨拶した。尾羽が鬼火を振りまき、銀の竪琴が光を吸い込んで妖しく輝く。柔らかい茶色の髪にモコフルが飛び乗り、頭をあげると足元にころり。男性はカレヴァンさんに自信に満ちた笑顔を向けて、響く声で言い放った。
「さぁ! カレヴァン殿! この吟遊詩人ガライと共に、最高のショーを人々に興じましょうぞ!」
『吟遊詩人ガライ!』
 僕とレディとガノさんの声がハモった! っていうか、この会場全員が同じ言葉を発したことだろう!
 吟遊詩人ガライとは、現在の魔物と人間の共存の礎を築いた人物だ。モンスターマスターという存在が生まれたのも、人間と魔物の交流もなかった時代に心通わせ双方の橋渡しをしたガライさんの存在があってこそ。その手に持った銀の竪琴で魔物達を集めて路上ライブを敢行し、多くの魔物達がそのビートとリズムに酔いしれたという。
 アレフガルドの気候変動の際に、多くの魔物を異世界に移住させた実績は伝説にまでなっている。
 現在は本業である吟遊詩人として世界中の伝説を収集する傍ら、人間と魔物の調停を主に担っている。モンスターマスターとして公式の舞台に立つのは、モンスターバトルロードの本場タイジュの国でも珍しいし、アストルティアに限れば初めてのはずだ。僕が知る限りでも、ディオーレ様の成人のお祝いか何かで招待されて、海の魔物達が舞う最高のステージを披露したって話があるだけだ。アストルティアに来るだけでも、とんでもないことだ…!
「あ、あれは本物かね? 本物の吟遊詩人ガライなのかね?」
 思わず手を握り合っちゃったけど、ガノさんが興奮した様子で捲し立てる。
「やっぱりガノさんも知ってるんだね!」
「そりゃもう、吟遊詩人ガライが収集した伝説の数々に、我輩は恩恵を受けまくりじゃわい!」
 思わずなんか跳ねちゃう僕らに、押し寄せる竪琴とは思えない荒々しいリズム。これは『刃の旋律』だけれども、速度が一般的に普及してる楽譜と違って明らかに早い!細やかな指さばきに、一際高い音には口笛が添えられ、ドラム代わりにタップダンスなのか軽快に動き出す。
 ガライさんがこれまた良く響く声でカレヴァンさんに話しかけた。
「最初に披露するは刃の旋律1.5倍速! 場の魔物達全員に、ピオラとバイシオンの効果を付属させるのです! さぁ、カレヴァン殿! お客様を待たせてはなりませぬよ!」
 楽師達はその音を聞いたものを鼓舞し、様々な力を授けるという。ガライさんもその音楽で、自分だけでなく相手の魔物達の能力も底上げしてしまうんだ。双方の力を上げるから平等でルール違反にはならないんだろうけど、なんて破天荒な…!
 能力が上がってテンションが上がった魔物達は、最初っから全力でぶつかり合って行く。
 バトルレックスの舞うような斬撃を、まるで踊るように躱すケダモン。彼らは舞台の真ん中で刃の軌跡と、砂漠色の残像をドレスのように着こなして社交ダンスをしているかのようだ。その横でフレイムドックとスライムが本気でぶつかり合っている。スライムの弾力のあるトリッキーな動きと、フレイムドックのしなやかな俊敏性が、方向性が違っても極まった動きとして拮抗しているんだ。
 猫魔道の様々な魔法を、不思議な雲と顔芸で去なすのはフェイスムーン。頭上に浮かぶ月のような防御力と耐久力の高さは、放たれたメラストームの潮に上げられてウトウトと居眠りをかますほど。そんなのんき者の周囲で、熾烈な空中戦を繰り広げるのはキメラとケツァルコアトルス。少しのバランスでも失おうものなら、重力が地面に叩きつける。彼らはコロシアムの観客の真上を旋回し、急落下に急浮上。息つく暇も観客に与えない攻防を繰り広げている。
 曲は転調を経て『渾身の力を込めて』へ移行する。
 所々でテンションが上がる演出がなされた曲構成で、魔物達がどのタイミングで会心の一撃を放つか、痛恨の一撃を喰らうかの緊迫した試合運びに観客は手に汗を握る。そんな中で、僕は見た。
 コロシアムの屋根にはケツァルコアトルスが止まり、多くのケダモンが観客席に入り込んでいる。白熱した解説をする玄人の横で、したり顔で頷いているのは馴染みに馴染んだボーンファイター。そこだ!いけ!と興奮する観客と共に拳を振り上げるのは、図体の大きいブルファングやレッドオーガ!篝火が消えた会場が明るいままなのは、興奮したマーズフェイスが照らしているからだ。アラハギーロ地方に住む、多くの魔物達がこの一戦を見に集まって来ているんだ!
 この場の誰もの気持ちを高揚させ、この試合に釘づける稀代のエンターテイナー。あぁ、ルアっちがいたら、目をキラキラさせて『オイラもこんな芸をしてー!』って大喜びなんだろうなー! 見せてあげたかったなー!
 僕はアラハギーロに満ちていた憂いが、払拭されて行くのを感じた。この国は大丈夫。そう思わせる熱が、ここにあった。
 魔物使い達の声に応え、魔物達が力を尽くす。
 人々の歓声が、アラハギーロの復活を告げる鬨の声のようであった。