聖女が呪いを紡ぐ日は - 前編 -

 グランゼドーラはレンダーシア最大の都ですが、特に貴族が暮らす一角は重厚な伝統と繁栄の象徴たる贅が尽くされています。私達が掛けている椅子のクッションは身が沈むほどに柔らかく、天鵞絨の滑らかさは子猫のよう。香り立つ紅茶は胸の中まで香りづけされてしまいそうで、王国御用達の一級品だろう。純白の角砂糖を掴むシュガートングは純銀製で、花を持つ妖精の彫刻が施されています。グラスの切子は虹色の光をシルクのテーブルクロスに投げかけている。
 どうしよう。こんな素敵な空間、素敵すぎて、クラクラしちゃう。
 私とラチックさんの向かいに座っている殿方も、この空間にこれ以上もない程に似つかわしい男性です。年齢は壮年に差し掛かる前、顎髭は長く伸ばしているが口元は綺麗に整えていらっしゃいます。金糸の刺繍が前面に施された白いブラウスの胸元ははだけていますが、その下は褐色で英雄の石像にすら負けぬ引き締まった肉体美が覗いています。深紅のゆったりとしたズボンは一見派手に見えるが、渋いワインレッドで全体の華美さを落ち着かせているのです。
 背後に控えているゼルドラドさんは、いつもの部下への威勢はどこへやら。まるで調度品の騎士像のように微動だにしません。
「ピペ君。こうやって、書き手の顔と作品が繋がり、余は君への作品の魅力を再発見することだろう。先日もルネデリコ君に会ったのだが、彼もまた芸術家として斗出した理念と才能を披露してくれた。余はなんと幸運な時代に生きているのだろう」
 この方こそ、私の依頼人 マデサゴーラ様その人! いつもは手紙のやり取りだけなので、実際にお会いすることは初めてです! 低い美声が私の名前を呼んでくれると、思わずぶるりと体が震えてしまいます。
「余は今、別荘の建築しているのだよ。余が支援した有望なる芸術家達の作品が一堂に会する、レンダーシアでも最大にして最高の美術館といわれるような館になるだろう! そうだ、完成したら是非来て欲しい。君達の作品が一流の額と空間にいかにして飾られているか、見に来たまえ!」
 なんかもう、すっごく嬉しいことしか言われてない。ここは昇天の梯を登った先なんじゃないかってくらい、幸せで満たされてくる。私は本当に幸せ者だ。この方の言葉を一文字一句違わずに書き記して額に飾りたい。
「もちろん、ラチック君。君もだ。ピペ君の表現は君の補佐があってこそ体現される。遠慮することはないぞ」
 ラチックさんは短く感謝の言葉を言って頭を下げていました。
 それから怒涛のようにマデサゴーラ様は喋り続けます。彼は私がお渡しした絵一枚一枚に感想をお寄せになってくださり、逆に私がそんな絵を描いたことを思い出すほどでした。新進気鋭の芸術家達のお話。過去に活躍した王家の血を引く彫刻家エルノーラの話。私は筆談でしたが、それを気にさせないほどに話が弾んでしまいます。
 窓からの光が赤みを帯びて来た頃、ゼルドラドさんがマデサゴーラ様に耳打ちをされた。
「おぉ、もうそんな時間か。そろそろ、御開きとしよう」
『貴重な お時間をありがとうございます』
 私の筆を見て、マデサゴーラ様は柔らかな笑みを浮かべました。
「そういえば、君はアンルシア姫の肖像画を描く画家の選考会のために、グランゼドーラを目指していたそうだね」
 私はこくりと頷きました。
「こんなご時世だ。選考会は中止となったが、余も君が描くアンルシア姫の肖像画に興味がある。余の口添えがあれば、アンルシア姫の肖像画を描くことができるだろう。出来次第では購入も視野に入れよう。どうだね?」
 あぁ!なんてことでしょう! あの、アンルシア姫の肖像画が描ける! そんな名誉ある機会をいただけるなんて!
 返事はもちろん『はい』一択です。
「ゼルドラド、文を」
 マデサゴーラ様は書面を認めると、二つの便箋にそれぞれ入れました。蜜蝋で封をしたものは、グランゼドーラ王国へ渡すようにおっしゃいます。もう一つの封がされていない便箋を示し、マデサゴーラ様は言いました。
「封がしていない便箋には、私書箱の宛先が記されている。何かあったら、連絡をしなさい」
 マデサゴーラ様は、私が祖母と暮らし、日銭を稼ぐために小さい風景画を書いていた時に声をかけてくださった方です。今、芸術家ピペとしての私は、マデサゴーラ様の支援なしにはあり得ないのです。両親の行方は知れず、祖母と死に別れた私にとって、親に代わるような存在かもしれません。
 私は最大限の感謝を伝えようと、深々と頭を下げたのでした。

 □ ■ □ ■

 翌日、私達はグランゼドーラ王国の門を潜る事になりました。
 マデサゴーラ様の書状を門番さんに見せると、あれよあれよと偉い人がやって来て謁見を許されたのです。ですが、アンルシア姫は『勇者姫』として、グランゼドーラ領内で暴れている魔物達の討伐でお忙しいそう。今朝方に発たれて、帰還は昼頃とのです。私達は城の中にある数多くの美術品を鑑賞して、勇者姫様のお帰りを待つことにしたのです。
 勇者アルヴァンの物語が大好きなミシュアさんも、勇者の像に歓声を上げています。
 グランゼドーラ王宮の門を開いて真正面に位置するのが、大剣を雄々しく振り抜いた勇者の石像。一千年前、不死の勇者と相討ちして世界を救った勇者アルヴァンの勇姿と偉業を後世にまで伝えるために、王家の血縁であり当時最高の彫刻師であったエルノーラが魂を注いだ傑作と言わしめる一作です。恐らく使われているのは、鉱山資源に恵まれたリャナ地方の最高品質の大理石。磨けば真珠の輝きを放つとされる一級品です。マントが広がる様、服のシワを計算に入れた模様の活かし方、本物の質感を彷彿とされる彫り、どれもが息をのむほど。大剣を振り抜くがための筋肉の躍動、髪の乱れ、衣類のシワの刻まれ方、それらが一体となった躍動感あふれる作品です。凛々しい勇者の表情に、石碑の前で見上げる私達の背もぴんと伸びるようです。
「凄い! 凄いわ! 勇者アルヴァン様はこんな姿だったのね!」
 私はミシュアさんと手を取って、石像の前で小躍りします。
「たかが 石像 じゃないか…」
 全く! ラチックさんは、女心がわかってないんですから! こんな素敵な殿方を、こんな素晴らしい技術で現代に伝えたことがどれ程に尊いことか…! あぁ、スケッチブックの残り枚数に気をつけないと、アンルシア姫様を描く枚数が確保できないかもしれない! ピペ。我慢。がまん。
 背後がざわめく。馬が嘶く声が聞こえ、多くの足音が響き始めた。門が開かれ、兵士が金のファンファーレを鳴らし、高らかに勇者アンルシア様が帰還されたことを場内に響かせた。警備の兵士達が集まり、厨房の料理人や、侍女達が深紅の絨毯の脇に整列して居住まいを正す。
「お客人」
 声を掛けた主を見ると、華美ではない堅実な身なりの老人でした。彼は侍従頭のダイムさんで、アンルシア姫様を待っている間は遠巻きに控えてくださっていたのです。彼は口元に柔和な笑みを浮かべて、誘うように手を指し示しました。
「さぁ、我らが勇者姫様のご帰還です。ご挨拶を致しましょう」
 ミシュアさんの赤いエプロンドレスのような、深紅の絨毯を進むと門を正面に立ちました。大きなファンファーレが再び鳴り響くと、絨毯の傍に並んでいた兵士や従者達が一斉に頭を垂れたのです。私達はダイムさんの後ろから、武器を掲げ歩み寄る勇ましい戦士達の姿を見たのです。先頭を歩く小柄な影は魔物の血を浴びているのか濃紺色の外套とフードは、漆黒のシミが不自然に見て取れます。
「ダイム。城内は変わりないか?」
「勇者姫様が領内の魔物を討伐されておられるおかげで、この城内は花瓶の位置一つ変わらぬほどでございます。…と、申したいところですが、先日ご来訪されたマデサゴーラ様の書状を携えたお客人がおいでです」
 小柄な影が強張ったのが見えました。ピクリと、それはほんの些細な引き攣りにすぎませんでしたが、返り血を浴びないために体をすっぽりと覆った外套の裾はその僅かな動きを大げさに表してしまったのです。恭しく差し出された蜜蝋の封が押された便箋を受け取り、ダイムさんが傍に下がる。
 私達を見た小柄な影は、今度こそ大きく驚いたのか肩が動いておいでです。外套の影から色白く細い腕が2本現れると、首元の金具を慌てて外そうとされる。絡んでいつもよりも手間取った金具を外すと、その細い腕はフードを掴み外套を脱ぎ捨てたのです。
 !
 私達は言葉を失いました。
 緩く癖のある亜麻色の髪。色白い肌に際立つ、青い瞳。そう、それは。
「私…?」
 それはどちらの声だったのでしょう? 声までもそっくりだったのです。鏡合わせのように二人の女性が立っている。ミシュアさんとアンルシア姫様は、まるで双子のように何もかもが似ていたのです。
 驚かれたアンルシア姫様ですが、湯浴みをしてから改めて謁見をしようと述べて去って行かれました。勇者で戦士であっても女性。魔物と戦った直後の薄汚れた状態は、我慢ならないものです。
 謁見の間の玉座に座った姫様は、紺色のサーコートにズボンという出で立ちです。サーコートにはグランゼドーラの勇者の印、剣と勇者が跨ったとされるペガサスの翼、そして勇者に力を授けた人間の種族神グランゼニスの力を簡略化した紋章が金糸で縫い付けられています。香油で艶やかになった金髪、湯浴みで赤みさす健康的な頬、自信に溢れた瞳。どれをとっても勇者姫と謳われる存在感を醸しておられます。
 姫様はマデサゴーラ様の書状を読み終えると、私に微笑みかけた。あぁ、とても安心感を感じる暖かい笑みです。
「美術に深い智見を得ておられるマデサゴーラ様が見込んだ才ある芸術家ピペよ、そなたが私を描くことを許そう」
 ありがとうございます! 私は五体投地という勢いで、頭を下げました。よいよい。気を良くしたアンルシア姫様が声をかけてくれますが、ミシュアさんと同じ声なものですから不思議な気分です。
「私の肖像画がマデサゴーラ様の画廊に飾られるやも知れぬとは、望んでも得られぬ栄誉だ。かの御方がご所望になる大作を描けるよう、可能な限りの便宜を図ろう。冒険者としての腕もあるならば、討伐に同行しても構わぬ」
 何ということでしょう。ラチックさんを連れて、グランゼドーラ中の画材屋のスケッチブックを買い占めてこなければ…!
 アンルシア姫様がミシュアさんに視線を向けました。笑みはそのままに、自信に満ちた声色で語りかけるのです。
「ミシュアと言ったな。ダイムから聞いたが、記憶を失っているそうだな?」
「…はい。私が何者なのか、なぜ大怪我を負いメルサンディ村の入り口に倒れていたのかを思い出すことは今もできません。レンダーシアを巡っても私を知っている人に、未だ出会ってもおりません」
 ミシュアさんがそう答えると、アンルシア姫様は哀れみの表情を見せました。
「己のことなのに己の思うようにならぬ、もどかしさ。我が身のように感じる。さぞや、辛いことだろう」
「勇者姫様に比べれば、そんなことは…」
「この世には自身と似た顔を持つ者が3人はいるという。こうして出会えたことは、得難き縁であり運命やもしれぬ」
 姫様は有無を言わせぬ口調で言い放つと、さっと玉座を立った。凛とした声でダイムさんを呼びつけると、間も無くダイムさんが現れた。この王宮の誰よりも洗練した一礼をしたダイムさんに、姫様は命じたのです。
「これより、この3名を私の客として向かい入れる。ダイム、客人の生活や要望が円滑に行えるよう援助するように」
 驚く私達にアンルシア姫様は、楽しげな笑みを浮かべて言いました。
「遠慮することはない。望むなら寝顔だとて描かせてやっても良いのだぞ…!」
 そう快活に笑う声を残し、去って行くアンルシア姫の背中に私は再度深々と頭を下げたのでした。

 アンルシア姫様は私達のために、歴代の王族の住処を客室として解放してくださいました。
 東の塔の最上階の部屋をアトリエとして私とラチックさんに、ミシュアさんは西の塔の最上階を与えてくれたのです。塔は城と直結していて、最上階であっても階段の上り下りをしなければならない不便さはありません。アンルシア姫様の私室よりも奥まった場所にあって恐縮なのですが、姫様は少しの時間も惜しいので遠い部屋に住みたくないとおっしゃいました。
 アンルシア姫様は、目も回るご多忙の日々を過ごしておられます。
 目下の問題はグランゼドーラ領内の魔物の討伐。被害が出ればたとえ食事中であっても、飛び出して行かれます。被害がなくとも、朝と夕方に必ず巡回。巡回でも会敵すれば戦闘となり、戻って来たのは深夜であったことは珍しい事ではありません。
 グランゼドーラの民の生活も姫様の細い両肩に乗っており、城内でお過ごしの時は執務机に噛り付いておられるのです。
 私はアンルシア姫様を見て、彼女は何時眠っているのか分からなくなります。兵士さんにお尋ねになっても、『姫様がお休みになっているところは見たことがありません。あぁ!身を粉にして働く我らが勇者姫の庇護は、母のようであります!』と答えられる。
 確かに姫様はお強く、人々を導こうと頑張っているお姿は頼もしい。でも、その重責を和らげようという思いやりよりも、勇者という人を超えた力ゆえに崇拝の念を持ってしまう人が多いようです。
 お疲れになるでしょうに。
 人々の中心にいながら、孤独であると思えてしまいます。
 アンルシア姫様は私の元にも足繁く通ってくださいました。私はダイムさんにお願いして、姫様がお好きなお茶を用意していただき、ミシュアさんが焼いてくださったクッキーでおもてなします。まずは一番魅力的な姫様を見つけること。自然体の姫様をデッサンするということに偽りはないため、姫様も徐々に小さなお茶会を楽しまれるようになってきました。
「アンルシア姫様は、どんな方が盟友になると思っているんですか?」
 記憶喪失のミシュアさんが厳密に何歳かはわかりませんが、お茶会を重ねる度に私も嫉妬してしまうほどに姫様と仲良くなってきました。ミシュアさんは元々、勇者アルヴァンの物語が大好きなものですから、当代の勇者姫様に興味津々です。
「盟友か…。まだ勇者として覚醒もしていない身で、盟友のことは考えれぬな」
 グランゼドーラは勇者の王国。人間の種族神グランゼニス様が特別な力を授けた血筋の中から、危機が訪れる時に勇者として覚醒する特別なお人が生まれるのです。覚醒するとアストルティアの空を黄金に染めるほどの、清らかな力が迸るのだとか…。勇者様は悪しき者と戦うための様々な力を得るとされますが、その中で最も特別なのが『盟友』という存在なのです。
 盟友は勇者の傍に存在する、盾であり剣であり、そして心の支えなのです。しかし血筋や生まれに関係ないそうで、勇者と一際強い心の結びつきをした存在が盟友となると言われています。
 姫様の苦笑は、自身の孤独を嘲笑っているかのようでした。
「アンルシア姫 頑張ってる。倒れなければ 勇者 なれる」
「そうよね! 頑張りすぎて心配になっちゃうわ!」
 ラチックさんとミシュアさんの言葉に、アンルシア姫が目を丸くしました。
「私の心配をしているのか?」
「そうですよ! 魔物退治に王国の執務、朝から晩まで働いていたら疲れてしまうものですよ。アンルシア姫様は確かに強くて頼りになるお方ですけど、人なんですもの。きちんと睡眠や食事をして、心穏やかに生きていいんですよ」
 ミシュアさんはアンルシア姫様ににっこりと笑って見せました。その笑顔に、アンルシア姫様の頬をさっと朱が挿したのです。
「盟友を得るとは、こんな心地なのやもしれぬな…」
 そう紅茶を啜る横顔は、凪いだ湖面のような穏やかさがありました。
 必死さばかりのお顔でしたが、こんな表情もお見せになるのですね。私はスケッチブックの上を軽快に走り描かれた表情を見て思うのです。でも、足りない。この姫君の見えない部分が絵を軽くしている。上辺だけの姿を紙に留めただけでは、とてもマデサゴーラ様を満足させる一品にはなり得ないのです。
 私はミシュアさんと本物の姉妹のように笑う姫君を見ました。お茶の暖かい甘い空気。気遣いの心地よさ。笑いあえる友人。しかし彼女が勇者である限り、この空気にばかり身を置くことは許されない。
 ぽっかりと大きな空白のようなもの。それを埋めるのは何なのか。私が見えていない姫様は、どんな姫様なのか。
 勇者としての彼女が見たい。私は強くそう思ったのです。