神代の祈りが絶えた日の - 後編 -

 クロウズという男と一緒に、グランゼドーラ王家が緊急時に避難する為の道を遡っている。クロウズが言うには『乗りかかった船だから』だそうだ。本当は他人を巻き込むべきじゃないのだが、俺もピペも素人。避難経路と呼ぶには物騒すぎる道を進んでいると、調査団の一人であるベテラン冒険者の力はとてもありがたい。
 ミシュアが囚われている塔へ続く道。その出発点はグランゼドーラから固く閉ざされた三門へ向かう街道を進み、三門へ南下する道を外れて北へ進んだ断崖絶壁にあった。街道はないが平坦で歩きやすい平原を進むと、潮の香りが強い海風と共に出迎えてくれる。ほぼ垂直の崖は潮風に風化し、螺旋階段のような複雑な形をしている。風化しなかった崖は、橋のように馬車が一つギリギリ通れるかという幅で存在している。強風に煽られれば、白波に飲まれて死ぬほどの高さ。あまりの恐ろしさに、ピペはフードから一度も顔を出さなかった。
 そこからグランゼドーラの真下までつながっていると言う洞窟も、非常に危険な場所だった。メルサンディの地下水路のように狭く、ゼドラ洞のように恐ろしい魔物の気配でいっぱいだ。クロウズの先導がなければ、俺達は魔物に袋叩きになっているだろうな。震える俺達にクロウズは笑った。
「そんなに怯えなくて大丈夫だ。君らは特別だから、魔物にもそう簡単に見つからないよ」
 何が特別なのか、とても聞ける状態じゃない。もしかしたら、俺達の緊張をほぐそうと言っただけかもしれない。
 クロウズがマヌーサやメダパニを唱えて魔物を惑わしている隙をつき、俺達は奥へ奥へと進む。方角的にはまっすぐグランゼドーラへ向かっているようだ。鍾乳石が柱のように聳え、水滴が奏でる音楽が背中に張り付いて離れない。崖に錆びかかっている梯子が架けられていたり、松明を掲げる為の燭台があったりと、ここが確かに避難経路として使われているのだと改めて思う。
 早朝から出て昼過ぎに洞窟の入り口に着いて昼食を摂ったが、また腹の虫が鳴く程度の時間がすぎた。まだ歩くのかと思った頃、ついに足を止めた。とても頑丈な岩壁が垂直にそそり立っている。
「行き止まりか?」
 ランプを翳し岩壁を照らすと、洞窟の岩壁と全く同じものだ。方角的にはグランゼドーラに向かってまっすぐ来たが、どこかで道を間違えてしまったのだろうか?
「いや、魔物避けの結界の気配がする。道は合っているはずだ。外からの侵入を防ぐために入り口の扉を隠すことは、当たり前の防衛方法だろう。そして、外から攻め入られた時に逃げるのに用いるなら、出口は小さい方がいい。小さければ巨大な追っ手は、追うことができなくなるからな」
 そう言ってクロウズは岩壁を調べ始め、ピペもフードから抜け出てクロウズに並んだ。俺はランプを掲げ、魔物が来ないか見張っている。そうしてしばらく経った頃、かんかんかんと岩壁を叩く音が響いた。振り返ればピペが刷毛で岩壁を撫でるだけで、岩を切り出した隙間が現れる!
「流石、芸術家は目の付け所が良い。俺も気が付かなかったよ。ラチック、手伝ってくれ」
 その岩に取っ手はなく、俺とクロウズが岩を削って手を掛けられるようにして、ようやく引っ張り出すことができた。脱出経路だからグランゼドーラ側から押し出す扉だったらしい。欠けた岩はピペが接着剤で元通りに直す。
 岩の向こうは長身の俺やクロウズが屈み込まねばならない、天井が低い通路が短く続く。ピペの歩幅で10歩ほどで、扉に当たった。クロウズに促され、ピペがダイムから預かった鍵を差し込むとかちゃんと音が響く。
「ここから先はグランゼドーラの城内だ。人の出入りを想定していない場所とはいえ、見張りはいるかもしれん。気を引き締めていこう」
 クロウズの言葉に、俺達は深く頷いた。
 扉を開けた先は、明かりがなく真っ暗だった。ランプの灯りを絞って照らせば、煉瓦造りの壁と床、垂直に伸びる金属の質感が続いている。どうやら、牢屋のようだ。ガランとした牢屋は、朽ちかけた粗末な寝床や藁があるばかりで囚われている人や魔物の姿はない。耳をすましても、どこからか滲み出ている水が床を叩く音がするばかりだ。
 夜目が効くピペが、小ささを生かしてちょこちょこと先をいく。空の鉄格子を一つ、二つと数えて五を超えた頃には飽きた。突き当たりの扉が、篝火で照らされているのを見ると、そこらへんから人の出入りがあるのだろう。
 しばらく窺っていたが兵士が出てくる姿はない。クロウズが扉の前にすっと進み出た時、何気なく牢屋を見たら肩が跳ねた。声が出そうになったのを思わず手で押さえたらしく、勢いよく自分の顔を叩いて痛そうだ。
 何かを見つけたんだ。
 俺とピペはクロウズの傍に歩み寄り、クロウズの視線を追った。
 牢屋の中に人がいた。ランプの光に照らし出されたのは銀色の高価な鎧の輝き。鎧から伸びる四肢は骸骨ではないらしく、きちんと肉のついた膨らみが服の内側にあるのが見える。こちらには足を向けて顔を伏せているが、短い金髪はまだそれほど薄汚れてはいない。
 俺はそっと歩み寄る。牢屋に鍵はないが、扉は少し動かしただけで金切り声を上げる。ピペを抱えて蝶番に油を差させると、扉は文句ひとつ言わずに静かに開いた。
 男の傍に膝をつくと、男がかすかに息をしているのに気がついた。おい。小さく声をかけるも返事をしない。やつれた顔からは濃い疲労の色が見て取れた。男を抱き起こして手持ちの水を含ませると、男はうっすらと目を開けた。美しい空色だったが焦点が合わないのか、瞳が小刻みに揺れている。
「大丈夫か?」
「た…」
 助けてだろうか? それとも、誰だ? か。俺は蚊の鳴くような小さい声を紡ぐ口元に耳を寄せた。
「たべものを…」
 食い物か。ここに囚われて飲まず食わずだったのなら、確かに腹も減っているだろう。俺は荷物の中から携帯食であるビスケットを取り出し、男の口の中に入れたが薄く開いたままの口は閉じずビスケットはこぼれ落ちる。おい、食べ物だぞ。そう声をかけて何度か口の中に入れるも、男はビスケットを食い物と思っていないのか、食う元気もないのか一向に食おうとしない。
 たべものを…。たべもの…。うわ言が続くばかり。ついに俺は、お手上げとビスケットを捨てた。
 どうする? そう見遣ったクロウズは、彼自身のポーチを探り出した。
「実は相棒が今後の役に立つと、作ってもらったものがあるんだ。グランゼドーラ王城のカノック料理長が、材料が揃った日5食限定で作ってくれる『スペシャルランチ』だ」
 そうして取り出したるは、とても、とても食い物に見えない代物だった。ランプの光を吸い込むような漆黒の塊からは、腐った肉とも発酵した魚とも言えないような、そう、魔障の臭いがする。臭いからしてすでに食い物ではない。俺は思わずのけぞったんだが、ピペがちょっと美味しそうなものを見る目で『すぺしゃるらんち』を見ている。ピペ、絶対、それ食ったら死ぬ!
 腕で支えていた男の体がびくりと震えた。
「く、くいものぉぉぉおおお!」
 それは放たれた獣のようだった。空腹と衰弱で指一本、ビスケット一枚噛み砕けなかった男が、血に飢えたキラーパンサーのようにクロウズの手に持った『スペシャルランチ』に飛びついたのだ! 俺もピペも、クロウズでさえ予測できなかった。全員驚きの声をあげ、クロウズに至っては『スペシャルランチ』を取り落とした。
 地面に落ちた『スペシャルランチ』はぐしゃりと音を立てて潰れた。潰れた瞬間に悪臭が牢屋全体に広がる。それを四つん這いになりながら食らう男に、人間らしい行儀なんかない。食い散らかされた破片一つでさえ鼻が曲がりそうだ! あまりの臭さに俺とクロウズは鼻を押さえて牢屋から飛び出した。侵入した隠し扉まで逃げてきた俺は、横で嘔気付くクロウズに言った。
「あれ くいもの ちがう!」
「わかる。言いたいことは、よぉく分かるよ、ラチック。あれはね、アサシンブラッドから手に入れた『まりょくの練魂』、ロヴォス高地の『ソルトクォーツ』、『暗黒の樹木』『いかずちのたま』『へびのぬけがら』が材料なんだ。俺も食い物じゃないって思う。君の感覚は間違ってない」
 でもね。クロウズは逃げてきた道を振り返る。
「グランゼドーラの人間は、あれがご馳走なんだ」
 俺はゾッとした。あれが、ご馳走? あれは生き物の食い物じゃなかった。人間だけじゃない、動物だって口にしないだろう。あれを貪り食った男は姿形は人間だったが、人間ではないのか? グランゼドーラの人間は、人間の形をした人間じゃない何かなのか?
 この国はおかしい。ミシュアをここに残してはいけない。

 暫くしてピペが男を連れてやって来た。男は飢えから解放されて、清々しい好青年に変わっていた。土気色だった肌色は赤みが差し、淀んでいた瞳に生気が満ちている。男がした敬礼は俺達が見て来た兵士の中で、一番キレがあってカッコいい。
「危うく、飢え死ぬところだった。俺の名はテグラム。あんた達は俺の命の恩人だよ」
「テグラム!」
 俺達の驚きの声に、テグラムの肩が跳ねる。
 俺達はテグラムに今までのことを説明した。行方不明になって随分と経っていて、死んでいるのではと言われていること。ダイムが心配していること。ここに来たのは、ミシュアに会いに行くためだったこと。一通り伝えると、テグラムの神妙な顔にクロウズが訊ねた。
「なんで、君は牢屋の中で飢え死にしかけてたんだ?」
 牢屋には鍵が掛かってなかった。動けなくなるような手酷い外傷もない。飢えを感じたら逃げ出すことは、難しくなかったはずだ。あんな気色悪い食い物に飛びついたことを考えれば、死ぬつもりは更々なかっただろう。
「アンルシア様に命令されたんだ。ここにいろ。そう、命じられて動くことができなかった」
「命令 より 命 大事」
 俺の言葉にテグラムは首を振った。
「アンルシア様の命令には絶対に逆らえない。死ねと言われたら、俺は迷いなく自分の首を掻き切ると思う」
 俺達は互いの顔を見合わせた。グランゼドーラの人間は確かに、勇者姫アンルシアに心酔している。熱狂的支持とも言える彼らは、確かにアンルシア姫が死ねと言ったら死ぬかもしれない狂気を持っている。アンルシア姫に忠誠を誓っているだろう兵士のテグラムだが、それは兵士の忠誠心としての発言じゃなくて、ものを食うためには噛むのが当たり前みたいな当たり前の行動を淡々と言うような冷静さがあった。
「と、言うことは、君はアンルシア姫に命じられて、自分でこの牢屋に入ったってことか?」
 テグラムが頷くのを見て、クロウズは考えていることを言葉に変えるように語り出した。
「俺はグランゼドーラの連続失踪事件を追っていたんだ。人々が次々とアンルシア姫に会った後、消えていく。アンルシア姫の命令が一種の強い暗示ならば説明がつく」
 そこで、ふと、クロウズは顔を上げた。
「なぜ、ダイム殿はテグラム君の行方不明を心に留め続けられたのだろう?」
「自分の 家族 当然」
「いや、行方不明者の家族は行方不明者のことを直ぐに忘れてしまう。アンルシア姫に『失踪者のことは忘れろ』とでも言われたのかもしれない。だが、ダイム殿は例外なんだ。ダイム殿は孫であるテグラム殿が失踪したことに、いつまでも納得しなかった。落胆した姿は人々の記憶に伝播して、テグラム君の失踪は民の心に比較的長く残っている。それは、牢屋に入るよう指示したアンルシア姫にとって、不利になる」
 ダイムだけ特別。俺は頭が良くないから、わからない。
『ダイムさんは『ミシュアと話していると、心の靄が晴れたかのような気分になった』と言いました。ミシュアはアンルシア姫の暗示を打ち破る力を、自覚しなくても放っていたのかもしれません』
 なるほど。それぞれが納得した面持ちになった時、遠くで扉が開く音がした。
「ヒョーーヒョッヒョッヒョッ! テグラム君が死んでしまったようですよ! 魔力の高い素材でしたが、ちょっと放置しすぎてしまいましたねぇ!」
 鼓膜を突き破ってしまうような、耳障りな笑い声が地下牢を反響して四方八方から揺さぶってくる。ランプの火を消し、テグラムが囚われていた牢屋を伺える位置まで進む。篝火がかかっていた扉は開け放たれていて、光が地下牢に流れ込んでいた。
 牢屋の前にいたのは老人だ。自身の身長を超える両手杖を持って、魔法使いが好みそうな紫色のローブを着込んでいる。頭髪が変な形で、二つの角が天を突くように尖っている。老人はシワとシミだらけの皮膚から想像もつかない、ハリのある若々しい声で扉の向こうへ声をかけた。
「アンルシア様、もう少し悲しみましょうよ。貴女だってテグラム君に、ちょっとは期待していたでしょう?」
 アンルシア? この老人が話しているのはアンルシア姫なのか?
「我が手の内にミシュアがいる。もうテグラムに用はない」
 老人に比べればボソボソとした声だったが、確かにアンルシア姫の声だ。ミシュアとそっくりだから、聞き間違えることはない。アンルシア姫の言葉の最後にかかるように、『ヒョーッヒョッヒョッヒョッ!』と高笑い。
「左様でございますか。このキルギル、グランゼドーラの数多の民から魔力と生命を抽出し姫様に注いで来ましたが、あの娘の輝くような強い力は未だかつて見たことがありません。あの娘から魔力と生命を奪い姫様に注げば、姫様は今度こそ確実に勇者姫として覚醒しましょうぞ!」
「御託は結果で示せ、キルギル」
「それは失礼しました。今回の娘は今の機材ではやや手に余りますのでね、出力増強のための改造を強いられているのですよ。あと一つ素材を得れば完成です。ちょっとゲゾラ君でも借りて出かけて参りますね」
 ふと、気配が消えた。伺えば、牢屋の前にはもう誰もいない。
「魔力と生命の抽出?」
 ぽつりとテグラムが呟いた。その呟きを捕捉するように、クロウズが答えた。
「おそらく強力なマホトラみたいなものだろう。魔力と生命を強制的に過度に奪えば、奪われたものは死んでしまう。相手を殺すまで奪った力は、人一人の存在そのものであるから相当の量になるだろう。その譲渡先がアンルシア姫であるならば、姫は勇者として強くなる材料として民を利用していることになる」
 そこまで話して、クロウズはテグラムを見下ろした。
「君は間一髪、免れたようだ。命拾いしたな」
 テグラムは崩れ落ちた。膝が痛そうな音を立てて石畳に付き、乾いた瞳がぼんやりと扉の奥の光を写している。掛ける言葉も失って静かな空気の中、ゆっくりとテグラムは蹲った。冷たい石畳に投げ出された手が固く握られていくと、震える拳が石畳を叩き始めた。
「なぜ! なぜなんだ! 民を第一に考えていたアンルシア様が、なぜ!」
 悲鳴のように辛い言葉だった。
 失踪者が皆死んでいた程度だったら、まだ救われただろう。あのキルギルという耳障りな笑い声の男が、自分の欲望のために失踪者を弄び殺したのなら、テグラムは泣き崩れたりせずキルギルへの憎しみを募らすだけで済んだのだ。
 アンルシア姫はグランゼドーラの希望で、未来だった。民を導き、国を良くしてくれると信じていた。だから、失踪者がアンルシア姫の力の糧にされている真実は、信じている人々全てを裏切るには十分すぎた。
 この裏切りはグランゼドーラを絶望のどん底に突き落とす程度では、済まされないだろう。
 せめて、小さいものでいい。希望を与えなくては、立つことも、できない。
「テグラム」
 俺は膝をつき、テグラムの背をさすった。
「ダイム お前 待ってる 無事な 姿 見せてこい」
 テグラムは小さく頷いた。頷くだけで、精一杯だった。