天使が迎えに来る日まで - 前編 -

 その子供はこの夢の主の記憶にはいない筈の子供だった。
 瞳は黒に近い濃い紫で、紫色の髪は三つ編みにして可愛いらしい、齢は10を超えた辺りの女の子だ。ウエスタンハットが大きいのか顔を隠すほどに目深に被ってしまい、背の小ささも相まって幼子の印象を強める。ブラウスとスカートという庶民的な装いは、このグランゼドーラの王城の敷地では浮き立つ程に目立っていた。しかし、記憶にいる筈のない子供。夢の主の知覚の外に属する子供は、夢の住民に触れる事も、下手に領域を超える事もなく滞在している。
 遠目から夢の世界を覗き見ていた。
 今はシタル一座の公演に沸き立つ記憶が再生されていた。シタル一座はレンダーシアでは名の知れた旅芸人の一座。歌も踊りも曲芸も一流で、どんな小さな村からの要請も断らない細やかな配慮と場所を選ばない華やかなショーが人気を呼んでいた。
 勇者アルヴァンの彫刻が見下ろす大広間は、旗と風船に飾り立てられ、噂名高きオルフェアのサーカステントの中のよう。レミーラのスポットライトが輝けば、ジャグリングのボールが花に蝶にスライムに大変身! 厳かな賛美歌とコミックソングを行き来する歌い手に、集まった観衆は身をよじって笑ってしまう。筋肉隆々の男性を、団長らしき細身の男性が片手で持ち上げてしまうとはなんという怪力か。
 そんな公演の最後を締めくくるのは、美しい舞だった。まだあどけなさの残る少女の、差し出される指先一つにまで行き渡る意味。表情の喜怒哀楽に対応した舞踏を色付ける演出に霞もしない、彼女のほっそりとした体幹を支え揺るがぬ力。人々が固唾を飲んで魅入られている。特にアンルシアは輝く目で彼女を常に追っていた。
 フィナーレを告げるように、一座全員がステージに現れる。全員が四方八方に向けて手を振り、観客達が惜しみない拍手と歓声で一座をたたえた。そんな中、王族の者達が見ている席から姫君が飛び出した!
「ジャンナ! 素敵だったわ!」
「ありがとう! アンルシア!」
 歳の近い娘達が嬉しそうに抱き合い、眩しい笑顔を振りまく。その様子を三つ編みの幼子が、寂しげに見つめていた。
 気がつくと、シタル一座も大広間を埋め尽くす観客もいなくなっていた。いや、俺と幼子はアンルシアと共にジャンナの踊りを見ていた。音楽が無いからこそ際立つ、しなやかな動き。踊りが楽しくて仕方がない笑みで、アンルシアの手を取りくるくると回れば女の子達は弾けるように笑った。
 しばらく踊り続けて疲れたのだろう、二人は階段に腰掛けて他愛のない話を始めた。シタル一座の公演で訪れたレンダーシアの様々な街の話。王宮の暮らしの話。明るい話題が次々と湧いて尽きることがない。
 そんな楽しい会話の中で、その話題が出たのはただの偶然に過ぎなかっただろう。
「ねぇ、アンルシア。希望の花って知ってる?」
 ジャンナの問いにアンルシアは首を横に振った。体につけた沢山の貴金属が当たって涼やかな音色を奏でる。
「ここからずっと南のローヌ樹林帯に、希望の丘って綺麗な花が咲く所があるの。そこの花がまだ蕾の時にお願い事をして、花が咲くと願い事が叶うって言われているのよ。私、もっと踊りが上手になりたいってお願いしようと思うの!」
「ジャンナは十分踊りが上手だと思うけどなぁ…」
「だめ! まだまだ修行中なの! 座長の踊りの演技力を見たら、まだまだだなってきっと思うよ」
 シタル座長が踊る姿を思い出したのだろう。ジャンナは大げさにしょんぼりして見せる。が、それも一瞬。次の瞬間には満面の笑みでアンルシアに提案した。
「アンルシアにも、希望の花をとって来てあげる!」
「いいの?」
 ジャンナは「もちろん!」と大きく頷いた。
「だって、トーマ様の盟友になりたいんでしょ? 戦う事には男性に一歩及ばないかもしれないし、怪我をしてしまったら剣だって握らせてくれないかもしれないわ。アンルシアが盟友になるには、たくさん努力しないといけない。お花に願い事くらいしたって、良いと思うの!」
 ジャンナの言葉にアンルシアは大きく瞳を見開いた。この頃のアンルシアは、勇者である兄の盟友になりたいと剣の修練に励むじゃじゃ馬な姫君として有名だった。母は女の子が剣を持ち戦場に行く必要はないのですと諭し、父も男勝りの活発さに手を焼いていた時期だ。アンルシアの味方は、慈しむように微笑む兄だけであっただろう。
 おてんば姫の物語で城を蹴破る武勲名高き姫君がいたが、それよりか大人しいでしょう? と言い返すのがアンルシアの常套句だった。
「ど、どうして私の願い事が分かったの?」
「分かるわよ、アンルシア! 私達友達でしょう!」
 嬉しげに笑うアンルシアとジャンナ。彼女らはまさしく友達であっただろう。アンルシアにとっては、初めてと言える同じ歳のくらいの同性の友人だ。姫君という立場ゆえに、これほど親しげにしてくれる友人に恵まれるのさえ難しい。だからこそ、ジャンナは、特別だったのだ。
「ジャンナ。そろそろ行こう」
 シタル座長の声が闇の向こうから聞こえてくる。
 アンルシアが小さく声をあげ、ジャンナとシタル座長が振り返った。さらに奥にはシタル一座の面々が、馬車に荷物を積んだりと忙しくしている。大柄なピンクの覆面の男が、準備ができましたぜーと野太い声を響かせる。シタル座長が『先に行っているよ』と声を掛けて歩いていく。残されたジャンナに、アンルシアは萎んだ声色で言った。
「あのね。ジャンナ。私、希望の花なんて要らないわ」
「どうして? 別にお花にお願いしたからって、盟友になる為の修練を禁止になんかしないわよ。アリオス陛下はそんな心の狭いお方じゃないと思うわ」
 違うの。違うの。頭振ったアンルシアは友人の腕を取り、懇願するような眼差しを向ける。
「お願い、行かないで。ここに、ずっと居てよ」
 思いもしなかった言葉に、ジャンナに驚きの表情が広がった。驚きの表情が引いて、顔に薄く広がったのは寂しさと達観したような感情だった。彼女は旅芸人の一座の一人。どんなに開演した地域の人々と親しくなっても、根無し草は決して根付いてはいけないのだ。一座の人間は根付く事を止めるものはいないが、一員の誰もが芸の道を選んで出会いと別れを繰り返している。
 ジャンナが身を引いた。しゃらりと体を飾る輪が奏でる音楽に似た微笑みを浮かべた。
「またね。アンルシア」
 羽のように軽い身のこなしで背を向け、ジャンナは動き始めた一座の馬車に駆けて行く。細くしなやかな体をふんわりと包む踊り子の服も、綺麗に結われた髪も、動く度にきらきらしゃらしゃらと奏でる貴金属の装飾品も、籠から放たれた鳥のように前へ行く。最後に見せた冷たい微笑みが、アンルシアに喉も裂けそうな声を上げさせた。
「ダメなの、ジャンナ! お願い、行かないで! ジャンナ!」
 振り返らない。一座と一座の馬車は城の大門を抜け、勇者の橋の彼方まで行ってしまう。
「お願い…。行かないで…」
 崩れ落ちるアンルシアの手元を涙がぽつぽつと濡らしていく。彼女が泣き傷付く事が、自分の胸を抉られるように痛む。悲しませたくはない。泣かしたくもない。しかし、この夢を捻じ曲げる力は無く、ただ傍観する事しかできぬ自分に何ができよう。
『どうして、貴女は追いかけないのですか?』
 その声は声帯を震わせる声ではない、魂が紡ぐ心の声だ。
 アンルシアが顔を上げた。私も声の主を見遣った。紫の髪を三つ編みにした幼子が、アンルシアの前にしゃがみ込み顔を覗き込んでいた。
「行けない。行けないのよ…」
 『どうして?』と幼子が返した言葉に、アンルシアは瞳からぼろぼろ涙を零して答えた。
「お父様にもお母様にも、兄様にも、迷惑を掛けてしまうわ」
 『では、泣いてはいけませんよ。貴女は彼女より家族を選んだのです』見た目の幼さとは裏腹に、まるでアンルシアの母ユリア妃を彷彿とさせる悟った声色だ。アンルシアもそれを察したのか、感情的になって叫ぶように反論した。
「でも、行ったらいけないの! 行ったら…行ったら、ジャンナは…!」
 『なら、どうして、貴女は追いかけないのですか?』最初に戻った質問。その問いにアンルシアは沈黙した。
 黙りこくるアンルシアから背を向け、幼子はジャンナを追って勇者の橋を渡った。王城から勇者の橋を渡ると、検問所を兼ねた兵士の詰め所がある。兵士の詰め所を抜けると、グランゼドーラの城下町が広がるはずだった。しかし、それらはセピア色の記憶の世界でも、さらに曖昧で触れば崩れるほどに不安定な世界が広がっている。おそらく、夢の認識が曖昧なのだ。
 幼子はアンルシアの元に戻ると、そっと手を取った。『私がジャンナさんを追う手伝いをしましょう』歌うように心の声が告げる。
「どうやって?」
 アンルシアが立ち上がり、先を歩き出した幼子の後を歩き出した。夢の世界では歩く速度が違う。きびきびと進む幼子と、気が進まず亀の歩調のアンルシアの間はみるみる開いて行く。幼子が兵士の詰め所の扉を開け放ち、城下町を見下ろした。
 幼子が絵筆を取り出し、スティックのように軽く振って見せる。すると、曖昧だった城下町が瞬き一つする間に鮮明になっていく。触れれば崩れてしまいそうにボヤけていた地面は、石畳が一つ一つ鮮明になって隙間なく敷き詰められていく。家と家の間に張り巡らされたグランゼドーラ王国の国旗が翻り、街路樹の葉が風に揺れて木の葉が擦れる音がする。教会の鐘が鳴り響き、人々が一斉に動き出した!
 幼子が微笑んで、小さく頭を下げた。目深に被ったウエスタンハットから、追いついて驚きに目を見張るアンルシアを見る。
『芸術とは生きるだけならば不要な事。しかし、芸術は人の心を豊かにします。そう、夢を見ている貴女の心をも広げるのです』
 さぁ。幼子が誘うように筆を持った手を前に示した。
『ジャンナさんを追いましょう!』 

 まるで鳥になった気分だった。早馬を駆けても、こうは早く移動できぬ事だろう。
 ドラクロン山を遠巻きに見つつ南下し、メルサンディの黄金の実りを渡り、紅葉の美しい樹林帯へたどり着く。そこから潮風の強く感じる場所を目指し、突き出た岬を目指す頃には日が沈み月夜が広がっていた。海を一望できる場所は、こぼれ落ちるような星々と波の輝きに、自分が星空に投げ出されたかと錯覚する程の美しさだった。
 岬に群生する植物が仄かに輝いている。純白の大振りの花弁から、うっとりする香りを放つ『希望の花』と呼ばれ親しまれる花だ。まだ開花の時期ではないからか、まるでランタンのような蕾がほとんどだ。
 その花畑の真ん中に、ジャンナがいた。彼女は熱心にアンルシアにあげる花を選んでいるのだろう。一つ一つ蕾を見比べ、矯めつ眇めつ観察して少しでも形の良い物を選別しているようだった。ジャンナは私達に気がつく素振りもなく、座り込んで友人の為に作業に集中している。だが、彼女が気がつかないのは私達だけではない。
 この地域に出没する、エビルソーサラーだ。緑の外套が闇に溶けて見難いが、白い仮面が浮き上がっている。エビルソーサラーは大振りの剣を引っさげて、一歩一歩岬への坂を登ってくる。死神の悪戯か、彼女を殺めるだろう存在の足音が足元の厚い芝生と波音に包まれて消えてしまう。
 アンルシアは走った。全速力で岬の花畑を目指して駆け上がる。
 月明かりを反射して、剣が輝いた。むき出しになった悪意にようやくジャンナが気が付いて、波音を打ち消し悲鳴をあげた。
「伏せて! ジャンナ!」
 アンルシアが跳躍し、振り下ろそうとする凶刃を横に薙いだ。甲高い音が響くと、地面に突き刺さる音が続く。ジャンナを切り裂くはずの刃を、アンルシアの一撃がジャンナの傍の地面に逸らしたのだ。ジャンナは短い悲鳴をあげて、踊り子として鍛え上げた身のこなしで魔物から一気に距離を置いた。事態を把握したジャンナが驚いた声をあげた。
「アンルシア!」
「ジャンナ、下がってて! 私がこいつの相手をするわ!」
 まだ幼さの残る手がレイピアの柄をしっかりと握り込んだ。友人を守る為に青い瞳が冴え冴えと輝いた。
 エビルソーサラーが再び剣を振り上げ、アンルシアに振り落とす。大剣の重みに振り落とす勢いも加わった一撃は、例え現在の齢を重ねたアンルシアでも受け止め切ることは難しいだろう。レイピアの刃の上を火花が流れ、受け流し切る事ができずにアンルシアは弾かれる。それでも転倒せず堪えたのは、流石というべきだろう。
「ダメよ! アンルシア、逃げて!」
 アンルシアは逃げない。その青い瞳はまっすぐ敵を見つめている。
 今の攻撃を受けて、その細い腕は痺れているような衝撃が残っているはずだ。最大の威力を乗せた一撃が繰り出せるのは、あと1回がせいぜい。大きく振りかぶる魔物の隙を付いて、アンルシアは急所を突こうと考えているのだろう。だが、それは諸刃の刃の策。例え撃破に成功しても、振り下ろされた勢いは消えずアンルシアに凶刃として襲いかかる。
「私は、兄様の、勇者の盟友になる! 友人一人守れないなかったら、盟友なんて夢のまた夢!」
 アンルシアは正眼にレイピアを構えた。
「グランゼドーラの王女、アンルシア! 参る!」
 私と幼子の間を、黒い影が駆けた。剣を振り上げるエビルソーサラーとはまだ距離があるというのに、黒い影は腕を振り上げその手に持った白銀の輝きを投げつけた。白銀の輝きは流星のように尾を引いて、エビルソーサラーの腕に深々と突き刺さる。
 一瞬、動きが鈍る。その一瞬はアンルシアにとって永遠に近い一瞬であっただろう。
 アンルシアのレイピアがエビルソーサラーの仮面に吸い込まれる。陶器のような面にレイピアの先端が触れ、無数のヒビが仮面に走る。レイピアはさらに進撃する。仮面を突き抜け敵の顔に刀身が吸い込まれていく。
 黒い影の放った白銀の輝きは、今度はエビルソーサラーの足を貫いた。その衝撃に態勢が崩れ、振り下ろされる刃はアンルシアの傍に落ちた。地面に倒れ伏したエビルソーサラーは黒い瘴気に変わり、瞬く間に潮風に吹き払われていった。
 花畑の上に残る二本の短剣を黒い影が拾い上げ、そのまま膝を折って頭を垂れた。それは黒いタキシードに黒い帽子を被った、先ほどの情景に出て来た姿のままのシタル座長だった。ジャンナが希望の花を取りに来た丘は、人が住む地域からも街道からも離れている。しかも夜でなくては希望の花の神秘的な輝きが失せてしまう為に、摘むのは夜と決まっていた。危険を冒して希望の花を摘みに行った一座の人間を探しに来たのだろう。
「アンルシア様、ジャンナを助けていただいてありがとうございます」
 アンルシアは慌ててシタルの前に膝を折る。頭を上げさせようと、シタルの肩に手を置いた。
「面を上げてください。シタル座長。貴方の助けがなければ、私は魔物に殺されていたかもしれません」
 シタルは顔を上げなかった。希望の花の蕾が輝く世界で、ぽつぽつと輝く雫がシタルの伏せられた顔から零れていく。
「どの面をお見せできましょう。私は貴女に酷い話をし、貴女はさぞや絶望したはずだ。それなのに、こうして私の夢に現れてジャンナを救ってくれた。貴女はあの時のまま、トーマ様の助けになろうと盟友を目指す勇敢な人のままだ」
 ジャンナを追った先。それはシタルの夢だったのかもしれない。夢の世界が繋がってる6つ目の夢と現の神話を思い出す。
 掛ける言葉を失い口籠るアンルシアと、無言でひざまづくシタルの間を波の音が無遠慮に過ぎ去っていく。動かない二人に、軽い足音がゆっくりと近づいていく。ジャンナは努めて明るい声色で二人に話しかけた。
「助けてくれてありがとう、アンルシア、シタル座長」
 顔を上げたアンルシアに、ジャンナは摘んだばかりの希望の花を渡す。美しい乳白色の光を湛える真珠のような形の良い蕾の花は、アンルシアの胸元で柔らかい光を放った。ジャンナが友人に渡したかった花を感慨深げに受け取って、アンルシアは寂しげな笑みを浮かべた。
「ねぇ、ジャンナ。実は私、貴女が摘んでくれて、シタル座長が持って来てくれた希望の花を枯らしてしまったの」
 ふっと自虐的な笑みをアンルシアは浮かべる。
「あの時は、大切な友人の死が信じられなくて胸が張り裂けそうで、花が枯れたことに気がつけもしなかったの。でもね、今思うと、私、兄様の盟友になって支えることがきっと出来ないんだと思う。もし、あの時、ここにいてもジャンナを助けることは出来なかった。私は未熟者なの。丹精込めて育てたとしても、きっと花は枯れてしまったわ」
「そんな事ないわ、アンルシア。貴女はいっぱい努力してる。座長は剣の太刀筋はトーマ様より良いかもしれないと、こっそり団員に耳打ちしたのよ。城の人に聞かれたら、不敬罪で鞭打ちされる直前でイリュージョンで逃げ出さなきゃいけなかったかもね!」
 ぎくりとシタルの肩が跳ねた。
「アンルシア、盟友になれなくたって貴女は私の勇者様よ。ありがとう。本当に嬉しかった」
 アンルシアの胸に抱いた花が綻び始め、まるで昼のような光が満ち始める。ジャンナの笑顔がゆっくりと光の中に溶けていく。
「シタル座長、勝手に花を摘みに行ってごめんなさい。あたしとアンルシアを助けてくれて、ありがとう」
 光が視界を全て白に塗り替える。そんな中で、ジャンナの声だけが耳に優しく触れた。
 花が咲いたから、あたしのお願いが叶うわ。二人とも、幸せになる…

 光が納まると、そこはグランゼドーラのアンルシアに充てられた部屋だった。ジャンナから受け取った花は、アンルシアの胸の中で淡い光を放ち続けていた。アンルシアは大輪の花を咲かせる希望の花を花瓶に生けると、幼子に視線を向けはにかんだ。
「ピペ。来てくれてありがとう」
 幼子にぱあっと喜びが広がり、アンルシアの足元に駆け寄った。アンルシアも愛おしげにピペと呼ばれた幼子を抱きとめる。
「思い出したの。やっぱり、ミシュアはアンルシアの一部だったって」
 ピペから迸った喜びが、あっという間に萎むのが見て取れた。そんなピペを慰めるように、アンルシアは抱き寄せる。
「あぁ、ピペ。悲しまないで。貴女という大切な仲間がいたからこそ、私はジャンナを夢の中でだけでも救うことができたの。ありがとう。本当に、ありがとう、ピペ」
 互いに抱き合い、無事を確かめ合う。ピペの小さい肩に顔を埋めながら、アンルシアは呟いた。
「でも、不思議。どうして、あのグランゼドーラにはお父様もお母様も兄様もいらっしゃらないのかしら? 賢者ルシェンダ様も、ノガート兵士長も姿が見えない。それに…あのアンルシアは、なぜ勇者姫と名乗っているのかしら。勇者は兄様のはずなのに…」
「知りたいかい? アンルシア」
 私が言うと、アンルシアが驚いたように私を見た。ようやくアンルシアに認識されたからか、周囲の気配が鮮明に感じられるようになる。しかし、私を見たアンルシアは、怪訝な表情を浮かべるばかりだ。
「誰なの? 良く見えないし、貴方の声も聞き取りにくいわ」
 この世界はアンルシアの認識が重要になる。ピペも私もどれだけアンルシアに干渉しようと思っても、アンルシアが認識しなければ姿は見えず声は聞こえないのだ。ピペはアンルシアが弱っているタイミングで声を掛けたので、声が届いて認識に至ったのだろう。
「私が何者なのか。それを知った時、アンルシア、君は残酷な現実を知る事になる。ジャンナの死以上の苦しみがある事だろう」
 アンルシアの瞳に迷いが浮かんだ。数少ない年相応の友人だったジャンナの死は、アンルシアにとって衝撃だった。悲しみのあまりに食事も喉を通らなくなり、眠る事なく泣き腫らす日々が続いた。その様子をユリア妃は身が裂かれる思いで付き添い、アリオス王は足繁く娘の元に通い、兄は明るい話題や菓子を持って少しでも慰めようとした。城が明るさを失いかけるほどに、アンルシアは傷ついたのだ。
 それ以上の苦しみ。アンルシアには、さぞや恐ろしく感じられる事だろう。
「痛みを覚悟して知り先に進む事も、知らずに平穏に生きる事も、君が選んでいい。誰も君の決定を責める事はしないだろう」
 そう、ミシュアとしての穏やかな日々。あれは君にとって、どんな金銀財宝に勝る宝のような日々だった。私は、君にその人生を全うして欲しいと思っている。穏やかに笑い、夫を持ち、子を授かり、いつも幸せに微笑んでいるような人生を生きて欲しかった。それがアンルシアでなく、ミシュアであっても、君が幸せで穏やかに生きていけるならそれでよかった。
 だが、君には先に進んで欲しいとも思っている。君が立ち止まるだけで多くの人々が苦しみ、死ぬ事になるだろう。剣を握り、呪文を放ち、敵陣に切り込む姿に、多くの人が希望を見出し絶望から解き放つ事だろう。
 しかし君は一人の人間だ。たとえ、どんなに力があって勇敢であっても、臆病である気持ちを捨てる必要はないのだ。私は君が血腥い戦場が生きる場所になるのが、心の底から不憫でならないのだ。
 アンルシアが腕を緩め、小さいピペを覗き込んだ。
「ピペ。一緒に見てくれる?」
 帽子を被った頭が小さく頷いた。青空の中に輝く太陽があるような力強い瞳が、私を射抜いた。
 アンルシア。君がどんな道を歩もうと、君が幸せになることを願っている。どうか、この真実を受け止め、進んで欲しい。私は心からそう願う。
 運命がアンルシアに足音を伴い近づいてくる。