聖女が呪いを紡ぐ日は - 後編 -

 轟々と滝が流れる音が反響して、全ての音を飲み込んでいる。洞窟全体が巻き上げられた滝の飛沫を受けているのか、闇に沈んだ岩壁が艶やかに光を受け流している。ランプを持って先導するグリモスという兵士が『足元にお気をつけください』と声を掛けてくれた。ブーツの裏が苔に滑ったけれど、さっとラチックさんが支えてくれた。
「ありがとうございます」
 足を踏み替えしっかりと地面を捉えたのを確認して、脇に差し入れられていた指が離れて行った。ラチックさんの毛皮のフードから心配そうに見ていたピペに微笑みかけると、プクリポの愛らしい顔がホッとしたように崩れた。
「魔物の 気配 近い。気を つけろ」
 ラチックさんの太い声色に小さく頷く。周囲から多くの視線が投げかけられていた。自分たちの縄張りに入ってくる者が、敵か味方か品定めしている眼差しは気持ちがいいものではない。それでも、兵士達の巡回ルートになっていて踏み固められた道から外れなければ、魔物達は襲ってくる様子はなかった。
「もうすぐ、凶暴化したアルゴンリザードの縄張りになります」
 グリモスさんの言葉に前方へ視線を向けたけれど、先導の光も届かぬ深い闇が続くばかりだ。
「巡回の兵士の報告では、胸元が陥没し塞がりつつありますが切り傷があります。何者かが手負わせた個体で、人間に対して害意を持ってしまったのでしょう」
 ピペが『戦う勇者姫様が見たい』と申し出て、同行することになったのがゼドラ洞のアルゴンリザード討伐だった。先導、アンルシア様に続いて、5人の兵士達が討伐にやってきている。5人の兵士達は私達の護衛ではなく、自分達の身は自分で守るという前提での同行だった。
 思わず盾を握る手が力んでしまったようで、アンルシア様が振り返って笑った。
「そう緊張するでない、ミシュア。アルゴンリザードなど、私の敵ではない」
 兵士達もその言葉に大きく頷いた。『勇者姫様がおられれば、いかなる魔物も脅威ではない』そう口々に言う。手放しの賞賛にアンルシア様は鬱屈した表情を浮かべながら、私達に言った。
「テグラムいればお前達の護衛に据えたのだが、生憎、行方知れずでな…。人手が足りずに不安を抱かせて申し訳ない」
「謝る 必要 ない。 ピペの わがまま うるさい。すまない」
 ラチックさんの言葉にピペがペチペチとバンダナを巻いた頭を叩く。まるで幼子のような仕草に、私もアンルシア様も表情を緩めた。
 広大な洞窟に巨人の影が列をなして進む。洞窟の入り口付近で感じていた生温い潮風はもうなく、鳥肌が立つほどに冷え切った地下水の湿気と滝の落ちる力で生み出された冷風が吹き付けてくる。壁に引っ掻かれた爪痕は深く鋭く、この先に住む住人が『俺はこれほどに恐ろしく強いのだ』と知らしめているようだった。
「ようやく、目的地へ着いたな」
 アンルシア様の声が滝の音に飲まれる。肩に払った外套が、アルゴンリザードが侵入者へ向けた咆哮で大きく翻った。
 紺の衣はまるで闇を滑るように真紅の巨獣に迫った。振り下ろされた鋭い鉤爪を蝶のようにひらりとかわし、まるで翼でも背に生えているかのように軽々とアルゴンリザートの背に降りた。抜き身の白刃にいきり立った別の個体が、アンルシア姫の乗っている個体に体当たりをして両者が揉んどり打って地面に倒れた。
 兵士達も次々にアルゴンリザードの群れに突撃していくが、長い尾に払われ転倒し踏みつけれる者、短い腕と油断して爪に切り裂かれる者が続出した。優雅に翻弄するアンルシア様と違い、兵士達は明らかに劣勢で足手まといに見えてしまう。
 私達も手伝うことがあるだろうかと、やきもきした時、アンルシア様がさっと腕を振り上げた。淡い光が雨のように兵士達の上に降った。傷が塞がり、立てなかった者が重い体を引きずりながらも立ち上がる。ベホマラー。こんな上級の回復魔法を僧侶でもないのに使いこなす…、これが勇者という存在の実力なんだわ。
 アンルシア様が白刃を閃かせるごとに、アルゴンリザートの尾は断ち切られ、深く切り込まれた鱗から鮮血が迸る。逃げる背を切り裂き、転倒した背を踏みつけて笑っていた。ほぼ一方的で圧倒的な戦いを、彼女は楽しんでいるようだった。
 笑っている。
 胸がざわめいた。『違う』と、心のどこかから声がする。
 勇者は魔物と戦い、苦境に立たされることばかりで戦いに笑みを見せる印象がない。それでも、弱きものは敵であっても差し伸べている優しさを持つ者だ。戦意を失った魔物を見逃し、殺した魔物達が天の梯を昇れるよう祈る。そんな存在であったはず。
 …どうして、そんなことを思うんだろう。
『轟く雄叫びが空に震えました。ギーっと不気味な音を立てて大地は割れ、地獄の門が開いていきます』
 男の子の声が聞こえる。声変わりのしていない、まだ幼さの残る声。
『地の底から恐ろしい魔物達が現れ、アストルティアを真っ暗な闇で覆ってしまったのです。ですが、人々は嘆くことはありません。なぜなら、グランゼドーラ王国に勇者がいたからです』
 これは、勇者様の物語だ。どうして忘れていたんだろう?
 今までピペの絵本を読んでも懐かしいと思うばかりだったのに、この声を聞いただけで全ての内容が湧き出でる泉のように次々と思い浮かべられる。
『勇者が力を解き放つとアストルティアは暖かい力に包まれ、魔物達は逃げて行きました』
 そうだ、勇者様が無益な殺しをしないと思ったのは、その一節があったからだ。勇者様の力は魔物達を殺すのではなく、人を守るためにある。逃げる魔物を追ってまで殺めるような人ではない。
 アンルシア姫は…この人は、勇者じゃない。
 心の声が、なぜか断言した。
「ボーッと するな! ミシュア!!」
 ラチックさんの声が思考を切り裂いた。切り裂かれた隙間から現実が飛び込んでくると、目の前にアルゴンリザートが迫っていた。その手が振り上げられ、今、振り下ろされようとしている。
 爪が私を切り裂く! 盾を滑り込ますことも、避けることもできない。その事実が恐怖になって、私の口から悲鳴が迸った。青い瞳を大きく見開き絶望に塗れたひどい顔をした娘が、迫る爪に歪んで映った。それから視線を引き剥がし、頭を抱え、強く目を瞑り、ぎゅっと体に力を入れた。爪が肉に食い込んで切り裂かれてしまうのが恐ろしくて、体が小刻みに震えた。あと、どれくらいでアルゴンリザードの爪が私に届くのか、一呼吸も満たない間か、それともあと一呼吸できる間か、それすらも分からなくてひどく混乱する。目を開ければ疑問も解けるはずなのに、恐ろしくてできなかった。
 襲ってくるだろう暴力は、なぜだか今だに訪れない。
「ミシュア」
 ラチックさんの声がして、肩に彼の大きな手が乗る。恐る恐る目を開いて顔を上げると、魔物の返り血を浴びたラチックさんが私を覗き込んでいた。ピペが栗鼠のようにラチックさんの肩から腕を伝って、私に抱きついてきた。ぎゅっと首に回した腕の力が強い。
「大丈夫か?」
 声を掛けられて、私は改めて自分の体を見下ろした。この洞窟に入ってきた時と、何一つ変わらない自分の姿がある。真紅のエプロンドレスは解れ一つなく私の体を包み込み、体の何処も痛みはない。私は微笑んでラチックさんを見上げた。
「大丈夫。ありがとう、ラチックさん。私に襲い掛かったアルゴンリザードを、退けてくださったんですね」
 ラチックさんが複雑な顔をして『いや…』と言葉を濁した。
「俺 助けた 違う。わからない。けど ミシュアが 光って…」
 言葉は突然遮られ、右手に鋭い痛みが走った。驚いて見ると、アンルシア様が私の右腕を掴んで私を覗き込んでいる。その瞳は飢えた獣のようにギラギラと輝いてて、笑みは希望と期待に堪えられずに溢れている。
「お前は、今、勇者の力を使ったのだ」
 え? 声は喉を震わせず、空気が口から漏れた。
「私は生まれて此の方、出来ることは全てやった。血の滲むような努力も、人々への無償の善行も、勇者の覚醒に必要と思われることは全て行った。勇者姫と人々に崇められる存在になった。それでも、私は覚醒できない。何故なのか、ずっと考えていた。ミシュア…お前が現れるまでは」
 腕を掴む手に力が込められた。みしりと嫌な音がして、私は痛みに身を捩った。
「お前こそ、私の失われた半身。私から抜け出た勇者の力なのだ」
 電撃のように驚きが走った。何を言っているのかわからなかったけれど、私がミシュアであることを否定されているのは分かった。ミシュアはメルサンディ村の村長であるガッシュさんが付けてくれた名前。ミシュアではない他人の名前なら、ここまでの衝撃はなかっただろう。アンルシア様は、私が人間ですらないと言ったのだ…!
「違う! 私はミシュアです! 貴方の半身なんかじゃありません!」
「なら何故、お前に記憶がない? 何故、お前は今無事だった? ラチックが言ったであろう? 助けたのは自分ではない、ミシュア、お前が光ったと…。勇者の力が光となって、アルゴンリザードの攻撃を防いだのだ」
 腕を強く引かれ、腕が引きちぎられるのではないかという痛みが走る。底冷えするような冷たい声が、耳を愛撫する。
「お前は私から抜け出た勇者の力。一人の人間ですらない」
「違う! 私は…!」
 わたしは ほんとうは ミシュア じゃない。
 その事実は、私の胸深くに鋭く突き刺さった。本当はアンルシアという名前なのだと、心の奥底で頷く自分がいる。でも、目の前で私の腕を強く掴む人の半身であることは、とても認められなかった。絶対に違う。私は貴方ではないと、私の全てが否定して拒否している。
『勇者はペガサスに跨って、魔王の城へ乗り込みました』
 また、あの男の子の声がした。私と同じ亜麻色の髪で、青い瞳の利発そうなラスカと同じくらいの男の子。彼は私の隣に座って、勇者の物語の本を読んでくれている。
『霧が深く立ち込める中、勇者は城の奥へ進んでいきます。一歩一歩進むたびに足取りは重くなり、体に鉛を流し込まれたように重くなっていきます。ついに一歩も動けなくなった時、魔王の恐ろしい声が響きました』
 『罠にかかったな!勇者よ!』そう、わっと私を脅かしてみせた。驚いた私を見て、弾けるように笑うのを見て、心の底から慕わしさが湧いてくる。私はこの男の子が好きだった。この子のためなら、なんでも出来る気がした。
 この子は誰なの? これは記憶を失う前の、本来の私の記憶なの?
 兵士達が私を捕らえようと群がり、世界は地面を失って体は急流に揉まれる木の葉のようだった。何が本当なのか、本当のことも真実なのか、何もかもが混沌として何一つ知らせぬままに私を捕らえている。
 いつの間にか涙に濡れていて冷たくなった頬が、ふわりと暖かくなる。
 目を開けて見ると、ピペの顔がすぐそこにあった。兵士達が引き剥がそうと、互いに揉みくちゃにされながらも、小さい手が私を離すまいと必死にしがみ付いている。
「乱暴 やめろ!」
 ラチックさんが外から仲裁に入ろうとするが、兵士達に阻まれて揉み合いになっている。
 私が何者なのか、そんなことは二人にはどうでもいいことなのだ。私が例えミシュアでなかったとしても、ピペとラチックさんにとって私は一緒にここまできた友人なんだ。
 アンルシア姫と一つになりたくない…!
 先程までの拒絶とは、比べ物にならないほど強い想いだった。
 一際強い力に蹌踉めき、小さな手が引き離される。
「ピペ…!」
 小さいピペが宙を舞う。伸ばそうとした手は、兵士に掴まれてピペに届かない。
『ゆうしゃさま まけちゃうの?』
 私の声は幼かった。上手く回らない舌を動かして問うた言葉に、男の子は目を輝かせ『負けないよ』と言った。
 ピペが私を見た。世界がまるで水飴の中に浸っているように、全てがゆっくりと動いて見えた。ピペが大きな口を動かして、伝える言葉一つ一つをはっきりと捉えることができた。
 まっていて むかえに いくから
『飛竜に跨った盟友が勇者を助けにくる。盟友はどんな勇者の危機にも駆けつけて、勇者一人では超えられぬ困難を二人で乗り越えていくんだ!』
 あぁ、ピペ。必ず来て。
 私は、まだ、ミシュアとして、生きていたい。
 自分が暗い闇の底に落ちていくなか、ピペが掴みやすいように精一杯腕を伸ばした。もう、男の子もいない。遥か上に星のように一点の光が穿たれていた。
 私は、ここで死んではいけない。
 そう思ったのを最後に、私の意識は闇に呑まれた。